最近映画や小説で陰陽師がよく取り上げられてますが、舞台は平安京ばかりです。違う時代では何かエピソードなどあるのですか?。たとえば戦国時代とか江戸時代とか。

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A 回答 (5件)

陰陽道と密教は別物で前者は道教系、後者は真言宗系です。

ただ、両方とも宮中に取り入れられてたことからお互いに交流はあったようですが。

なお陰陽師=平安ではなく、安部晴明=平安でしょう。
これは今ブームの仕掛けになったのが、夢枕獏・岡野玲子の「陰陽師」で安部晴明を主人公にしているからでしょうが。それ以外の陰陽師といえば、余り表には出ていないようです。しかしながら徳川家康や伊達政宗などなど、戦国大名にはなぞの僧侶が何人かは仕えていたりしますから、その人が陰陽道あるいは密教の流れのある人ではある可能性もあるでしょう。

「陰陽師」もあくまでもフィクションですから、上であげた人も実は陰陽師で裏で実は暗躍してたなんてマンガなり小説が売れれば、またその手のモノも増えるのではないでしょうか。
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実が無いので虚での活躍が期待できる。


陰陽師の活躍はフィクションですね。実際は只の占い師。
陰陽師自体が「虚」を扱う存在だけにフィクションでの活躍は面白いですが、「ありそうなエピソード」は、仏教勢力の興隆によって、高僧、修行僧、聖、修験者等に取り込まれていますね。空海などの僧侶、円行者など道教的修験者の足跡が全国に至るのに対し、陰陽師の足跡は限られている(と思う)。
名も無い行者、修験者、聖等の功績が大きいでしょう。
陰陽道にはそれが無かったのでは?
朝廷(中央)との結びつきが強すぎたのが原因かと思います。

エピソードを探すのは大変だと思いますよ。
むしろ、今から「創作されるもの」の方が多くて面白いかもしれません。
そっちの方が「陰陽道」らしいと感じる所もありますね。

さらに付け加えますと、陰陽道は、天文道や暦道と同じで、あくまでも吉凶を占うものだったと思うのです。
実際に物の怪を退散させるのは仏教ですし、物理的に決着をつけるのは武士です。
病を治すのは医師ですね。
陰陽道は虚でありすぎるのです。
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中世以降、仏教は加持祈祷の密教が繁栄したに比べ陰陽道は賀茂家と安倍家の世襲により、人材の流入が制限され、賀茂家は後継者が殺され、断絶、安倍家も土御門と改称するも没落、その後、家康の保護を受けて神道の一宗派として再興されましたが、政治上の影響はなかったようです。

江戸時代は隆光のような密教僧が有名です。
(参考) 
http://www.city.yokohama.jp/yhspot/ysc/izumo/onm …
http://homepage1.nifty.com/haruakira/onmyoudou/f …

参考URL:http://homepage1.nifty.com/haruakira/onmyoudou/f …
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えっ!?地元〔大阪府四條畷市〕の話なのですが


「南北朝時代に南朝は熊野・吉野・高野の密教3大聖地?
みたいなところの真ん中に陣地を築いて、拝んで
北朝と戦った」って聞きました。

これは違うのですかね?
なんとなく関係あるように思うのですが・・・

僕自身あんまり詳しくなく
修験道?山伏?とかと密教3大聖地?の関係とかを知りたいですね。
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見方は異なりますが、



荻野真の孔雀王って陰陽師でなかったけ?裏高野ではあるんだけどね。
あと、帝都大戦とかもそうだったような。

SFものにはよく出てくるよね
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Q【歴史・戦国時代の日本人口の矛盾】戦国時代の歴史教科書の総人口がおかしいことに気付いた。 戦国時代の

【歴史・戦国時代の日本人口の矛盾】戦国時代の歴史教科書の総人口がおかしいことに気付いた。

戦国時代の日本人口は1000万人くらい。

少なく見積もっても800万人。

で、大名に万石という土地を分け与えて国を管理していた。

そのときに3番目に多くの土地を貰っていたのは九州の大名で86万石。

天皇の朝廷
その時の天下人
でこの3番目の九州の大名

3番目の九州の大名で86万石。

日本で3番目に多くの領地を貰っている大名で最大で86万人しか食べられない。

ということは最低でも800万人国民いたとしたら、大名の数が当時の数と合わない。

本当はもっと総人口は少なかったのでは?

天下人と天皇の朝廷は大名に年貢を納めさせたので大名の万石から譲り受けたわけだからノーカウントとして、残り714万石。

あとの大名は10万石とかですよね。

当時の大名ってそんな数いませんよね?

おかしくないですか?

Aベストアンサー

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Q戦国時代・江戸時代の世渡り上手

織田、豊臣、徳川は天下人と言われますが

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Aベストアンサー

>この三家の下に付き続けた世渡り上手な武将、大名っているのでしょうか?


江戸時代まで生き抜いて大名家として存続したような家はたいてい三家の下に付き続けた世渡り上手な大名です。

代表的なところだと藤堂高虎とか山内一豊・前田利家の前田家・蜂須賀小六の蜂須賀家なんかですかね変わった所だと豊臣秀吉の義理の弟の浅野長政(個人的に家康ともとても仲がよく亡くなった後に家康が落ち込むほどだったらしいです)の浅野家なんかも世渡り上手な大名ですかね

その逆で

>三家と敵対し続けた気骨のある武将、大名

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普通天下人に敵対し続けて生き残るのは難しいですから

Q戦国時代おさげ、江戸時代日本髪

なぜ戦国時代の女性は髪形がおさげで江戸時代の女性は日本髪なのですか?

Aベストアンサー

NO1.です。

追伸: 

江戸時代女性の髪形を大きく変えるきっかけとなったのは、
慶応8年(1603)に出雲阿国(いずものおくに)が京都の四条河原で、杭を数本地面に討ちつけ、筵(むしろ)をかけただけの粗末な小屋で、阿国が茶屋へ通う伊達男に扮し、夫の(夫ではない、という説もある)名古屋山三郎(なごや さんざぶろう)が茶屋の女将に扮しての踊りを交えた寸劇を披露しました。
この男女の入れ替わり、つまり、「性倒錯」が有名になり、連日「大入り満員」だったとか。
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>>なぜ戦国時代の女性は髪形がおさげで江戸時代の女性は日本髪なのですか?

戦国時代は、戦に明け暮れており、ファッションの流行はなく、ただ単に髪を伸ばしていましたが、江戸時代に入ると「安定した生活」ができるようになり、また、金銭の流通も盛んになり、ファッションにも「余裕」ができて、色々な髪型が流行しました。

NO1.です。

追伸: 

江戸時代女性の髪形を大きく変えるきっかけとなったのは、
慶応8年(1603)に出雲阿国(いずものおくに)が京都の四条河原で、杭を数本地面に討ちつけ、筵(むしろ)をかけただけの粗末な小屋で、阿国が茶屋へ通う伊達男に扮し、夫の(夫ではない、という説もある)名古屋山三郎(なごや さんざぶろう)が茶屋の女将に扮しての踊りを交えた寸劇を披露しました。
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Q戦国時代から江戸時代初期。参内に牛車を使いましたか

慶長8年、家康に将軍宣下があり、このとき牛車の使用を許可しています。
そこで疑問があるのですが、この当時、牛車の使用を許可された公家や武家は、実際に牛車に乗って参内したのでしょうか。
普段は使用しなくても、特別な儀式に参列する場合には牛車に乗ったのでしょうか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは ひさかたぶりで回答させていただきます。
『徳川実紀 東照宮御実紀』の慶長八年三月廿五日の条(2月21日が将軍宣下)に、次のような記述があります。
将軍宣下御拝賀として御参内あり。一番雑色十二人。-中略-七番御車。(糸毛なり。)牛二疋。牛飼二人。舎人八人。白丁二人。榻(*しじ)持一人。御階持一人。-中略-九番米澤中納言景勝卿。毛利宰相秀元卿。越前宰相秀康卿。豊前宰相忠興卿。若狭宰相高次。播磨少将輝政。安芸少将正則。此輩各塗輿にのり。舁夫八人。-以下略-
ここで、「御車。(糸毛なり。)」とあるので、家康が牛車を用いたことが分かります。また、「榻(*しじ)」は、牛車から牛を外した時に、牛車の轅(ながえ-牛に牛車を結ぶ部分)の軛(くびき)を支え、なおかつ牛車に乗る人物が、乗り降りする時の踏み台とする物で、この榻を持ち歩く者がいることからも、牛車の使用がわかります。ただし、この時代には牛車が大きく、高くなり、榻では乗り降りに高さが足りなくなり、五段の階段の「桟(はし)」を使用するようになります。これが、「御階持一人」の「御階」のことになります。また、扈従する者の内、高位者は、塗輿を用いています。
ところで、牛車の使用の許可の宣旨についてですが、正確には牛車に乗ったまま大内裏の外郭門を通過して、内裏の外郭門(内裏外郭の春華門・建春門・朔平門まで入れるとされますが、建礼門説もあります)まで牛車で乗り入れることを許す宣旨のことです。牛車の宣旨が無い(一般の公家・親王等)場合には、大内裏の外郭門で牛車を降り、徒歩で各目的地に歩いて向かうことになります。
牛車の使用の制限はないようです。特に八葉の牛車は、地下でも使用ができました。ただ、牛車の種類と乗車する者の身分により、使用制限はありましたし、車の装飾等が華美になりやすいために、制限が加えられることもありました(以上は、平安時代の中期・後期)。さらに、鎌倉時代になると貴族社会全体に活力が無くなり、牛車の使用が激減し、特別の行事に、摂関・大臣クラスが用いる特別な乗り物になります。南北朝・室町期の動乱を経過して、牛車が失われたり、牛車(牛飼童などを含め)の維持・管理ができなくなった公家も多く、摂関家・清華家クラスの公家でも牛車は使用されなくなってきて、腰輿(たごし)を使用するようになっています(牛車が廃絶したわけではありません)。武家の将軍は特別の行事の場合、牛車を用いています。
秀吉以降、特に天下人(秀吉・家康・秀忠・家光)の場合、将軍に任官し、牛車宣旨を賜った場合、家康の例のように拝賀参内等に牛車を使用しています。秀吉の場合は、後陽成天皇の聚楽第に供奉する場面でも牛車を使用しています。このような牛車の使用は、天下人・将軍の権威を見せるだけでなく、一大デモンステーションで、特に家康の場合、対豊臣の面でも、牛車を使用した拝賀参内の行列をすることで、新たな天下人の誕生を宣伝する意味も強かったものと思います。特に、扈従の大名が、関ヶ原の役の対抗勢力の中心であった上杉・毛利に、豊臣恩顧の主要大名ですから、その意図は明らかであると思います。
なお、石村貞吉著の『有職故実』に、次のような記述があります。
『宣胤卿記』、長享三年(1489)正月十日の条には、「今日室町殿(*足利義尚)、諸家参賀の式日なり。殿下(*関白一条冬良)より、今日御参賀の御乗用として、予の輿借り召さるるの間、皆具し進じ了ぬ。乱(*応仁の乱)よりこのかた摂家清華、皆以て板輿に乗り車の沙汰に及ばず。輿所持の方すら尚以て稀なり。末代の作法悲しむべし云々」とあるのでも、その衰廃の様が推測される。爾後、豊臣秀吉、德川家康、秀忠、家光などが参内の際に乗用したことがあったが、その後には、将軍参内のことさえなくなって、牛車の制は、全く廃絶してしまった。(*幕末、家茂の参内に用いられたとされます)

以上、長くなりましたが、参考まで。

こんにちは ひさかたぶりで回答させていただきます。
『徳川実紀 東照宮御実紀』の慶長八年三月廿五日の条(2月21日が将軍宣下)に、次のような記述があります。
将軍宣下御拝賀として御参内あり。一番雑色十二人。-中略-七番御車。(糸毛なり。)牛二疋。牛飼二人。舎人八人。白丁二人。榻(*しじ)持一人。御階持一人。-中略-九番米澤中納言景勝卿。毛利宰相秀元卿。越前宰相秀康卿。豊前宰相忠興卿。若狭宰相高次。播磨少将輝政。安芸少将正則。此輩各塗輿にのり。舁夫八人。-以下略-
ここで、「御...続きを読む


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