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 おはようございます 皆様の子どもの頃の思い出はなんですか?

 音楽を通しての思い出が沢山残っています。
  童謡「ウサギ追いしかの山、子ぶな釣りしかの川」
  歌謡曲「赤いスイトピー」

 遊んだ自然、海、川や山 どんなのが、思い出に有りますか。
鮭が上ってくる川、波が立つように魚が泳ぐ海、滑り台のような山

 昔はこんなことがあったを教えてください。お願いします

A 回答 (6件)

 こんにちは。


 今年、二十歳になったばかりで今も子供の延長線に佇んでいます(笑

 私の子供の頃は……て、言っても10年弱くらい前の話ですけど;
 私は桜が咲くといつも思い出します。おそらく私の20年の人生の中で一番の幸せを感じていた頃だと思います。
 毎年、友達や好きな人を誘ってお花見に行ってしました。
 落ちてくる花びらを地面につく前に捕まえると願いが叶うって言うジンクスを信じて躍起になって花びらを捕まえて『○○くんのお嫁さんになれますように』なぁんて事をお願いしていたのを思い出します(笑

 何にも無い田舎だったので自然は大切な遊び場でしたが、遊び場にしていた空き地は一年毎にどんどん家が建ち、大きな自然公園は不良が溜まるようになって遊べなくなっていきました。今では遊具の木材が腐りだしているようで、あまり安全ではないみたいです。
 ちょっと寂しいですね。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。遊具の有る所は少なくなりました。
子どもたちが遊具で元気で遊んでいる姿はこちらも元気がもらえます。
桜は今真っ盛りですね。あと一ヶ月位でしょうか。

お礼日時:2007/04/10 19:46

●子供の頃の思い出



私は大陸の生まれで今年66才になります。 育ったのは熱河省豊寧県といって、現在中国内モンゴル省にあるところです。 ものすごい寒いところでお風呂の帰りに手ぬぐいを振り回していると、凍ってしまってつららになったと聞いています。 戦争の終わりごろは、空襲警報のサイレンが鳴り渡り、急いで防空壕に逃げ込む毎日でした。 

戦争が終ると急に明るくなった印象があります。 近くに進駐軍がやって来ました。 大人は恐がって逃げてばかり。 しかし、私たち子供は進駐軍の兵士とすぐに友達になり、野球を教えて貰いました。 時代が変わる時には、やはり子供が一番恩恵を受けるものです。 

戦後の日本を造ったのは私たち戦後の学校教育を受けた者です。 私たちは語学にも長けており、国際社会に積極的に出て行きました。 これは子供の時、進駐軍と仲良くなったのが大きな経験となっています。 小学生にとっては進駐軍は格好の勉強材料でした。 

どこへ行っても『ヘイ、ボーイ』といって可愛がってくれました。 大人たちが恐がっていたので、私たちが日本を代表して進駐軍と接していたように思います。 その後、長じて日本を代表してODAのコンサルタントとして世界中を回りました。 全ては小学生の時の進駐軍が基本になっています。 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
>ODAのコンサルタントですか、日本の戦後の国際貢献の仕事ですね
子どもの頃の体験は大切ですね。

お礼日時:2007/04/09 09:05

田舎に住む中年の男です。


子供の頃の思い出は、「遊び」と「食べ物」と「新潟地震」でしょうか。
「新潟地震」の時は6歳でした。
6月15日昼頃、近所の女の子と川の側で遊んでいた所、今まで上流から下流へ流れていた川の水が、突然横に大揺れし、「チャポンチャポン」と川からあふれて田んぼも道も水浸しになりました。怖いというより不思議でした。
震源地から100キロも離れていたのに、あれは凄かったですね。
「遊び」
釣りはもとより、「ヤス」でカジカや魚突きは夏の行事のようなものでした。「ヤツメウナギ」もまだ捕れました。信じられないかも知れませんが、小学校にまだプールが無くて、親たちが川を堰き止め、そこで泳ぐのも夏休みの日課でした。
遊びつかれて昼寝していると、開け放たれた家の中を「オニヤンマ」がすいすい通り過ぎてゆく。目覚めた時、はたして夕方なのか朝方なのか分からなくなるあの錯覚は、今思い出しても不思議な感じでしたね。
山に行けば、木に巻きついた太い蔓をナタで切り、ターザンローブのようにして空中を舞ったり、繋げてブランコにしたり。
「蓬の木(字が違うかもしれませんが)」を逆に取り付け「風車」のようにして坂を走って下ったり、笹竹を切り、凄く小さな「水鉄砲(実際は空気銃かな)」のようなものを造り(こちらではコメコメ鉄砲と言っていました)玉は、現在、花粉被害の悪役の杉の種子で、それを詰めて相手に打つ。顔にピチッと当たると結構痛たかったですよ。
「食べ物」
特に印象的なのは「桑の実」ですね。畑に植えた養蚕用の低木でなく、野生化された大木の「桑の実」は倍近く大きく甘く食べ応え十分。
友達と2人木に登ってむさぼっていた所、友達がランニングシャツの中に「桑の実」が落ちたと言って、笑いながら手でシャツに擦り付け、シャツは見る見る紫色になりました。私もシャツの中に落ちたので、親に怒られるのを覚悟で擦り付けたら、何か得体の知れない皮膚の感覚?
見ると黄緑色にシャツが染まり、その後刺すような痛みと痒み。
「大きな毛虫」を皮膚に擦り付けてしまいました。
塗り広げた範囲だけ皮膚が盛り上がり、家に帰り祖母に塩を塗りこまれました。でもその後医者に行った記憶がありません。けれど今でも酷く強烈な思い出ですねこれは。
別に食糧難では無かったのですが、食べれる物は何でも食べましたね。
こちらで「コクワ」と言う、キウイフルーツの原種に当たる果実や、「すいば」と全国的に言われている、こちらで言う「スッカシ」と「スカンポ」という酸っぱい草。果てはススキの中の黄色い中身。
当時はただ単に腹が減っていたのでしょう。おやつはそこらで調達し夕方まで遊ぶ。そんなことの繰り返しでした。
でもその後「プラモデルブーム」がこんな田舎でも押し寄せました。
昭和40年代まで連綿と繋がっていた遊びの記憶は、今思えば多分私達の年代が断ち切ってしまったと感じます。
私達の年代が、間違いなくその原罪でしょう。
遊びを語り継がず、設計図を欲しがってしまいました。
今振り返れば、過去の記憶も、もう怪しいもので、思い出はあっても、そのおもちゃを作り出す技量も、食べられるものを探し出す技量も持ち合わせていないかも知れません。自信が揺らぎます。
でも今後語り継ぐ為に、頑張りたいと思います。
長文、お許し下さい。
ご質問の趣旨とかけ離れてしまいスミマセンでした。
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この回答へのお礼

まるで木下恵介監督の映画の世界ですね。少年時代に覚えたこと
体験は忘れたこともありますが、一生忘れないことも身に付いていますね。回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/09 09:15

世界一大好きなおじいちゃんが、1キロくらい先の公園へ、弟とふたりを自転車に乗せて、自分は、自転車を押しながら、連れて行ってくれました。


池のある公園では、ざりがにが釣れました。
東京タワーと同い年です。
町は、急速に変わっていきました。
最も、急に変わるところに立ち会ったと思います。
40年前は、東京に牛もいれば、空き地や、森もたくさんありました。
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この回答へのお礼

>東京タワーと同い年です。東京タワーが出来て親戚の人の案内役でした。その後送信所へ仕事で行きました。回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/04/08 14:38

生まれつき体が弱く医者の勧めで朝から日の暮れるまで海に出されていました。


 お陰で今日まで生きながらえています。
潮かあれば釣りをし、無ければ磯を漁り小魚を取る日々を過ごしていました。
 ある時、大きな「鯊(25cm?)」を一日がかりで一匹釣り持ち帰ると母が煮付けてくれ、その味は今でも忘れません。

 現在も「鯊」とたわむるのが楽しみの一つです。

あの海も埋め立てが進み昔の面影が無くなっている様で寂しいことです。
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この回答へのお礼

 鯊・・・難しい漢字なのですね。季語にもなっている。25cmも!
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/08 09:12

nature345さまの質問を拝見して子供の頃


祖母によく畑へ連れて行ってもらったのを思い出しました。
土を掘って水を溜めてそこに蛙を泳がせたり、
祖父が田んぼや川でタニシやフナを捕まえてきてくれて
バケツの中で飼ったり。
友達と蓮華畑の中でお姫様ごっこをしたり・・。
今となってはいい思い出です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>友達と蓮華畑の中でお姫様ごっこをしたり・・。
蓮華畑は水の張ってないところがあるのですね!!
蛙は良い遊び相手でしたね。

お礼日時:2007/04/08 08:36

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