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AB間に生まれた子を、生まれた当初からXY間の実子として出生届をなしてXYが育てるといったケースを「藁の上からの養子」と言いますが、近代の日本では家庭の事情によりこの形態の養子は散見されたようです。
江戸時代も子に恵まれない夫婦は思いますが、ある程度歳がいっても子を授からなかった夫婦が、一般的な養子という形をとらずに藁の上からの養子の形で子をもらってきて、実子として育てるといったことはあったのでしょうか?

当時は今のような戸籍制度もなく、赤子を養子にする場合はむしろ藁の上からの養子が多かったんじゃないかと思ったのですが、どうだったのでしょうか。(正室に子がなく、側室や妾との間に生まれた子を正室との子として育てるといったこともあったのかなと思いました。)

ご意見を賜れれば幸甚です。

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A 回答 (6件)

ANo.5 です。

若干気になったもので‥度々すみません。

現代の我々とは倫理観の違う時代の「風習」のようなものなので、
無理に我々の時代に当てはめて解釈する必要はないと思いますよ。

私は近代・現代法については無知に等しいのですが、特別養子縁組
というのが「実の親との断絶」を意図するものであるなら、ANo.5
で紹介した「実子」の風習?はそれとは違い、必ずしも実の親との
断絶を第一義とはしていません。では何故「養子」「実子」と区別
するのか‥ それは現在の我々には理解不能な、何らかのこだわり
があったんでしょうねぇ。

なお、当時の用例としては、もう一つ「猶子」というのもあります。
イメージ的には義兄弟と同種の「親子の杯・契を交わす」というも
のですが、この「猶子」と「養子」との境界がまたまた曖昧なんで
すね。

ANo.5 で紹介した曼殊院譲仁法親王の場合、光格天皇の養子の「肩
書」で曼殊院に入っており、実際に光格天皇や義母の姉小路聰子の
庇護下で育てられた訳ではありません。その意味では「猶子」の方
が適切だと思うのですが、いやはや‥。歴代の宮門跡は天皇の養子
の「肩書」で寺に入室するのが慣例なのですが、調べてみると「養
子」と「猶子」が交錯しており、どんな理由で区別していたのか意
味不明です。
明治天皇の母にしても、天皇の生母が正室ではない場合、正室を名
目上の母とする慣例は以前からありましたが、それなら内容的には
「猶子」なのに、何故「養子」を飛び越して「実子」としたのか‥

またまた、蛇足でした‥
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この回答へのお礼

そうですね。無理に現代に当てはめることはないですね。

実子は必ずしも実の親との断絶を目的になされていた訳ではないのですね。
何かしら意味があったから養子と実子と区別していたのでしょうね。
猶子と養子も境界が曖昧だったのですか。

大変興味深かったです。
ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/03 08:53

江戸時代までの恐らく上流階級に限ると思いますが、系図で単に親子


関係の棒線を引いただけとか、ただの「子」とか「○○男」と表記す
る場合は「実の子」を意味し、「実子」と表記する場合は「養子とは
違い、実の子として貰いうけた他人の子」を意味するという用例があ
ります。
現在の我々の認識では、「実子が実の子」ですからややこしい上に、
当時から上記の用例と現在の我々の認識での表記とがごちゃまぜに使
われており、ややこしくてかないません。

手許の史料(詰所系図)で天皇家での実例、曼殊院(門跡)譲仁法親王の
場合を挙げておきます。

伏見宮邦家親王-譲仁親王
  第三王子、母同上(家女房上野壽野)、文政七年正月九日誕生、稱
  彦宮後改慥宮、天保二年三月二十四日爲閑院宮孝仁親王實子、同
  三年五月十七日爲光格天皇養子、養母藤原聰子、‥(下略)
閑院宮孝仁親王-譲仁法親王
  同上(御系譜ニ記※下記の光格天皇の系譜のこと)、母同上(微妙
  覺院)、文政七甲申年正月十一日生、號慥宮
光格天皇-慥宮譲仁法親王
  御母儀菖蒲小路局、姉小路公聰女、實閑院故孝仁親王男、邦家親
  王第三子、天保二卯年三月二十四日爲孝仁親王實子、天保三辰年
  五月十七日御養子‥(下略)

 伏見宮邦家親王の第三王子として出生、閑院宮孝仁親王の「実子」
 すなわち「実の子として貰い受け」られ、後に光格天皇の養子の肩
 書で曼殊院に入っています。
 なお、母親の方ですが、生母は伏見宮邦家親王のお手つきの女官の
 上野壽野という女性。閑院宮孝仁親王の「実子」となったことで、
 親王正室の鷹司吉子(微妙覺院)の生んだ子ということにされます。
 その後、光格天皇の養子となるに際し、養母は天皇側室の姉小路聰
 子という指定をうけます。

明治天皇の生母は孝明天皇側室中山慶子ですが、明治天皇は母を孝明
天皇正室九条夙子と信じており、実の母の中山慶子は「ごんすけ」と
呼ばれていた単なるお付きの女官だと思っていたのを、あとで事実を
知ってショックを受けたという話があります。これを前出の史料で確
認すると、

孝明天皇-皇子(明治天皇)
  母權典侍藤慶子、中山大納言忠能卿女、嘉永五年九月廿二日降誕、
  (中略)、萬延元年七月十日爲儲君、爲准后藤原夙子實子、(下略)

 8歳頃に跡継ぎと決められると同時に正室九条夙子の「実子」とさ
 れており、8歳なら九条夙子が実の母とは違うことくらい分かるだ
 ろうと思います。それ以前から九条夙子を母として躾けられていた
 のかもしれませんが‥
 蛇足ですが、中山慶子はかの偉大なる明治大帝の生母であっても、
 その墓は宮内庁管理の御陵にはなっていません。明治天皇の母は
 「公式」には正室九条夙子だからです。何だかかわいそうですね。
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この回答へのお礼

実子と表記する場合は養子とは違い実の子として貰い受けた子という扱いだったのですか。養子と実子の区別があったというのは面白いですね。
養親が実母とされたというのは面白い制度ですね。

若干違いますが、養子に行くことで実親との縁を切る「特別養子縁組」のような感覚で、産みの両親との縁を切り離す場合には実子として養子に行く方法が取られたのでしょうか・・・

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/02 05:43

 庶民の例を想像をまじえてお話しさせてください。


 江戸時代の戸籍のようなものとして、宗門改帳や人別帳がありますが、現在のように医者や産婆の証明書をつけて届け出るわけでもなく、おおせの「藁の上からの養子」(こんな言葉知りませんでした)は多かったと思います。
 江戸時代はなんでも自己責任の時代でした。子供の出来ない家では、家を残すということもありましたが、実際問題、老後をどうやって養うかというのも切実であったと思います。
 戦前の話ですが、「男の子を三人育てれば安泰、女の子が三人産まれれば破産」ということが、よく言われていました。男の子が三人出来れば跡取りが出来、亭主が年をとって働けなくなったり、死なれたりしても老後は安心できたわけです。
 女の子は嫁入り先で養ってもらうという考えがありましたので、多額の持参金や大層な支度が必要となり(見栄もあった)、三人目には親が破産・・・ということです。老齢年金や男女同権思想はない時代ですし、主婦の家事労働時間をお金に換算するといくら、というようなことには考えも及ばない時代でした(笑)。
 そういうことで、江戸時代は赤子をそのままもらってきて、実子として育てるということは、結構あったんではないかと思います(1.親戚からもらう、2.知人から、3.他人から)。
 まあ、子供はいつか自分は実子ではない、ということを知るようになると思いますが(近所の子供から「もらい子」とからかわれる、近所の子供は自分の親や兄姉から聞いて、本人より先に知っている)。
 他人行儀になりそうな、大きくなってからの養子よりも、赤ん坊から手元で育てたいという気持ちはわかりますので、そういうケースは少なからずあったと思いますね。
 今は自分に子供がいなくても、他人様の子供が納める年金保険料で食べさせてもらえます(小生も自分が払った保険料分はとっくに食い尽くしましたが、子供は三人成人させてますので自己責任でやっているということになります、エヘン、民間会社事務方)。
 江戸時代はなんでも自己責任の時代で、全て自分の家で解決し、完結させていました。
 『親を殺されたら倅が敵討ち』、『水は井戸を掘り定期的に井戸さらい』、『子供は自宅で産婆さんから取り上げてもらい、事故が起こっても文句をいっていくところはありません』・・・脱線しました、無視してください。
 
 
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この回答へのお礼

>「藁の上からの養子」(こんな言葉知りませんでした)
法律用語とは言わないまでも、もしかしたら一般的に使われている言葉ではないのかもしれません。私も家族法の講義で初めて聞いた記憶があります。
話がそれますが家族法の判例は読んでいてとても面白いです。最近でいうと、離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子とする嫡出推定の問題や、タレントの向井亜紀さんが代理出産で授かった子の母親は向井さんなのか、それとも代理母の方なのかが話題になりましたね。ローマ以来の法諺に「母は確定す。されど父は確定せず。」というものがありますが、医学の進展に伴い、母親が誰なのかも難しい世の中になってしまったようです。
法律科目の中で民法が一番好きですが、その中でも家族法の分野は身近な法律なので考えさせられることが多いです。蛇足でした。

>男の子を三人育てれば安泰、女の子が三人産まれれば破産
「一姫、二太郎」なんて言い出したのは最近の話なのでしょうか。
うちも、父方は男3人兄弟、母方は女3人兄弟だったので、母方の方は家を継ぐものがおらず途絶えてしまいます。母方の祭祀は一応私が継承していくつもりでいますが、後の代となるとそれもままならなくなるのかもしれません。
赤子が男か女か、当時は今以上に切実な問題だったのでしょうね。

おっしゃるように藁の上からの養子は結構あったのでしょうね。
近代だと、試用期間といったら大変言葉が悪いですが嫁にいってもなかなか入籍してもらえないケースもあったようですね。そういう事例の判例を読んだ記憶があります。
それ以前の江戸の世でも、妻たるもの結婚に際して子を産めるか否かが現代人の感覚以上に大事だったのでしょうか。

私が年金をもらえる頃には、少子化で年金制度そのものが破綻してそうです。自己責任で少しずつ小金を貯めて老後に備えるしかなさそうです。
健康保険などは、アメリカは国民皆保険じゃないから社会保障の網からこぼれて、必要な医療を受けられない層がいるみたいですね。みんなが気軽に医療を受けられる現代日本はやはり恵まれているのでしょうね。江戸時代の成人率や平均寿命を考えると尚更そう思います。

>民間会社事務方
お答え頂きましてありがとうございます。
書いた後で、こういう場でお聞ききするのはマナー違反だったと反省しています。申し訳ございませんでした。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/02 05:29

間違ってしまった。



>>松平容敬は松平義建の庶子であったが、

松平容敬は松平義和の庶子であったが、
でした。義建は兄弟でした。
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この回答へのお礼

ご訂正ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/02 04:36

あったと思います。


実際、会津藩で行なわれています。
会津松平家では藩主が若いうちに亡くなることが多かったため、松平容住が亡くなり松平容衆が藩主に就任すると、家老の田中玄宰が松平容住の三男として松平容敬を幕府に届けました。
松平容敬は松平義建の庶子であったが、義建が高須藩主の婿養子として迎えられることになり、水戸藩が扱いに困っていたのを田中がどこかから聞き知って会津藩に貰う受けたと聞いています。
もちろん、これらのことが表立ってわかったのは明治になってからです。
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この回答へのお礼

大名家の相続となると結構そういうケースがあったのでしょうね。他の藩でも偽った届けをやっているみたいですね。

王位継承順位のように、まだ藩主に嫡子は生まれてないけど、藩主の弟が藩主継承権を持っているといった形なら無嗣絶家となることはほとんどないのでしょうけど、特に幕初は末期養子も認められていなかったので改易が多発して可哀想なくらいです。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/02 04:36

実際には自分の子ではないのに自分の子として届ける例はあります。


江戸時代には幼児の死亡率も高かったで生まれてすぐに出生届を出すのではなく、ある程度育ってから「丈夫届」を出すことも普通(ほとんどがこちら)でしたので、いくらでもそういうことはできました。
ただ、実際には自分の子ではないのにいつわって届けることは違法行為なのでばれると処罰されました。そういう斡旋行為で切腹させられたという例もあります。
側室の子を正室の子として届けることは正室にはたいてい実家からおつきがついていることが多いので正室や周辺の了解を得ないと難しかったかと思われます。
日本の場合は側室の子であれ妾の子であれ家督相続権はありましたので危険を冒してそういう細工をする意味はなかったかと思われます。
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この回答へのお礼

江戸時代はすぐに出生届を出さず、丈夫届を出すのが普通だったのですね。

養子を実子とするのを斡旋した程度で切腹させられた例もあるのですね。かなり重たい気がしますが、そういうことには厳しかったのですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/02 04:31

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『この時代に こういう流れになるのは
どういった環境が推測されるのでしょうか 』
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参考URLにあげたのは、当時のひとびとの記録として秀逸の本です。明治という時代がどのように人間を扱っていた時代なのかというのがわかるかもしれません。

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参考URL:http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/8/3310910.html

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