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越後長岡・牧野家には、家老の支配を受けず独自に栃尾1万石を支配した先法家と呼ばれた藩士3家(槙・能勢・疋田)があったそうですが、他の大名家でこのような特別待遇の家臣がいましたら教えて下さい。

長岡藩の例や長州藩・岩国吉川氏以外にこういった例はありましたでしょうか。

A 回答 (3件)

家老になる格式を持っていましたが、加賀藩の加賀八家はどうでしょうか。


また、仙台藩の一門、一家などはどうですか。家老になれる家はもっとずっと家格が下でした。
尾張藩の幕下御附属衆、御附属列衆も格別の格式がありますね。
熊本藩の松井家もそうですね。
これらは仙台藩を除けば大概家老にもなることがあるのが質問者さんの言及された先法家と異なるのでしょうね。
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この回答へのお礼

加賀八家は能登の長家の例外は綱紀時代まであったようですが、仙台藩の一門の様に領地に陣屋や要害を構えていた訳ではないようですね。
ただ八家は年寄就任で陪臣ながら従五位下に叙任される特格の家だったようですね。

仙台の一門・一家は長岡藩の先法家にわりと近いのかもしれませんね。
確か尾張家も木曾に幕藩両属の代官が2家あったようですね。

八代松井は自ら永代家老の家柄なので家老の支配を受けなかったとは言えないのかもしれませんが、この家も山城国に幕府より直接認められた領地は百数十家くらいあった気がしました。やはり家中では他の家老と言えども指図できない治外法権的な家だったのでしょうね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/13 08:01

尾張徳川家の家老、成瀬隼人丞はどうでしょうか?


尾張藩より犬山の知行を任せられ、城も持っていましたが
正式に「尾張藩から独立した存在である」と認められたのは幕末のどさくさの最中だったような。

犬山城はつい何年か前まで「個人所有の城」でしたが、成瀬家が税金を払えなくなって今は個人所有でなくなっています。
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この回答へのお礼

御三家の御附家老も独自に領地を統治していてたようですね。
初代の成瀬隼人正正成が家康の駿府大御所時代の年寄(老中)だったということもあって、元々は老中職にある大名だったのが尾張殿御附家老を兼務し、その流れで正成の子孫が尾張家で陪臣化して大名の座から転落してしまったと考えたほうが良い気もしますが、確かに藩主といえども彼らの所領には口出し出来なかったことと思います。

犬山城は数少ない現存天守のある御城ですよね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/13 08:07

阿波・徳島藩に「阿波公方」が居ました。


(平島館に住んでいたので、平島公方と呼ぶ場合もあります)

室町幕府11代将軍・足利義澄の次男義維(義冬)が京都から阿波に移り住み、「初代阿波公方」となりました。
足利義維の長男が、室町幕府14代将軍・足利義栄(義親)です。
以後、阿波公方は9代(足利義根)まで続きました。

幕末、9代阿波公方は蜂須賀家の嫌がらせに耐えかね京都に去りました。
これは、紀州徳川家の援助があったと伝えられています。
京都に去った足利家には、紀州徳川家から毎年200両の援助があり、明治30年頃まで援助が続きました。
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この回答へのお礼

確か平島公方は徳島侯から150石与えられていたようですね。
名前を平島に変えさせられたりして散々だったようですね。それにしても幕末まで耐えていたというのはなんとも忍耐強いことです。

徳川家は貴種好きなので、蜂須賀を頼らずに家康に将軍就任おめでとう!って言っていれば高家にでも取り立てられていたんじゃないかと思うんですがそういう考えはなかったんでしょうか。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/13 07:54

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