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教科書に書かれている以外に真実があるような気がしてなりません。。。

説(1):戦国乱世を平定した秀吉は、既に論功行賞に宛がう国内の領地がなくなったため朝鮮半島へ攻め入った。という教科書どおりの説がやはり正しいのでしょうか?

説(2):秀吉自身が朝鮮半島の出身者?であったため、日本で蓄えた大勢力を自国制覇に利用したが失敗した?

説(3):現在の天皇家は古代百済系王族の血を引いているとの説がありますが、その百済は663年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされています。
従いまして、その当時の天皇が秀吉を関白に据えることによって臣下とし、「天皇家の軍」として積年の悲願であった「朝鮮半島の奪還」をさせようとした?

特に(3)についてわたしのこだわりがあるのですが・・・

思い込むきっかけは幕末の長州藩にあります。「関が原の戦い」をきっかけとした不遇な江戸期、260年間幕府に対して水面下で臥薪嘗胆を唱え続けてきた長州藩や薩摩藩に(3)の思いを重ねてしまいました。

当然秀吉の時代当時の天皇家も脈々と受け継がれて来た「家の掟」なるものが存在したのではないか?と勘繰る訳です。

さらに、明治以降も理由はどうあれ「征韓論」などと称し、これまた半島支配を伺いました、菊の紋章を御旗として。

「任那日本府(存在したかは分かりませんが)」の時代から「昭和の敗戦」まで天皇家は朝鮮半島経営に脈々と執着を持っていたのではないか?という気もしてまいります。

武士支配の時代(鎌倉期~江戸期)以外、天皇支配の時代は常に朝鮮半島が絡んできました。

なにか関係があるとしか思えませんが、みなさまはどのようにお考えなりますか?

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A 回答 (11件中1~10件)

http://www.amazon.co.jp/%E9%80%86%E8%AA%AC%E3%81 …

読者のレビューを見ると、「教科書には載ってないこと」が書いてありそうなんですね。


どんな内容が書いてあるのか知りたくて、検索かけてみました。

http://72.14.235.104/search?q=cache:lAcNQM8_AY4J …

【村松氏によると、秀吉は本気でスペインとの同盟を考えていた。
しかし、同時に、明が西欧によって支配されれば、
将来それは必ず元寇以上の日本の脅威になるとも予測していた。

したがって同盟が不可能ならば、
近い将来、明がスペインに攻略される前に、
独力で明を攻めて、これを日本の支配下に置くほか無いと考えたのが、
いかにも唐突な秀吉の朝鮮出兵の動機だったのではないか?というのである。】

だそうです。



(3)ですか?
ううーん。
私はもっとすごい説を知っていますよ。
日本の神道は本当はイエス・キリストを奉っている、ってものです。
秀吉は、西洋の侵略政策として、宣教師をまず侵略予定地に送り込み、信者を獲得し、信者に自分達を支持させ乗っ取るという戦略を知り、それでそれを利用し、あるいは退けようとして、隣国と団結し侵略を阻止しようとしたこともあったようですが、これまた複雑そうです。
しかし、危険視したキリスト教が実は既に日本の中に入っており、その派閥は侵略のため利用されたキリスト教とは派閥というか集団が違う、というもの。

西洋が使ったキリスト教はパウロ派で、日本の中に既に入っているのはペトロ派。
そのペトロ派がユーラシア大陸を横断し、秦氏となり日本の天皇の派遣した軍隊によって援護され、無事日本に渡ってきて今に至る神道を作った、とするものです。
(天皇家と同族だから迎え入れた、というもの)



が、秦氏が原始キリスト教団の子孫であることが立証されないと、この説はトンデモの域を出ない。
秦氏についてはいくつか説がありますが、どうやら出目を故意に消したようで、辿れないんですよね。
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この回答へのお礼

質問にお答えいただきましてありがとうございました。

日本史は古代史つまりは「日本の政治の始まり」をもっと公明正大にしてほしいですね。神話と史実がゴチャゴチャに教育されている気もいたします。

日本人でありながら日本の最初が分からないなんて悲しい。。。

卑弥呼を日本の歴史上の人物としていることもなんか悲しい。。。

そもそも卑弥呼さんは日本列島の中にいたんですかね?邪馬台国もへたすりゃ朝鮮半島のどこかだったかも知れないし。。。漢字が伝わっていない時代にどうやって中国と交流を持っていたのでしょうか?

当時の資料となるものは全て中国の史書から掻い摘んだものですからね。日本人が勝手に解釈してよいものかわかりません。。。

話はつきません。。。最近では聖徳太子だって実在したかどうか分からないらしいしですね。

お礼日時:2007/04/18 14:44

 説1が嘘と言っている人も居るようですが、それは誤りで、No.4 のimp-dscさんが言うように、最大の要因は失業問題です。



 むろん、ひとつの軍事行動がひとつの理由だけで起こることはあり得ませんから、ほかにも複合してくる要因は多々あり、たとえばキリスト教対策も秀吉の念頭にはあったと考えて不自然はありません。
 が、世界史の他の事例との共通項を調べれば、一般的に言える理由として失業問題が筆頭に上がります。

 アレクサンダー然り、古代ローマ然り、モンゴル然り、金然り、群雄割拠の結果武力統一がされたクニでは、必ず次のステップとして外征が行われます。そうなるメカニズムは、No.4 で述べられているとおりです。
 徳川家康が、その意味ではとんでもない例外で、侍という戦闘員集団を徐々に官僚組織に変質させていくことに成功しました。日本人はこの大成功をなまじ知っているので、秀吉がイレギュラーに見えてしうため、あなたも含めて「何故、豊臣秀吉は朝鮮出兵をしたのか?」という疑問が出てきてしまうのですが、統一の後には外征があるという世界史の法則に基づけば、むしろこれは「なぜ」と思う要素など無い当たり前の行動です。
 「なぜ、家康は外征をしなかったのか?」という疑問が、本来あるべきなのです。
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この回答へのお礼

お答えいただきありがとうございました。

秀吉とアレクサンダーやテムジンが同列に比較できる野心家かどうかは疑問ですが。。。

秀吉が日本以外にも海の向こうに大きな大陸があると知ったのは少なくとも織田家の重職についてからだと思いますが、中年になってからそんな大志を抱くのでしょうか?

しかも当時のインフラ状況を考えてもそんな必然性を抱く環境にあったとは考えにくいと私は思うにですが。。。

ご丁寧なご回答に対して失礼な物言いをどうぞお許しください。

お礼日時:2007/04/18 14:58

全くの自論となってしまいますが・・・


・説1について
 これは全くの嘘だと思います。関白となった時点で、論功がないと言って、抗ってくる大名はそれほどいません。
・説2について
 秀吉は丹波、山の民出身というのが現在の有力な情報です。
・説3について
 仮想なので、どうともいえません。

 僕が信じている説は、加藤や福島ら武功派メンバーに明確な敵を作ろうとしたのだと思います。 天下が平定され、武者はほとんど不必要な存在です。 また、石田・浅野ら文官派が大いに活躍する時代になって行きます。当然、武功派は文官派に対して恨みを持つようになります。 秀吉は、これを恐れていたのではないでしょうか!? 事実、秀吉の死後、石田三成は福島らに襲われています。 また、この朝鮮出兵で武功派の半数ほどを意図的に潰そうとしたのではないでしょうか!?

あと、聞いた話では、信長が地球儀を見たときに、日本があまりにも小さかったということを秀吉が聞き、「こんな小国で終ってしまって良いものか」と愚痴っていたとか。

 長文ですいません。参考にしてください。
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当時ヨーロッパの列強?は大航海時代で、世界進出をしていました。

彼らは、先ずキリスト教の宣教師を派遣(キリスト教もカトリックとプロテスタントで分裂していて、新しい信者確保の為もあった)して、現地の宗教と対立させます。そして本国から艦隊を持ってきてその国と戦争をして、新しい領地にしていっていました。

信長亡き後、それを知った秀吉は当時のキリシタン大名を廃して、キリスト教を禁教にしました。ちなみにキリスト教が禁教になったのは日本くらいだと思います。そして、ヨーロッパ諸国に対抗するために、中国や朝鮮半島と同盟を組もうと、何度も呼びかけましたが、彼らは熱烈な中華思想を持っている為日本の言うことを聞こうとせず、やむを得ず秀吉は朝鮮出兵をしました。

自分はこの説が一番有力だと思うし、矛盾点がないような気がします。
大東亜戦争も同じような理由で起きたのですが、歴史教科諸問題で中国が内政干渉している為、事実が教科書に掲載されません。
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この回答へのお礼

お答えいただきありがとうございました。

お礼日時:2007/04/18 14:46

倭が朝鮮半島にある程度の影響力を及ぼしていたと考えられるのは、謎の多い4世紀頃ですし、朝鮮も倭も不安定な政権が存在するだけでした。

軍事的にも活動しましたが、同盟国への協力などが主です。

明治期の東アジア戦略は列強との関係もありますので、朝鮮支配を悲願していたわけではありません。

一つ一つの資料から都合のいいところだけを摘まんで繋いでしまうのは危険です。仮想史として楽しむのは自由ですが。
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この回答へのお礼

くだらない質問にご熱心にお答えいただきまして本当にありがとうございました。

いやはや単なる思い込みですのであまり御気になさらないでくださいまし。。。

お礼日時:2007/04/18 14:24

(1)+秀吉の暴走だと思います。


朝鮮出兵の頃になると身内や家臣の粛清など不可解な行動も目立っていますので、認知症になってまともな判断が出来なくなっていたのかも知れません。

(3)はないでしょう。
後陽成天皇は秀吉が自身で朝鮮に渡ることは控えるように書状(実際に手紙が現存している)を送るなど出兵には消極的でした。

>天皇家は朝鮮半島経営に脈々と執着を持っていた
武士に権力を奪われっぱなしで日本の統治権すら失い、戦国時代には生活に貧窮して食べるのにも困っていた天皇家が、
何代にも渡って冷や飯を食らいながら虎視眈々と半島侵攻を狙っていたなんて・・・・w
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この回答へのお礼

お答えいただきまして有難うございました。

>何代にも渡って冷や飯を食らいながら虎視眈々と半島侵攻を狙っていたなんて・・・・w

いやいやあなたは甘すぎますよ、もしかして「ゆとり教育」世代ですか?人間という生き物、または政治・国とはそういうものですよ。

天皇家についての私の意見は思い込みでしかないことは重々承知しておりますが、過去の問題を引きずって戦争をおこしている国などは世界ではいくらでも事例があることをご存じないのですか?

天皇家は日本で一番古い「家」です。古代から日本の政治的最高機密を握ってきた特殊な「家」です。またそれゆえに臥薪嘗胆も受け継ぎ、われわれ庶民が知らない脈々と言い伝えられている秘密事項があっても不思議ではないのではないか?と私は思うのです。

ただそれだけw

お礼日時:2007/04/18 15:20

いくら何でも2,3は荒唐無稽すぎて、学術的な考察の対象にはならないかと思います。



せめてそれを裏付ける「第一史料」でもあれば話は別ですが。
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失業問題です。

質問者さんのなかで言えば1が最も近いと言えるでしょう。

さて100年に渡る戦争(キャンペーン)が終わりました。歴戦の猛者の兵士(営業マン)達はさし当たって仕事はありません。これが平和な時代の平和な職業の労働者であればどうなりますか?普通はリストラの対象になってもおかしくは無いでしょ?
今でも数十万人規模でそんなことになればデモの一つや二つ起こっても不思議ではありません。
それが戦国時代の侍であったらどうなるか?彼らは戦う事が職業であり、それ以外の生きる術はしりません。しかも秀吉の行った刀狩り政策は侍以外の人々への武装解除であって侍の武装解除ではありません。と言うことは彼らのデモとはそのまま秀吉政権への武力蜂起ということになります。これは秀吉に限らず武力で覇権を握った為政者の兵士の失業対策の一つです。他には家康のように圧倒的な武力を背景に自分の勢力の兵士達を丸抱えにする方法もあります。もっとも家康の場合は秀吉の朝鮮出兵の失敗の顛末もあったからこそ出来た方法とも言えますが・・・


さて、秀吉の海外派兵は朝鮮出兵と呼ばれていますが彼の真の目的は朝鮮の奥の中国(明)への侵攻作戦の前哨戦という位置づけです。これは秀吉本人が日本の関白は誰某に任せ、天皇は北京とその周囲を皇室領として進呈。自分は・・・等と今後の予定を語っている所からの推察です。今では秀吉の晩年の誇大妄想としか扱われていませんが私はそうでも無いと考えています。元や清なんて王朝は中国北方の騎馬民族による王朝でありその軍は多くても数十万。水増ししても百万は超えません。しかも朝鮮や明は長い平和で軍事力が弱体化してもいます。実際、退却中の日本軍に対し10万近くの明・朝鮮連合軍が追撃した時でも殿軍の島津軍約1万に逆に痛めつけられて追い掛け回されるなんて場面もある位です。普通は追撃された撤退軍側が死傷者を多数出してからやっとの思いで逃げ出すパターンが常識でありこういったケースは普通はありません。日本軍が負けた理由は補給困難による戦力低下が最大の要因だったのです。

少し話が逸れましたが朝鮮出兵の原因は秀吉は朝鮮に対し「明侵攻作戦のへの協力と道案内を依頼する。」朝鮮は「秀吉の明への朝貢(臣従の為の貢物)の為の道案内を依頼された。」とのすれ違いによるところからの事情です。
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秀吉は最終的には明に進出する野望があったと聞き覚えがあります。


朝鮮は通過地点にすぎないと思います。
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「朝鮮半島に執着している」という考え方について、疑問を感じました。



そもそも、日本が対外的に膨張しようとした場合には、朝鮮半島がいちばん近いわけで、朝鮮半島にこだわっていなくても、手っ取り早く、またなんとかなりそうな可能性ということでも、朝鮮半島になってしまうということではないでしょうか。

「論功行賞としての宛がい地」を目的としているというのも、どうかとは思いますが(単に拡大戦略で政権を作ってきたので、やめるにやめられなくなったということが大きいように思うので)、質問者様が言ってるような、遠大な背景はないように思います。
何かこういう、具体的な理由づけをするのが、はやっているようですが、実際に時代が動いていくときは、一つの理由だけでどうこうなるものではないので、やはり荒唐無稽のように思います。
たとえば、関ヶ原の屈辱があるのは、長州藩だけではないと思いますが、それが結果的に明治維新に生かせたのが長州藩だけだったので、いかにも長州藩が遠大な野望で成し遂げたように見えるだけでしょう。
ほかにも、歴史的な事情から権力から追われた勢力はいくらでもありますが、いまその人たちがどうなっているかは、もうほんと千差万別ですから。
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この回答へのお礼

お答えいただきまして有難うございました。

私は日本人でありながら、日本の歴史を疑う目で見るうがったこころをもっています。

歴史教科書もわれわれの頃とはだいぶ書き換えられましたし、当時の肖像画(聖徳太子、源頼朝、足利尊氏、武田信玄など)も捏造され本人のものではない画が堂々と本人として載っていました。

この国の歴史はまず疑うことが必要です。織豊政権以降の歴史は比較的に信じますが、徳川政権によって歪められた一部分もあるかもしれないとも疑っています。

いつの時代も勝者がそれ以前の歴史をも書き換えてきたのですから。

お礼日時:2007/04/18 15:38

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Q豊臣秀吉は何故朝鮮侵略をしたか?

豊臣秀吉は何故朝鮮侵略をしたのでしょうか。私は横山光輝作の歴史コミックの知識しかないのですが、日本統一で部下に与える禄高がなくなったからだという説明とか色々あるのでしょうが、日本の次は明国とか膨張主義を考えていたのでしょうか。日本に平和をと考えていたのであれば、おかしいし、年を取って耄碌したのでしょうか。それにしても、良く皆豊臣秀吉の命令に従って、朝鮮侵略をしたものですね。

Aベストアンサー

信長とともに本能寺の変で倒れた森欄丸で有名な「森家」の逸話として次のような一文があります。

天正15年、天下は信長の後を継いだ豊臣秀吉の手に渡った。ところが秀吉は強引に無謀な海外出兵を始める。秀吉の夢は大陸の明王朝を征服することであり、その通り道となる朝鮮国に対して邪魔をしないように求め、さらに李王室に対して朝貢(貢物を朝廷に持ってくること)を要求した。しかし、武よりも文が進んだ朝鮮国は、この求めには応じず見下した態度を日本側に見せる。

激怒した秀吉と朝鮮国との間を取り持とうと、朝鮮から援助を受けてきた対馬の宗一族と小西行長の願いも空しく、無情にも戦争は始まってしまう、こうして日本最初の海外遠征である朝鮮出兵が開始された。

秀吉は諸大名に対して「1万石に付き兵を何人出兵すべし」といった軍役を発表し、忠政の場合はおよそ1800名が割り当ての兵力であったが、忠政は2000人を超える軍勢を差し向けた。 諸国から集結した「日本軍」は総数45万人となり、「唐入り」した日本軍は一番隊から九番隊まで総勢15万8800人。

朝鮮半島を目前とした場所に巨大な城を建造することになった。肥前名護屋城である。後年の津山城に代表されるように、もともと築城を得意としていた忠政はこの普請奉行を勤めることになり、これらの兵力はすべて築城に携わることになった。また、城が完成するまでの間、秀吉らが滞在する本陣なども手配している。

おかげで忠政は兵を失うことなく、本国に帰還することができた。しかし、森家の中でも渡海して朝鮮で奮闘した一族もいた。忠政の叔父、可政である。

当時森一門ではあるが、長可と不和になって関係を絶っていたため、忠政とは別の行動をとっていたのである。後に徳川家康直参の旗本となった可政は、忠政の嘆願により、森家の執権として津山城に迎えられている。

信長とともに本能寺の変で倒れた森欄丸で有名な「森家」の逸話として次のような一文があります。

天正15年、天下は信長の後を継いだ豊臣秀吉の手に渡った。ところが秀吉は強引に無謀な海外出兵を始める。秀吉の夢は大陸の明王朝を征服することであり、その通り道となる朝鮮国に対して邪魔をしないように求め、さらに李王室に対して朝貢(貢物を朝廷に持ってくること)を要求した。しかし、武よりも文が進んだ朝鮮国は、この求めには応じず見下した態度を日本側に見せる。

激怒した秀吉と朝鮮国との間を取り...続きを読む

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
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