はじめての親子ハイキングに挑戦!! >>

古代ギリシャでは、多くの奴隷を使っていた。買い物は女奴隷にさせ、子供の養育について家庭教師的な奴隷もいたという。アテネ市内などを自由に行動していることから、逃亡するとかのおそれはなかったのだろうか。彼らが主に奴隷として仕えている(拘束される)のはなぜだろうか。これはローマ時代も同じである。報償として、身分解放の可能性があったのだろうか? 地中海沿岸各地からの賃金労働者的に考えていいのだろうか。
近代のアフリカの黒人をUSAで酷使したのとは違った奴隷形態に思われる。その違いについて教えてほしい。

A 回答 (4件)

アメリカの奴隷制度は、歴史的に見まして、かなり異質なもので、むしろ例外的なものです。


一般的には、奴隷の才能を金で買うというスタイルが多く、才能のある奴隷は、非常に高価で取引されました。
ギリシャの奴隷は、主に周辺の蛮族や戦争捕虜からなりましたが、才能を認められたり、才能が育ってくれば、かなり良い待遇を与えられました。
場合によっては、一般市民以上の生活が保障され、そのうえ軍役も無いという待遇でした。
また、イスラム圏においては、出世するためには、どれだけ権力か財力のある人の奴隷になるかが勝負であったため、自ら奴隷となる人もいました。

高価な奴隷を購入し、逃げられたり、反抗されたり、病気になられたりしますと、買主は、大損ですから、それなりの奴隷には、それなりの対応をしていました。
しかし、なんの取り得も無い奴隷の場合、ガレー船のこぎ手として、一生を終える人も沢山いました。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。古代日本で、租庸調の税負担から「逃亡」し豪族の荘園に逃げ込むというのは、自ら奴隷(下人)の位置に行くということで、似たものを感じました。世阿弥達のように、才能で出世したものも出ています。アメリカ黒人のイメージではいけないとわかりました。

お礼日時:2007/04/23 20:54

古代ギリシャの奴隷制度は時代、地方により若干異なりますが、前5世紀くらいのスパルタの例では、奴隷は征服した近隣の国人や、債務を払えず奴隷になったスパルタ人などで、国家の所有とされていた。


分配地の中に家族と一緒に住み、収穫物の約半分の農作物を分配地の所有者に支払っていた。   土地を離れることは出来なかったが、経済的に独立し財産もあったと云われています。
エジプトにつれて来られたモーゼなどのユダヤ人たちも、同様な身分であったと思われます。
   
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。市民と奴隷の身分上の違いについて関心がありましたので、質問しました。江戸時代の日本で言うと市民権はない小作人(本百姓)に相当するのだろうか。または、強制連行の末日本に来て、そのまま日本国籍を取得していない在日韓国朝鮮の人が、イチ付けとしてはそれに相当するのだろうか。

お礼日時:2007/04/23 20:48

例えば古代ギリシャで酒の席の相手をする女奴隷ヘタエラ(後に高級娼婦の意味もつきます)は一流になると、大貴族の宴会に引っ張りだこで中には巨万の富を得て豪邸に住み、王侯貴族に匹敵する名声を得た女性もいます。


これはローマの剣闘士などでも同じです。
ギリシャやローマでは一流の奴隷は、大富豪にもなれたのです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

剣士スパルタカスのように、活躍。ちょうど、日本で「朝青龍」などが活躍するのと同じ。また、野球でイチローや松坂が、サッカー中村俊輔が外国で活躍しているのと同じだろうか。市民権はないけど、才能があれば、活躍できる。回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/23 20:40

商品としてではなく戦利品として敵方の人間を下賜されたものです


カエサルの「ガリア戦記」に詳しいです
映画「ベンハー」でもその制度が判ります

余剰な奴隷は売買もされたらしいですがあくまでも貰ったけれどいらないから売ったようです(映画「カルタゴの女奴隷」)

この回答への補足

旧約聖書では、ユダヤ人が奴隷としてエジプトではたらかされていたが、モーセに率いられて脱出したとか。エジプトに肉体労働者的な者として働きに行っていたのではなかろうか。捕虜が奴隷になったとして、どうして逃亡・反抗を企てなかったのだろう。

補足日時:2007/03/24 17:02
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q(古代ギリシャの奴隷制度) 使役と管理の実態は?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2
このページから抜粋します。
1 自由民男子とその家族3万から10万人と、奴隷など5万から10万人の人口を抱えていた。
2 戦争でも奴隷の獲得が重要な目的のひとつであった。
3 戦士であり政治家でもある古代ギリシア人は労働を蔑み女性や奴隷に任せて、体力の鍛錬と政治談義に日々を過ごし、その中でギリシア哲学や科学が発達した。

さて、私の疑問です。
1が事実だとすると自由民の比率に対して奴隷の人口が多過ぎる気がします。この人口比で自由民が奴隷の団結と反逆に抗し得たとは信じ難いです。この状態で奴隷制度が機能し得たについては、奴隷自身が奴隷であることに何らかの理由で納得していたのではないかと想像します。従順でない奴隷を恐怖と強制力によって労働に従事させていたというよりは、今日の経営者と従業員との関係にも似た納得の仕方があったのではないかと思います。

ところで、2からは奴隷側の敵愾心も相当なもので、強制力なくしては到底彼らを管理するのは不可能だったろうと考えます。採鉱夫や軍船の漕ぎ手など特殊な狭い空間に於いて身体の自由を奪った状態で鞭を振るいつつ使役する、というのなら理解できます。しかし、日常の家事や農作業など広い空間を自由に動き回らねばならない作業に従事させるには管理する側の人口が少なすぎませんか。それにポリス内にこれほど多くの潜在的敵を抱えていてはとても戦争なんぞ不可能だろうと思います。

さらに、ところがです。3から推し量れば日常の労働にも奴隷が活用されていたと考えるのが自然です。
どうも1、2、3が整合する奴隷制度とは如何なるものか、イメージが浮かびません。後の北米の場合は圧倒的多数の白人社会に少数の奴隷が配置される格好であったため無事に管理できたのだと思います。
古代ギリシャに於ける奴隷の処遇、反抗や逃亡の防止策など、この当時の奴隷制度の実態を上記の疑問が解ける程度に知りたいです。一般人がソクラテスやプラトンの時代を知る上での参考資料程度の知識で十分です。資料のご紹介でも、ここでの解説でも結構です。
よろしくお願いします。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2
このページから抜粋します。
1 自由民男子とその家族3万から10万人と、奴隷など5万から10万人の人口を抱えていた。
2 戦争でも奴隷の獲得が重要な目的のひとつであった。
3 戦士であり政治家でもある古代ギリシア人は労働を蔑み女性や奴隷に任せて、体力の鍛錬と政治談義に日々を過ごし、その中でギリシア哲学や科学が発達した。

さて、私の疑問です。
1が事実だとすると自由民の比率に対して奴隷の人口が多過ぎる...続きを読む

Aベストアンサー

「奴隷」と言えばムチで打たれ、酷使され、貧しくつらい生活をしていたと思われがちです。
もちろんそのような実例が多々あったのは間違いありませんが、古代ギリシャやローマにおける奴隷はそう単純な話ではありません。
例えばヘタエラという「酒の席で男の相手をする奴隷女」は一流になると奴隷身分でありながら莫大な報酬を得て豪邸に住み、酒の席で得た貴族達の裏情報を握り、影で大きな影響力を振るっていたと言われます。
過酷な境遇がよく引き合いに出されるローマの剣闘士も、一流になればやはり巨万の財を得て、吟遊詩人が次々と称える詩を造り、高位の女性が競って寝床に誘い、豪奢な生活を送っていた記録が残ってます。
もちろんそこまでなれるのはごく一握りに過ぎませんが、それでも当時の「奴隷」に対する認識は通常「貴重な労働力であり財産」でした。
現在の農場主でも家畜を酷使したり虐待する人間は「愚か者」と評価されて当然であるように、奴隷を必要以上に酷使したり、虐待したりするのは「己の財産を損なう愚かな行為」だというのが一般的な認識でした。
故に奴隷の暮らしは決して悪くはなく、強いて言えば「政治的権利を持てない下層階級の雇われ人」程度の存在だったのです。

「奴隷」と言えばムチで打たれ、酷使され、貧しくつらい生活をしていたと思われがちです。
もちろんそのような実例が多々あったのは間違いありませんが、古代ギリシャやローマにおける奴隷はそう単純な話ではありません。
例えばヘタエラという「酒の席で男の相手をする奴隷女」は一流になると奴隷身分でありながら莫大な報酬を得て豪邸に住み、酒の席で得た貴族達の裏情報を握り、影で大きな影響力を振るっていたと言われます。
過酷な境遇がよく引き合いに出されるローマの剣闘士も、一流になればやはり巨万...続きを読む

Qローマ帝国が崩壊した理由。

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

Aベストアンサー

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む

Q中世ヨーロッパの税について

時間場所は特定しませんので、ざっくりと答えていただけたら嬉しいです。
日本では年貢米のイメージですが、中世期のヨーロッパでは税はどうだったのでしょうか?

納める物や、納期、徴収される対象の人は?

Aベストアンサー

ざっくりということで,ざっくり回答してみます。(笑)

税には幾つかの種類が存在しますので,主な税を纏めてみます。

・人頭税
一番有名な税かもしれません。
これは,そこに住むだけで一人ひとりに課される税です。
全ての人に同じ率の税が課されるため,世界で最も平等な税とも言われています。
しかし,所得などまったく考慮されないため低所得層の負担が大きな税制でもあります(これを税の逆進性と言い,消費税値上げ論議でよく言及されます。)


・土地税
名前の通り,土地に課される税です。
今で言う固定資産税みたいなものでしょうか。
納税は,その土地で出来た作物や一定の時期における労役などがあります。


・荘園制
領主が一定の領地を支配し,その中で人々が暮らす社会制度です。
そこに住む人々は,自由民と農奴にわかれます。(農奴も法的には自由民だが実態は奴隷のようでした)
農地も自由民に貸し与えられた農民保有と,領主自身が経営する直営地とからなっていました。
納税は,現物納税と直営地での労役が課され,領主はその収入の中から国などに収めました。
また,土地は世襲されるため,結果的に農奴の移住は殆ど認められていませんでした。

・十分の一税
住民に対して,教会に収める税金です。
その名の通り,教会が収入の十分の一を教会(貧者・病人の救済,教会運営が名目)に収めさせた税です。
領主への税負担と同時に求められたため,農民からしてみれば二重負担のようなものでした。
この場合も物納が基本でした。

これ以外にも,結婚税・死亡税・粉挽き小屋使用税,輸出入にかかる税金などなど,あらゆる機会にあらゆる税が課されました。
しかし,農業生産能力が上がり庶民が裕福になると,こうした税負担に反発して反乱を起こすようになっていきます。
それが宗教改革・社会革命に繋がり,フランス革命の遠因にもなりました。


>納める物や、納期、徴収される対象の人は?

納めるものは,農作物・工業製品・労働力・貨幣などなど。
納期は,農作物が収穫できる夏~秋頃であったり,春先であったり,何かの行為(結婚,商売など)をするタイミングだったりと色々です。
徴収されるのは殆どの人がそうですが,庶民→領主A→Aを庇護下に置く有力貴族→王侯貴族という流れでしょうか。
もちろん,王侯貴族も直営地や荘園を持っており,それに加えて庇護下におく貴族からも徴収するという感じですね。


と,ざっくりと纏めるとこんな感じです。
ではでは、参考になれば幸いです。

ざっくりということで,ざっくり回答してみます。(笑)

税には幾つかの種類が存在しますので,主な税を纏めてみます。

・人頭税
一番有名な税かもしれません。
これは,そこに住むだけで一人ひとりに課される税です。
全ての人に同じ率の税が課されるため,世界で最も平等な税とも言われています。
しかし,所得などまったく考慮されないため低所得層の負担が大きな税制でもあります(これを税の逆進性と言い,消費税値上げ論議でよく言及されます。)


・土地税
名前の通り,土地に課される税です。
今で言う...続きを読む

Qギリシアとローマの関係について

高校レベルの世界史もよく把握していないのですが…
古代ギリシアとローマの関係がよくわからないのです。

・ギリシアとローマは戦争していたこともあり、別個の支配体制ですよね?
・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています
・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと聞きます。文化面でもだいぶ隔たりがあるように見えます。

結局この2つはどんな関係で、お互いにどんな相手だと見ていたのでしょうか?

Aベストアンサー

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・文化は近隣で発展していたギリシア(とりわけ学問先進国のアテネ)に学んだわけです。

 ギリシアの文明に学び、しかも全域が統一されているローマの国力は急速に伸びて行きました。やがて、国力としては劣り、しかも統一できていないギリシアの都市国家を次々と従わせ、ローマの地方都市として、やがてギリシア全域をローマの領土に組み入れることとなります。

 しかし、ローマはギリシアの文明・文化を超えるような独自なことはできませんでした。巨大な建築はできたけど、基本はギリシアのものです。それだけ、ギリシアの文明・文化は発達していたわけです。宗教も、ローマ独自のものはあったのでしょうが、ギリシアの神々と同じものだとしてしまいました。

 キリスト教が広まり、公認されるようになると、ようやくキリスト教由来を加えて、ローマ独自文明・文化が発達し始めました。ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びても、東ローマ帝国は長く保ち、首都コンスタンティノープルではヨーロッパ有数の文明・文化先進地域であり続けました。

 そういう例は、古代中国にもありました。殷や周は都市国家連合です。一番国力があり、他の都市国家のリーダーととして取りまとめていたのが、殷や周という大きい都市国家でした。その地域を中原(ちゅうげん)と呼んでいて、そこでは早くから文明・文化が発達しました。

 その周の力が衰えていく一方、地方では楚といった文明・文化は遅れていて、中原の都市国家に学んだ国が、早くから領土的にも統一した国家として台頭して行きました。

 周が衰えて、他の国家が力を得て行った春秋時代は、中原ではまだ都市国家連合がひとまとまりとなった国家が多く、非常に多数の小国が乱立していました。小国とはいえ、文明・文化が発達しているので、その周辺地域の領土的に統一された国家から尊敬を受けていました。

 しかし、続く戦国時代となると、ほとんど国家が領土的に統一された国家となります。都市国家は単なる都市となりました。それでも、小国となっても周とその近辺の小国は、秦が中国全土を領土的に統一するまで、長く尊敬を受け続けていました。

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・...続きを読む

Qゲルマン民族の大移動となったフン族はなぜ・・

歴史の勉強していくと何故?何故?と疑問がわいてきます。またそれを知った時
すっきりします。ゲルマン民族が移動することによって、ヨーロッパに変化が起きましたが、ではそのフン族がいきなり西方へ移動してきたのは何故でしょうか?
いろいろ調べてみましたが・・ゲルマン民族大移動の原因で出てくる程度、しかも
それまでおとなしくしていたのに、いきなり移動したようなニュアンスです・・
どなたか、ご存知のかた教えてください。

Aベストアンサー

フン族についてはアジア系遊牧騎馬民族という位の情報しか正確なものが乏しい民族です。

「きょう奴」が分裂して一部が西進し中央アジアキルギス高原に達して定着した部族の子孫という説があり彼らは多数の家畜を抱え遊牧し、乗馬に巧みで当然騎射に長けていました。
農耕を知らなかったので自然に生える草を家畜の餌にし殆ど生の獣肉などを食べていたといいます。
従って草がなくなれば当然移動して新しい草原を探さねばなりません。
東方は彼らが既に同様な生活習慣で暮らしてきたので草はないことを知っていますから西進するしかなかったのです。  こうしてヴォルガ川にたっし、さらに西進しました。  これには気候の変化説、疫病説など諸説もありますが正確なところは不明です。  この時代の移動速度は緩やかなものでした。

そこには既に東ゴート族が居住していましたから彼らを略奪、抵抗する者を殺しました。
この情報はすぐに東、西ゴート族に伝わり、かれらフン族の残酷さ、騎馬戦術の脅威が過大に誇張されて伝わったため、パニックが起こりゴート族の西方への大移動が起こって次々とゲルマン民族などの大移動が伝播したのです。  この頃は草原の確保より略奪が目的に変化していてフン族の移動は迅速で警報が間に合わない事もよく起こりました。

アッチラというフン族の王が出現し部族をまとめてから、その攻撃力はすさまじいものとなり現在のフランス、イタリアまで侵略された位です。

フン族についてはアジア系遊牧騎馬民族という位の情報しか正確なものが乏しい民族です。

「きょう奴」が分裂して一部が西進し中央アジアキルギス高原に達して定着した部族の子孫という説があり彼らは多数の家畜を抱え遊牧し、乗馬に巧みで当然騎射に長けていました。
農耕を知らなかったので自然に生える草を家畜の餌にし殆ど生の獣肉などを食べていたといいます。
従って草がなくなれば当然移動して新しい草原を探さねばなりません。
東方は彼らが既に同様な生活習慣で暮らしてきたので草はないことを知っ...続きを読む

Qスパルタの奴隷制度って

こんにちは。スパルタの奴隷制度について質問です。
 スパルタは国有奴隷で、大半が奴隷ですよね??それでリュクルゴスの制度があることは知っているのですが。

 スパルタの奴隷制度は国家のしくみとどのような関わりがあるのでしょうか?そもそもスパルタの奴隷制度ってどのようなものなのですか?(上記に記入した感じで認識してよろしいのでしょうか?)
なるべく分かりやすく間接にお願いします★

Aベストアンサー

スパルタ市民は他の場所からきて、原住民を征服した征服民なので、奴隷が全ての生産活動を請け負い、市民が行うのは政治と軍事だけ、と言っても過言ではない状態でした。というか、奴隷の反乱を抑えるために市民全員が兵役遂行者となっています。

奴隷も2段階あって、幾ばくかの自由があった「ペリオイコイ」と、完全な奴隷である「ヘロット(ヘイロタイ)」に分かれています。

いくつか参考資料を以下に示します:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%AB%E3%82%BF
http://www.uraken.net/rekishi/reki-eu05.html

Q★「封建制度」を簡単に説明してください!

★「封建制度」を簡単に説明してください!

世界史の時間によく「封建制度」なる言葉が出てきます。

いろいろと調べてみたのですが、いまいちよくわかりません。

理解力を深めたいので、封建制度を簡単に説明できる方よろしくお願いします!

Aベストアンサー

封建制度とは「封」(封土=土地)を与えて家来を「建てる」と言って、つまりは
「土地をなかだちとしてむすばれた主従関係(しゅじゅうかんけい)にもとづく社会のしくみ。」
のことを言います。
御恩と奉公ですね。
もちろん日本・中国(周)・中世欧で指す封建制度とはそれぞれ少し意味が異なったりしますが、基本的には上記の意味です。

ちなみに対義する言葉は絶対王政や絶対君主制です。

Q経済史概論と経済学史の違い

この春から経済学部の2年生になり、現在どの科目を履修しようか考えています。その際に疑問に思ったのは、経済史概論と経済学史はどう違うのかということです。学校からもらった授業内容が書いてある冊子を読んだり、ネットで検索したのですが、どちらの科目も歴史系のように思えてしまいます。
どなたか、この2科目の違いと、この2科目の内容を簡単に教えてください。

Aベストアンサー

orimotoさんが言われているように、大学の講義名は、高校までのそれとは違っ
て、あまりあてにならないと考えたほうが良いかもしれません。担当の教官によって内容は全くと言ってよいほど異なってきます。
「経済史」とは概して、経済と言うものが、歴史的にどのように展開してきたか、を考える分野です。まぁ、大体が産業革命以降、従って資本主義の発生以降の社会について、経済という側面から考える、という形態をとるでしょうね。ですから、重商主義だとか重農主義だとかいうような、高校で学んだ社会の、経済特化版、といったところでしょうか。「経済学史」は、経済学、つまり経済理論の歴史をみていくものです。経済理論は、現実経済の構造・問題を抽象化して考えるものですから、実証的な性格の有る経済史とは異なります。多くは、アダム・スミスやケインズなどについて学ぶでしょう。学派で言えば、古典派、新古典派、ケインズ派などなど。これに学部1年生のころから親しんでいる人はいないでしょうから、もし、理論に対する予備知識が無ければ、経済学説史の内容は、かなり無味乾燥でおもしろくないと感じてしまうでしょう。逆に知識が多少ともあれば、なんとかなるだろうし、面白いと思います。しかし、経済学部にいらっしゃる以上は、ミクロ・マクロは必修でしょうから、理論は嫌だとか言ってられないでしょうね(笑)。
経済史と経済学史との間には、今述べたように異なる点がありますが、経済理論は、理論家の生きた時代背景も関わってきますから、関わりの無い分野ではありません。二つの講義を受けてみることで、双方の理解も深まるでしょうし、面白いでしょうね。頑張ってくださいね。

orimotoさんが言われているように、大学の講義名は、高校までのそれとは違っ
て、あまりあてにならないと考えたほうが良いかもしれません。担当の教官によって内容は全くと言ってよいほど異なってきます。
「経済史」とは概して、経済と言うものが、歴史的にどのように展開してきたか、を考える分野です。まぁ、大体が産業革命以降、従って資本主義の発生以降の社会について、経済という側面から考える、という形態をとるでしょうね。ですから、重商主義だとか重農主義だとかいうような、高校で学んだ社会の、経...続きを読む

Qイタリアで日本人は差別されてますか?

先日北イタリアへ行ったのですが、個人旅行であったせいかいろいろ不愉快な思いをしました。
・なにしろ見る目が厳しい。
観光地じゃなかったのでアジア系が目立つのか、それともスカートだったのがいけないのか・・・どこでも怪訝な目でみられました。
町にスカートの人は店員以外では見かけませんでしたが、何か意味があるんでしょうか。パンツスタイルにしたら少し変わりました。
・電車で嫌がられた。
一等車にしたのですが、途中乗って来たカップル(女性)にあからさまに嫌がられ、男性にどうにかしてと頼んでいたようですが結局彼等は次の駅で出て行きました。。。
その他にもカフェで他の客にどかされた等イタリアのイメージが崩れました。何しろ怪訝な目で見られるのが厳しくて・・・。
ミラノのような大きいところではそうでもなかったのですが、もしかしてイタリアって日本人(もしくはアジア系)嫌ってますか?
イタリア語の勉強も始めたのにこれですっかり気が萎えてしまいました。参考に教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

ヨーロッパ人の基準からすると、日本人女性の服装は、売春婦に見えることが多いのです。日本にいる時と同じ感覚で、おしゃれをしていたのではないでしょうか。パンツに変更したのは、正解だと思います。

イタリア人が日本人に差別感情を持っているという話は、聞いたことがありません。遠い国の話ですし、直接的交流は少ないですからね。

わたしも世界各地を旅行して、好奇心の目で見られるのは慣れています。そこらじゅうで、ジャポネとかヒネーゼ(中国人)とかキタイ(契丹人)とか呼ばれますが、気にしません。そこらじゅうの国を回りましたが、「よそ者が何しに来やがった」という悪意の目つきは、ウズベキスタンのフェルガナ地域でしか、出くわしたことがありません。外国人を見たら興味を抱くのは、大都市以外ではどこの国でも一緒です。日本でも、例えば田舎の田んぼのあぜを黒人が歩いていたら、じいさんばあさんがぎょっとした目で見たり、村中の人が集まってきたりするでしょう。小沢一郎の一人区まわりと同じで、村人がワサワサ出てきても、まったく不思議ではないと思います。

イタリア人の差別感情は、主としてアルバニア人に向けられます。イタリアは第2次大戦中の一時期、海を越えた向かいのアルバニアを支配していました。戦後、アルバニアは、ホジャ大統領の下、独自の共産主義閉鎖国家を作り、弊害も多かったものの、結果として、ユーゴスラビアに併合されてぐちゃぐちゃな内戦に巻き込まれることを避けることができました。アルバニアはユーゴスラビアともソ連とも中国とも仲たがいして、鎖国状態にあったのですが、実際には市民はイタリアのテレビを見て、世界情勢を知っていました。ホジャ大統領の死後、共産主義が崩壊し、資本主義の導入も失敗、ねずみ講への投資を国家が推奨するということを資本主義を理解していない国民に推奨したため、ねずみ講の崩壊と共に、政局は混乱、政権が吹っ飛んだのです。この時、多数のアルバニア人がぼろい船でイタリアに渡って不法入国した事情があり、アルバニア人に対する感情は、きわめて悪いものと推定されます。

ヨーロッパ人の基準からすると、日本人女性の服装は、売春婦に見えることが多いのです。日本にいる時と同じ感覚で、おしゃれをしていたのではないでしょうか。パンツに変更したのは、正解だと思います。

イタリア人が日本人に差別感情を持っているという話は、聞いたことがありません。遠い国の話ですし、直接的交流は少ないですからね。

わたしも世界各地を旅行して、好奇心の目で見られるのは慣れています。そこらじゅうで、ジャポネとかヒネーゼ(中国人)とかキタイ(契丹人)とか呼ばれますが、気にしま...続きを読む

Qアテネ・スパルタの歴史について

世界史・ギリシア/ペルシア 紀元前12世紀~ について、わからないことがあります。授業やインターネット、教科書を読みましたがよくわかりませんでした。数が多いですが、お願いします。

1.イオニア人がアッティカ地方から小アジア西部へ移動したのは紀元前12世紀初です。しかしポリスの建設は紀元前8世紀にアッティカ地方にあるアテネで行われています。なぜでしょうか。ドーリス人とスパルタについても同じ疑問があります。

2.ドラコンの立法では、貴族の習慣法であったものを成文化することにより、民主制が進んだというのが一般的です。貴族に権力は集中したままではあったものの、成文化により市民がその問題点を指摘できるようになったところに意義があるようです。ですが僕の授業ノートには
   ・それまでの習慣法を成文化
     ・貴族による法独占の打破
     ・法による市民の身分、権利、義務を保障・貴族による統制
とあります。貴族による統制は打破できたのか、それともできなかったのか。このノートではわかりません。わかりやすく解説してもらえないでしょうか。
3.アテネにおいて、負債者の救済がソロンの改革で行われましたが、奴隷はその対象となったのでしょうか?
4.スパルタには民会、長老会があるようですが、軍国主義のスパルタは貴族政だと思います。民会があるからといって民主制とは限らないのでしょうか。(アテネは直接民主制です。)
5.クレイステネスの改革において、デーモスが誕生しました。この説明で、「アテナイ市民の登録権はデーモスの投票で決定」とあるのですが、登録権とは何でしょうか?また、市民一人ひとりについてデーモスが投票する、というのも不自然です。何か僕の解釈が間違っているような気がするので、説明をお願いします。
6.ペルシア戦争でスパルタはアテネの味方としてともにペルシア軍と戦ったのでしょうか?アテネについて詳しく説明した資料はあるのですが、当時のスパルタの戦いについてはなにも見当たりません。教えてください。
7.ペルシア戦争後、アテネでは三段櫂船の漕ぎ手となった奴隷の地位が上昇しました。ペルシア戦争で、アテネの陸軍は活躍しなかったのですか?

長文ですが、回答のほうお願いします。

世界史・ギリシア/ペルシア 紀元前12世紀~ について、わからないことがあります。授業やインターネット、教科書を読みましたがよくわかりませんでした。数が多いですが、お願いします。

1.イオニア人がアッティカ地方から小アジア西部へ移動したのは紀元前12世紀初です。しかしポリスの建設は紀元前8世紀にアッティカ地方にあるアテネで行われています。なぜでしょうか。ドーリス人とスパルタについても同じ疑問があります。

2.ドラコンの立法では、貴族の習慣法であったものを成文化することに...続きを読む

Aベストアンサー

No.3の続きです。
第一次戦争の10年後の BC480年、クルクセス王のギリシャ侵攻が始まった。   今度はギリシャ軍の指揮をスパルタが執った。    兵力の劣るギリシャは守りやすい、天嶮のテルモピレイで迎え撃った。
数を頼んでペルシャ軍は猛攻したが突破できず、一部隊をギリシャ兵の内通による秘密の間道を通り、背後より奇襲する作戦をとった。
これを知ったスパルタ王レオニダスは、ギリシャ軍の主力を後退させ、後方に守備陣を敷き、ペルシャ軍の主力は300人だけのスパルタ軍だけで防ぐ事とした。
数十倍のペルシャ軍を相手に奮戦したが、衆寡敵せずレオニダス王以下全滅した。   レオニダスは第一次戦争でマラトンの戦に遅れた恥をそそごうとしたのか。
ペルシャ軍はテルモピレイを越え、ギリシャ内に侵攻したが、体制を立て直したギリシャ軍のため、前進を阻まれ BC479年プラタイアの戦で陸戦に破れ、海戦にもまた破れギリシャ全土から撤退した。

以上は世界史(古代)の抜粋ですが、史実と伝承の間です。   ふつうの歴史書には載ってないようです。
史家が書くからは史実に近いものでしょう。

No.3の続きです。
第一次戦争の10年後の BC480年、クルクセス王のギリシャ侵攻が始まった。   今度はギリシャ軍の指揮をスパルタが執った。    兵力の劣るギリシャは守りやすい、天嶮のテルモピレイで迎え撃った。
数を頼んでペルシャ軍は猛攻したが突破できず、一部隊をギリシャ兵の内通による秘密の間道を通り、背後より奇襲する作戦をとった。
これを知ったスパルタ王レオニダスは、ギリシャ軍の主力を後退させ、後方に守備陣を敷き、ペルシャ軍の主力は300人だけのスパルタ軍だけで防...続きを読む


人気Q&Aランキング