お世話になります。高校3年になり志望大学を決めなければなりません。N○Kの番組「お江戸でござる」に出てくるような、江戸文化、風俗等を深く研究してみたいと考えています。ひなこ先生は他界されてしまわれましたが、ひなこ先生のような教授のもとで勉強ができればと考えています。送られてくる大学の雑誌等で探しましたが、そこまで詳しく載っているものがなく、困り果てています。勉強したいことは決まっているのに、何処へ行けばよいのか調べられず、あせりもあり、悶々とした日々を送っています。現役の大学在学生の方あるいはOBの方、どなたでもかまいませんのでお力をお貸しください。大学名と学部等詳しく教えていたでると助かります。日本であれば全国どこへでも行く覚悟です。宜しくお願い致します。

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経済小説」に関するQ&A: 経済小説

A 回答 (2件)

法政の田中優子氏、ってのが最初に思いついたけど。


http://lian.webup.co.jp/twin/
見てみたら。

佐藤雅美の小説も読んでみるといいよ。経済学の観点からの江戸時代へのアプローチは結構、トレンドのように思う。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。本当に助かります。
詳しく調べさせていただきます。

お礼日時:2007/04/10 15:43

故・杉浦日向子氏ですが、ただの元漫画家であって学者でも何でもありません。


國學院大學の二木先生が戦国時代の風俗考証をやっています。大河ドラマはほとんどこの人です。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B5%A6% …
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。本当に助かります。
詳しく調べさせていただきます

お礼日時:2007/04/10 20:54

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Q大学受験の偏差値を高校受験の偏差値に変換するとどのようになりますか?

大学は、高等学校に比べ比較的頭の良い人たちが受験するため、偏差値は全体的に底上げされています。
日本の大学で最も偏差値の高い大学(学科別)は「東京大学・理科III類」で、偏差値は81だそうです。
僕の志望する高校の偏差値は66と低いので驚いてしまいました。

大学の偏差値を高等学校の偏差値に変換するとどれぐらいの数値になるのでしょうか。
参考までに、大学の偏差値でいう50、60、70、80は高校の偏差値でいういくらぐらいなのでしょうか。

Aベストアンサー

この手の話題では詳しい方がたくさんいらっしゃいますので
私のは、あくまで一般論として参考にして頂けたら光栄です。

その高校で、のらりくらりしていると
高校偏差値-(5~10)の大学が志望校になりやすいと言われています。

66ということで、学校の試験前適度に勉強していれば
関東圏ならばMARCHレベル、赤点組みは日東駒専レベルでしょう。

その高校のトップの生徒は
東大などの難関国公立を狙えるレベルだと推測されます。
現役MARCH蹴り、浪人して早慶という人が多そうなイメージです。


偏差値は目安なのでそこまで気にする必要はありません。
大学入試は偏差値ではなく、点数で合否が決まりますので。

進学校なのでこれから模試を何度も、受けられると思います。
その結果で高校偏差値を下回ってしまったら、勉強が足りないと
自覚し勉強に励むと良い刺激になると思われます。

Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越し...続きを読む

Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。

Q大学の偏差値って・・・

付属高校の進学コースに入る者です。
それで将来は上の大学に進みたいと思うのですが、色々そのことで調べてみて偏差値についての疑問があるので質問させていただきました。
僕が入るこの高校は偏差値55より上です。
このコースは同じ学校の大学の合格を目指して勉強していくコースです。
で、その大学について調べたら、偏差値が、大体45ぐらいなんです。一番偏差値が高い学部でも約50ぐらいです。
高校に入るには偏差値55以上の学力が必要なのに、大学に入るには一番偏差値が高い学部でも50ぐらいの学力があれば入れるということですか?
それとも、高校の偏差値の50と大学の偏差値の50は同じ50でもぜんぜん違うということですか?
そうだとしたら、大学でいう45から50ぐらいの偏差値って高校で言うどのぐらいの偏差値にあたるんですか?
高校と大学の偏差値の基準(違い)を教えてください。
上の文章でよくわからなかったら指摘していただけたらと思います。
回答お願いします。

Aベストアンサー

こんばんは。

ざっくり言って、大学入試の偏差値は、高校入試の偏差値から10を引き算したぐらいの数になります。
つまり、高校入試の偏差値55は、大学入試の偏差値で言えば45ぐらいに換算できる、というようなイメージです。


>>>大学でいう45から50ぐらいの偏差値って高校で言うどのぐらいの偏差値にあたるんですか?

55~60ということです。


理由は、
高校入試の偏差値というのは、義務教育を受けている中学3年全員について統計した結果にほぼ等しく、
大学入試の偏差値というのは、大学受験しようとする層だけを集めた偏差値であるからです。

仮に、高校入試で55の実力だとして、「これから3年間、すべての生徒が同じように勉強を頑張る」という仮定をすると、
3年後の大学受験時の偏差値は45ぐらいです。
ですから、ほかの人を追い越すためには、ほかの人の勉強量や質を上回る猛勉強が必要になります。

もっとも、
現時点で重要なデータは、高校の偏差値(55)ではなく、質問者さん自身の偏差値です。
その偏差値から10を引けば、(これから3年間の勉強量と質が、ほかの人と同じであるとして)大学受験時の偏差値になります。


ちなみに、
知人で、偏差値50ぐらいの高校から早稲田大学に合格した人がいます。
私の知っている範囲では、ほかに同様のケースを知らないので、まれなケースですけど、
頑張り次第で難関に合格するのは、必ずしも不可能ではないということでしょうね。

こんばんは。

ざっくり言って、大学入試の偏差値は、高校入試の偏差値から10を引き算したぐらいの数になります。
つまり、高校入試の偏差値55は、大学入試の偏差値で言えば45ぐらいに換算できる、というようなイメージです。


>>>大学でいう45から50ぐらいの偏差値って高校で言うどのぐらいの偏差値にあたるんですか?

55~60ということです。


理由は、
高校入試の偏差値というのは、義務教育を受けている中学3年全員について統計した結果にほぼ等しく、
大学入試の偏差値という...続きを読む

Q江戸時代に出てくる「溜詰」の意味を教えてください!!

井伊直弼が溜詰としての間の登城などを勤めるようになり…

と文章がありましたが、調べてみてもいまいち溜詰の意味、そしてこの役職?のある意味がわかりません。

それとどのような時に登城するのでしょうか・・・・

知識なくてすみません。どなたかお助けくださいませ。。。

Aベストアンサー

伺候席(しこうせき)とは、江戸城に登城した大名、旗本が将軍に拝謁する順番を待っていた控席のこと。殿席とも。伺候席は拝謁者の家格、官位、役職等により分けられており、大名家にとってその格式を表すものとして重視されていた。

大名が詰める席には大廊下、大広間、『溜間』、帝鑑間、柳間、雁間、菊間広縁の七つがあり、それぞれに詰める大名は出自や官位を元に幕府により定められていた。ただし、役職に就任した場合は、その役職に対して定められた席(奏者番ならば芙蓉間、大番頭なら菊間等)に詰めた。大広間席、帝鑑間席、柳間席の大名は「表大名」といわれ、五節句や月次のみ登城した。

『溜間』
別名黒書院溜之間(くろしょいんたまりのま)。黒書院溜之間の通称を松溜(まつだまり)といい、これに詰める者を溜詰(たまりづめ)という。代々溜間に詰める大名家を定溜・常溜(じょうだまり)または、代々溜(だいだいたまり)といい、会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家をいう。なお、一代に限り溜間に詰める大名家を飛溜(とびだまり)といい、伊予松山藩松平家、姫路藩酒井家、忍藩松平家などがある。また老中に永年在職し退任した大名が、前官礼遇の形で帝鑑間および雁間より一代限りで溜間詰格という形で末席に詰めることもあった。

初期の段階では定数は4~5名であり、重要事については幕閣の諮問を受けることとなっており、また儀式の際には老中よりも上席に座ることになっていたなど、非常に格式が高いものとされていた。江戸中期以降、飛溜の大名らも代々詰めるようになった。また、桑名藩松平家、岡崎藩本多家、庄内藩酒井家、越後高田藩榊原家の当主もほぼ代々詰めるようになり、結果として幕末には員数が15名近くになり、その希少性もあわせて、初期の趣旨は甚だ形骸化した。

井伊家は関ヶ原の役の功績より元々「溜(間)詰」の資格が与えられておりました。

以上、引用元は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BA%E5%80%99%E5%B8%AD

伺候席(しこうせき)とは、江戸城に登城した大名、旗本が将軍に拝謁する順番を待っていた控席のこと。殿席とも。伺候席は拝謁者の家格、官位、役職等により分けられており、大名家にとってその格式を表すものとして重視されていた。

大名が詰める席には大廊下、大広間、『溜間』、帝鑑間、柳間、雁間、菊間広縁の七つがあり、それぞれに詰める大名は出自や官位を元に幕府により定められていた。ただし、役職に就任した場合は、その役職に対して定められた席(奏者番ならば芙蓉間、大番頭なら菊間等)に詰めた...続きを読む

Q大学の偏差値の算出方法について

タイトル通りですが、大学の偏差値はどのようにして計算されているのでしょうか?

恐らく、大手予備校の模試の結果から算出していると思うのですが、その模試の結果から"各大学の偏差値"をどうやって求めているのかがわかりません。

模試の結果の、平均点と個々人の得点および対象者の総数などから、"個々人の学力偏差値"が計算できることはわかります。

そこからどのようにして、"各大学の偏差値"を出しているのでしょうか?

もしかして、個々人の学力偏差値とその人の第一志望校から、大学の偏差値を計算しているのでしょうか?要するに、例えば、「模試の時にA大学を第一志望に書いたヒトの学力偏差値が70であった場合、A大学の偏差値は70になり、B大学を第一志望に書いたヒトの学力偏差値が40であった場合、B大学の偏差値は40になる」ということでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ご存知のとおり、ひとつの試験をうけた集団における各得点を平均と分散(標準偏差)
で正規化したものが偏差値であり、数学的には「試験が違えば」「母集団が違えば」
云々といった意見も考えられますが、現実の受験業界を考えたとき、生徒の学力を
ほぼ忠実に数値化する試験問題を作成することができる現実、一定の予備校の一定の試験
を受ける集団には成績面でのかなり強い継続性が見られる現実などから、
偏差値は「社会学的に」有効な判断指標として考えられています。

さて、受験業界で語られている偏差値には予想偏差値と結果偏差値があります。
結果偏差値は、模試を受けた生徒に大学受験結果をアンケートして
「どの模試でどのくらいの偏差値であった生徒がどのくらいの大学に合格している」かを統計的
に処理し、(一定の職人的調整も入るようですが)、80%合格値(その偏差値だった生徒の8割
が合格した)、60%合格値などを求めるものです。
意図的に誤った結果をアンケート結果として報告する生徒なども一部いるようですが、
大多数の生徒が正確な結果を回答していると見られ信頼できるものとなっています。


予想偏差値は、その模試を受けた生徒たちの希望(第1、第2、etc)をもとに、
その大学の定員やその試験の受験者のゾーン、その他もろもろの情報
(試験日はじめ、校舎移転計画、OB動向、教授陣の異動etc)を総合的に
判断し数値化するものです。
例えば、ある中堅大学を、成績上位の生徒が皆で第1希望としたら
その試験結果から算出されるその大学の予想偏差値は上昇します。
逆に模試を受けただれもが希望していない大学の偏差値は下降します。
その予想偏差値の作成には、各予備校の英知が結集しており単純に、
これとこれを掛けてこれを足したら出来上がりっ、なんてものではありません。
まさに職人芸的な算出をしています。

このように、数学の統計分野で語られる狭い意味の「偏差値」とは別に、
社会的に意味を与えられ有効に活用されている「偏差値」が存在します。

ご存知のとおり、ひとつの試験をうけた集団における各得点を平均と分散(標準偏差)
で正規化したものが偏差値であり、数学的には「試験が違えば」「母集団が違えば」
云々といった意見も考えられますが、現実の受験業界を考えたとき、生徒の学力を
ほぼ忠実に数値化する試験問題を作成することができる現実、一定の予備校の一定の試験
を受ける集団には成績面でのかなり強い継続性が見られる現実などから、
偏差値は「社会学的に」有効な判断指標として考えられています。

さて、受験業界で語られている偏差値に...続きを読む

Q江戸時代の「江戸」以外

最近では江戸時代について書かれた本が多数出ていますが、
大多数が「文化が熟した頃の江戸」の話で、他所の話はあまり書かれていません。
そして内容も「江戸礼賛」のようなかんじのものがほとんどです。
もちろんそれはそれで構わないのですが。
例えばイザベラバードの旅行記には、明治に入ってもなお東京を離れたら、
不潔、不衛生のオンパレードのような様子が醒めた視点で書かれています。
江戸時代の地方に関して、できれば江戸と対比するようなかんじで、
詳しく解説された本がありましたら教えてください。

Aベストアンサー

江戸時代の人自身が表した書物で、現在でも入手しやすく有名なものとしては、雪国新潟の暮らしを描いた鈴木牧之の『北越雪譜』、東北・北海道(蝦夷地)に住む人々の暮らしを描いた菅江真澄の『菅江真澄遊覧記』があります。それぞれ岩波文庫と東洋文庫に収録されています。

Q大学の偏差値ってよくわかりません。 高校1年です。 大学の偏差値を分かりやすくおしえてください。

大学の偏差値ってよくわかりません。
高校1年です。


大学の偏差値を分かりやすくおしえてください。
偏差値50が普通なんでしょうか…?

Aベストアンサー

ハイ偏差値は50が平均値つまり普通です。
でも偏差値50の高校に入っても、偏差値50の大学にはなかなか受からないですよね。理由は簡単です。

高校入学の偏差値で諮った人数よりも、大学入試の人数のほうが少なく、下位の人が受験しないからです。

高校は基本的に中学を卒業した人みんなが受験しますので、その年の受験者全員の平均値が50になります。うえは70以上、下は40ぐらい、ときどき偏差値20ぐらいの人も居ます。

しかし高校に入って大学受験をする頃になると、偏差値50より下の高校の人たちは大学受験をしない人も多くなります。つまり大学受験はざっくり言って高校入学時の偏差値50から70以上の人が対象になるわけです。

ということは、偏差値50が中間地点ですから、高校入試時の偏差値60ぐらいが真ん中になるといっていいでしょう。質問者様の地域が分かりませんが、偏差値60ぐらいで入れる高校の生徒は大学入試偏差値50ぐらいがちょうどよく入れる大学が固まっているはずです。

たとえば、日大の付属高校はだいたいどこでも高校偏差値55から65ぐらいだと思いますので、日大が大学偏差値50ぐらいから(学部による)になっているはずです。

ということで偏差値は50が平均値です。平均値よりも低いと50より下、高いと50よりうえの偏差値になります。
大学の偏差値は高校入試と違って偏差値の低い人が少ないので、元々高校入試時に偏差値60ぐらいだった学力の人たちが50になる、ということです。

ハイ偏差値は50が平均値つまり普通です。
でも偏差値50の高校に入っても、偏差値50の大学にはなかなか受からないですよね。理由は簡単です。

高校入学の偏差値で諮った人数よりも、大学入試の人数のほうが少なく、下位の人が受験しないからです。

高校は基本的に中学を卒業した人みんなが受験しますので、その年の受験者全員の平均値が50になります。うえは70以上、下は40ぐらい、ときどき偏差値20ぐらいの人も居ます。

しかし高校に入って大学受験をする頃になると、偏差値50より下の高校の人...続きを読む

Q江戸時代以前の江戸

江戸時代以前の江戸とはどのような所だったのでしょうか?

歴史に殆ど登場しないので、太田道灌が江戸城を築城したことくらいしか知りません。

徳川家康は当時無名だった江戸をなぜ選んだのでしょうか?

Aベストアンサー

 もともと江戸は、寂しい漁村に過ぎず、江戸という地名も「入江の門戸」の村を意味していました。

 鎌倉時代に江戸氏がこの地と関わりを持ちましたが、とくに長禄元年(1457)に上杉氏の家宰太田道灌が江戸城を築いてから城下町が出来ました。

 その江戸城は、戦国時代には小田原の北条氏の一支城となり、遠山氏が上代を務めて支配していました。

 家康が天正18年(1590)に江戸に入府した頃は、「町屋なども、かや葺きの家百ばかりもあるかなし」で、「城も形ばかりに、城のようにこれもなく」というありさまだったということです。 

 なお、徳川家康が江戸を選んだのではなく、豊臣秀吉から領地替えを命じられ、苦渋の思いをしながら江戸に入府したのです。

Q同志社高校(偏差値71)→同志社大学法学部 立命館高校(偏差値70)→立命館大学国際関係学部 関西学

同志社高校(偏差値71)→同志社大学法学部

立命館高校(偏差値70)→立命館大学国際関係学部

関西学院高等部(偏差値69)→関西学院大学国際学部

関西大学高等部(偏差値68)→関西大学法学部


上記の高校から大学へ内部進学するのと


山城高校(偏差値62)→同志社大学法学部、立命館大学法学部

大阪国際大和田高校(偏差値59)→関西大学法学部、関西学院大学国際学部

上記の高校から一般入試で大学に進学するのでは、入学者の学力はどちらが上になるのでしょうか?


よく内部進学者は外部受験者より劣るなどと言われますが、有名大学附属高校はどこもかなりの高偏差値です。上記の例で見ても高校受験時の偏差値では10以上の差があります。

大学受験の勉強を一切していないと偏差値10は埋まると思いますか?附属高校は受験勉強をしないだけで英語や一般教養レベルの勉強はその分やっています。

高偏差値の附属高校からの内部進学者と偏差値が中レベルの高校からの一般入学者、学力が高いのはどちらでしょうか?

Aベストアンサー

大学入学時の学力で言えば、(一般入試の)外部入学者の方が圧倒的に上です。
内部進学は高校時代、受験勉強せずに、受験勉強以外に重点を置いて、学校教育がなされているからです。

例えば、山城から関関同立に現役合格するとすれば、それはかなり受験勉強しているという証です。

この問題、中学や小学校ではいかがでしょうか?
関学の小学校はかなりの高偏差値超難関校です。
しかし、12年間にわたって、一切受験勉強をしません。同志社もそうです。
但し、立命館小学校は、小学校入学者のみで12年間、ひたすら受験勉強を行い、決して立命館大学ごときへの進学が許されません。

Q江戸時代の上方と江戸文化の違い

上方が「いかに生きるか」
江戸が「いかに楽しむか」
だと思っていますが、あっているでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代の江戸と上方の文化の違いについての見解が示されておりますが、この見解はあまりにも短絡的ではないかと思います。

徳川家康が江戸の地を踏むまで、江戸は単なる片田舎だったのです。
したがって全ての中心は「上方」(上という字が使われていることに注目)にありました。京都に行くことが「上る(のぼる)」であり、江戸に行くことは」下る(くだる)」だったのです。

したがって、上方の文化が単に「いかに生きるか」だけではなく「楽しむこと、生活に潤いを持たせること、情緒を豊かにすること」など、本来の文化に求められるものは全て有していたと思います。

しかし、江戸幕府成立後、江戸の地には新しい文化をつくりあげようとする機運が急激に高まってきたのです。とはいえ、その初期の時代は、いまだ京都を中心とした上方文化の影響を強く受けていました。

ところが、政治の中心地、人口の増加の顕著な江戸には、次第に独自な江戸文化が完成して行きます。これに対し、上方は伝統的な文化が存続し、江戸時代の中期以後は両文化が併存するとも考えられます。 江戸時代も後半になりますと、江戸の文化の隆盛に比べ、上方の文化の影がやや薄くなる感もあります。だが、上方文化は消失することはありません。

江戸時代なかば、近松門左衛門や井原西鶴などが登場し、元禄文化が花開くけれど、その発信地は上方だった。いや文学だけではない。諸事全般、新興都市の江戸は、千年の都を背にした上方の文化に頭が上がらなかった。 

江戸時代も後半になりますと、江戸の文化の隆盛に比べ、上方の文化の影がやや薄くなる感もあります。だが、上方文化は消失することはありません。

時代も下ると文化の中心は江戸へとシフトしていきます。
 宝暦、天明の時代ともなれば、いやもう上方なにするものぞ、の気運バリバリ。超人気作家、山東京伝により「金の鯱(江戸城の天守閣の意味)にらんで、水道の水(玉川水道)で産湯を使い、吉原本多(イケメン風髪形)に髷を結い、本町通りの角屋敷を売ってでも吉原でお大尽遊び」なんて感じの江戸っ子像オリジナル版が登場したのもこの時期だったのです。

このように文化の勢い、新鮮さなどにおいては江戸文化のほうに軍配が上がるかもしれませんが、伝統、質等の面では上方も引けは取らなかったと思います。

「いかに生きるか」は上方も江戸も、というより江戸の方が大変だった時代です。みんな大変な時代にあって、いかに楽しむかを大事にしていたのではないでしょうか。

江戸時代の江戸と上方の文化の違いについての見解が示されておりますが、この見解はあまりにも短絡的ではないかと思います。

徳川家康が江戸の地を踏むまで、江戸は単なる片田舎だったのです。
したがって全ての中心は「上方」(上という字が使われていることに注目)にありました。京都に行くことが「上る(のぼる)」であり、江戸に行くことは」下る(くだる)」だったのです。

したがって、上方の文化が単に「いかに生きるか」だけではなく「楽しむこと、生活に潤いを持たせること、情緒を豊かにするこ...続きを読む


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