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全知全能の神うんぬんというセリフを耳にしたことがありますが、
過去も未来もその神が、すべて知っているのでしょうか?
未来の可能性において、人間の意志の介在する余地はないとでもいうのでしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

一応、私は「全知全能の神」は信じていませんが~



人間の意志の介在する余地、とのことですが、仮に神が予想できたとしてもそれが
「脳」という機構を通した選択であれば人間の意志が介在した、とみなしていいのではないでしょうか?
たとえば、「彼はおそらく今日もずる休みするだろう」と誰かが予想したとして、本当にその通りになったとしても「彼」の意思は介在しているように。

別に関係ないかもしれませんが、宗教上の神はいないように思います。
長くなるので再記はしませんが
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2862968.html
のNO,40より。
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結局は、そう信じるか、信じないか、ときどき信じるか、とくに気にしないか、ということで、決まってくることだと思います。


ですから、それぞれ答えは違います。

この回答への補足

信じるものは・・・ですか。

補足日時:2007/04/06 14:38
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神は全知全能というのは、キリスト教の神の概念だと思います。



ここで一つ本当に全知全能かに疑問。
本当に全知全能なら、アダムとイヴが知恵の木を食べることを知っていたはずだし、神のいいつけに従わないことも予知できたはず。
神は知らなかったんですね。。。。
いつものようにアダムたちに会いにいったら様子がおかしい。
どうしたんだろう?と見ると裸であることを恥ずかしがっている。
「お前ら~ 知恵の木たべたなーーー」
予知できなかったんですね・・・・。


別の創世記の話では、神は人間が馬鹿なことを利用して、畑を耕させていた。
人間は奴隷だったわけです。
それを見るに見かねて蛇が真実がわかる実を食べさせた。
すると魔術が解け、ほんとうのところがわかった。
神は「知られてしまった」と悟り、アダムたちを畑から追放し、真実を知らせた蛇を呪った。 とある。

いやーー こりゃあ もう独裁者でただの人間で、人を騙して奴隷としこきつかっていただけ。
やっぱり人間だった。



キリスト教はユダヤ教とギリシャ哲学などから成り立っています。

ユダヤ教、神の特徴の一つとして、ねたむ神 という添え名がある。
「もーー知らない お前達のことは知らない。勝手に他の神を拝んでなさい」って異教の神を拝んだ民をねたんだ。
実に人間っぽい。


人間は神の申し立てしていたし、神も一方的じゃなくて、人間の訴えに耳を傾け、譲歩したりしたりするし、怒りに任せて破壊はするし、人を殺すし、人間を作ったのは失敗だった後悔して、洪水を起こして溺れさせるし、実に人間くさい神。


ヤコブ のちのイスラエルですが、この男、神と戦って勝ってしまった。
決着がつかなかったと解釈する人もいますが、ともかく、明け方になったので俺帰るから放せと神に言われた。
「いいえ あなたが私を祝福するまで放しません」
ヤコブ 食いさがりまして、神は根負けして彼を祝福した。
そしてヤコブが喧嘩相手に名前を聞いたら、「私は過去にありし 現在にありし 未来にありしもの」と答えたんですね。

これがどういう意味か。
全知全能で未来もわかる者とするか、彼の意思次第で全ては決定するとするか、それとも、循環 つまり 過去にあったものは未来にも必ずあり、新しいものは何一つないんだぞ って意味か。

私は循環のことだと思うんですね。
自然は循環しますよね。
例えば「自分は史上初の快挙を成し遂げた王だ」となっても、よーく調べると過去にもそういう人がいて、史上初でもなんでもない。
過去にあったことが、未来にまた起こっただけ。
つまり新しいものは何一つなく、過去にあったものが又未来でも起こりうり、何も新しいものはなく、変わらず、普遍ってわけです。



ギリシャ神話の神も実に人間くさい。

つまり古代の神はとっても人間の思考・行動パターンと同じで、実は人間が神格化されたんじゃないかと思うんですね。


そしてこの神格化された王も、やはり人間ですから、崩御する。
するとその王の地位を別なものが受け継ぎ、王がまるで何百年も生きたかのようになる。

例えば、ダライ・ラマ。
この名前だけみたら、随分人間離れした長生き。
でも、ダライ・ラマという称号を受け継いだだけで、別々の人ですよね。
何世とかつけて、死ぬとまた生まれ変わり永遠に生きているかのようですが、あくまで信仰上 永遠に生きるという概念なので、何度も生まれ変わっているとなっているわけです。


ダライ・ラマ。
永遠に生きる聖人なわけですが、ちょっとみると普通のおじちゃん。
とてもトータル何百年も生きている人には見えないし、気さくっぽい人だし、オウム真理教を賞賛したりして、事件を知って後悔したりして、実に人間くさい。
もう転生しないだろうと言っていますが、これが意味するものはなにか。
何百年かすると、ダライ・ラマが再臨して最後の審判を下すという伝説に変わるかもしれません。
聖人が神になっちゃうかも。


というわけで、本来の神は自然で、民の王が民族を統一するのに、その自然のできごとを、人格をもった神とたとえ、意味づけを人間が勝手にやったんじゃないかと。

自然の御心は人間には計り知れません。
自然の力の前では人間は無力で、自然の力はもはや神。


で、自然界の一つ 星。
これをただ存在しているのではなく、意味があるはずだとしたんですね。
何座とかして、動物に例えて話を作った。
そして未来に起こることを星座で予知しようとしたりした。
天を仰ぐので、天から未来を読み取ろうとして、、、、

未来って人間の力ではわからないですよね。
それを知ろうとしたのがエジプト。
実は最後の審判はエジプトの神話からきている。
洪水は、、、、ギルメッシュ自叙伝からきている。
死んだ王が復活するという概念もエジプトから流れてバビロニアだったかそこらの神話からきている。

ということで、元を辿るとエジプトが全知全能の神の概念の発祥の地じゃないかと思える。

イシスとオシリス神話を読むと、パクったな、、、ってわかる。

神の概念は変化していき、全知全能にまでなったが、もともとは人間だったと思うんですね。
従って、人間であれば、交渉は可能。
でも自然であれば、交渉は不可能。
「明日雨にしてください」と自然に向かって訴えても無理。
「働きたくないので、夜のまま明けないようにしてください」といっても無理。
「昼間なのに太陽が消えた」 それ日食です。人間がお願いしたからじゃない。

この回答への補足

アミニズム的考えですね。
つまり、擬人化された神(偶像化された神)は過去の何らかの偉人もしくは、存在すればいいなと思われる人が、語りつがれ伝説化し、ついには神格化されるとゆうことですか。

補足日時:2007/04/06 14:43
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>全知全能の神うんぬんというセリフを耳にしたことがありますが、


過去も未来もその神が、すべて知っているのでしょうか?

 確かに、全知全能ですから、分かっているかもしれませんね。でも、そういう神が本当にいるかは分からないと思います。だって、あてずっぽに、大まかに将来のことを言ったら、当たるかもしれないじゃないですか。
 たとえば、明日、殺人事件が起きるとあてずっぽに予想してみたら、この殺人事件が多い世界では当たる確率が高くなると思いますよ。
 これが占い師、預言者のだましかたです。H木占い師の話は、すべて当たる可能性があるものを言ってますね。
 すべての可能性について苦の対処法を教えてくれる人の方が結構偉いと思いますよ。 自分でも尊敬したくなります。

>未来の可能性において、人間の意志の介在する余地はないとでもいうのでしょうか?

 人間的に見れば、意志でもって、身体が動いていると見えますが、実際のところ、意志も、身体が動くのも、すべて因果関係によってなりったっているから、未来は決まっているということになると思います。
 また、因果関係によって、選択したり、考えたりしているんだと思います。
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たとえ世界が決定論的であったとしても


俺達が未来の可能性を信じる事
俺達の意志もその未来を作る要素なんだゼ?

つまりよ、俺達がどんな意志をもつのかってことは
未来を決定するものの一つだってことよ




ちなみにラプラスの魔なんてもんは
不確定性理論に殺されたがな!

この回答への補足

アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」といった決定論者でしたが、その後の量子力学論者によって物理的にも否定されましたね。

補足日時:2007/04/06 14:50
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意識の役割



情報は予測不能性、無秩序、混乱、混沌、驚嘆、記述不能性、意外性、他者性の尺度であり、秩序はその反対の尺度である。
意識はさほど多くの情報を含んではおらず、自らを秩序あるものを見なす。情報を捨て去ることによって、周りの無秩序や混迷のいっさいを、現象の起源を示す単純で予測可能な法則に還元できることを誇っている。
文明は、私達の生活から取り除く社会体系や技術体系から成る。文明は、進むにつれ、意識が世界から退くのを可能にしていった。
こうして、世界の有り様を解釈したものが世界そのものであるという世界観が生まれた。その中では、地図は地形と同一視され、〈私〉は〈自分〉の存在を否定する。神の摂理という形以外の他者性はいっさい排除される。人は、他者性もまた良いと信じないことには生きていけない。
しかし、意識も平静の時代を迎えた。人とその意識について意識的な研究がなされ、人は意識を遥かにしのぐ存在であることが明らかになった。人は意識が知っているより遥かに多くを知覚したり行なったりしついることがわかった。私達は周囲の世界のシミュレーションを行い、それが世界そのものであるかのように経験し、信じているが、そのシミュレーションは、錯覚と還元の産物だ。それは、私達の外側の世界に満ちている予測不可能な他者性の大半を捨て去ることで得られる。系統だった錯覚と還元によってのみ可能となる。
意識ある〈私〉は、自分の周りにある世界を説明できないことを悟らねばならない。世界について私達が与えることのできる形式的で紛れのない記述では、その世界を余すところなく予測することはおろか、記述することさえおぼつかない。人間の意識のように狭い帯域幅の意識に取り込みうる、単純化された形式的記述では、私達の外側にある異質なものの豊かさを記述するには、決して十分でないのだ。
私達の内側、言わば意識を持ち歩く人間の中で起こる認知プロセスや心的プロセスは、意識が知ったり記述したりできるよりも遥かに豊かなものだ。私達の肉体は、口から入って反対の端から出ていく周りの世界との協力関係を持っているが、それが意識に上がることはない。肉体は、強大な生命系の一部であり、その生命系が、生命を帯びた惑星地球を全面的に形成し管理している。
意識ある〈私〉は、外なる世界も内なる世界も説明できない。従って、これらの二つの世界の間のつながりを説明することもかなわない。

1930年、クルト?ゲーデルは、形式的体系には限界があり、完全かつ無矛盾たりえないことを記述した。有限の記述では無限の世界を絶対に記述できないというのだ。
意識は、自分の内側と外側、いずれの世界も記述することはできない。内側にいる人間も、外側にある世界も、意識が知りうる以上に豊かなのだ。どちらも図に描いたり記述したりはできるが、余すところなく知ることはできない深みだ。そして、両者の間には意識の知りえない繋がりがある。内側と外側の深みは、二つ合わせて「ゲーデルの深み」と呼べるし、意識はゲーデルの深みに浮かんでいる、と言える。
ゲーデルの定理は、嘘つきのパラドックスの現代版を踏襲している。嘘つきのパラドックスは、意識が産声を上げた古代ギリシアで発見された。
意識は人間に嘘をつく能力を与えた。真実ではないことを述べる能力、言ったことと意味したこととの間にずれをもたせる能力を与えたのだ。
このパラドックスの現代版とも言えるゲーデルの定理は、ポーランド哲学者アルフレッド?タルスキーの手にかかると、ある命題が自らについてその真偽を証明することはできないという知識、というふうに定式化される。
従って、「私は嘘つきだ」という命題の特徴は、このパラドックスに名を残している「私」という言葉であり、話し手が自分の話に言及しているという事実だ。
この自己言及のせいで問題が起きる。肉体は嘘をつけない。肉体は帯域幅が広すぎて嘘をつけない。だが、〈私〉にはそれができる。いや、〈私〉にはそれしかできない。〈私〉はあたかも〈自分〉であるかのような顔をする。だが、事実は違う。〈私〉は〈自分〉であること、〈自分〉を支配していることのシミュレーションをする。しかし、〈私〉は〈自分〉の地図にすぎない。地図は嘘をつくことができる。地形にはできない。「私は嘘つきだ」は嘘つきのパラドックスではない。意識についての真実だ。

意識は、地球上の生物の進化によってもたらされた、素晴らしい産物だ。不断の自覚、大胆な解釈、活気をみなぎらせる手段だ。しかし意識は、世界を支配してはいないと認めることによって、そしてまた、世界の単純な法則や予測不可能の原理を理解しても、世界が一体どういうものなのか推測できないと認めることによって、今まさに平静を保とうとしている。
意識はそれほど古いものではないが、人の生活を支配するようになってからの数千年間に、私達の世界を変えてきた。その変化が余りにも大きかったため、自らを生み出したメカニズムの餌食になりつつある。意識は、自らの経験している世界シミュレーションが世界の本当の感覚であり、人が意識の上で経験しているものこそが、実際に知覚されているものであり、人が知覚しているものこそが世界そのものである、というふりをしている。
従って、意識は、それ自身にとって危険な存在になってしまった。自身がただの意識であり、本当の世界の有り様ではないと意識していないからだ。人間は周りに起こる急速な変化を感知して、それに気づくことができる。そもそも意識は、私達が周りで起きる特定の変化に気づくために発達したものだ。意識は急速な変化、明滅する明かり、既知の危険を見出そうとする。
しかし、意識が生み出した文明は、今や完全に新しい形の変化をもたらしつつある。それは、緩やかな変化、潜行性の変化、地球規模の変化、すなわち、種の絶滅と地球環境の劣化。環境危機によって私達がさらされている危険や難題は、人間の注意が自動的に向くようなものではない。人間も一つの種として、周囲の様々な事柄に気づくことを学んだが、そうした要素はもはや真の脅威ではなくなった。

この回答への補足

うくわかりませんが・・。
ゲーデルというと、数学的、物理的証明では、すべての事象を証明できないということを証明したひとですね。
ここに書かれている意識とは、自己の意識のことですか?
はたまた、それ以外の何か大きい意識のことですか?
よくわからないので説明したください。

補足日時:2007/04/06 15:01
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聖書でも未来は 黙示録のとおりになるというのが教えであり いつなるのかのは神様の都合 知っていても神様は私たちの行動を見ているだけ、そして信じますと言う人にだけ救いや奇跡を行い助けますと


神様はひとりひとりに語っていますが民は無視し すき放題をしています。知っていますが無理やりに介入せず見守っているという状態 
だから「悔い改めよ 信じよ」というのですね

この回答への補足

キリスト教的終末思想ですか・・・。

補足日時:2007/04/06 15:07
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全知全能なる神はもういません。

ニーチェが殺してしまいました。
だから、あなたの強固な意志で人間の未来を切り開いてください。 

(ニーチェが「神は死んだ」と言ったのはキリスト教的価値観の崩壊、無価値化という意味なんだけどね)

この回答への補足

人間の未来は人間が切り開くというわけですね。

補足日時:2007/04/06 15:09
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全能なる神、己の不可能性を創り出すこと能わず


というパラドックスが・・・

この回答への補足

全知全能なるがゆえに、何も出来なくなるということですか?

補足日時:2007/04/06 15:13
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全知全能ののうち、過去と未来に関する全知は、神が時間を超越しているという意味です。



時間を創造したのも神だとういうことです。
つまり、私たちは、未来も過去も所有することことはできませんが、神は完全であるがゆえに、過去も未来も失うことができない存在なのです。

ですから、私たちが完全なる自由意志を持っていることと、神が未来と過去について全知であることは矛盾しません。神は、全てを人の自由に任せながら、その結果を全て知っています。神は、過去も未来も、私たち人間が現在について知覚できるように、全てを知覚できるのです。

こう言っても、ここから先もいろいろな疑問が湧くでしょう。
全てを知っていながらなぜ罪を犯すような人間を作ったのか、とか、
なぜ、審判の日をそんなに遅くまで待っているのかなど。

端的に言えば、「神がそれを望んだから」ということですが、ここで答えるべきトピックスではないでしょう。
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