今でも大名の子孫は多いと思うのですが、その中にお膝元の自治体で首長をしている方っているんでしょうか?あと織田家というのは現在でも続いているんでしょうか?

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A 回答 (6件)

彦根藩井伊家(井伊直弼のとこですね)


の16代当主井伊直愛さんが彦根市の市長をしていました。

あと大臣クラスでは沖縄開発庁長官の伊江朝雄さんなんかもそうですね。
この方は傍系ですが琉球王国尚家の家系です。
(伊江御殿/尚健伊江王子朝直系)

副知事でも沖縄では尚弘子さんがいます。
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この回答へのお礼

なるほど、参考になりました。彦根市長が井伊氏というのは
なんか面白いですね。おもわず投票したくなちゃいますね。

お礼日時:2001/01/18 00:42

shoyosiさんの回答で思い出したのですが、織田家に生まれた男子は全て名前の頭に「信」の字が付いているそうです。

家系図もそうなっていましたし、「笑っていいとも」に出ていた子孫の方も名前の頭に「信」の字が付いていました。
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この回答へのお礼

情報ありがとうございました。
その人が信長の野望というゲームをするときって
やぱり織田信長を選ぶんでしょうかね?
それとも他の大名を選んで織田家を滅亡させてしまうのか、
ささいな疑問です。

お礼日時:2001/01/19 14:24

確か織田無道も織田家の末裔だったと思いますよ


以前TVのお宅訪問の時に言っていました
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織田信長の子供(男性)の中で子孫がはっきりしているのは、信雄(二男)、信高(七男)、信貞(九男)です。

信雄の子孫は、幕末時出羽天童藩(2万石)と丹波柏原藩(2万石)の藩主、信高、信貞の子孫は旗本です。他に信長の弟長益(有楽・この人の江戸屋敷の跡が有楽町となる)の子孫は、大和芝村と大和柳本の藩主になりました(共に1万石)。これらの藩主は明治になり子爵になりました。
市長ではありませんが、愛知県犬山市の成瀬氏(大名の子孫)は、国宝犬山城を所有しています。

参考URL:http://www.remus.dti.ne.jp/~y-skm/sengoku/descen …
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お膝元の自治体で首長をしていたのはnon_tamさんが回答されたように細川家くらいしか思い出せないですね。


織田家は今でも続いているようですよ。
先日タモリの「笑っていいとも」の「ご先祖様はすごい人」のコーナーで織田信長の子孫の織田なんとかさんという若者が出ていました。系図も見せていたので本当だろうと思います。
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私もnoribouさんとおんなじことをよく考えます。


織田家は存じませんが、ちょっと前に総理大臣をやっていた細川さんは熊本(?)の細川家の末裔だったように記憶しています。
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Aベストアンサー

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Aベストアンサー

>今も主従関係が続いているケースはありますか

ありますよ。
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現在は、財団法人犬山城白帝文庫(理事長は、成瀬家子孫)に所有権を移転しています。
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 と、歴史の教科書ではこのように説明されているのですが、以下の三者、

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Aベストアンサー

蝦夷は、「東日本に住む王化していない民」なので今日的な「民族」とは異なります。現に臣従した場合は「俘囚」と名前が変わります。
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「頼」がついて滅びなかった大名(当人)。

(1)六角定頼・・・六角家の全盛期を築いた人。父の高頼も家督を譲って隠居してから亡くなってます。ただし子の義賢が織田信長に敗北し、以後、六角家は衰退します。

(2)毛利秀頼・・・信長、秀吉に仕えた人。秀吉から信濃に10万石を与えられました。

(3)平岡頼勝・・・秀吉に仕え、後に秀吉の命で小早川秀秋の家老になった人。関が原合戦後に2万石を貰うも、主君の秀秋死後に浪人。しかし家康から1万石を与えられ大名に。

(4)蜂屋頼隆・・・土岐、斉藤、織田、そして秀吉に仕えた人。秀吉から4万石を与えられました。

(5)相良頼房・・・九州の小大名。関が原では最初は西軍につくも東軍に寝返り2万石の所領安堵を受けました。

(6)小笠原貞頼・・・信長に仕え、ついで秀吉に仕えるも秀吉の怒りをかい改易に。しかし徳川家康が召抱え3万石の大名に。小笠原諸島はこの人が発見したとのこと。

(7)有馬則頼・・・秀吉に仕え1万石の大名。秀吉没後は家康に接近し関が原でも東軍につき、合戦後は加増を受け3万石に。

(8)諏訪頼忠・・・武田に謀殺された諏訪家当主、諏訪頼重の親戚。頼重死後は浪人していたものの武田家滅亡後に諏訪に舞い戻り諏訪家の再起を図りますが、徳川家康に破れ臣従。家康の関東への移封にともない武蔵で1万2千石を与えられます。息子も頼のつく頼水という名で関が原合戦で功績を上げ信濃に2万7千石の所領を賜りました。

(9)新庄直頼・・・浅井長政、織田信長、そして秀吉に仕えた人。秀吉から3万石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、合戦後に改易に。しかし後に許され家康から3万石を与えられ大名に復帰しました。

(10)吉見正頼・・・大内家、つぎに毛利元就に仕えた人。元就に1万5千石を与えられました。

(11)村井長頼・・・前田家家老で1万石。既に隠居していた時、主君利長の母が江戸に人質に行くと聞き、付き従って江戸に赴き、江戸で亡くなった忠義の人。



「頼」がついて滅びた人。

「原長頼」・・・信長、秀吉に仕えた人。秀吉から3万石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、西軍の敗北後に自害。

「石川頼明」・・・秀吉に仕えた人。1万2千石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、西軍の敗北後、東軍に降伏しますが切腹に。

「木下頼継」・・・大谷吉継の次男ですが秀吉に可愛がられ厚遇を受けた人。2万5千石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、敗北後は領国に逃げ帰りますが病死。15歳という若さでした。

「宇多頼忠」・・・豊臣秀長、秀吉に仕えた人。1万3千石を与えられました。娘が石田三成に嫁いでおり、関が原合戦では、佐和山の城を守備するも東軍に攻められ自害。息子も頼のつく頼重という名で、こちらも父と同じく佐和山の城で自害。なお頼忠は所領を返上して娘婿の石田三成のところに身を寄せていたという話もあり。


なお、石高などは書籍によって微妙に違いがあるので、必ずしも正しいとは限りませんが、私の手元にある本の数字を書いています。また、この他に石高など不明な人もいまして、大名(1万石以上)に該当するかどうか分からない人も、まだいます。

このように「頼」のつく大名は結構おり、滅びなかった人も二桁を数えられるので偶然だと思います。

偶然です。

「頼」がついて滅びなかった大名(当人)。

(1)六角定頼・・・六角家の全盛期を築いた人。父の高頼も家督を譲って隠居してから亡くなってます。ただし子の義賢が織田信長に敗北し、以後、六角家は衰退します。

(2)毛利秀頼・・・信長、秀吉に仕えた人。秀吉から信濃に10万石を与えられました。

(3)平岡頼勝・・・秀吉に仕え、後に秀吉の命で小早川秀秋の家老になった人。関が原合戦後に2万石を貰うも、主君の秀秋死後に浪人。しかし家康から1万石を与えられ大名に。

(4)蜂屋頼隆・・・土岐、斉藤、...続きを読む


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