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今日、畑で雑草を抜いていました。雑草を抜くということは殺すということなんですが、できれば殺したくはありません。
雑草ももっと少なければ抜かずにほっとけるんですが、あまりに数が多すぎるために根絶やしにするつもりで対処しなければ作物に影響が出ます。作物を育てるということはその何百倍の数の生き物を殺すということでもあるのです。
そこで、

この地球は生物の密度が高すぎるのではないか。
なぜ殺さなければ生きていけないのか

生物学的、宗教的にはそれらしい答えもあるのでしょうが今ひとつ釈然としません。どなたか私を納得させていただけないでしょうか。
ちなみに、無除草栽培の方法を聞いているわけではありません。

A 回答 (45件中1~10件)

万物は流転するからだと思います。



目には見えなくても、水が流れるように、色んなものはものすごいスピードでぐるぐると回っています。

例えば流れる水の中に板をはさんで止めてしまおうとすると、すぐにその板のところで水が溢れてしまいますよね。

同じように、生き物の殺生も一つの流れができていて、どこかを止めてしまうとバランスが決壊してしまうのです。
全ての生き物は殺すべくして殺されると言ってもいいのかもしれません。
もしろん無益な殺生はいけないと思います。
それぞれの生物が必要なだけ殺して、その命を糧に生命を育むのが、生き物としての本分だと思います。

雑草も、それが生い茂りすぎることによって田畑を荒らし、結果shift-2007さんに害を成すというのならば、それもなるべくしてなったものなのではないのでしょうか。



イマイチ回答になっていないかもしれません。
申し訳ないです。
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この回答へのお礼

宗教的には無益な殺生はいけないといわれるのですが、はたして殺生を有益と無益に分けることができるのでしょうか。
個人的には流転や輪廻にピリオドを打ちたいんですよね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/25 02:18

生物同士の関係は殺す/殺されるだけではなく、つがいになったり、共棲したり様々な形態があり得ます。


植物であればなおのこと様々な交配が自然と行なわれているのではないでしょうか?

ある程度密集していないと、生物同士の関係を構築できず、現在のようなバラエティに富んだ生態系に発展しなかったのだろうと想像しています。
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この回答へのお礼

できれば殺すという方法なしで発展をしてほしかったです。
”殺す”は必要悪なのでしょうか。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/25 02:21

わたしも雑草を抜きながら(単調でつまらないから)色々考えますが、殺生してるとは思いませんでした。


雑草も全部茹でて食べられたらいいのに、とは思いましたが。
確かにその草の下でしか生きられない虫もいたでしょうし、それを考えれば、草を抜くだけで多くの命を奪っていますね。

もしその草が10m向こうの空き地に生えていれば、抜かれることもなかったかもしれない。
もし、その草がスミレだったら、花の好きな人なら抜かずにそのままにしておくかもしれない。
その場所、その草だから抜かれるのであれば、選択の意志が働いて抜かれたと考えられます。
<作物を育てるということはその何百倍の数の生き物を殺すということでもあるのです。
宗教的に考えれば、多くの命を頂いて生きているのだから、感謝して無駄にしないように頂けばそれでいい、です。
確かに質問者様の畑だけを考えれば、質問者様の意志によって選択され滅ぼしてしまっているように感じられるかもしれませんが、もう少し大きな視野にたって考えれば、元々自然そのもののほうが冷酷と思います。
一つの島が台風で、地震であとかたもなく無に帰るのです。

畑を作るために雑草は抜き、新たな種を蒔く。
殺したとしても新しい種を育てているのです。
里山は人の手を入れるほうが植物が上手く育つと聞いたことがあります。

そして人は自然の一部です。
だからこそ死ねば土にかえるのではないでしょうか。
どんなに抗っても自然から抜け出て生きていくことができません。
自然の輪の中にいるだけかと思います。
そういう意味では、草も人も自然の前では同じかもしれません。

哲学的な答えになってないように感じます、失礼しました。
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この回答へのお礼

私の中では感謝と命の天秤が釣り合っていないのです。感謝が足りないといわれればそれまでなんですが。
自然とはある種ルールのようなものでしょうか。だとしたらこのルールは気に入りません。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/25 02:44

密度の問題:では密度の低い地球とはどんな世界でしょう?


ドラえもんにでてくる21世紀の科学の発展したような世界
でしょうか?そしてそのような世界が地球が誕生したときに
何故なかったか?という風に言い換えてもいいですよね?
なぜなら、太古の昔は人の数は今とは比べ物にならない位、
少なかったですが、その分、植物も他の生物も世界至る所に
分布して、今よりももっと生物密度は高かったでしょうから。
逆に現代は人間だけが世界至る所に生息するようになっただけで
そこにあったであろう森林やジャングル、海(海洋生物)、など、
人間の数とは比較にならないくらいの数の生物が犠牲になって生物密度
は低くなってるのですよ。
それとも、人間にとって一見不要と思われる生物(雑草とかゴキブリ
とか)がたくさんいることによっての密度の高さを嘆いてい
らっしゃるのでしょうか?いなければ殺さなくてもいいのにと?
結局、shift-2007さんは地球というものが人間のための惑星だと
思ってしまってるんだと思います。
人間にとっての不要な生物も自然界の食物連鎖のシステムの中では
必要不可欠です。
なぜ殺さなければ生きていけないのか?
その食物連鎖の中で生きてる以上、あたりまえです。

最後に、生物の多様性こそがこの地球の魅力なのではないかとは
思いませんか?殺生することに躊躇する優しい性格をお持ちで
あるなら、一見スポットライトを浴びないような些細な生物の
生にも存在価値を見出せるのではないかと思います。
あなたは、殺したくないために何故あなたは存在してるの?と
疑問を投げかけているのと同じですよ。殺すことよりも残酷です。

この回答への補足

お礼を言うのを忘れました。
ご回答ありがとうございました。

補足日時:2007/03/25 03:07
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この回答へのお礼

仰るとおり都会や里山でさえも人間が生活するために生物密度をさげていますね。それは私の畑で起こっていることと同じです。
雑草やゴキブリの価値は問うていません、たとえそこにバラやランが生えていても百姓は抜きます。冷酷なようですが、目的の作物以外はすべて雑草です。

>その食物連鎖の中で生きてる以上、あたりまえです。
まさにその当たり前を疑っているのです。私には納得できないのです。なぜ殺すことが当たり前なのでしょうか。地球の魅力が多くの生物の死の上に成り立っていることが不満です。

私が問題にしているのは存在価値ではなく、その数と生きるための”殺し”です。殺したくないと思っているのは私ですが、私だけの問題ではなく、なぜ蛇は生きるためにネズミを食べなければいけないのでしょうか。という問いです。

お礼日時:2007/03/25 03:07

植物にも生命を感じ取れるのであれば、もっと範囲を広げて微生物や細菌、ウィルスにも感じ取ってあげましょう。


貴方が生きている限り、例えば体内に取り込まれたウィルスは白血球によって殺されています。
生きている限り永遠に繰り返される訳で、それを避けたいのなら、今すぐ死にましょう。
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この回答へのお礼

私は百姓なのでこれからも多くの命を奪うでしょう。殺しを避けたい以上にその理由が知りたいのです。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/25 10:50

創造と破壊、誕生と死は表裏一体、不可分なものだからです。



お金で考えてみましょう。
経済で景気のいい状態とは、お金がぐるぐると回っている状態です。
つまり、支出と収入があってこそです。
誰かが、「支出をしたくない」とお金の流れを止めてしまったら、徐々にお金の流れが鈍くなってやがては収入も途絶えます。

水で考える時、「蒸発するだけだから勿体無い」と仮に海を全部蓋をして覆ってしまったとします。
すると、雨はもう降ってはきません。
循環しているからです。

生命も循環しています(食物連鎖を考えればわかりますね)。
平均寿命の長い国で出生率が低くなるのは自然の摂理なのです。
もし、仮に日本人全員が不老不死になったら、もう子供を産まなくなる(産めば人口過剰で困る)だろうと思います。
一つの生物の死は、新しい命の源です。
私は生命に溢れたこの地球を美しいと思います。
(勿論、生命と死は表裏一体なので、生命に溢れた=死に溢れた、という事でもありますが、死がなければ生命はありませんから)
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この回答へのお礼

>創造と破壊、誕生と死は表裏一体、不可分なものだからです
確かにそうですね、命は流転しているのでしょう。私は死については納得できるのですが、問題は殺しのほうです。殺すことも循環というルールに組み込まれているのであれば残酷ですね。

私も、生物や無生物を含めてこの地球上もものは美しいと思います。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/25 11:22

それは、「生命」というものが、本質的にはたいしたものじゃないということですよ。


短文失礼しました。

人間の密度に関しては、こちらも参考にしてみてください。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2861016.html
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この回答へのお礼

生命はたいしたものですよ。だから殺したくないんです。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/25 10:54

基本的に、地球が存在するのは何らかの必然性の結果のように思います。


これは、たとえば地球が存在するために太陽があるわけではないだろう、ということでもあります。
いずれにしても地球は何らかの必然性の結果誕生した、と考えます。
「物理学的地球生命論」なるものを唱えた学者がいました。
彼は、この地球というものは、無機物だけでは存在を維持することができないのではないか、と考えました。
他の惑星とは異なって水があり大気がある以上、仮に生命が誕生していなければ一種のエネルギーの行き場がなくなり、地球は分裂(自己崩壊)するのではないか。
ということだろうと思います。

つまり、人間などの生命は、その分裂を防ぐために地球が編み出したひとつの解決策にすぎないということになるのでしょう。
何らかの生命が地球上に存在し続けることが地球にとっては絶対必要条件であるわけです。
しかし、人間が意志を持つために、あらゆる事象は人間を利するためのものであるべきだという錯覚が生じてしまった。
ただ、それではいわゆる意志を持たない自然としての動植物だけであれば地球にとっては理想的なのか、といえばそうとも言えないのかもしれません。
ある種はある種のみの存続を絶対的優先事項として増え続けようとするはずですし、それは最終的にその種による地球逆支配という結果をもたらしてしまうのでしょう。
その意味で、食物連鎖という仕組みが、
『地球上のエネルギー総量のバランスを保持するため』には、どうしても必要になったのだと思います。
ですから、地球の初期設定としては、どのような種であっても絶滅することは想定していないと思います。

これが「>生物の密度が高すぎる」理由のように思います。
つまり地球は、「食物連鎖システムの暴走」も考慮に入れた上で生命を自らの上に誕生させたわけです。
しかし、自我を持つ人間は食物連鎖のみによって生き延びることに満足していません。
あらゆる模索が行われているわけですが、食物連鎖のバランス自体を崩してしまうということは、地球が存在するためのエネルギーバランスまで壊してしまうことになります。
バランスが崩れることによって真っ先に影響を受けるのは、何でもそうであるようにそこで一番弱い者です。
地球上で最も脆弱な生命体はおそらく人間でしょう。
環境破壊が地球のために云々などというのは詭弁にすぎません。
環境破壊によって真っ先に絶滅するのが人間という種であるということです。
人間がいなくとも、食物連鎖の頂点としてまた別の生命が創造されるだけのことで、地球は大して困らないでしょう。
最悪の場合でも、水や大気など、生命誕生の条件になるような要素を廃しさえすればあえて生命を地上に存続させる必要性もなくなるわけです。
 
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この回答へのお礼

回答をいただけるというのはうれしいものですね。
「物理学的地球生命論」という話ははじめて聞きました。確かにこの地球と生物とは理屈じゃないつながりがあるのかもしれませんね、面白い話です。
地球上のエネルギー総量のバランスを保持するために生命が必要だった、とするならばこれもまた残酷な話ですね。できればエネルギーバランスは生物数ではなく個々のエネルギーの絶対量を増やすことで調整してほしかったです。そうすれば雑草も抜かずに見逃せたのにと思います。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/25 12:48

むかし、むかし、


半村良さんが「妖星伝」でしたか、SF小説で、
生命に溢れる星、地球の面白い本を書いていましたね、
最後までは読めなかったですが。

他の方もすでにご指摘されていますが、そもそも、生命は死ぬものです。

殺すと言うのは、その中のごく一部の特殊な見方です。

人間や動物の場合、特に私とか他者とか、個人の生を強調しますから、
能動的行為が目に付いて、殺す、と言う行為が目立つのでしょう。

この辺りは、生命進化の過程を良く調べれば、問題は軽減されますよ。

例えば、地球に最初から空気に酸素が含まれていたわけではありません
酸素のないときは、酸素を嫌う生命が生まれ、何かの拍子で(曖昧ですか仕方ないのだ)
光合成つまり葉緑素を持つ藻の様な生命が生まれると、地球の空気に酸素が増えてくる。

結局、この酸素の量が、一定のレベルに達することにより、酸素を利用する生命が生まれる。
ですから、環境にある程度の密度が確保されることにより、その環境に適応するのが生命の特徴です。

生命とは大量にコピーして、死ぬことにより、変化していくものでは。

もう一点、生命に関して、3種類の生命と言う考え方も有ります。
普通は二種類ですが、細胞としての生命と、細胞の集まりとしての個体の生命、
それに、種とか類とかに区分できる生命を付け加えることができるかも。

私たちは、一応、寿命があって、それなりに長生きしますが、
私たちの細胞、赤血球や白血球、皮膚や髪の毛、こういった、細胞は
私たちを細菌や汚れ、色々な代謝の中で、死ぬことによって入れ替わっていきます。

去年だったか、中山元さんが、カントの珍しい論文を訳しています。
「永遠平和のために/啓蒙とは何か」この中の、世界市民か起源の憶測のどちらかに
このような考えに似た、文章があります。

一番強力なのは、ベルクソンの「創造的進化」ですが。
ご参考になれば。
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この回答へのお礼

「妖星伝」をご存知の方がいるとは思いませんでした。私も昔よんでいます。そこに登場した宇宙人が地球は醜い、何かの実験場ではないかと言いましたね。もう一度読み直してみようと思います。

>殺すと言うのは、その中のごく一部の特殊な見方です

確かに死の全体数からすると殺される命の数は少ないかもしれませんね。ただ我々を含む生物は食事として生きているものを摂取しなければなりませんので、当人にしてみれば目立つどころではありません。
死と生命の進化については理解できるのですが、殺すことが納得いかないのです。人が一生のうちに殺せる命の数は全体からするとたかが知れるのかもしれませんが、毎日の生活で起きている事ですので目をつぶることはできません。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/25 18:09

すこし趣旨と違うかもしれませんが・・・。


殺すとは何か、生きるとは何か、命とは何か。

思うに、命というものは存在しないただの「観念」だと思います。
考えてみれば世界は物質(とエネルギー)の集まりでしかありません。
世界を単純にした姿はまるでビリヤードです。(物質が玉で重力や電磁気力、核力はその付随物)
長い年月を経るうちに、重力によって玉同士で集まって動くようになり(原子など)、
さらに長い時の中で、物質の塊がさらに多くの塊を作り(分子・結晶など)、塊がある一定範囲内を回る現象がおきるようになっていく。
何度も何度も、一定範囲内を回る現象(「循環」)が起こっては無くなっていく中で、循環の外の状態に合わせて反応を変える機構が偶然有った循環だけが生き残り、外部の塊を取り入れることができた機構はさらに増え、自己と同じ循環を発生させることのできた循環は繁栄する。
しかし結局、原子も分子も金属結合も鍾乳石もたんぱく質も人間も太陽系も、すべて規模を変えた循環のひとつに過ぎない。

そして、数ある中の「循環」のひとつの見方が私たちが呼ぶ「命」です。

循環の範囲の「考え方」を変えてみれば心臓だけでも命と呼べるかもしれないし、「私自身と私の部屋」という塊をひとつの命と呼べるかもしれないし、あるいは「オゾンを破壊するフロン」「地球」「太陽系」も命と呼べるかもしれない。

長くなりましたが、結局「命」とは不変ではなく、どうにでもなる「考え方」に過ぎないのではないか、
また、「殺すこと」も「生物」も「生きること」も、人間的な考え方、ただの物理現象の見方のひとつに過ぎず、世界からすれば特に意味のないことではないか、ということです。
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この回答へのお礼

10番目にこの回答が来たのはとても意味深ですね。
今までの回答に私は納得はしませんでした。答えが出ないということはとても苦痛ですね。しかし私はこの苦痛から逃げるつもりはありません。雑草を抜くときの罪悪感や不愉快さが私にこの質問をさせたのですが、私が問題にしているのは自分の感情や感覚ではありません。私は目の前の雑草を観念とは呼びません。命をどうにでもなる考え方とは思いません。私には痛み止めは必要ありません。
頑固ですいません。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/25 21:46
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