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肉体は滅びるものであり、霊魂は不死で滅びないと云われますが、
滅びた肉体や脳で感じる地獄の苦しみや、
天国の幸せ感はどの様なものですか?
現世と同様の感覚ですか?(夢の中のような)
つまり、魂での感覚も同じだということですか?
ならば、実害はありませんね。

A 回答 (10件)

このような考えの方が仏教で修行して悟るわけですから、まったく実害はありません。

いわゆる常見というものです。
仏教では常見、魂はそのままのかたちで続いていくという考えも、断見、死んだら魂はなくなるという考えも否定しています。
これを断常の中道といいます。
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やはりいくら考えても死後は意識が無いと思います。


そもそも意識とは脳が正常に作用して初めて芽生えるものだと思いますし。

その複雑な脳がほんの少し酸欠になっても正常ではいられなくなります。
ましてその脳が無いのですよ、喜怒哀楽なんて考えるだけ無駄と思いますが。
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(繫=つな)です。

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死んだ後は次元が変わります。


その次元の支配者が今までの自分の記憶やら感覚やらを統合してくれる
存在であるとしたなら魂と意識が繫がるという現象に至ります。
もしその次元にテストがあるならばそのテストに受からなければいけません
もしそのテストが現世での所業であるならば現世において死後の次元のテストに受かる行いもしくは生き方をしていなければいけない事になります。
そのテストに失格した者は統合する権利を得られないわけだから不統合的もしくは死後の次元における自然的変化に委ねられるでしょう。
もし死後の世界の支配者がテストに「受からなかったものには○○をする」というような現象を起こしたならばその○○が死後の世界で発生する。
その死後の次元のルールに則って魂は変化するのが事実です。
それが天国なのか地獄なのかは私では判りません。
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死後の世界とは生まれる前の世界と同じです。

ですから、あなたの生まれる前を思い出してください。
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人間が誕生して今までに、生きていながら死んだ経験がある人はたった一人もいないので、実際のところは死んでみないとわからないです。




http://www.ntv.co.jp/FERC/research/index.html
【 スーザン・ブラックモア博士によると、トンネル・花畑・光は脳に溜まった炭酸ガスが生み出した幻覚であることが究めて高い。】

そして実際死んでいないから生き返って、しにかけたときに脳が見せた幻覚を語れるので、死後どこかで生活していた体験者 というわけでもない。


【しかし、いくつかの臨死体験の証言では、頭から作り上げたイメージではなく、実際に体験しているとしか思えない事例があるのも、また事実なのである。 】

だからといって、すぐ「やっぱり」と思うのは正しくない。
実際に体験したとしか思えない事例について具体的に書いていないので詳細がわかりませんが、恐らくそれもそういう記憶になるに至った原因があるはずです。



天国・地獄という概念はキリスト教が作り出したものだと思います。
悪魔もキリスト教が作り出したもの。
ユダヤ教ではサタンというものがありますが、これは悪魔という意味じゃなく、敵対者みたいな概念。

例えばイエスがサタンの誘惑にあったという記述がありますが、これは私の考えでは、入門希望者に対する審査官の試験の場面みたいなものだと思います。

問答をして、サタン役の人の論を打ち砕かないと、試験にパスできなかったのではないかと。

イエスは死後天国があると明確には言っていない。
天の国という意味は、恐らくこの入門した先の集合体のことだと思います。

仏教でも心を無にする、つまり執着を無くすことで、安楽になる みたいなことを解いていますよね。

イエスとサタンの問答も執着があるかどうか みたいな審査だったと思います。
この審査にパスできるほど悟りを開いていると、その集団に入れるわけで、さらにその集団でも天使階級の人になると、むすびとほどきの権限がある。
(キリスト教ではこのむすびとほどき という単語の概念がわからず、前者が裁き、後者が許す という風にしてしまったようですが。)

むすびとは律法に結ばれている すなわち神に結ばれている状態で、ほどきとは、神の身元から引きはなされ、他の神を拝まされていた つまり捕囚されてしまった人が、開放され神の元に帰る という意味だと思うんですね。(あくまで私の推理ですが。もちろんヘブル語を元にしてそう解釈したのわけで、そう解釈するに至った根拠はあります。)



むすびとほどきは死後行われるのではない。
死んだら死者 なにもない状態の人なので、この人たちを対象に天の国は存在しているのではない。
天の国は生きているうちに行く場所。

ということで、死んだら天の国にはいけません。
ですよね。死んだら脳が消滅しますので、脳が生み出す全てが消滅する。
思考も消滅する。だって思考も脳があるからできるのだから。


脳が消滅すると天の国というものも消滅する。
生きている人限定の天の国なわけです。


死なないと天の国にいけないかのようにイエスは語っていない。
ラザロの一件ですが、ラザロは死んだ後天の国に行ったのではない。
一度 死者として扱われ、その後天の国に行ったのだと思えます。
もちろん死者として扱われたからといって、死んだわけじゃない。
宗教上破門扱いされたんじゃないかと。
その後、復活している。
ラザロは病人のラザロの時に、破門に至るまでになったが、イエスがラザロを支援したため、復活したって話じゃないかと。

そして、金持ちと貧乏人の話のラザロも同一人物。
金持ちは、その集団に入門しようと訪れた。そこであのラザロがアブラハムの肩書きを持つ人と一緒にいるのを目的。
だが、集団に全財産を寄付するという規定は退けた。(執着を捨てれなかった。)
それで、彼はその天の国に入れなかった。
しまったと思った金持ちはラザロを家族の元に送って教えてやってくれと言った。
(生きているから行けるわけです)
すると、ラザロを送る必要は無い、既にモーセの律法と預言者が送られているから といわれたわけです。

この金持ちは結局 どうなったのでしょうね。
家に帰れない状態ということは、どういった状態なのか。
追放され家族に近づいてはならないと接近禁止命令が出されたのでしょうか。
これについてはどういう事件だったのかよくわからないです。


イスラム教にしても、集団社会でなりたっていて、仕事をもらうにも誰かの紹介が必要だそうです。
よそものは集団に入れない。
集団から追放された者にとって、紹介者なしにどの集団にも属せないとなると生き地獄ですね。
食べ物も住まいも無い。

天の国にはいろうとする挑戦者はこれくらい厳しかったようです。
集団を捨てて別の集団に入るというとき、今まで属していた集団を捨てるには、よほどの勇気がいったのではないでしょうか。

天の国を構成する集団に入ろうとする挑戦者は、サタン(審問官)の問答に打ち勝つ自信が無いのなら、挑戦をやめた方がいいと思えました。


>ならば、実害はありませんね。

いえ、実際は生きており肉体があるので、悟りを開いていないものが挑戦して退けられた場合は、かなり苦しいと思います。
だって 生きているのだから知覚する脳もあるのだから。
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1の回答者の方に賛成です。


そもそも、死後、なんてないですよ。
死んだら、そこで終わりで、“後”、を本人が意識するなんてできないし、それを証明もできないでしょう・・・?
仮に、“後”があるとしても、“後”を経験できない、現在、生きてる人が、希望的想像をることはできるでしょうけど、“後”の存在を立証することは不可能でしょう。
でも、夢をみるのは、自由ですので・・・。
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「魂での感覚も同じだということですか?」


違いますよ。肉体というのは減速機だと思えばいいんです。肉体に縛られた魂は、本来の10分の1ぐらいの感覚なんですね。だから肉体がなくなった魂は逆に10倍感度がよくなるのです。幸福感も10倍になり逆に不幸感も10倍になるのですね。それゆえ天国と地獄は月とすっぽんぐらいの落差があるのです。この10倍の幸福感を生きながら得ることを、うよ涅槃というのです。肉体の依存性をいきながら脱して魂で天国の幸福感を実感するということですね。生きながら肉体から脱却することを解脱というのですね。この状態の幸福感がいかにすばらしいものかを釈尊は教えたかったんですね。それが本当の仏の教えなんですね。心を統御し解脱をめざせばその結果としての涅槃があるということですね。
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宗教ごとの考え方はさまざまでしょうから、ここではオカルト的なもの、または科学的なものとしてのイチ意見として述べます。



人間が苦痛を感じるのは脳の神経伝達ですが、この痛み(刺激)を受けて、感じる部分(受容体)まではわかるものの、最終的に「痛い」と思った人(脳・身体の中のどこか)はなんなのかは現代の科学では解明されていません。
脳科学社の方たちなどが、日々「私(自我・自意識・我・個)」とはなんなのかを研究していますが、その信号を受け取った「モノ」がどこにあって、なぜ感じ取り、これを自我に対して表現できるのかはまったくわかっていません。

また、苦しみ、というのは、実際に「苦しい物質・痛い物質」があって、これが「痛いという波動・痛いという物理現象」を発生させているわけではないのです。
つまり、「水という物質」が世の中に存在するようには、「痛い」という物質は存在していません。「痛い」を植物や、鉱物に与えることはできないのです。

したがって、「痛い」という「感じ方」は、脳の中でしか起こりません。「痛い」は脳が作り出した「感覚」であって、脳でしか存在できないのです。
これはつまり、「脳」で感じたことを受け取る「部分」が、「痛い」という「感覚」を受け取って、初めて「痛い」と感じるのです。
この「部分」が、魂と一般に思われているモノであって、この魂だけが、死者の世界に行くと、多くの宗教を信じる人には思われているようです。

魂が、「痛み」の「感覚」を受け取ることができるのですから、あとは「痛み」の感覚を伝えてくれるだけでよいのですから、死者の世界が、直接魂に対して「痛い」という「感覚」を与えることができるのであれば、これは肉体や神経組織、脳が存在しなくても、「痛い」と感じることはできるでしょう。
夢というのは脳の中で光情報(映像)が再構成されているだけであって、この場合、「痛み」や「苦しみ」が精度高く再現されているとは考えられません。

一般に言われる魂と死者の世界の関係は、脳の感じるシステムから考えると、このように、人類が解明できていない部分を多く含みます。

この回答への補足

ご丁寧な説明をありがとうございます。
つまり、「痛み」や「苦しみ」は脳と魂で感じ取ることが出来るということですね。
然し死後、苦しみや幸せを感じ取るメカニズムの脳の方は
燃やされて消滅してしまいますので、魂だけでしか感じ取ることが
出来なくなりますが・・・、例えば、現世では
愛おしい子供でも目の中に入れると、とても痛いものですが、
燃えてしまった後は実害がないわけですので、あの世では
痛くないのかも知れませんね。
命も金も肉体も、失うものが無くなれば恐いものも無くなるのでは
ありませんか?
それでも困るのであれば、馬鹿(無心)になるというのは如何ですか?

補足日時:2007/04/05 10:41
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私は死んだらすべて無だと思います


霊も無いし霊魂もありません
精神とは単なる電気信号
肉体が死ねば電気も止まる
魂での感覚って何でしょう?
そんな物はありませんね
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