出産前後の痔にはご注意!

源頼朝は鎌倉幕府、足利尊氏が室町幕府、徳川家康が江戸幕府ですが
全員、征夷大将軍に任命されてから開設していますよね?
なぜアイヌを攻める大将軍が幕府開設なのですか?

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A 回答 (4件)

まず、足利や徳川は、鎌倉時代に、武家の棟梁=征夷大将軍という概念が出来ていて、後でそれに乗っかっただけですから、源頼朝にとっての征夷大将軍はなんだったのか、って事を考える必要があります。


以前に、似た質問に対し回答した事があるので、参考にしてください。

一般的に言われるのは、
1.理屈の上では、征夷大将軍は天皇から節刀を受け、戦地に赴く存在だったから、という事がまず考えられます。節刀を受けるという事は、イメージとしては、「天皇の権力の一部を、臨時に代行する」という事で、例えば、征夷軍の副官が反抗したら、征夷大将軍は天皇に一々お伺いを立てなくても、自分の判断で処刑してしまっていい、という事です。これは、戦地に行く軍隊の大将軍だから、都度天皇に伺いを立てていたら戦争にならないので、節刀=非常大権を与えられる事で初めて認められる事です。右近衛大将では、都で近衛府を統括する常設武官としての最高位、というだけですから、そういう権限はなく、No.3の方がいうように、結構違います。また、征夷大将軍は、戦地に赴くものですから、都に常駐する必要がありません。
この二点から、東国で独立した政権を打ち立てるには、征夷大将軍が、最適だった、という説です。

2.もう一つは、頼朝がなる少し前に、源義仲が頼朝を討つ為に、武力を背景に無理矢理朝廷に征夷大将軍に命じさせた、という事があって、これにより東国の支配者としての「征夷大将軍」という考え方ができた、というものです。ま、有体に言えば、義仲がもらったタイトルは、義仲に勝った自分にぴったりなんだから、よこせ、って事ですね。
こういう理屈っぽい話は、参考URL↓に纏まっています。

ただ、実際には、本当に「征夷大将軍」と、他の(例えば)鎮守府将軍や右近衛大将とでは、頼朝にとって、決定的に意味が違っていたか、というと実は結構疑わしいものがあります。頼朝は1190年に右大将に任ぜられて、すぐに辞職しますが、その後、御家人に与える幕府の正式文書である政所下文は「前右大将家政所下」と書かれました。1192年に征夷大将軍になると、これは「将軍家政所下」にかわりましたが、そのうちまた「前右大将家政所下」に戻ってしまいます。この事実と、尊卑分脈に「1195年に征夷大将軍を辞任した」という記事がある事から、頼朝が1195年に征夷大将軍を辞したと考える説があり、これは必ずしも定説とは言えませんが、辞めていたら勿論の事、辞めていなくても、自己の権威を主張するのには「征夷大将軍」よりも「前右大将」の方がいい、と思っていた事を意味しますから、どちらにしろ、頼朝にとって、征夷大将軍という地位が、決定的に重要だった訳ではない、とは言えます。また、二代目の頼家は、1199年の頼朝の死の後、直ぐには征夷大将軍にはならず、1202年になっていますが、頼家が早く将軍にならないと困る、なんて話は残っていないです。
つまり、武家の棟梁=征夷大将軍というのは、頼家→実朝→藤原氏出身の所謂「摂家将軍」と言った形で、代々武家の棟梁(名目上のそれを含む)が将軍に任ぜられる事で、そういう概念が定着したのであって、頼朝がどういう理由で征夷大将軍を選んだか、という事を追求しても、それと『何故、征夷大将軍が、武家政権の開設の条件なのか』というのと結び付けるのは、あんまり意味が無いです。だいたい頼朝自身が、大して拘ってないんですから…。つまり、頼家以降代々任じられる事で、慣習上そうなってしまった、って事ですね。

なんで、(例えば)鎮守府将軍ではなくて、征夷大将軍なんだ?とどうしても追求するなら、頼朝がそれを欲しがったから、欲しがった理由については、既に呼べたような推測がされている、ってところでしょう。

中世は、引退した天皇に過ぎず、特別な公法上の地位が無いはずの上皇が、天皇家の家父長としての私的な権威を背に、天皇よりも圧倒的に権力を持つなど、公式の地位以外のものが表に出ていた時代です。あまり、表面の事に拘ると、かえって事実がわからなくなるような気がします。

尚、坂上田村麻呂が戦った相手は、アイヌではなく、東北地方に住んでいた(現代の言い方をすれば)日本人、という事になっています。だから、アイヌを攻める大将軍じゃないです。念の為。

参考URL:http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/theme/s …
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 法理的に言いますと、将軍が外地に遠征にゆく場合、律令制下ではそこにかなりの裁量権が認められていました。

たとえば征服地からの租税を利用して軍備をまかなうなど、国司などを介さず、直接に軍政を敷くことができたといいます(幕府政権や将軍を大樹=大きな旗というのは、こうした軍政の名残)。
 こうした法律上の特例を利用して、将軍になることによって、名目的に私的な軍政を敷くことを天皇から勅許してもらい、朝廷-幕府の二重構造に正当性を与えるところから、武家政権は出発しました。律令制における上記のような特例は、あくまで「軍事上必要だから」という理由によって認められていたものですから、当然幕府の最高責任者は兵職の最高職を兼ねる必要があります。ただしこの場合、「兵職の最高職」は律令に定めのある「将軍」なら、近衛大将でもかまわなかったのですが(頼朝は最初近衛大将になって幕府を開きます)、やはり軍政にふさわしいのは外地の将軍であるというイメージがあったのでしょう。また、全権委任的な征夷大将軍のほうが、より幕府のトップにふさわしいという考えかたもあったのかもしれません。
 ちょうど、イギリスの首相が形式的には大蔵卿を兼ねるのと同じようなものと考えればいいでしょう。
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「奈良時代から平安時代には東国に派遣された将軍の呼称の一つでしかなかったが、


鎌倉時代以後は、源頼朝が征夷大将軍となり幕府を開いてから、
武家が政治を支配し、征夷大将軍は武家の最高権威となった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7% …

蝦夷を討つ必要がなくなった鎌倉以降、同じ「征夷大将軍」という役職が武家の棟梁の役割に変わったのです。
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坂上田村麻呂が最初の征夷大将軍ですか。

 武士の棟梁の職のようです。 その後源頼朝が征夷大将軍を名乗り、源氏の棟梁(自称)が征夷大将軍になったようです。 織田信長は平氏の子孫と主張し、豊臣秀吉は藤原家の養子になってしまって、関白職になっています。 あまり参考になりませんか。
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Q「征夷大将軍」「幕府」とはそもそも何?

現在,日本の歴史を改めて勉強しようと思って取り組んでいます。
小学レベルのことは見直し終えて,それで関心のある部分を掘り下げようとしているところです。
今,どうしても分からないのが,将軍がなぜ統治できるのか,ということです。



通常,何者かが国を統治できるとき,そこにはなにか(法律や建前上の)根拠があるはずです。
現代日本であれば,国会,内閣が統治するのですが,
それは憲法を初め,各法律に根拠があって,だからこそそこに権限があるはずです。

それで疑問は,征夷大将軍,幕府というものは,一体何を根拠に統治していたのか,
ということです。


自分が調べた範囲ではこうです。

幕府=本来は単に将軍の居所を指していた(のちに武家政権自体を指すように)
征夷大将軍=臨時設置の将軍(征西大将軍などと並ぶ)



疑問は二つです。
(1)なぜ単なる臨時設置の将軍が,全国を統治できることになるのでしょう?
律令が形式的には生きているのかなと思うのですが,そこに何か根拠があるのでしょうか。

(2)「幕府を開く」という表現は一体なんなんのでしょう?
当時はそのような言い方はせず,「将軍の幕府(=居所)は鎌倉にある」とかいう言い方だったはずです。

現代で言えば○○内閣発足,と言えば,実際には認証官任命式の時点を指すのだと思います。
それでは,「幕府を開く」というのは一体何を指してそう呼んだのでしょう。





色々調べてみたものの,自分の手の届く範囲でははっきりしたことは分かりませんでした。
以上よろしくお願いいたします。

現在,日本の歴史を改めて勉強しようと思って取り組んでいます。
小学レベルのことは見直し終えて,それで関心のある部分を掘り下げようとしているところです。
今,どうしても分からないのが,将軍がなぜ統治できるのか,ということです。



通常,何者かが国を統治できるとき,そこにはなにか(法律や建前上の)根拠があるはずです。
現代日本であれば,国会,内閣が統治するのですが,
それは憲法を初め,各法律に根拠があって,だからこそそこに権限があるはずです。

それで疑問は,征夷大将軍,幕府という...続きを読む

Aベストアンサー

歴史記述というのは基本的に、後世の人間が、過去を後世の人間にとって都合のいいように、あるいは理解しやすいように記述します。
漫画日本の歴史とかに書いてあるように、頼朝が「鎌倉に幕府を開くぞ」なんて言うわけがない。

では幕府概念というのは、いつ成立したか?

これは江戸時代です。

徳川将軍家が一番偉いのはなぜなんでしょうか?
という、現実に一番偉い状態を説明しなければなりません。
日本国憲法があり、その憲法で記述されていれば簡単ですが、そんな憲法は江戸時代にはありません。
イギリスには(成文)憲法はありませんが慣習憲法があるとされています。
ひらたくいえば

いままでが、そうなっているんだから、いまもこれでいいじゃん。

ということでして、江戸時代の人間にとって「これでいいじゃん」と言い切れる制度は、頼朝の将軍職就任です。
中国の古典を読んだら、首都にいない将軍が実際の全国統治をしたときには、幕府って言うらしいぜ、じゃぁ頼朝を鎌倉幕府初代将軍と名付けよう。
はい、こんな感じで、江戸時代の人間が頼朝を鎌倉幕府を開いたことにしました。


(1)なぜ単なる臨時設置の将軍が,全国を統治できることになるのでしょう?

逆です。
現実に全国統治をしている、徳川家がまずありきです。
征夷大将軍に、頼朝や尊氏など武家政権の創始者が任官されていたので、徳川家康も任官させた。臨時設置だからではなく、前例主義です。


(2)「幕府を開く」という表現は一体なんなんのでしょう?

頼朝と、その周辺の人間にとっては新政権を打ち立てたという意識はない。
あくまで、江戸時代の人間が、打ち立てたと記述しただけです。



それで疑問は,征夷大将軍,幕府というものは,一体何を根拠に統治していたのか,
ということです。

頼朝:京都以外の地で、常設軍を身近においてもOKとい許可書みたいなものです。統治とは関係ない。
尊氏:鎌倉殿の前例です
家康:鎌倉殿、室町殿の前例です

補足
武士から王へ―お上の物語 本郷和人著
これによれば、武士は500年かけて統治者意識を持つに至ったとしています。
鎌倉武士にとっては、自分の領地の運営だけが気がかりで、全国統治という意識はない。

歴史記述というのは基本的に、後世の人間が、過去を後世の人間にとって都合のいいように、あるいは理解しやすいように記述します。
漫画日本の歴史とかに書いてあるように、頼朝が「鎌倉に幕府を開くぞ」なんて言うわけがない。

では幕府概念というのは、いつ成立したか?

これは江戸時代です。

徳川将軍家が一番偉いのはなぜなんでしょうか?
という、現実に一番偉い状態を説明しなければなりません。
日本国憲法があり、その憲法で記述されていれば簡単ですが、そんな憲法は江戸時代にはありません。
イギリ...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Qどうして豊臣秀吉は、関白。徳川家康は征夷大将軍

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に任ぜられます。

当時は、武家の勢力が強く、朝廷は権威を保ってはいたけれど実質的な政権は武家勢力が握っていたものと推測しています。
そのため、官位については表向きは朝廷が任じようと、実は武士側の方で公家の養子になったりして出自を高貴なものにすれば選べたのではないかと考えています。
どうして、豊臣秀吉は、征夷大将軍職を断り、関白を選んだのでしょう?
そして徳川家康は関白ではなく征夷大将軍職を選んだのでしょう?
結局、その後の徳川家は幕府を設立し、禁中並公家諸法度を作成して朝廷を統制し、政治における実権を握ったことを考えると徳川家康は、武家の棟梁としての位を望んだのも頷けます。
しかし、豊臣秀吉も関白として同じことができたのではないかと思います。
自分の考えでは、豊臣秀吉は幕府を作ることは考えておらず、平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
逆に徳川家康は武士の時代と考え、朝廷からの実質的な政権を奪うことをもくろみ征夷大将軍職についたのかと考えています。
自分には歴史の知識があまりないため、このあたりの政治的な部分に興味があり、いろいろ文献を読んだのですが、なかなか答えがだせません。
そのため、皆様のご高説を賜りたい次第です。

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に...続きを読む

Aベストアンサー

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまくいかなかったという説があります。
ちなみに彼が辞職するのは天正16年になってからです。私も知りませんでした。
関白も棚から牡丹餅でなったのです。それについては関白相論を見てください。
どのみち、実力で天下の覇者になった秀吉としては官位が高いほど自分の権威が高まって行くと考えているだけで、それほど執着はしなかったのでしょう。


豊臣秀吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
足利義昭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

関白相論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD%E7%9B%B8%E8%AB%96

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまく...続きを読む

Q征夷大将軍の違い

坂上田村麻呂は征夷大将軍になったのに幕府を開けませんでした
源頼朝は征夷大将軍となって幕府を開きました

この違いは何でしょうか?

Aベストアンサー

征夷大将軍というのは、律令に明記のない臨時の官職で、軍事指揮権を委任した全権大使、という意味合いがありました。

つまり、坂上田村麻呂やその時代の征夷大将軍たちは、そもそもその役職をもらって「征夷(天皇に服従しない蛮族を平定する事)」そのものが目的だったからです。
征夷大将軍は都から遠く離れた最前線で、蛮族と交渉する全権委任と交渉が決裂して戦争に鳴った場合の最高指揮権の両方をもって、目的を達成しようとしたわけです。

ですから、その目的が達するか、何らかの理由で目的そのものがなくなってしまえば、臨時の官職ですから退任するのが普通だったわけで、それが軍人の規範でもありました。

しかし、源頼朝の目的は軍事司令官になることにあったわけでは有りません。平家に一旦滅ぼされた源家を再興し、誰にも脅かされないようにしようとしたのが基本にあります。

そしてその「誰にも脅かされない」という点において二つの違う例を参考にしたといえます。一つは自らが滅ぼした平家、そして奥州の地で事実上独立した国を作っていた平泉の藤原氏です。

このとき平家は天皇を意のままに動かそうとして、かえって他の公家達を刺激し宮中騒動になって滅んでいくことになり、源頼朝は「天皇家に近い存在としての武家」の有り方を考えたことでしょう。
逆に奥州藤原氏は、天皇より鎮守府将軍の称号をもらい、実質的な独立国を有していたと言えます。

なぜなら「将軍」にはその配下である将兵に対して指揮権とともに支配権をもち、軍政という形で政府を運営する権利が与えられていたからです。これは現代でも軍事国家という形で同じように機能してます。

そのため源頼朝は新しい武家の理想の独立の形として、朝廷の影響を排除する事と独立した軍事指揮権をえることの、二つを必要としたわけです。

この役職としてうってつけだったのが征夷大将軍の役職であり、このあたりの政治的な力学は、古代ローマのエンペラー(軍事指揮者)の成立と奇妙なほど似ています。

いずれにしても源頼朝は慎重に行動し、東国に独立した国をつくることを目的に征夷大将軍の地位につくわけです。

このように純粋な軍人であった坂上田村麻呂は軍事行動が終わった時点で自分の指揮権を天皇に返し、源頼朝はそもそも政府を作るお墨付きをえるために「征夷大将軍」の地位を欲したわけです。

この軍人としてのビジョンの違いが、二人の大きな違いになります。

征夷大将軍というのは、律令に明記のない臨時の官職で、軍事指揮権を委任した全権大使、という意味合いがありました。

つまり、坂上田村麻呂やその時代の征夷大将軍たちは、そもそもその役職をもらって「征夷(天皇に服従しない蛮族を平定する事)」そのものが目的だったからです。
征夷大将軍は都から遠く離れた最前線で、蛮族と交渉する全権委任と交渉が決裂して戦争に鳴った場合の最高指揮権の両方をもって、目的を達成しようとしたわけです。

ですから、その目的が達するか、何らかの理由で目的そのものがな...続きを読む

Q楠正成と後醍醐天皇と足利尊氏について。

楠正成と後醍醐天皇と足利尊氏ってどんな関係だったのですか?
その時代の情勢を知りたいんですが、なかなか的確なサイトが見つかりません。どなたか歴史の知識がない私にもわかるように簡単に説明していただけないでしょうか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

この時代ですが、鎌倉幕府もそろそろ末期になり、武士たちの不満も高まってきました。
ご承知のように鎌倉幕府は別名「北条幕府」とも言われ、北条氏が実験を握っており、その中で源氏の正統とされるのが足利家です。
後醍醐天皇は鎌倉幕府の衰退を見て、政権奪取のチャンスと見て、動き出しますが、天皇に早くから結びついたのが河内の豪族楠正成で、赤坂城などに立てこもって幕府に反旗を翻します。
後醍醐天皇も各地の武士に味方するように呼びかけ、それに応じた足利尊氏は当初は北条氏の命令で京都に進軍してきましたが、翻意して幕府の京都の拠点、六波羅探題を攻め落とし、これに呼応する形で、新田義貞が鎌倉をせめて、ここに鎌倉幕府は終焉し、後醍醐天皇の親政が始まります。
天皇は公家中心の政治を考えて、公家の荘園などを保護したため、武士たちの不満が高まり、足利尊氏を中心に不満が爆発、あくまで天皇に従う、楠正成や新田義貞と戦争になります。
一時は足利尊氏を九州に追い払った朝廷ですが、やがて勢力を挽回した足利軍が、後醍醐天皇とは別の系統の持明院統の光厳上皇を擁して京都を目指して攻め上ってくると、もはやなんともならず、楠正成も湊川の合戦で破れ、自刃して果てます。
やがて新田義貞、北畠顕家などの朝廷側の有力武将も破れ、後醍醐天皇は吉野に逃れ、足利氏の立てた持明院統の光厳上皇に対抗して「南朝」を立てます。
これ以降は、吉野の朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝と言って、南朝には楠正行(正成の息子)などが応援に加わり、足利幕府の内紛に乗じて京都を奪還したりしますが、3代将軍足利義満の時代に、一応南朝は消滅します。
分かりやすいのは横山光輝の「太平記」という漫画などを読みますとよいですよ。
漫画喫茶などで読んでみてください。

この時代ですが、鎌倉幕府もそろそろ末期になり、武士たちの不満も高まってきました。
ご承知のように鎌倉幕府は別名「北条幕府」とも言われ、北条氏が実験を握っており、その中で源氏の正統とされるのが足利家です。
後醍醐天皇は鎌倉幕府の衰退を見て、政権奪取のチャンスと見て、動き出しますが、天皇に早くから結びついたのが河内の豪族楠正成で、赤坂城などに立てこもって幕府に反旗を翻します。
後醍醐天皇も各地の武士に味方するように呼びかけ、それに応じた足利尊氏は当初は北条氏の命令で京都に進軍...続きを読む

Q時の権力者はなぜ天皇家をほろぼさなかったのですか?

織田信長、足利義満のように天皇家を必要としない行動をしていたように教わりましたが、
なぜ時の権力者は天皇家を滅ぼさず、自ら王になろうとしなかったのですか?

Aベストアンサー

信長を除いて、日本ではずっとドングリの背比べだったからです。信長が長生きしていたら、天皇家は断絶させられていたと思います。過去の日本のでは、時の権力者が如何に強かったとしても、残りの大名や豪族達がまとまって反対側に付いてしまうと力関係でも叶わなかったようです。ですから、時の権力者は力づくの脅しばかりではなく、外交を使っての懐柔に長けていなくてはならなかった。また、政治力がすでに失っていたとは言え、形式上皆が認めていた天皇家の権威からの任命ないし権力の仮の譲渡という形を採ることで、残りの豪族達も納得していたのです。そのような権力の仮の譲渡という立場が徹底的に認識されていたからこそ、江戸時代から明治への権力譲渡が大政奉還という形式を採り、ほとんど無血でそれが可能になった重要な要因の一つに成っているわけです。

また、そのドングリの背比べと言う正にそのことが原因で、日本は周りの中国や朝鮮にある中央集権制度とは全然違った、幕府と呼ばれた封建制度を自前で見つけ出してそれでずっとやってきたのす。封建制度は王の王がいるといつ制度で、直接国民をたった一人の王の所有物とみなす中央集権制度とは全然違った、世界史的にみて例外的な制度です。ここ2千年程の歴史に限ってみると、この制度を安定期に明確な形で実行したのは、日本と西欧だけのようです。そしてこの2カ所だけが近年の産業革命を効率よくやり遂げ、その結果資本主義社会として高度に発展できました。中央集権制度ではなくて、封建制度であったことが自発的な近代国家の成立にどんなに重要であったかお判りでしょう。江戸時代に日本にすでに高度な経済国家が成立していたことは良く知られていることです。天皇家を存続させざるを得なくしたこの封建制度が、経済大国たるこの日本の近年を形作るための要因に成っているわけです。

信長を除いて、日本ではずっとドングリの背比べだったからです。信長が長生きしていたら、天皇家は断絶させられていたと思います。過去の日本のでは、時の権力者が如何に強かったとしても、残りの大名や豪族達がまとまって反対側に付いてしまうと力関係でも叶わなかったようです。ですから、時の権力者は力づくの脅しばかりではなく、外交を使っての懐柔に長けていなくてはならなかった。また、政治力がすでに失っていたとは言え、形式上皆が認めていた天皇家の権威からの任命ないし権力の仮の譲渡という形を採る...続きを読む

Q1光年って何年のことですか? 130億光年=130億年でいいですか?

1光年って何年のことですか? 130億光年=130億年でいいですか?

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Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む


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