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中世ヨーロッパの歴史についてお聞きしたいのですが、昔のヨーロッパでは、フランドル伯領、パリ伯領、ノルマンディ公領、ウェールズ候領、ブランターニュ公領、メーヌ伯領、アンジュー伯領、スコットランド王国、イングランド王国などの地域がありますが、伯領と公領、候領の違いというのは、なんですか?また、王国とはどう違うのですか?中世のヨーロッパの政治のシステムは、どのようになっていたのでしょうか?中世ヨーロッパはゲルマン人が支配していましたが、ゲルマン人の慣習からくるものなんでしょうか?彼らの生活というのは、どのようなものだったのでしょうか?国王と皇帝の違いというのはあるのでしょうか?ここからは、書籍について上記で質問した内容が詳しく書かれた良書はありますか?メーヌ伯領、アンジュー伯領などの一覧や有力領主などの一覧が載った本があったら教えてください。昔の貴族の生活について面白く書いてある本があったら教えてください。

A 回答 (5件)

No.2です。

補足もお礼も無いのは、回答に満足されていない事を意味するのでしょうが、再度回答します。
日本の爵位は、名前そのものは古代中国(周)からの借り物ですが、明治時代に作られたかなり新しいもので、一方ヨーロッパの爵位は、名前そのものは帝政ローマ起源のものが多く共通性があるとは言え、国毎に長い歴史の間に変化していったものです。ですから、日本の爵位と『ヨーロッパ』の爵位を一対一対応させるのは、日本とヨーロッパの違い、ヨーロッパ内の歴史的or地域的相違を全て捨象した、言ってみれば単なる「訳語表」みたいなものだと考えた方がいいです。

そういう前提付きで日本語と英語を対応させるなら、公=Duke(ラテン語の軍隊指導者が語源)、侯=Marquess(ラテン語の辺境が語源)、伯=Count(ラテン語で廷臣が語源、但しイギリスではゲルマン起源のEarl)、子=Viscount(Countの副官)、男=Baron(語源はフランク語で自由民あるいは戦士)という事になります。これ以外の称号もいくつかありますが、その中での主要なものはPrinceとGrand Dukeでしょう。Princeは、日本では王子という意味に取られがちですが、元々はラテン語の「第一人者」という意味で、本来は「主権者」に近いニュアンスがあります。

ルクセンブルグは、国名としてはThe Grand Duchy of Luxembourg、君主はGrand Dukeです。アンドラは、 The Principality of Andorra、君主はウルヘル司教とフランス政府の共同統治なので、爵位を持つ君主はいません。(そもそも論で言えば、ウルヘル伯領です。)リヒテンシュタインは、The Principality of Liechtenstein、君主はFurst(uはウムラウト)で、英語で言うとPrinceに一番近いです。(但し、ドイツに於いては、Prinzという称号もあり、Furstよりも格下)モナコもThe Principality of Monacoで、君主はPrinceです。リトアニア『公国』の君主は慣習的には英語ではGrand Dukeとされますが、リトアニア語(?)では、Didysis Kunigaikstisと書くのだそうで、本来はHigh King(王の上に立つ王、王の中の王)と訳すべきものらしいです。キエフ『公国』の君主は、英語ではGrand Prince(Princeの中のPrinceの意)です。
公国、大公国というのは、日本ではなんとなく国とつけないと国じゃないみたいだから、訳語として日本人が勝手に国をつけているだけで、元の言葉に沿えば、例えばGrand Duchyは大公領という訳の方が正解に近いです。つまり、独立した大公領って事ですね。現代の感覚からすると、「君主制なのに王がいない国」というのは少数派で例外に見えますが、「主権」という概念があいまいな中世では、そもそも「国」と(例えば)「大公領」を形式面で厳密に分ける事にあまり意味がありません。現代でも、アンドラやモナコは完全な主権国家とは言いがたいものがありますが、中世では地域や時代によって、同じように、ほぼ独立した領土が、結構ありました。だから、実態としてどの程度独立性が強いか、が肝腎なのであって、称号はDukeだろうがPrineだろうが、Marquessだろうが、歴史から見れば、なんでもいい話です。

中世ヨーロッパを語る時には、王国と大公国はどう違うのか、という点を『わかりやすく』説明しようとすると、事実からどんどん離れていってしまう危険性が充分にあります。もし、『事実』を知りたいのなら、今の日本での「大公領だとなんとなく独立国に聞こえない」というバイアスからは自由になり、事実を先に勉強した方がいいです。

称号を誰が決めるかですが、王の場合は基本は自称、皇帝は、カール大帝や神聖ローマ皇帝は、ローマ法王による戴冠、モスクワ大公がツァーリを名乗ったのは、「東ローマ皇帝の継承者」を『自称』した事によります。尚、キリスト教会では、「神に代わって地上を統治する」という意味では、王も皇帝も同じで、教会における皇帝の地位の特殊性は神の代理ではなく「ヨーロッパにおける教会の庇護者」という地位ですが、神聖ローマ皇帝の実態は、ドイツ国王の中で法王が認めた者(認めさせた者と言っても良い)が皇帝になっただけで、そのからみからイタリアに勢力を伸ばそうとした皇帝はいましたが、本質的な地位の特殊性はなく、ドイツ王と考えても、さほど問題はありません。皇帝になるかならないかは、教皇との関係とかで決まり、こうなれば皇帝になる、といったルールみたいなものはありません。また、ドイツ国王が皇帝にならなかった(=理屈上は皇帝は空位)といって、それが理由で何か大きな問題が起きた訳でもありません。(16世紀以降は、ローマ法王の戴冠すら要らなくなりました。)大空位時代以降のドイツ国王は、「国王としての実態も無い」と言ってよいぐらいなので、当時の意識としても、「皇帝は王の上に立つもの」という考え方はなく、単に慣習的に皇帝という称号が存在していただけ、と考えた方が事実に近いです。

要は、現在のように国家主権の概念がきっちりしていない中世で、かつ様々な国でそれぞれの歴史があるものを、日本ではこう、ヨーロッパではこう、と「わかりやすく」説明すると、現実のごく一部しか説明していない、原則が通じるのが一部で例外の方がずっと多い、ってな事になってしまいます。話を『爵位』に限れば、Dukeの称号は王族に与えられる、という『傾向』ぐらいは無いことは無い、と言っても良いとは思います。但し、ノルマンディー公のように非常に有名な例外はあるし、メディチ家のトスカーナ大公やその他の諸都市は、まるっきり王族ではないし、スペインでも15世紀半ば以降は、王族以外のDukeはどんどん作られているし、比較的きっちりしているイングランドでも15世紀半ばぐらいからは、王族以外の為にDukeの地位がどんどん作られている、という例外はあります。(イングランドでの最初のDukeは1337年ですから、王族に限られていた時代の方が短いぐらいです)しかし、MarquessやCount(Earl)を、外様や譜代と比べるのはどうでしょうか…。フランク王国時代の「そもそも論」で言えば、伯(Count)の中で、より強大な権限を与えられたものが、公(Duke)or侯(Marquess)といった称号を与えられたのだし、その後の時代を考えるならば、織豊政権から徳川幕府への権力の移り変わりと同様なものを求めるとしたら、王朝の交代になりますが、王朝が交代する度に、お前は家来だったからお前の領地は伯爵領にする、お前は外様だったから、お前の領地は侯爵領だ、なんて事はしていません。イングランドではノルマン征服後短期間の内に、アングロサクソン系領主はいなくなりますから、爵位に関わらず、「外様」はいません。

つまるところ、爵位の上下関係というのは、だいたい安定していますが、個別の事例はその時の領主の『気分』で決めているだけで、「爵位のトップであるDukeは王族」という、ある意味自然な傾向が存在しても、後は、ヨーロッパ全体で中世を通じての特徴を求めるのは、無理だと思います。(参考URLに英語ですがブリタニカでの公爵の説明を入れておきます。国毎に状況が違う以上、Introductionを除けば、国毎に記述するのが正しいやり方でしょう)

後は、質問者の方が「トリビア」チックな雑学が知りたいのか、あるいは実際の歴史を知りたいのかによるのだと思います。実際の歴史を知りたいのであれば、一旦は現代のイメージを捨てた方がいいです。例えば、アイルランド国王がイングランド国王に従属した、という事はありません。単に、一人の君主が両方を兼ね、その国王にとっては、イングランドの方がより重要だったし、よりしっかりと支配できたというだけです。現代は、どこかの国に征服されると、征服された国は征服した国に従属するようなイメージがありますが、中世には単純には当て嵌まりません。神聖ローマ帝国内の諸王国は、神聖ローマ帝国に従属していた、というよりも、主権を持つ度合いが異なる様々な王国、公領などが、名目上だけ「連合体」を作っていた、という方が実態に近く、国という単位でものを考えるのなら、ホーエンシュタウフェン朝断絶後の神聖ローマ帝国は、国と考えない方がいいです。

参考URL:http://www.britannica.com/eb/article-9031396/duke
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%B5%E4%BD%8D

ローマ帝国起源、ゲルマン民族起源のものがゴッタニになっているものに、中国古典の知識で、日本が適当に名付けておりますので、統一的に説明することは不可能です。
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いろいろご質問されていますが、とりあえず分かるところだけ。



>伯領と公領、候領の違いというのは、なんですか?

公爵領というのは、原則的に王の一族が封じられた領土を言います。
日本の江戸時代の親藩に相当すると考えてください。
侯爵領は、王の直接の家臣では無かった者を家臣として封じた者です。
江戸時代の外様と同じと考えてください。
伯爵領は、王の家臣を封じた者で、江戸時代の譜代や旗本のようなものとお考えください。
日本と異なり、家門として与えられたものではなく、あくまで領土ですから、他の家が入ったり、売買の対象にもなったりしました。
これらは、あくまで、フランス王国やイングランド王国の一部を構成しのした。
ただし、公国や大公国の場合、国王の称号を持たない国を指します。
具体的には、リトワニア大公国、キエフ公国などで、現在ヨーロッパで大公国の名を有するのは、ルクセンブルク大公国で、公国の名を有するのは、アンドラ、リヒティンシュタイン、モナコです。

>国王と皇帝の違いというのはあるのでしょうか?

皇帝は、神に代わって地上を統治する事を認められた存在で、国王より一歩上の存在です。
国王には、皇帝から完全に独立している国王(フランス王やイングランド王など)と、皇帝や他の国王に従属している国王(ブルグンド王国、ボヘミア王国、アイルランド王国、ナバラ王国など)があります。
アイルランド王国は、イングランドに征服されたためですし、ナバラ王国は、スペインに征服されフランスに逃げたためにフランス王国に従属する王国となっています。
ブルグンド王国は、神聖ローマ帝国成立以前の王国を神聖ローマ帝国に組み込んだものですし、ボヘミア王国は、神聖ローマ帝国内で、圧倒的な領土と国力を持っていたために与えられた王号です。
神聖ローマ帝国の末期には、帝国内の領主に王号が乱発され、プロシア王国、ハノーバー王国、ザクセン王国、バイエルン王国などができています。

ヨーロッパの貴族を見て行く場合、○○伯爵となっていても、家門が全く異なる場合があります。
アンジュー伯といいましても、プランタジネット家のアンジュー伯とバロア家のアンジュー伯があります。
これは、プランタジネット家の領土をフランス王がジョン王より奪い、後バロア朝になって弟に与えたためです。
ブルゴーニュ公爵もカペー家とバロア家がありカペー家が後継者がなく断絶したため、王領に組み込まれ、その後功績のあった王の弟に与えられたものです。
ルクセンブルク公爵でも、ルクセンブルク家が、ハンガリー王位を手に入れる資金の代わりにブルゴーニュ公爵に売却し、ブルゴーニュ公爵がそれを改めて部下に与えたため、家門が全く変わってしまっています。
貴族の領土変遷をまとめた資料は見たことがありませんが、時代時代の文献などを分析してゆけば、かんりわかるかと思います。

>昔の貴族の生活について面白く書いてある本があったら教えてください。

以前ソフトバンクから「戦士たちの時代」という本が発刊されていました。(10年以上前の本ですが)
中世のヨーロッパ騎士、イスラム戦士、モンゴル戦士、鎌倉武士に関して書かれた本でしたが、入手できれば読んでみてください。

この回答への補足

わかりやすく、説明していただきありがとうございます。
公国と大公国の君主は、誰ですか?
男爵と子爵の称号は、何ですか?
王国、帝国、公国、大公国などの違いは、何ですか?
どうなると与えられるのでしょうか?

補足日時:2007/04/17 10:44
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>昔のヨーロッパでは、フランドル伯領、パリ伯領、ノルマンディ公領、ウェールズ候領、ブランターニュ公領、メーヌ伯領、アンジュー伯領、スコットランド王国、イングランド王国などの地域がありますが、伯領と公領、候領の違いというのは、なんですか?


もし、中世ヨーロッパ全体の特徴という意味で答えるのなら、「伯領と公領、侯領の違いというのは、領主の称号以外にはない」という事になりますね。領主の権力は、国や時代によって大きく異なり、それに比べれば領主の称号の違いはほとんどどうてもいい話ですから。例えば、ノルマン人領主は、11世紀末ぐらいからウェールズに侵入し、領地を持っていましたが、ここにはイングランド王の権力はほとんど介入できず、実態としては小さな独立国がたくさんあった、と考えた方がいいぐらいです。(勿論、名目上の君主はイングランド王です。)
これは中世アイルランドについても言えます。中世ブルターニュも、独立にほぼ近いです。だから、王国との違いすら、称号以外はあいまいです。
国王と皇帝の違いも、実際に皇帝という称号を持っていたのが、カール大帝や神聖ローマ皇帝に限られるので、皇帝の特徴=これらの皇帝の特徴になってしまいますが、神聖ローマ皇帝に関しては、時代により濃淡はあるにせよ、領主の権力が強く、国内をしっかりと把握できていない、というのが特徴と言えば特徴で、これでは国王一般との決定的な違いとは言えませんね。一般論で言うなら、称号が違うとしか言いようがありません。

中世ヨーロッパの歴史を考える際には、近代の「確立された国家主権」という概念から自由になっている事が必要です。細かい事を考える前に、一般人向けでよいので、中世ヨーロッパの通史の本を一冊読む事を強くお薦めします。

>中世のヨーロッパの政治のシステムは、どのようになっていたのでしょうか?中世ヨーロッパはゲルマン人が支配していましたが、ゲルマン人の慣習からくるものなんでしょうか?彼らの生活というのは、どのようなものだったのでしょうか?

なにが「ゲルマン人の習慣からくるもの」なんでしょうか?もう少し質問を具体的に纏められた方がいいと思います。
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政治システム


歴史的所産なので、統一的なシステムとはなっていない。それぞれの政治単位がそれぞれの歴史を背負って作られていきます。統一された中央政権が現代日本の「都道府県制度」を作ったようには説明できない。

プロシア王国というものがあります。現代のドイツの元となった国家。
統治はホーレツオレン家で、王様になりたかった。神聖ローマ帝国の領域内では、ブランデンブルグ辺境伯でしたが、帝国の領域外ではプロシアの地を持っていた。ホーレツオルレン家が強くなり、王国にしてくれ!と迫ったが、神聖ローマ帝国内では前例がないということで、帝国外のプロシアで王と名乗ってもいいことにした。政治的妥協です。
しかも最初はプロシア王ではなく、プロシアの王。なんだかよく分からない政治的妥協です(まぁ妥協とはそういう玉虫色のもの)んで、いつの間にか、プロシア王となってしまいました。

イングランドは、フランスの王権に対して、「女王はダメよ」なんて文句を言いながら、自分のところは女王OKです。イングランドもゲルマンじゃんかと言われても、フランス王権がそういうことになっていたのでいかしかたない。
イングランドの諸侯はノルマンコンクエストで、ノルマン王家から任命されて付与されたので、中央集権が強いですが、ドイツでは地生えの諸侯なので、分権主義です。
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