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生きていればあらぬ不意の災いが降りかかることもありますが、そんな時、どのように受け止め、自分に言い聞かせますか?

実は今日、鞄を盗まれてしまいました。
もっと最悪のことを想定して〔人身事故など〕、それよりはまだマシだったと思うようにしていますが。

何か罰が当たったのか、何かのカルマなのかなど考えてしまい眠れずにいます。
あと最近は汚い家には幸福はこないというような風水流行ってるので、家が汚かったから災いがおきたかななど色々思い悩んでおります。
皆さんのご意見を。

A 回答 (5件)

この相談を見て自分の話を書かせて貰います。



自分は非常に明るい男です。しかし回りが認めるほど運の悪い男です。
自分に問題が有るとかではないのかも知れません。
家庭環境からして複雑だし、ってそんな事は如何でも良いんですけど、
究極の極め付けが2001年に交通事故を起こしてしまいました。
不幸中の幸いで自分以外の被害者はいませんでした。ただ事故に関しては医者が「十中八九駄目だな」と思った位
(退院する時担当の医師から直接言われた)で身体は頭蓋骨を含めて左半分ボロボロになりました。
通った科は脳神経外科・脳神経内科・整形外科・形成外科・眼科・歯科・etc。
入院中見舞いに来た人達は意識が無いのに目を明けている自分を見て正直こんな姿になって生き続けるのであれば死んだ方が幸せだったのではと思ったと言っていました。

しかし今は普通に働いています。
医者は助かったのも凄いけど後遺症が無いのが信じられないと(普通医者はそんな事言わないんだけどね)驚いています。
先に書いた“死んだ方が…”というのも自分が以前と変わらず普通に生活をしているので話してくれた事です。
相談の中に“何かの罰、風水とか…”と有りましたが正直そんな事気にしてもしょうがないですよ。
鞄が盗まれたと有りましたが自分も東京から宮城に帰る日に財布落としたりしましたよ(後にも先にも物を落としたのはコレ一回きり)。

自分の唯一のハンデは顔の左上(目を含む)がつぶれた事です。
けど気にしてないなんて言ったら大嘘ですがそれよりも大切な事、今しなければならない事をする。単純ですけどコレしかないですよ。

自分は風水や宗教、霊感の類は無いですが(オカルト系は大好きだけど)『自分に言い聞かせる』ではなくて
『もっと幸せになりたい』と思いながら行動するのが一番かと思います。(まぁ自分が楽天的なのかな)
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この回答へのお礼

凄まじいご経験されているのですね。私なんかまだまだと思い知らされました。
鞄は無くなりその時は大ショックでしたが、今はいつもの日々を過ごしています。改めて気づいたのですが、健康な体があればどうにかなる、おまけに自分には愛する家族もいる、それ以上何もいらないではないかということです。
アドバイス本当に有り難うございました。元気になれました。

お礼日時:2007/04/11 22:58

あの心理分析学的に話させていただきますと、


靴は、本当は間違えられたなのでは、無いか
仮に盗まれたとして仮定しても罰ではない、
と思われます。恐らく背景に強迫的観念が、
ある為不安で、また盗られるんじゃないか?
強い災いに襲われるのでは、無いかと考えて
しまうのではないでしょうか?そうであれば
、それは強迫性神経症なだけでありただの、
病的不安要素があるだけですよ。
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この回答へのお礼

強迫性神経症ですか。初めて聞きました。事件から数日たち、強迫的観念も今は持っていませんので、それではないようです。
アドバイス有り難うございました。

お礼日時:2007/04/11 23:01

災いというのは何であれ、必ず起こるものだと考えます。


起こらなければ災いとは呼ばないわけですから。
つまり、災いが起こるのは必然なわけです。

しかし、誰に起こるかは偶然にすぎません。
誰に起こるかわかっているのであれば、それは災いではなく、人為的事件、人為的事故になるからです。
災いは人為的でないわけですから因果関係が存在するはずもありません。
ですから、本当の災いはこのように考えるしかありません。

しかし、結果として自分自身が引き起こしている「災いのように見えるもの」も中にはあると思います。
自分と「災いのように見えるもの」の間に因果関係がある場合もあるということです。
この因果関係は論理的に分析してこそ得られるものであって、
「>何か罰が当たったのか、何かのカルマなのか」などと考えてしまうのは一種の逃避になりますね。

鞄を盗まれたのも、常識範囲の注意をしていたのであれば、先に述べたように「鞄が盗まれるのは必然として起こりうること。しかし、自分の鞄が盗まれたのは偶然。」と考えるしかありません。
強引にそう考えるということではなく、事実なのでそう考えるのが最も論理的で科学的だということです。
不注意な要素があったのであればその点を改善することで、将来的に起こったかもしれないもっと大きな被害を防ぐきっかけになったとお考えになるのも一方でしょう。

「>汚い家には幸福はこない」というのは、この場合関係はありません。
ただ、この言葉自体はある意味で正しいと言えるでしょう。
しかし、厳密に言うと正しくありません。
汚いから幸福がこないのではなく、
幸福に縁遠い原因が生命力・精神力が弱っているということである場合も多いので、そういう人たちは結果として家を掃除するゆとりも持てない。
ということでしょう。
生命力・精神力が弱っていると、あらゆる面でマイナス思考になりますから、自ら不幸を作り出すような言動になりがちです。
これは自らが作り出しているものであって、災いとはまた別物と考えるべきでしょう。

いずれにしても、今回の件のように災いであれば人為の及ぶところではないでしょうから、諦めて今できるベストに視点を振り向けるしかないでしょう。
その心境の経緯を楽しむことだってできるはずです。
風水とかカルマとか非科学的な領域に逃げ込んで納得しようすると、本来「虚」なわけですから抜け出しが難しくなることもあります。
 
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この回答へのお礼

少し日にちがたち、ようやく心境の経緯を客観視出来る様になりました。
災いは必ずおこるものーなるほどそうだと思いました。
心に留めておきます。
ご回答有り難うございます。参考になりました。

お礼日時:2007/04/11 22:53

トランプのカードを配るのは神の仕事、配られたカードで勝つのは自分の仕事です。

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この回答へのお礼

面白い例えですね。人生にジョーカーもつきもののような気がします。
ご回答有り難うございます。

お礼日時:2007/04/01 20:29

>家が汚かったから災いがおきたかななど色々思い悩んでおります


悩む前に、そう思ったら掃除をしましょう。
掃除をして良くなるのですから、悩む必要は無いでしょう。

人身事故もいいですが、靴をなくしたという事は、何かしらのストップがかかっている。もう一度考え直せと言う暗示。靴で一つカルマが消えた。と言う事かもしれません。
 プラス思考にしようとしても、相手が大きすぎては、かえって自分自身信じにくくなるでしょう。
 お気に入りの物が無くなる位の事であれば、その場では「悔しい」と言っても構わないでしょう。感情を隠すのは良くありません。でも落ち着いて来たら「避けさせてくれて、ありがとう」って声に出してみましょう。

私も何度「有り難い」と言ってきたか分りません。
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この回答へのお礼

なるほどです。ご回答有り難うございます。
もう少し落ち着いてら、声に出して有り難うと言ってみますね。

お礼日時:2007/04/01 20:28

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