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先日ふと思ったのですが、人間にとって「容姿」の問題って何だろうと。
なんだかんだ言っても気にしますよね。それは結局「性」の問題と一番直結しているからではないかと。だから反モラルだと思いつつも、問題にしてしまう。若返り美容産業は興隆を極めています。

仮に「容姿」がもっとずっと平均化したらどうなのでしょうか。
美人不美人、美醜というものはなくなり、頭の中はともかく、肉体はコンプレックスを持つことがない(障害などは別です)
それは人間の「性」に関する意識をかなり変えるのではないでしょうか。
これは人間にとっていいことなのかわるいのか、どうなんでしょうか。

また、現状の、美醜がある世界は、人間社会をどう動かしているのでしょうか。競争心とか行動エネルギーを与えられるとか。

A 回答 (8件)

容姿の平均化についてですが、少し違う観点から。


結構根拠のある想像ですが、個々人の見分けが付かないレベルまで平均化したなら別ですが(不都合が生じますが)、現在よりも“美醜”の幅が狭まったとしても、人はそれをより細分化して“美醜”を設定することでしょう。

容姿って、身体能力や芸術の才能と同じような、天から与えられたもの(ギフト)のはずだと頭ではわかっているのですが、容姿以外の「才能」が、その分野に身を置かなければ意識する機会が少ないのに対し、より我々の日常に、まるで「善悪基準」のごとく無理矢理関わってくる問題ですね。どんなに平和な環境に生きても、我々は「もてる/もてない」の性淘汰の競争から逃れることはできないようです(^^;(性淘汰を人工的に排除した世界は、またさびしいもののようにも思いますが)
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この回答へのお礼

見分けが付かないということは全く意図してません。
あらゆる美男美女があふれかえったらと言うようなイメージでした。
でも、確かにそれでも小さなさを見つけ出して、美醜をことさら強調しようとするのが人間なのでしょうか。

努力で勝ち取ったものでないものに振り回されるとは、なんともやりきれない宿命ですよね。

お礼日時:2007/03/17 07:21

この考えに似たものを以前に私も考えたことがあります。


私が考えた事は、皆、すべての人が同じ容姿であったなら、容姿の事で悩む必要はないなという事です。友達が全員自分と同じ顔で同じ背丈で、あったらいいなと思ったことがあります。

でも、これはすごく味気ないことですね。
例えば、Aさんは私より足が長くスタイルもよく、ジーンズがよく似合う。一方私は足が短く、寸胴。しかし、着物だったらAさんより似合う。と、このように、容姿の違いによって自分でその容姿に似合うものは何かを考えていかなければならないのではないでしょうか。
Aさんに対抗してあえてジーンズを履いて、何で私はジーンズがまったく似合わないの!?と悲観に暮れるより、自分が光るものを探し、選んでいく事が大切なのではないでしょうか。

また、美しい、醜いと言うのもその人の思い込みに過ぎません。
周りの人に美しい顔じゃないね、どちらかと言うと醜い顔だね、ともし仮に言われたとしても、それはその言った人の思い込みであって、当人が意識しなければなんでもない事です。
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この回答へのお礼

同じ容姿ということではなく、それぞれ特徴歩けどもみな美男美女だというか(無理があるかな)すくなくとも、原題のメディアで2枚目とキャラクタナイズされる男女ばかりになったらと言うようなことです。
本人の思い込みは大事です。ただ、やはりこの場合他人の印象という面もまた大きな問題です。

お礼日時:2007/03/17 07:25

何処へ行っても同じような風景


同じような食べ物
同じような文化

旅行に行ってもつまらないと思うけど
現代の言うグローバル化ってそういうところ
あると思う.
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この回答へのお礼

確かにグローバル化はつまらないんですが、容姿の問題は、美のヴァリエーションということにならないでしょうかね。

お礼日時:2007/03/17 07:22

>美人不美人、美醜というものはなくなり



時代や地域によって 美人というものが全然違いますよね。

例えば、中世のヨーロッパでは、貴族の女性はいかに腰が細いかを競い合っていた。
その時代の裸婦絵画は、どれも樽のような体系の女性たちです。

その時代、貴族は正妻以外に複数の愛人を持っているのがあたりまえだったそうです。
従って絵画の裸婦は、貴族の愛人たち。

好まれたのは樽のような体系の女性たちで、性的な魅力があるとされたのは太った女性たち。
(といっても、愛人になったことで贅沢ができ太ってしまったのかもしれませんが、もしパトロンが痩せた女性を好んでいたのなら、痩せた体系をキープしたはずです。)


日本人は鼻が低いことに劣等感を持っていますが、現代はベッカム夫人ビクトリアのように、鼻が低くて上を向いて いわゆるブタさん鼻が流行です。

アフリカでは、色が黒くて太っている女性が魅力的な女性とされている。


日本人だって、胸がふくよかな女性が魅力的とされる一方で、胸が小さい女性を好む人もいる。
いや むしろ 胸が大きい女性に嫌悪する男性も少なくない。


どうして胸が大きい=もてはやされるのか?
男性にとって女性のシンボルが胸という考え方だからだと思います。

<胸が大きい女性は馬鹿である>

迷信ですが、セックスシンボルである胸が大きい人は、性的感度が高くなった分だけ、頭がからっぽであるに違いない、という理論です。
性的に貪欲でみだらな胸が大きい女性は、性の奴隷なので男性にとっては都合がいい。
しかも頭がからっぽでなにも考えていないので、男性のプライドが傷つかない。
まことに男性にとって性欲を満たす物言わぬ生きたダッチワイフになる。


という考えです。
従ってテレビ番組では、裸同然の格好を胸の大きな女性にさせ、クイズなどをやらせて、失敗させて罰ゲームをさせて、それをあざ笑う。

胸の大きな女性たちにプライドはないのか?
ある、が、有名になり顔が売れるためには、金のためには、みだらな格好をして笑われた方が、また番組出演の依頼がきて、顔が売れることになる。
だから、公共電波に乗る番組で、辱められても全然平気なのです。

したたかに男の性を利用してのし上がっていく。



小麦色に焼けてた肌、 野性的な性的に原始的欲望を持つ女性、というイメージキャラクターによる戦略。
夏の商品を売るための洗脳戦略。


色が白くてか細いというイメージキャラクター。
秋、冬の商品を売るための戦略。


全てテレビ・雑誌・流行を作り出す人たちによる戦略です。
何年も前からそれぞれの業界が集まり話し合い、企画し、結託して流行を作り出す。
流行は自然に出来るものではなく、人工的に作られているわけです。
金儲け目的の談合により。


巷の人はそれによって踊らされて、胸が大きい人が美しい とか 熟女が魅力的だとか、色が黒い 白い 背が高い 小さい など談合で決定した戦略により洗脳され、右往左往させらられている。


飽きないです。
飽きないので新鮮さを感じて商品を買い続けてくれる。


確かに性の問題の直結しているが、どれも男性主体です。
飽きると性的魅力を感じなくなるという特徴が人間の男性にあるので、その男という性質に合わせて流行は動いている。
一見女性のためのようで、実は男を喜ばすため。
いかに魅力的に男性に見えるかを女性たちもやるわけです。

これも種を残すための戦略。
男性の場合は、沢山の女性に種を蒔いて、自分を散布しようとする。
女性はなるだけ力を持ったたった一人の男と種を保存しようとする。
そのために、その時代時代で好みだとされる人工的に作られた流行にあわせようとするわけです。
それがその年の男性の好みに違いない と思って流行にのっかっているわけです。


女性のライバルはもちろん同性。
だから、女性は男性の外見にあまりこだわらない。
外見がよくなくても、権力・金を持っている男性を選ぶ。

男性の場合は、家同士の権力の拡大に都合のいい女性を選び、その相手が自分の好みではなくてもかまわない。
愛人を複数持てるから。
愛人を養うだけの財産を持っており、他人にとやかく言わせない権力を持っていればなおのこと。



>現状の、美醜がある世界は、人間社会をどう動かしているのでしょうか。

美醜は自然ではなく人工的に業界によって作り出されて巷に散布されている。
経済社会が人間社会を操作している。と思っています。
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この回答へのお礼

確かにそういう面もあると思います。メディアの発達した時代、ブラウン管に映る顔のほうが巷で見る顔よりも印象にあるのかもしれません。容姿も流行によって左右されます。
ただ、それとは違う本質的な面もやはりあると思います。古代から男は美人を求めてきた?それはメディアで操作されたわけじゃない。なにか一般的コンセンサスがあるのでは。

お礼日時:2007/03/17 07:20

性に関する事柄は、最終的に子孫を残すという目的に集約されると思われます。


例えば容姿でパートナーを選ぶというのは優秀な子孫を残すという本能からきているように思います。優秀の定義も色々ですが、美男美女であれば人間社会において有利に働くのは間違いないと思います。

容姿の差がずっと平均化されたとしても、まったく同じでなければ優秀な子孫を残すという本能によって何らかの差を見つけ出し、選択を行うのではないでしょうか。そしてその差をより際立たせようと、つまり競争相手より有利になろうと行動しまた差が広がります。仮にまったく同じになったとしたら、それはクローン化したといえるのではないでしょうか。しかし多様性を失った種は絶滅の道を歩む、とどこかで聞いた覚えがあります。この手の話は生物学のカテの方が的確な答えが返ってくると思います。

多様性のあるハードウェア及びソフトウェアを持った人間は、自分の持つ特性を磨くことによって競争相手より有利になろうとする。これは容姿だけではなく学力、経済力、人としての魅力・・・価値観によって価値あるものと判断されたすべてを含むと思われます。
したがって、人間は多様性を踏まえて社会を構成していかなければならないのでしょうね。色男金と力はなかりけりでうまく調整されているようなので、容姿だけがすべてじゃないと思いたいですね。
質問に対する答えになっているでしょうか。
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この回答へのお礼

美男美女であることが、かならずしも生物学的に有利なんでしょうか。確かに不利ではないでしょう。ただ、強いもの=容姿の整っているもの、と言ってもいいのかと。容姿の幅が今よりずっと狭まれば大分違うと思ったのですが、やはりそれでも優劣を争おうとしてしまうのでしょうか。

お礼日時:2007/03/17 07:16

人間は 野生動物と比べて様々な気管がそれと比べて退化している。


それの代りとするために視覚による認識で異性を認識して(略)という話を聞いた事がある。
よって、それを排除する事は 気管が退化した人類では、個人(特に性別)を識別する能力を剥奪するに等しい。

と考えられる。
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この回答へのお礼

異性は認識できます。これはとりあえず今の質問とはちがいます。

お礼日時:2007/03/17 07:13

>美人不美人、美醜というものはなくなり


よくわからんのだけど、美人、不美人てなに?
平均化って?
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この回答へのお礼

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お礼日時:2007/03/11 22:52

脳内実験するには規模がでかすぎて漠然としてしまいました(;ω;) むずかしいですね…



ただ現状の美醜がある世界が、人間の生きる原動力とまで言ってしまっても過言ではないかと…
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この回答へのお礼

過言でしょうね。むしろ原動力を奪っているのではないかと。

お礼日時:2007/03/11 22:51

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