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江戸時代、武家の守名乗りは大名・諸太夫の役職に就いた者・三千石以上の大身旗本に許されていたと思います。

陪審でも、御三家御附家老や加賀八家のように従五位下に叙任される特格の家柄はあったと思いますが、一般の大名家の家臣(特に重臣層)が守名乗り(越前守・讃岐守・縫殿頭など)をすることは出来たのでしょうか?

「かみ(守・正など)」を付けずに山田安芸、田中勘解由、鈴木民部、山本隼人と名乗ることは普通にあったと思いますが、「かみ(守)」を付けて名乗ることはどうだったのでしょうか?
公式には許されてなかった場合、○○守の私称がまかり通っていたとするならば、○○守で公文書に署名することは出来たのでしょうか。

大石内蔵助の内蔵助も正式な官名だと思うのですが、旗本では大身しか許されていないものを、陪臣にすぎない大名家の家臣が「大石内蔵」ではなく「大石内蔵助」と名乗ることは問題なかったのでしょうか。

ご意見を賜れれば幸甚です。

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A 回答 (2件)

 NO.1です。


 つい先日、このカテゴリーで戦国時代の私称、僭称の質問がありました。参考になると思います。↓
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2853095.htm
>江戸時代、武家の守名乗りは大名・諸太夫の役職に就いた者・三千石以上の大身旗本に許されていたと思います。
・・・大括りではそういうことだろうと思います。そしてその枠の外にいる家でも、由緒によって幕府が認めざるを得ない家もあったんじゃないかと思います。
 まあ、結構細かく個別管理をしているような感じを受けますが。
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この回答へのお礼

私のPCからはURLが表示できないようです。すみません。


>その枠の外にいる家でも、由緒によって幕府が認めざるを得ない家も
問題はそこですよね。
熊本藩の八代松井家、仙台藩の白石片倉家などの陪臣城主あたりはどうだったのか気になります。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/03 09:57

 ウィキペディアによりますと、大石内蔵助の正式名は・・・「大石内蔵助藤原良雄(おおいしくらのすけふじわらのよしたか)」であり、家名(名字)が大石、通称が律令官名で内蔵寮の次官を意味する内蔵助、氏が藤原、諱が良雄となる。

・・・ということらしいです。
 内蔵助は正式な官名ではないと思います。『官名風』な名前ということで、結局は大泥棒の石川五右衛門の『五右衛門』も同じだと思います。ですから問題はないと思います。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%AE%98% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E5%90%8D_ …
 幕府は○○守の名乗りを許可制にして交通整理をしていたようです。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6% …
 加賀八家の前田土佐守家の場合は、陪臣であってもその由緒からして土佐守の名乗りは許されていたと思いますね。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0% …
 御三家付家老や加賀八家などは陪臣といえども大名並でしょう。
 その下のクラスの大藩家老、例えば幕末の有名人で長州の福原越後や国司信濃はダメだったんだろうと思います。これは国名を名乗りとしているということになります。
 近藤勇も捕まるときは「大久保大和」だったようです。
 官名風の名前は庶民も付けていましたし、OKだったんでしょうね。
 官名由来の名前というのはイッパイあって、名無しの「権兵衛」でも官名由来です。昔からこういう名前をつけるようになってきていましたので、『○○守』のようなそのものズバリ以外は、しようがないということでしょう。
 
 
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この回答へのお礼

内蔵助は雅楽助・縫殿助と同じように内蔵寮の次官を意味する六位相当の正式な官名ではないでしょうか。
毛利家の江戸留守居役だった福間彦右衛門は、彦右衛門という官名風の名前を名乗っていますが、これも正確には「彦右衛門尉」だったようで、こちらはまさに官名を真似たのだと思います。
 鶴岡酒井家は歴代「左衛門尉」を官名として名乗っていますが、右衛門府の判官には左衛門大尉と左衛門小尉があったと思うのですが、上杉弾正大弼の大弼などと違って「大・小」をとっぱらってしまったのでしょうか・・・。難しいです。

加賀八家は年寄就任で従五位下に叙任されているので、おっしゃるように前田土佐守家の土佐守は正式な守名乗りだと思います。

福原氏は毛利家の一門八家(永代家老)に名を連ねる家禄1万石以上の重臣という点では加賀八家にもそう劣らない家柄ではありますが、福原越後は「官名風」になるのでしょうね。
同じ毛利家臣でも吉川氏は江戸時代を通じて従五位下に叙任されていないまでも守名乗りは許されていたっぽいです。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/03 09:54

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Q旗本(寄合)の守名乗り

三千石以上の寄合は守名乗りすることが出来たということですが、これは寄合なら誰でも守名乗りを許されていたということでしょうか?

浅野内匠頭の弟・長広は三千石の寄合で、「大学」と称していたようですが、どうして「大学頭」と守名乗りをしてなくて官名風の「大学」なのでしょうか。

Aベストアンサー

>寄合なら誰でも守名乗りを許されていたということでしょうか?

誰でもという訳でなく、幕府(将軍家)朝廷の気分次第でした。
もちろん、官位によって守名は決まります。
室町時代中期(後期)には、「守名」は何ら意味もなく名目上の存在です。
足利幕府14代将軍の子孫(と、その配下)は、江戸時代を通じて代々「独自に官位・守名」を名乗っていましたよ。
ただ、幕府(将軍家)朝廷の気分次第とは言うものの「幕府の推薦を受け朝廷が任命する」というルールは守られていた様で、旗本は「せっせと賂(賄賂)」を行っています。

浅野長広の場合は、松の廊下事件がなければ「大学」から「大学頭」・「守名」を拝領した可能性があります。本家は「芸州の大藩・浅野家」ですからね。

余談ですが。
武蔵守・三河守は将軍家、上野守・上総守・常陸守は皇族が名乗る暗黙の了解がありました。
そこで武蔵守・三河守は永久欠番となり、上野・上総・常陸は「守」でなく次位である「介」を用いました。曰く上野介・上総介・常陸介です。

Q羽柴(筑前守)秀吉などの「〇〇守」の意味

歴史の中で出てくる名前に「〇〇守」などといったものを目にするのですが、この役職は誰から与えられたもので、その根拠は何なのでしょうか。また、その役職を与えられた者にとっての職務とは何なのでしょうか。

Aベストアンサー

 
歴史に出てくる、例えば「筑前守」などは、律令制における公家官職で、地方官の長のことです。律令制の官職では、省庁には4等官というものが置かれ、「かみ・すけ・じょう・さかん」という4官があります。大体、この名前ですが、漢字は違った字を使います。

地方官の「国」を治める官職は、国司と呼ばれますが、この場合の四等官は、「守・介・掾・目」ということになります。江戸時代には、大名や大身旗本に対し与えられる称号として、正式に朝廷が任じました。大名・旗本のなかには、例えば、江戸初期に下馬将軍と呼ばれ権勢をふるった、酒井雅楽頭という人物がいますが、この場合、雅楽寮という官庁の長官(かみ)は、「頭(かみ)」と呼びます。忠臣蔵に出てくる、浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)も、国司ではなく、内匠寮の長官で、頭(かみ)という漢字を使います。

それはとまれ、律令制において、日本全国は朝廷の領土となり、朝廷は日本全国を、「国」という単位に分け、国を統治する官職として、国司の四等官を置いたのです。この場合、「守」とか「介」は、現在の県などの行政に当たる県知事などとは違い、「行政・司法・警察」など、権力を一手に掌握した官職でした。(更に、徴税なども監督しましたから、税務署長官も兼ねています)。

平安時代では、この官職は、現実の統治権力を持っており、受領階級と呼ばれる、中級貴族が、守や介を交互に任官し、彼らは、領国で、絶大な権力を持って、大金を賄賂や様様な方法で獲得しました。(国司の三等官や四等巻の目は、普通、地元の人間を任命しました。守や介は、京に済む中級貴族が任命され、任国に普通は赴きました)。

しかし、鎌倉幕府が起こると、頼朝は、名目を設けて全国の国に守護を置き、幕府任命の守護と、朝廷任命の国司の二重統治になりますが、次第に守護が実権を握り、国司は名目的なもの、名誉職になって行きます。しかし、「称号」としては、意味を持っていたのです。室町幕府も守護制度を置き、応仁の乱の後の混乱では、守護が独立勢力となって、守護大名となります。戦国時代のはじまりになります。

国司の官職名を、有力武士や大名が勝手に名乗ったりし始めます。例えば、織田信長は、「上総守」を自称します。しかし、東国三国、つまり、上総・常陸・上野の三国は、伝統的に親王が守になることになっており、臣下は、介になるのであり、実質的に、これらの三国では、次官の介が、守の役割を果たしたのです。

臣下であって親王などでない、信長が上総守を名乗るのは、信長がよほど無知であったか、または何か意図があったのかも知れませんが、とまれ、織田上総守などと名乗れば、「馬鹿か」ということになるのが、一応、当時の教養人の常識でした。上総介も上総守も、官職として存在したのです。ただ、上総守などは、一般の人間・臣下はなれないのです。三国は、皇族の親王のための領地だったのです。

上総守は信長の自称ですが、最後には、正二位右大臣になりますが、これは、天下人となった信長が、朝廷から引き出した正式の官職です。信長はまた、自分の部下の武将にも、朝廷に意向を伝えて、様様な官職に任官させます。例えば、羽柴秀吉は、従五位の筑前守です。羽柴筑前守は、これは朝廷の与えた正式な官職です。

秀吉は信長逝去後、親しかった政治公家の京極菊亭大納言を通じて、正五位近衛少将の官職を朝廷から授かり、それに続いて、どんどん昇進し、関白太政大臣にまで昇ります。

戦国時代も末期になると、信長の例のように、朝廷の権威を利用して、官職を部下に朝廷を通じて与え、権力の正統化を行うようになります。家康の三河守や内大臣、また秀吉子飼いの武将の官職などは、すべて朝廷が授けた正式なものです。

家康は将軍となって江戸幕府を開き、源氏の氏の長者、武家の統領として、臣下に当たる大名や大身旗本に、それぞれ朝廷を通じて、官職を授け、大名も旗本も、基本的に、代代、その官職を継ぐことになります。例えば、土佐の山内家は、藩祖が対馬守で、代代、山内家の当主は、対馬守ということになります。

「守」というような官職は、一種の大名や大身旗本の「称号」となったもので、本来、律令制では、一国に、同時に複数の守などが任命されているのはおかしいのですが、山内対馬守の例のように、代代、称号を名乗る者がおり、対馬守は知りませんが、越前守とか伊豆守などは、複数の人がその称号を使っていました。

これらは、従五位(下)相当で、先に挙げた、雅楽頭や内匠頭なども、従五位(下)です。しかし、御三家と云われる、尾張、紀伊、水戸の三つの家は、当主は、尾張と紀伊が大納言、水戸が中納言で、大納言は普通、正三位、中納言は、従三位でしたから、これらは、官職だけでなく、朝廷での位も高かったのです。

江戸時代になると、武士などが、勝手に、公家官職を名乗ることは禁じられました。また、職人で、例えば、日光東照宮を建築したような、業績のある者には、官職を与えて、顕彰したというようなことがあります。
 

 
歴史に出てくる、例えば「筑前守」などは、律令制における公家官職で、地方官の長のことです。律令制の官職では、省庁には4等官というものが置かれ、「かみ・すけ・じょう・さかん」という4官があります。大体、この名前ですが、漢字は違った字を使います。

地方官の「国」を治める官職は、国司と呼ばれますが、この場合の四等官は、「守・介・掾・目」ということになります。江戸時代には、大名や大身旗本に対し与えられる称号として、正式に朝廷が任じました。大名・旗本のなかには、例えば、江戸初期...続きを読む

Q江戸時代の大名家の家名の名乗りかた

趣味で江戸時代の大名家のもろもろを調べている者ですが、困っ
ており、また不思議に思っていることがひとつあります。それは、
個々の家(家系)としての大名家を何と呼ぶか、特に、同姓の分家
や別家などをどう識別して個々の「家」を表現していたかという
ことです。
現在では、一般的には「加賀藩前田家」のような「地名や藩名+
○○家」で表現されているようですが、例えば松平家をはじめ、
本多家、酒井家などの譜代大名の場合、同姓の分家別家が多い上
に頻繁に転封もあり、同姓の他家が別の時期に同じ藩を領有する
ようなこともあり、個々の大名家の識別をする場合に、単純に
「藩名+○○家」だけでは上手くゆきません。
また、当時は「酒井雅楽頭」のような、「姓名+官名?」での表
現も広く行われ、それが半ば家名として定着しているような例も
あるにはあります。しかし、制度としては同姓での同官名は禁止
するなど、類似家名による混乱回避をしていた程度だったようで、
必ずしも「家」の「名乗り」を幕府が承認し、それを代々継承す
る制度という訳でも無かったようです。

という訳で、個々の家(家系)としての大名家を何と呼んで識別す
るかは、家の「格」が世襲であった江戸の当時こそ、大きな問題
であったはずだと私は思うのですが‥ どうもそれらしきものが
見当たりません。まさか、藩主一代ごとに格付を決めて、家格の
概念が無かったというような筈もないし‥
(ちなみに、明治以後は爵位での区別が付けられます。宗家は○
○伯爵家、分家は○○子爵家とか。本人たちがそう名乗ったかど
うかは別にして)

皆さん、どう思われますか。

趣味で江戸時代の大名家のもろもろを調べている者ですが、困っ
ており、また不思議に思っていることがひとつあります。それは、
個々の家(家系)としての大名家を何と呼ぶか、特に、同姓の分家
や別家などをどう識別して個々の「家」を表現していたかという
ことです。
現在では、一般的には「加賀藩前田家」のような「地名や藩名+
○○家」で表現されているようですが、例えば松平家をはじめ、
本多家、酒井家などの譜代大名の場合、同姓の分家別家が多い上
に頻繁に転封もあり、同姓の他家が別の時期に同...続きを読む

Aベストアンサー

 お礼わざわざすみませんでした。
 氏姓、名字(苗字)については、詳しくありませんが・・・。
 大きな流れとして、最初はいわゆる本姓(源平藤橘・・・など)だけであったものが、分家などで住所地や所領地の地名を名字として名乗るようになって、名字がどんどん増えていった。そして名字のウェイトが増し固定化するようになり、明治になって庶民も名字を持つようになって、それを姓とし本姓がどっかへ行っちゃったということだろうと思います。
 その大きな流れの中で、中世は名字がどんどん増えている時期で、江戸時代になって固定化したと考えられます。
 大名家にも同じ名字の家老家があるなど、名字は一族意識や連帯意識、名誉の象徴のようになっていった気配が感じられます。
 まあ、徳川幕府はいろいろな手を使って、諸大名を統制、懐柔していたと思います。気配りや気遣いも細やかにして。
 島津さんなど外様の大大名は徳川氏の臣下だとは思っていないでしょう。将軍家といえども、元は同格だ、たまたま運よく政権を握っているだけだ、将軍から領地を拝領したわけではないわい・・・、内心はこんな感じだっただろうと思います。
 そして実際勢力も強いですから安易に手をつけるわけにはいきません。手をつけやすい手ごろな所をコチョコチョいじくって、大名の統制に利用したんだろうと思います。
 われわれ歴史好きの者は、つい徳川300年を縦から一気通貫で見てしまいがちになりますが、当時の人はその時代を横に見るわけですから、そんなにややこしくなかったと思います(NO.1さんのご見解と同じ)。
 
 爵位については、公文書の署名ではこうやって↓キチンとやります。
 明治憲法発布の詔書の副署
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Meiji_Kenpo03.jpg
 維新の元勲がずらりですね。
 終戦の詔書の副署
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/syuusenosyou.htm
 終戦時はもう華族さんの大臣はほとんどゼロ状態ですね。

 お礼わざわざすみませんでした。
 氏姓、名字(苗字)については、詳しくありませんが・・・。
 大きな流れとして、最初はいわゆる本姓(源平藤橘・・・など)だけであったものが、分家などで住所地や所領地の地名を名字として名乗るようになって、名字がどんどん増えていった。そして名字のウェイトが増し固定化するようになり、明治になって庶民も名字を持つようになって、それを姓とし本姓がどっかへ行っちゃったということだろうと思います。
 その大きな流れの中で、中世は名字がどんどん増えている...続きを読む


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