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中世ヨーロッパの歴史についてお聞きしたいのですが、昔のヨーロッパでは、フランドル伯領、パリ伯領、ノルマンディ公領、ウェールズ候領、ブランターニュ公領、メーヌ伯領、アンジュー伯領、スコットランド王国、イングランド王国などの地域がありますが、伯領と公領、候領の違いというのは、なんですか?また、王国とはどう違うのですか?中世のヨーロッパの政治のシステムは、どのようになっていたのでしょうか?中世ヨーロッパはゲルマン人が支配していましたが、ゲルマン人の慣習からくるものなんでしょうか?彼らの生活というのは、どのようなものだったのでしょうか?国王と皇帝の違いというのはあるのでしょうか?ここからは、書籍について上記で質問した内容が詳しく書かれた良書はありますか?メーヌ伯領、アンジュー伯領などの一覧や有力領主などの一覧が載った本があったら教えてください。昔の貴族の生活について面白く書いてある本があったら教えてください。

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A 回答 (5件)

No.2です。

補足もお礼も無いのは、回答に満足されていない事を意味するのでしょうが、再度回答します。
日本の爵位は、名前そのものは古代中国(周)からの借り物ですが、明治時代に作られたかなり新しいもので、一方ヨーロッパの爵位は、名前そのものは帝政ローマ起源のものが多く共通性があるとは言え、国毎に長い歴史の間に変化していったものです。ですから、日本の爵位と『ヨーロッパ』の爵位を一対一対応させるのは、日本とヨーロッパの違い、ヨーロッパ内の歴史的or地域的相違を全て捨象した、言ってみれば単なる「訳語表」みたいなものだと考えた方がいいです。

そういう前提付きで日本語と英語を対応させるなら、公=Duke(ラテン語の軍隊指導者が語源)、侯=Marquess(ラテン語の辺境が語源)、伯=Count(ラテン語で廷臣が語源、但しイギリスではゲルマン起源のEarl)、子=Viscount(Countの副官)、男=Baron(語源はフランク語で自由民あるいは戦士)という事になります。これ以外の称号もいくつかありますが、その中での主要なものはPrinceとGrand Dukeでしょう。Princeは、日本では王子という意味に取られがちですが、元々はラテン語の「第一人者」という意味で、本来は「主権者」に近いニュアンスがあります。

ルクセンブルグは、国名としてはThe Grand Duchy of Luxembourg、君主はGrand Dukeです。アンドラは、 The Principality of Andorra、君主はウルヘル司教とフランス政府の共同統治なので、爵位を持つ君主はいません。(そもそも論で言えば、ウルヘル伯領です。)リヒテンシュタインは、The Principality of Liechtenstein、君主はFurst(uはウムラウト)で、英語で言うとPrinceに一番近いです。(但し、ドイツに於いては、Prinzという称号もあり、Furstよりも格下)モナコもThe Principality of Monacoで、君主はPrinceです。リトアニア『公国』の君主は慣習的には英語ではGrand Dukeとされますが、リトアニア語(?)では、Didysis Kunigaikstisと書くのだそうで、本来はHigh King(王の上に立つ王、王の中の王)と訳すべきものらしいです。キエフ『公国』の君主は、英語ではGrand Prince(Princeの中のPrinceの意)です。
公国、大公国というのは、日本ではなんとなく国とつけないと国じゃないみたいだから、訳語として日本人が勝手に国をつけているだけで、元の言葉に沿えば、例えばGrand Duchyは大公領という訳の方が正解に近いです。つまり、独立した大公領って事ですね。現代の感覚からすると、「君主制なのに王がいない国」というのは少数派で例外に見えますが、「主権」という概念があいまいな中世では、そもそも「国」と(例えば)「大公領」を形式面で厳密に分ける事にあまり意味がありません。現代でも、アンドラやモナコは完全な主権国家とは言いがたいものがありますが、中世では地域や時代によって、同じように、ほぼ独立した領土が、結構ありました。だから、実態としてどの程度独立性が強いか、が肝腎なのであって、称号はDukeだろうがPrineだろうが、Marquessだろうが、歴史から見れば、なんでもいい話です。

中世ヨーロッパを語る時には、王国と大公国はどう違うのか、という点を『わかりやすく』説明しようとすると、事実からどんどん離れていってしまう危険性が充分にあります。もし、『事実』を知りたいのなら、今の日本での「大公領だとなんとなく独立国に聞こえない」というバイアスからは自由になり、事実を先に勉強した方がいいです。

称号を誰が決めるかですが、王の場合は基本は自称、皇帝は、カール大帝や神聖ローマ皇帝は、ローマ法王による戴冠、モスクワ大公がツァーリを名乗ったのは、「東ローマ皇帝の継承者」を『自称』した事によります。尚、キリスト教会では、「神に代わって地上を統治する」という意味では、王も皇帝も同じで、教会における皇帝の地位の特殊性は神の代理ではなく「ヨーロッパにおける教会の庇護者」という地位ですが、神聖ローマ皇帝の実態は、ドイツ国王の中で法王が認めた者(認めさせた者と言っても良い)が皇帝になっただけで、そのからみからイタリアに勢力を伸ばそうとした皇帝はいましたが、本質的な地位の特殊性はなく、ドイツ王と考えても、さほど問題はありません。皇帝になるかならないかは、教皇との関係とかで決まり、こうなれば皇帝になる、といったルールみたいなものはありません。また、ドイツ国王が皇帝にならなかった(=理屈上は皇帝は空位)といって、それが理由で何か大きな問題が起きた訳でもありません。(16世紀以降は、ローマ法王の戴冠すら要らなくなりました。)大空位時代以降のドイツ国王は、「国王としての実態も無い」と言ってよいぐらいなので、当時の意識としても、「皇帝は王の上に立つもの」という考え方はなく、単に慣習的に皇帝という称号が存在していただけ、と考えた方が事実に近いです。

要は、現在のように国家主権の概念がきっちりしていない中世で、かつ様々な国でそれぞれの歴史があるものを、日本ではこう、ヨーロッパではこう、と「わかりやすく」説明すると、現実のごく一部しか説明していない、原則が通じるのが一部で例外の方がずっと多い、ってな事になってしまいます。話を『爵位』に限れば、Dukeの称号は王族に与えられる、という『傾向』ぐらいは無いことは無い、と言っても良いとは思います。但し、ノルマンディー公のように非常に有名な例外はあるし、メディチ家のトスカーナ大公やその他の諸都市は、まるっきり王族ではないし、スペインでも15世紀半ば以降は、王族以外のDukeはどんどん作られているし、比較的きっちりしているイングランドでも15世紀半ばぐらいからは、王族以外の為にDukeの地位がどんどん作られている、という例外はあります。(イングランドでの最初のDukeは1337年ですから、王族に限られていた時代の方が短いぐらいです)しかし、MarquessやCount(Earl)を、外様や譜代と比べるのはどうでしょうか…。フランク王国時代の「そもそも論」で言えば、伯(Count)の中で、より強大な権限を与えられたものが、公(Duke)or侯(Marquess)といった称号を与えられたのだし、その後の時代を考えるならば、織豊政権から徳川幕府への権力の移り変わりと同様なものを求めるとしたら、王朝の交代になりますが、王朝が交代する度に、お前は家来だったからお前の領地は伯爵領にする、お前は外様だったから、お前の領地は侯爵領だ、なんて事はしていません。イングランドではノルマン征服後短期間の内に、アングロサクソン系領主はいなくなりますから、爵位に関わらず、「外様」はいません。

つまるところ、爵位の上下関係というのは、だいたい安定していますが、個別の事例はその時の領主の『気分』で決めているだけで、「爵位のトップであるDukeは王族」という、ある意味自然な傾向が存在しても、後は、ヨーロッパ全体で中世を通じての特徴を求めるのは、無理だと思います。(参考URLに英語ですがブリタニカでの公爵の説明を入れておきます。国毎に状況が違う以上、Introductionを除けば、国毎に記述するのが正しいやり方でしょう)

後は、質問者の方が「トリビア」チックな雑学が知りたいのか、あるいは実際の歴史を知りたいのかによるのだと思います。実際の歴史を知りたいのであれば、一旦は現代のイメージを捨てた方がいいです。例えば、アイルランド国王がイングランド国王に従属した、という事はありません。単に、一人の君主が両方を兼ね、その国王にとっては、イングランドの方がより重要だったし、よりしっかりと支配できたというだけです。現代は、どこかの国に征服されると、征服された国は征服した国に従属するようなイメージがありますが、中世には単純には当て嵌まりません。神聖ローマ帝国内の諸王国は、神聖ローマ帝国に従属していた、というよりも、主権を持つ度合いが異なる様々な王国、公領などが、名目上だけ「連合体」を作っていた、という方が実態に近く、国という単位でものを考えるのなら、ホーエンシュタウフェン朝断絶後の神聖ローマ帝国は、国と考えない方がいいです。

参考URL:http://www.britannica.com/eb/article-9031396/duke
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%B5%E4%BD%8D

ローマ帝国起源、ゲルマン民族起源のものがゴッタニになっているものに、中国古典の知識で、日本が適当に名付けておりますので、統一的に説明することは不可能です。
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いろいろご質問されていますが、とりあえず分かるところだけ。



>伯領と公領、候領の違いというのは、なんですか?

公爵領というのは、原則的に王の一族が封じられた領土を言います。
日本の江戸時代の親藩に相当すると考えてください。
侯爵領は、王の直接の家臣では無かった者を家臣として封じた者です。
江戸時代の外様と同じと考えてください。
伯爵領は、王の家臣を封じた者で、江戸時代の譜代や旗本のようなものとお考えください。
日本と異なり、家門として与えられたものではなく、あくまで領土ですから、他の家が入ったり、売買の対象にもなったりしました。
これらは、あくまで、フランス王国やイングランド王国の一部を構成しのした。
ただし、公国や大公国の場合、国王の称号を持たない国を指します。
具体的には、リトワニア大公国、キエフ公国などで、現在ヨーロッパで大公国の名を有するのは、ルクセンブルク大公国で、公国の名を有するのは、アンドラ、リヒティンシュタイン、モナコです。

>国王と皇帝の違いというのはあるのでしょうか?

皇帝は、神に代わって地上を統治する事を認められた存在で、国王より一歩上の存在です。
国王には、皇帝から完全に独立している国王(フランス王やイングランド王など)と、皇帝や他の国王に従属している国王(ブルグンド王国、ボヘミア王国、アイルランド王国、ナバラ王国など)があります。
アイルランド王国は、イングランドに征服されたためですし、ナバラ王国は、スペインに征服されフランスに逃げたためにフランス王国に従属する王国となっています。
ブルグンド王国は、神聖ローマ帝国成立以前の王国を神聖ローマ帝国に組み込んだものですし、ボヘミア王国は、神聖ローマ帝国内で、圧倒的な領土と国力を持っていたために与えられた王号です。
神聖ローマ帝国の末期には、帝国内の領主に王号が乱発され、プロシア王国、ハノーバー王国、ザクセン王国、バイエルン王国などができています。

ヨーロッパの貴族を見て行く場合、○○伯爵となっていても、家門が全く異なる場合があります。
アンジュー伯といいましても、プランタジネット家のアンジュー伯とバロア家のアンジュー伯があります。
これは、プランタジネット家の領土をフランス王がジョン王より奪い、後バロア朝になって弟に与えたためです。
ブルゴーニュ公爵もカペー家とバロア家がありカペー家が後継者がなく断絶したため、王領に組み込まれ、その後功績のあった王の弟に与えられたものです。
ルクセンブルク公爵でも、ルクセンブルク家が、ハンガリー王位を手に入れる資金の代わりにブルゴーニュ公爵に売却し、ブルゴーニュ公爵がそれを改めて部下に与えたため、家門が全く変わってしまっています。
貴族の領土変遷をまとめた資料は見たことがありませんが、時代時代の文献などを分析してゆけば、かんりわかるかと思います。

>昔の貴族の生活について面白く書いてある本があったら教えてください。

以前ソフトバンクから「戦士たちの時代」という本が発刊されていました。(10年以上前の本ですが)
中世のヨーロッパ騎士、イスラム戦士、モンゴル戦士、鎌倉武士に関して書かれた本でしたが、入手できれば読んでみてください。

この回答への補足

わかりやすく、説明していただきありがとうございます。
公国と大公国の君主は、誰ですか?
男爵と子爵の称号は、何ですか?
王国、帝国、公国、大公国などの違いは、何ですか?
どうなると与えられるのでしょうか?

補足日時:2007/04/17 10:44
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>昔のヨーロッパでは、フランドル伯領、パリ伯領、ノルマンディ公領、ウェールズ候領、ブランターニュ公領、メーヌ伯領、アンジュー伯領、スコットランド王国、イングランド王国などの地域がありますが、伯領と公領、候領の違いというのは、なんですか?


もし、中世ヨーロッパ全体の特徴という意味で答えるのなら、「伯領と公領、侯領の違いというのは、領主の称号以外にはない」という事になりますね。領主の権力は、国や時代によって大きく異なり、それに比べれば領主の称号の違いはほとんどどうてもいい話ですから。例えば、ノルマン人領主は、11世紀末ぐらいからウェールズに侵入し、領地を持っていましたが、ここにはイングランド王の権力はほとんど介入できず、実態としては小さな独立国がたくさんあった、と考えた方がいいぐらいです。(勿論、名目上の君主はイングランド王です。)
これは中世アイルランドについても言えます。中世ブルターニュも、独立にほぼ近いです。だから、王国との違いすら、称号以外はあいまいです。
国王と皇帝の違いも、実際に皇帝という称号を持っていたのが、カール大帝や神聖ローマ皇帝に限られるので、皇帝の特徴=これらの皇帝の特徴になってしまいますが、神聖ローマ皇帝に関しては、時代により濃淡はあるにせよ、領主の権力が強く、国内をしっかりと把握できていない、というのが特徴と言えば特徴で、これでは国王一般との決定的な違いとは言えませんね。一般論で言うなら、称号が違うとしか言いようがありません。

中世ヨーロッパの歴史を考える際には、近代の「確立された国家主権」という概念から自由になっている事が必要です。細かい事を考える前に、一般人向けでよいので、中世ヨーロッパの通史の本を一冊読む事を強くお薦めします。

>中世のヨーロッパの政治のシステムは、どのようになっていたのでしょうか?中世ヨーロッパはゲルマン人が支配していましたが、ゲルマン人の慣習からくるものなんでしょうか?彼らの生活というのは、どのようなものだったのでしょうか?

なにが「ゲルマン人の習慣からくるもの」なんでしょうか?もう少し質問を具体的に纏められた方がいいと思います。
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政治システム


歴史的所産なので、統一的なシステムとはなっていない。それぞれの政治単位がそれぞれの歴史を背負って作られていきます。統一された中央政権が現代日本の「都道府県制度」を作ったようには説明できない。

プロシア王国というものがあります。現代のドイツの元となった国家。
統治はホーレツオレン家で、王様になりたかった。神聖ローマ帝国の領域内では、ブランデンブルグ辺境伯でしたが、帝国の領域外ではプロシアの地を持っていた。ホーレツオルレン家が強くなり、王国にしてくれ!と迫ったが、神聖ローマ帝国内では前例がないということで、帝国外のプロシアで王と名乗ってもいいことにした。政治的妥協です。
しかも最初はプロシア王ではなく、プロシアの王。なんだかよく分からない政治的妥協です(まぁ妥協とはそういう玉虫色のもの)んで、いつの間にか、プロシア王となってしまいました。

イングランドは、フランスの王権に対して、「女王はダメよ」なんて文句を言いながら、自分のところは女王OKです。イングランドもゲルマンじゃんかと言われても、フランス王権がそういうことになっていたのでいかしかたない。
イングランドの諸侯はノルマンコンクエストで、ノルマン王家から任命されて付与されたので、中央集権が強いですが、ドイツでは地生えの諸侯なので、分権主義です。
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Q男爵領、伯爵領の規模って

西欧の貴族の男爵領、伯爵領等について。

男爵領や伯爵領等の貴族の領地の基準は何で決まるのでしょう?

ここまでが男爵領、これ以上が伯爵領、侯爵領というような基準を知っている方がおられたら教えていただきたいのですが。

Aベストアンサー

爵位と領地の広さは関係ありません。
男爵領を持つ領主を男爵と言い、伯爵領を所有する領主が伯爵となります。
そもそも男爵とは、昔からその地を収めていた豪族にあたります。
子爵は、上級領主から派遣された者がその地に根づいた者、伯爵は、国王や上級領主から叙勲された者をいいます。
ですから、昔から広大な所領をもっている土豪は、広大な領土を持つ男爵となります。
12世紀ごろ南フランスのカルカッソンヌ子爵は、カルカッソンヌ・ベジエ・アルビなど広大な領土を支配していました。
それは、フォア伯爵領の2倍にもなり、アンジュー伯爵領やブリターニュ公爵領にひってきする面積になりました。

Q★「封建制度」を簡単に説明してください!

★「封建制度」を簡単に説明してください!

世界史の時間によく「封建制度」なる言葉が出てきます。

いろいろと調べてみたのですが、いまいちよくわかりません。

理解力を深めたいので、封建制度を簡単に説明できる方よろしくお願いします!

Aベストアンサー

封建制度とは「封」(封土=土地)を与えて家来を「建てる」と言って、つまりは
「土地をなかだちとしてむすばれた主従関係(しゅじゅうかんけい)にもとづく社会のしくみ。」
のことを言います。
御恩と奉公ですね。
もちろん日本・中国(周)・中世欧で指す封建制度とはそれぞれ少し意味が異なったりしますが、基本的には上記の意味です。

ちなみに対義する言葉は絶対王政や絶対君主制です。

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q中世ヨーロッパの将軍

将軍っていうのは軍を統率・指揮する人だと思うんですけれども、戦争の時だけではなく、ふだんはどんな暮らしをしていたのか知りたいです。
王様と一緒にお城に住んでいたのか、それとも自分のお城を持っていたのかとか。
自分の領土を持っていたのかとか。
政治にどのくらい関わっていたのかとか。

それから、将軍になる人っていうのは、どんな人ですか?すごく功績を挙げた人ですか、それとも世襲制ですか?

聞きたいことがたくさんあって申し訳ないのですが、知っていることがあったら、なんでも教えてください!

Aベストアンサー

中世の軍隊というのはまず国王や代理の王子が最高指揮官で、それに次ぐ地位の指揮官は国王のもとで公爵とか伯爵とかの貴族が自分の費用で軍隊を編成して参加しました。ということで将軍になるのはこれらの高級貴族です。
そこでこれらの貴族は戦争のないときは自分の領地を経営していました。当然世襲ですが、功績を挙げて取り立てられる場合も皆無ではありませんでした。
これらは封建制の進化の義務でしたが、何日間従軍すればよいという日数がきまっていましたからそう遠くへ遠征したり、長期戦はできませんでした。
時代が下ると、これらの高級貴族ではなく、もっと低い地位の貴族がその能力を認められて将軍になる場有為も出てきましたが、そういう場合は高級貴族に取り立てられることもよくありました。
これらの封建軍だけでは足りない場合は傭兵をやといました。
スイス傭兵やドイツのランツクネヒトが有名です。

Qフランス貴族の「ド」と爵位

フランス貴族は「○△・ド・◆×」(適当ですみません)といった名称(というのでしょうか)になると思うのですが、実際、この「ド」とはどういった人たちにつけられるものなのでしょうか。
またそれは爵位などと関係しているのでしょうか。
そして「ド」の前後(上記でいう「○△」「◆×」にあたる部分)はどういった意味合いなのでしょうか。
名前と苗字かと思ったのですがどうやら違うようなことを耳にいたしましたので・・・

質問ばかりで申し訳無いのですが、一つでも構いませんので、お暇なときにご回答頂ければと思います。

Aベストアンサー

ド(de)はフランス語の前置詞/冠詞です。
ごくごく普通の単語で、英語のofに相当します。
全く特別なものではないので、
どういうった人につくか、ではなくて
どういったことが名前に表現されているかに依存します。

貴族の爵位を表すという用法は、
前置詞の起源・原因・手段・様態などを表す意味のときで、
duc de DD/duke of DD、つまりDD公爵となります。
フランス語の場合 de の後にh や母音がくると、
それが縮まるので、duc de AAや duc de HAU なら
duc d'AA や duc d'HAU となります。
つまりドと単独ではなく、ダ、デなど次の母音と重なってきます。
ジャンヌ・ダルクのd'Arc が有名でしょうね。

さてドがつく場合には爵位以外にも前置詞の限定の意味でつく場合があります。
つまり同姓の人がいた場合、地名などをつけて、どこどこのと限定するわけです。
日本の姓でも、住んでいた地名が姓となって例が多数ありますが、
これもそれと同じで、次第にド・なんとかのところが姓として
使われるようになります。
そういう場合、ドと次を合わせて丸ごとで姓となります。
さらにかつては貴族だった人がその後そののまま姓として用いている場合もあり、
はっきりいうと、ドがついているから貴族だとは全くいえません。
C. A. De Gaulle ドゴールなんかはドをもう単独では考えず
ゴールさんとはいわないわけです。

しかしなかには何個もdeがつく長い名前があります。
その場合、たいていは複数の爵位や、母方父方両方の姓を名乗っているなどです。
ま、簡単に考えれば、de 以後が姓で、前が名ということはいえるのですが、
貴族云々は名前だけではわからないのところで、
騎士クラスからドをつけていたので、非常に多くの人間がつけたり、
過去つけていたりするので、特にドは貴重でもなんでもなく
やっぱりだたの前置詞と考えるのが妥当です。
ま、名前に前置詞がつくのが奇異に思うかもしれませんが、
タイラノマサカドとか、日本でも昔はついていたんですよ。

ド(de)はフランス語の前置詞/冠詞です。
ごくごく普通の単語で、英語のofに相当します。
全く特別なものではないので、
どういうった人につくか、ではなくて
どういったことが名前に表現されているかに依存します。

貴族の爵位を表すという用法は、
前置詞の起源・原因・手段・様態などを表す意味のときで、
duc de DD/duke of DD、つまりDD公爵となります。
フランス語の場合 de の後にh や母音がくると、
それが縮まるので、duc de AAや duc de HAU なら
duc d'AA や duc d'HAU となります。
...続きを読む

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異世界ファンタジーの世界設定をしているのですが、行き詰っています。
一国あたりの貴族の人数、またはそれに伴った領地の数がよくわからないからです。
モデルとなる時代は14~15世紀ごろです。銃やプレートメイルが普及し始めたぐらいで、船は帆船が主流という設定です。
色々調べてはみたのですが、例えば公爵が何人で伯爵が何人などの具体的な数を探しあてられなかったので、知識人の力をお貸しいただけたらと考えた次第です。
下記の条件で、本当におおまかな数(“少なくとも○人は居て、○人以上だと多い”程度)で良いので妥当な数をお考え頂けないでしょうか。
ちなみに騎士はほぼ騎兵で、歩兵は傭兵を雇うのが一般的ということでお願いします。
■A国
絶対王政
国土面積:約2100万平方キロメートル(現在のロシアと中国の間くらいです)
人口:約5000万人
爵位:公爵、辺境伯、伯爵、子爵、男爵、準男爵、士爵
10以上の国を併呑し、統一して誕生した大国。
貴族は文官と武官に別れ、文官は領地を持たず武官は領地を持っている。
士爵は領地を持たず、武勲をうちたてた騎士に贈られる一代限りの爵位。
軍は国の軍(王の常備軍?)のみ。ただ、全員が王都にいるわけではなく、王族を守る近衛兵と、王都を守る兵、国境を守っている兵(全て騎士)に別れる。王都と国境以外の街は、領主が雇った警備兵(庶民)が常駐する。稀に警備兵から騎士に取り立てられる者がいる。戦時中のみ傭兵を雇う。
海洋貿易が盛んで、海軍がある。海軍は貿易航路と海岸沿いを守っている。
同程度の規模の敵国と国境(山と川)を接していて、現在は冷戦中。

■B国
絶対王政
国土面積:約100万平方キロメートル(現在のエジプトくらい)
人口:約255万人
爵位:公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、士爵、名誉士爵
軍事的に強い国ではない。隣国の二国(東西の国)と三国軍事同盟を結んでいる。
あまり裕福ではなく、極端に貧乏でもない。海が無い。
士爵は領地を持たず、武勲をうちたてた騎士に贈られる爵位。世襲制。名誉士爵は伯爵以上の位を持つ者が、何かしら国に貢献した者に与えられる一代限りの位。免税と、街に入る際の優先権が与えられる。
軍の形は海軍が無いこと以外はA国と同じ。
同盟のため東西の守りは薄く、南の国境を重点的に固めている。北は砂漠で、国が無い。

以上です。
そもそも上記の条件の時点で無理があるという場合は、そちらもご指摘いただけたらと思います。


それとタイトル外のことなのですが、上記の設定で色々考えた結果、全世界の人口が二億人ちょっと程度になってしまいました。
ちょっと人口が少なすぎるかなと思うのですが、いかがでしょうか……。もしわかるなら、合わせて答えていただけると嬉しいです。

貴族や騎士・兵士は一国あたり何人ぐらいが妥当でしょうか?

異世界ファンタジーの世界設定をしているのですが、行き詰っています。
一国あたりの貴族の人数、またはそれに伴った領地の数がよくわからないからです。
モデルとなる時代は14~15世紀ごろです。銃やプレートメイルが普及し始めたぐらいで、船は帆船が主流という設定です。
色々調べてはみたのですが、例えば公爵が何人で伯爵が何人などの具体的な数を探しあてられなかったので、知識人の力をお貸しいただけたらと考えた次第です。
下記の条件...続きを読む

Aベストアンサー

●回答・・・14~15世紀の頃ではなくて申し訳ないのですが・・・

○1700年頃(17世紀)のイギリスにおける貴族(公爵~男爵)の数は約180家で、準貴族にあたる准男爵が約800家、騎士爵が約600家。
そして、この頃のイギリスの人口は約900万人で軍隊の規模は約7万人でした。
ちなみに現在のイギリスにおける貴族は公爵が31家、侯爵が36家、伯爵が197家、男爵が495家となっています。
なお現在のイギリスの人口は約6000万人です。

○1700年頃の他の国の人口と軍隊の規模は、
フランス・・・人口約1900万人。軍隊は約35万人。
ロシア・・・・人口約1700万人。軍隊は約22万人。
プロイセン・人口約200万人。 軍隊は約3万9千人。
スペイン・・・人口約600万人。 軍隊は約3万人。

○なおヨーロッパの人口は1600年(16世紀)でも約1億人程度だったそうです。
ちなみにその頃のヨーロッパの人口の約四分の一は、ハプスブルク家の領地に住んでいたと推定されています。

○軍隊における兵士の数は、当然、その国のおかれた周辺の状況にもよってくるでしょう。
戦争状態にあったり、敵対国家が隣接していれば大きな軍が必要になりますし、周辺全てが友好国ならば、軍の大きさも抑え目になる場合もあるでしょう。
前述した1700年頃の人口と軍隊規模からは、人口の約0.5%~約2%程度が兵士であった事がわかります。
ただし、これも絶対というわけではなく色々なケースがあります。
特に傭兵を雇う場合、資金があればかなりの軍を維持できます。
16世紀、「北方の獅子」と呼ばれたスウェーデンのグスタフ2世王は、ドイツに進攻し軍事的成功をおさめ、15万人の軍隊を率いています。
しかし、そもそもこの頃のスウェーデンの人口は約100万人程度しかなく、15万人もの兵士のうちスウェーデン人はその約2割の3万人程度でしかなく、他は現地のドイツ人やイギリス人などの傭兵だったそうです。
ただ、傭兵を雇えばお金がかかります。
グスタフ2世王は現地ドイツの味方の貴族や都市から寄付金を募り、味方でないところの都市や、貴族からは、攻めない略奪しないと約束して、安全保障費を払わせ、軍を維持する資金を得ていたそうです。
ただし、傭兵を雇用し資金繰りに苦しみ失敗した例もあり、それがハプスブルク家です。
前述した16世紀におけるハプスブルク家の領地の人口は約2500万人ですが、この頃、ハプスブルク家の軍は、傭兵を主体に30万人を超えました。戦争も多く戦費も嵩みます。その結果、国の財政は殆ど破綻しています。

■そういうわけで、知恵を絞り、歴史に学び、工夫すれば、かなりの軍を作品内で動員する事が可能になるかと思います。
良い作品ができますようお祈りいたしております。

●回答・・・14~15世紀の頃ではなくて申し訳ないのですが・・・

○1700年頃(17世紀)のイギリスにおける貴族(公爵~男爵)の数は約180家で、準貴族にあたる准男爵が約800家、騎士爵が約600家。
そして、この頃のイギリスの人口は約900万人で軍隊の規模は約7万人でした。
ちなみに現在のイギリスにおける貴族は公爵が31家、侯爵が36家、伯爵が197家、男爵が495家となっています。
なお現在のイギリスの人口は約6000万人です。

○1700年頃の他の国の人口と軍隊の規模は、
フランス・・・人口約1900万人。軍隊...続きを読む


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