江戸時代の一般的(庶民の)埋葬方法について質問します。
山本一力氏の小説「あかね空」を読んでいるのですが、物語の中で人が亡くなるとしばしば、火葬を想起させる表現が出てきます。
「お骨になる」や「(亡骸を)焼き場に持っていく」などです。
読んでいて疑問におもったのですが、小説「あかね空」は、宝暦十二年(1762年)から寛政年間(1790年代)の江戸深川が舞台となっています。この頃の庶民の埋葬方法としては土葬が一般的であったと認識していたのですが、地域によって格差があったのでしょうか?
また、その当時、現在の火葬場に相当する施設や専門の人足がいたのでしょうか?
ご存知なら教えてください。

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A 回答 (3件)

寛永五年(1628)に亡くなった2代将軍秀忠の妻、お江与の方は、


本人の希望により火葬となりましたが、
その際の火葬場所は麻布我善坊町でした。
当時、火葬はかなり珍しかったようで、
江戸の地誌にはたいていこの場所のことが書いてあるそうです。

庶民を対象にした火葬場所は、寛文九年(1669)、
小塚原に江戸最初の火葬場設置が許可されています。
小塚原は刑場としても有名ですね。

以降は徐々に増えて行き、
鈴ケ森、深川、浅草、市ヶ谷、四ツ谷、芝、三田にあったようですが、
渋谷にもあったようで、時代によって移り変わりがあったのでしょう。

名前は三昧場と呼ばれていたそうです。
といっても、三昧場=火葬場ではなく、墓地のことも含んだ言い方のようですが。

運営主体は寺院で、火葬をする浄土真宗の寺が寺内に
火屋(燃やす施設)を持っていたり、複数の寺院が共同で特定の場所を使っていたりするようです。
また、幕末になると浄土真宗だけでなく各宗が火屋を持っていたようです。
もちろん上に挙げたエリア内の寺院だけでしょう。

火葬専門職は他の地方だと非人が担当していて三昧聖という名がありますが、
江戸は寺院が管轄していたようですので、直接の担当は僧侶でしょう。
補助職は隠亡かな?
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この回答へのお礼

そうなのですか。
江戸時代には思っていたよりも火葬が行われていたんですね。
江戸時代=土葬、という固定観念がありましたが、ご説明を読んで得心しました。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/04/19 17:27

現在のように高性能の火葬炉がある時代なら別ですが、江戸時代以前、火葬と言うのは「大量の薪を準備し、遺体を覆って気長に焼く」もので、大変なコストと手間がかかりました。

土葬なら、丁寧な場合でも「棺に入れて土の中に埋める」だけですから、コストの点で比較になりません。一般庶民の遺体は、村はずれなどにそのまま埋められるか、あるいは遺棄されるのが普通です。

江戸時代の火葬は、特にそれを望んだ貴人だけに許される方法だったのです。土葬は衛生上問題があるといえば言えますが、江戸時代の日本は現在より遥かに人口密度が低かったので問題になりませんでした。欧米では、キリスト教の影響で現在でも土葬が普通です。特に衛生上の問題は重視されていないようです。

明治時代になって火葬が原則化されても、火葬は薪を使って気長に焼くのが普通であったようです。東京・新宿区の落合にある火葬場は明治時代から存在しますが、当時の東京の都心からは遠く離れた田舎です。東京の周辺部に、そうした「焼き場」が散在していたわけです。

関東大震災の際、例えば本所の造兵廠跡では一度に数万人の焼死者が出て、薪による火葬ではとても間に合わなくなりました。かといって、9月の残暑で腐敗しつつある、水分を多く含んだ遺体を積み重ねて石油をかけて火をつけでも、ブスブスと煙が出るだけで全く燃えません。土の中に生めて処理するのも不可能で、処理能力を超えた「腐敗遺体」をどう始末するかが、人道上も衛生上も大問題となりました。

吉村昭の「関東大震災」によると、この時に、石油を使って高温で火葬を行う、現在と基本的に同じ仕組みの「火葬炉」が初めて実用に供され、造兵廠跡などに火葬炉が多数設置され、猛スピードで火葬を行ったとのことです。この頃から、薪ではなく石油等を使った火葬炉で高温・短時間で遺体を火葬するのが全国で普通になり、現在に至っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なるほど、火葬場にも歴史ありですね。
参考になりました。

お礼日時:2007/04/19 17:29

現在、死後24時間以内は火葬してはならないと明治期に公布施行した墓地、埋葬等に関する法律第3条に記述があります。


が、瀬戸内海の島々など「現在も土葬」の習慣が残っている地域もあります。

日本では、700年代から火葬の記録が残っています。
当時、仏教徒の有力者(貴族とか僧侶)は火葬で庶民は土葬です。
土葬でもましな方で、一般庶民は某有名寺院近くに死体を捨てていました。
(修学旅行で賑わうお寺さんです)
鎌倉時代の各宗派が誕生した頃に、土葬が一般的になります。

>庶民の埋葬方法としては土葬が一般的であったと認識していたのですが、地域によって格差があったのでしょうか?

一般庶民は「土葬」です。
巡礼中に亡くなった者、身元不明の者も同様です。
が、(故郷で納骨したいなど)望めば火葬も可能でした。
宗派によっても異なります。
皇族・貴族・将軍家・藩主は、原則「土葬」です。
浄土真宗は、原則「火葬」です。

>火葬場に相当する施設や専門の人足がいたのでしょうか?

当時は、旦那寺が(現在の)住民票を管理していました。
今で言う住民係ですね。
寺には、専門の寺男・墓守及びその支配下にある人達がいて火葬を担当していました。
彼らの収入源は、死体が着衣用している衣服と棺桶に入っているお供え物の着服だったと伝わっています。
当然、露見すれば処罰の対象ですが「公然の秘密」だったようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
この日本で現在でも土葬している地域があるとは驚きでした。

お礼日時:2007/04/19 17:24

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Q江戸時代の旅の手荷物や衣類・食事などは?

お世話になります。

時代劇を見ると、江戸時代の旅装束・手荷物・衣類・食事は、かなり少ない様子です。即ち、

●笠、合羽程度を振り分け荷物で着たきりスズメ

で、手ぶらのようです。その他には、せいぜい杖くらいです。泊りは宿場なので問題なしとしても、こんな軽装で旅が続けられたのでしょうか?

よって、質問です。

Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)
Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)
Q3.昼ごはんはあった?(平安時代は、朝夕の2回だそうですが・・・)

特に、食料事情は重要で飢饉があるくらいですから、食料が不足している可能性がありますが、お金があれば食べるには困らない状況だったのでしょうか。また、荷物が少ないし、着の身着のままみたいで、不思議です。お遍路くらい荷物が限定されたのでしょうか?

ご回答をよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

東海道を例にとりましょう。
東海道では、男足で15日位。
女足では20日位。
これを念頭において・・・

>>Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)

着物は1着。下着は2~3着・・・洗濯は道中の小川や池で行いました。そして、良く絞って油紙に包み持ち歩きました。


>>Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)

大概は、旅篭での朝夕の食事でしたが、途中の茶屋などで団子や饅頭などで代用しました。


>>Q3.昼ごはんはあった?(平安時代は、朝夕の2回だそうですが・・・)

昼飯はヌキが多かった。しかし、前述のように茶屋などで団子を食べたり饅頭を食べたり煎餅を食べたりしました。


>>特に、食料事情は重要で飢饉があるくらいですから、食料が不足している可能性がありますが、お金があれば食べるには困らない状況だったのでしょうか。

やはり、「銭」が一番でした。
農村部では飢饉などで困ったことでしょうが、旅篭などでは、米の流通を銭の力で優先的に差し押さえていましたので、旅人にはあまり不自由なく往来できました。


>>また、荷物が少ないし、着の身着のままみたいで、不思議です。お遍路くらい荷物が限定されたのでしょうか?

江戸時代書かれた「道中案内記」によると・・・

着替えの衣類(着物1着・下着2~3着)、脇差(道中差、女は懐剣)、頭巾(または笠、女は市目笠)、三尺手拭、扇子、矢立(筆記用具)、鼻紙、草履(草鞋)、財布、道中記・・・などを小物篭に入れて包み、肩から振り分けにして持参すると良いと書かれてあります。

(よもやま話)
江戸時代中期(文化・文政の頃)になると江戸も繁盛するようになり、小旅行がもてはやされました。
箱根の関所手前までなら、「通行手形」もいらなかったので、自由に往来できました。
日帰りまたは1泊2日くらいの旅としては、
箱根七湯、江ノ島詣、鎌倉見物、金沢八景、大山詣、成田山新勝寺詣、秩父三十三箇所詣、日光東照宮参り、
などが人気でした。

また、関所でも「○○講中」と書かれた白い上着を着て、それらしき旅姿であれば、通行手形は不要でした。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

東海道を例にとりましょう。
東海道では、男足で15日位。
女足では20日位。
これを念頭において・・・

>>Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)

着物は1着。下着は2~3着・・・洗濯は道中の小川や池で行いました。そして、良く絞って油紙に包み持ち歩きました。


>>Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)

大概は、旅篭での朝夕の食事でしたが、途中の茶屋などで団子や饅頭などで代用しました。


>>Q3.昼ごはんはあった...続きを読む

Q江戸の庶民文化の普及?

少し文化について勉強し始めています。
疑問に思ったことがあるのですが、
江戸時代に普及した庶民文化。
なぜ、このときに庶民に‘文化’というものが
広まったんでしょうか?
何か、生活や庶民の考え方?ゆとりなど・・・
何が原因なんでしょうか。
もしお分かりの方がいらっしゃいましたら、
どんなことでも結構なのでお教え願います。

Aベストアンサー

単純すぎる答えで申し訳ありません。
よく一般に言われているように、戦争が無かったからかと……。

こんな答えを望まれているわけではないですよね。すいません。

違う側面から理屈付けるとすると、庶民の二極化と、江戸という「都会」の存在があげられると思います。

江戸という都会は、非生産区域でした。
江戸は大きな消費者とも言えます。
消費するばかりで、生み出さないんですね。
生み出すのは、農村、漁村等、都会以外の村々です。

文化が反映する条件に、「余暇」があります。
古代ローマに文化が栄えたのも、貴族達は奴隷を使うことで自身は労働をする必要が無くなり、余暇が沢山できたためだと言われています。

江戸も、これと同じではないまでも、似たような状況でした。
米は百姓が作り、魚は猟師が捕る。
江戸に住む人々はそれを、金を出して買えばよかったので、江戸の住人が自ら魚を捕ったり稲を育てたりする必要がありませんでした。
よって、余暇が出来ます。
現代と違って一日8時間も労働する武士などほとんどいないため、武士にも沢山の余暇があります。
それゆえ、様々な文化が発展したのだと思われます。

ちなみに、金がなければものも買えないではないか、とお思いかもしれませんが、江戸の場合、どんなことをしても商売になったので、本当に喰えなくなるという事はまれでした。
ちょっと手作りのお面をかぶって家々の前で踊るだけでご祝儀がもらえましたし、道端に咲いている花を摘んで売り歩けば買い手がつきました。
元ではタダです。
それでもどうしても体を壊して稼ぎにいけない、という時には、長屋住まいならば必ず誰かが助けてくれました。そのための隣近所です。
江戸で食えない奴はよっぽどだ、と当時は言われていました。

よって、職業も制限されたえた・ひにん等は別として、庶民、武家ということでしたら、ゆとりの原因は「非生産階級であるため」という事になろうかと思います。

つまり、江戸に住んでいる時点で、どんなに貧乏でも「勝ち組」なのですね……。

また、ご質問の「庶民の考え方」についてですが、江戸っ子は宵越しの銭は持たない、と言われる通り、貯金をしない事が美徳ですから、持っているお金はすべて使ってしまおうとします。
また、長屋住まいで、困った時は必ず誰かが助けてくれる、という考えが前提としてあるので、貯金はする必要がないんですね。
老後も同じです。必ず同じ長屋の若い人が面倒を見てくれます。今と違って、老後のためにお金を取っておく必要がないんです。

あったらあっただけ使うわけですから、消費は拡大します。すると経済は活発化し、都市は繁栄します。必然的に、文化も華やぐ、と考えられます。
実際はもっと複雑なのでしょうが、単純に考えるとそういう事なのではないでしょうか。

江戸も半ばごろになると、特に農村においてですが、裕福な土地持ちの百姓と、その日の暮らしにも困る水のみ百姓との二極化が進みました。
その結果、裕福な方の百姓には余暇が出来、家業の片手間に趣味を持つようになりました。また、道路や宿駅制度の整備等により、江戸からの情報も逐一入るようになったため、都会(江戸)の流行にも敏感でした。

こうして、江戸という都会以外の地域にも文化は広がって行き、ああした隆盛をみたのではないかと思われます。

単純すぎる答えで申し訳ありません。
よく一般に言われているように、戦争が無かったからかと……。

こんな答えを望まれているわけではないですよね。すいません。

違う側面から理屈付けるとすると、庶民の二極化と、江戸という「都会」の存在があげられると思います。

江戸という都会は、非生産区域でした。
江戸は大きな消費者とも言えます。
消費するばかりで、生み出さないんですね。
生み出すのは、農村、漁村等、都会以外の村々です。

文化が反映する条件に、「余暇」があります。
古代ロー...続きを読む

Q江戸時代の食事は

江戸時代の食事は

現在と大差はなく

朝・昼・晩の3食だった様です。

ただ昼食に関しては現代よりも

間食という感じで、ちょっとつまむ程度

だったとの事。

私の場合、昼食は同僚と

外食に出かける事が多く

しっかり食べてしまいます。

その場合、夕食の量を少なくする事で

体重のバランスが保たれる様に

なるのでしょうか?ダイエットに挑戦しているのですが

なかなか体重が減りません。

お酒を控える事と、夕食を少なくする事を

考えているのですが、夕食を抜くというのは

危険で無理のあるダイエットでしょうか?

一日2食だけのダイエットもある様ですが・・・

お酒の件と併せて実際はどうなのでしょうか?

教えて下さい。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

 「江戸時代の食事は現在と大差はなく」というのは私の認識と大きく違い(3食だったのは同じでしょうが)、現在の食事メニューは欧米化(洋食化)が進んで江戸時代よりも高カロリーになっています。とりわけ「昼食は同僚と外食に出かける事が多く」と言われる外食は、どれもこれも高カロリーですので、注意が必要です。外食(1食)で男性なら600~700kcal、女性なら500~600kcalに収まるメニューは、探すのが困難なくらいです。

 その分、夕食の量を少なくしてカロリーバランスを考えるのはよいことだと思いますが、夕食を抜くと朝食と昼食でカロリーをしっかり体に取り込もうとしますから逆効果です。また食べる行為そのものが代謝(食事誘導性代謝)になりエネルギーを消費しますので、こまめに食べるほうがダイエットには向いています。

 お酒ですが、ビールも日本酒も焼酎も、お酒そのものはカロリーはそう多くありません。ビールならロングサイズ1本(500ml、約235kcal、ご飯お茶碗1杯のカロリーとほぼ同じ)、お酒なら1合半(270ml、285kcal)くらいなら、許せます。お酒(ビール)で太りやすいのは、おつまみなど、お酒(ビール)と一緒に食べるもののカロリーが大きいことによります。おつまみはカロリーの少ない、茎わかめ、ちくわ、かまぼこ、冷奴などがお勧めです。ナッツ類(ピーナッツ、アーモンド、くるみ、カシューナッツなど)、ポテトチップス、から揚げなどはとても高カロリーですから、食べないことです。大豆(枝豆)もカロリーが高いほうです。

 食事の量は、朝:4、昼:3、夕:3 が理想的です。


 これらのダイエットを中心にして有酸素運動と筋トレで14kg減量し、BMI:19.7、体脂肪率:11%をキープしているオジサンより

 「江戸時代の食事は現在と大差はなく」というのは私の認識と大きく違い(3食だったのは同じでしょうが)、現在の食事メニューは欧米化(洋食化)が進んで江戸時代よりも高カロリーになっています。とりわけ「昼食は同僚と外食に出かける事が多く」と言われる外食は、どれもこれも高カロリーですので、注意が必要です。外食(1食)で男性なら600~700kcal、女性なら500~600kcalに収まるメニューは、探すのが困難なくらいです。

 その分、夕食の量を少なくしてカロリーバランスを考えるのはよいことだと思い...続きを読む

Q江戸在住の庶民への課税

農民の年貢についての記述はよく見かけるのですが、町人への課税の話はあまり聞きません。
農村には年貢米という税がありますが、武家を除く江戸在住の庶民へは、課税がなされていたのでしょうか。
武家は貰う側だから課税はないですよね。

あるとしたら、それはどういったものだったのでしょうか。
また、どの階級までにかかるものでしょうか。
例えば、一季雇いの奉公人や、中間などにもかかるのでしょうか。
ご存知の方、教えて下さい。

Aベストアンサー

江戸時代初期には町人への課税という思想もシステムもありませんでした。

しかし免許税にあたるものは存在しましたし街道筋の宿場はその整備と維持の為助郷制度があり近在の数ケ村に対し費用や協力を強制する制度もありました。
これは年貢とは別です。

町人にたいしては幕府の課税はなかったものの、道路の整備維持、橋梁の維持は付近の町の負担でした。
江戸の町は木戸で仕切られ大木戸は幕府の役人があたりましたが町木戸は木戸番の費用は町の負担でその他自警団にあたる夜回りなど共通の治安維持費用は町の負担でした。 町火消しはすべての費用は町の負担ですが町奉行の監督はうけました。

その他祭りの費用は全て町の負担ですし、芝居小屋の設置なども間接的に負担していました。  このような私税というものがあってこれらを負担したのが町の資産家仲間が話し合いで行っていました。

奉公人は主人の私有財産のようなものですから課税などありえません。

江戸後期になると幕府財政の窮迫から町人からも種々の名目で徴収を図り、冥加金など臨時の税を取るようになりました。

Q江戸時代の(上層階級の)食事と脚気治療について

よろしくおねがいします。

昨日、TVで将軍家茂や皇女和宮が脚気で死亡したということが流れていました。

ウィキペディアなどで調べると、江戸病とも言われ、白米を多く食べる都市部で多くおこる病気であったそうですが、この「白米を多く食べる人がなった」という知識は、後年ビタミンB1の欠乏症ということが明らかになってからのものでしょうか? B1という特定物質が原因であることを江戸の人が分からないのは当然として、「病気は栄養不足が原因」、「病人には栄養をとくに考えて食事を与える」という至極当たり前のことは考えつかなかったのでしょうか?


脚気が発症しても、病人に対して、様々な食材を与えるようにすれば、現在の私達とそう変わらない食環境になっていき、死に至ることはないようにも思いますが、相変わらず白米ばかり食べていて、病人に必要な様々な食材のものを食べさせるということは、江戸や明治初期にはなかったのでしょうか?

将軍や皇女ともなれば、おかずも多いと思ってましたからビタミンの不足分はその他のもので補えるのでは?と思ったのですが、欠乏症で死んでしまうほどの食事だったのでしょうか?

よろしくおねがいします。

昨日、TVで将軍家茂や皇女和宮が脚気で死亡したということが流れていました。

ウィキペディアなどで調べると、江戸病とも言われ、白米を多く食べる都市部で多くおこる病気であったそうですが、この「白米を多く食べる人がなった」という知識は、後年ビタミンB1の欠乏症ということが明らかになってからのものでしょうか? B1という特定物質が原因であることを江戸の人が分からないのは当然として、「病気は栄養不足が原因」、「病人には栄養をとくに考えて食事を与える」という至...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは

脚気の原因は、主にVB1不足があげられますが、動物性タンパク質の不足、偏食などもその要因としてあげられますね。

皇族の食事はよくわかりませんが、将軍、大名クラスの食事でも「一汁三菜」が基本で、かなり質素なものでした。
五代将軍綱吉の寵愛をうけて権勢をふるった柳沢吉保にしても、「朝は一汁三菜、夕御前は一汁五菜、御夜食は一汁三菜、朝夕共に随分軽き品被召上候」ということです。

したがって、空腹を満たすためには「米飯」を多く食すことになるわけで(当時の基準が成人1日五合)、元禄期ころから精米食が普及すると、いきおいB1不足になりますね(綱吉も脚気になります)。特に、白米を多く食する上級武士には多かったみたいです。ですから、皇族も同じではなかったかと。

江戸時代には、病気と栄養不足の因果関係はわかっていなかった、と思います。病人に滋養のあるものを与える、という考えはあっても「予防医学」という考えは、なかったのではないでしょうか。

明治に入ってからも軍隊で脚気が流行りますが(兵の20%ちかく)、陸軍では環境激変によるものと考え、「治療」としては転地療法をとっていたようです。
海軍では「食改善」(パン食、米麦混合)を採用し、脚気の激減に成功します。(陸軍は日露戦争で兵の半分が脚気に罹るという事態に到り、ようやく明治38年に米麦混合色を採用)

明治41年に、「臨時脚気病調査会」が鳴り物入りで発足しても、「細菌説」が有力でした。明治43年には、鈴木梅太郎が米糠からVB1を抽出しますが、この不足が脚気の原因として認められたのは、大正14年のことです。

横道にそれすぎた嫌いがありますが、ご参考までに。

こんにちは

脚気の原因は、主にVB1不足があげられますが、動物性タンパク質の不足、偏食などもその要因としてあげられますね。

皇族の食事はよくわかりませんが、将軍、大名クラスの食事でも「一汁三菜」が基本で、かなり質素なものでした。
五代将軍綱吉の寵愛をうけて権勢をふるった柳沢吉保にしても、「朝は一汁三菜、夕御前は一汁五菜、御夜食は一汁三菜、朝夕共に随分軽き品被召上候」ということです。

したがって、空腹を満たすためには「米飯」を多く食すことになるわけで(当時の基準が成人...続きを読む

Q江戸庶民の天皇家に対する気持ちは?

今の日本人は天皇や天皇家に対して、一部の例外を除いて一般的には「尊崇」の気持ちを持っておりますね。この気持ちは明治以来の教育の結果だと書いてる人がいるし、自分の浅い知識でも、明治天皇を日本の中心に意図的に仕立てた明治政府という風に思っております。
「万世一系の・・・」などというのは、いつから言い始めたことなのか? 江戸時代の人は、天皇家に対してどういう感情を持っていたのか、それをうかがえる文献などはあるのでしょうか?
枕草子なんかには「いと、やんごとなき・・・」などの表現がよく出ていましたが、一般庶民も貴族に対してそういう気持ちを持っており、それが江戸時代の庶民にもあったと考えられますか?
以上よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

天命の大飢饉に対して、何も対策を講じない幕府に対して、一般庶民のの間から「御所千度参り」という現象が自然発生的に起こっています。

http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2009/11/post-80ba.html

#1さんのおっしゃるように、江戸と上方では少し違ったかも知れませんが、少なくとも近畿地方の人々にとっては、天皇家は敬うべき対象だったと思います。

Q最も、平和だった(失われる命が少なかった)江戸時代の時期っていつらへんですかね?? もし、好きな過

最も、平和だった(失われる命が少なかった)江戸時代の時期っていつらへんですかね??

もし、好きな過去の時代で生きられるなら、と言う問いに対して、江戸時代と答えたのですが、江戸時代には飢饉も有りましたし………

Aベストアンサー

大まかに江戸時代でいいよ。
今の戦後の70年多少の栄枯はあっても大してさはないでしょう。
その程度の差なんです。
控えるとすれば戦後の短い期間、江戸末期の混乱くらいかな。

Q江戸時代の庶民は歴史教育を受けていた?

「戦記物」と言えば、今も昔も人気のジャンルですが、定番の「太平記」「平家物語」
などが江戸時代から小説や演劇の分野で人気を博していたそうです。
「戦記物」というジャンルは、時代設定とか登場人物がある程度把握できて
いないと話が分かりにくいので楽しめないと思います。

江戸時代の庶民の学校での教育内容とは「読み書き・算盤」というイメージが
ありますが、実は高度な歴史教育が為されていたのではないかと推測できます。
江戸時代も我々現代人と同様に学校で歴史の教育を受けていたのでしょうか?

Aベストアンサー

結論を言うと武士や貴族は藩校(武士の学校)や個人的な塾や家庭教師という形で歴史教育というか教養として学ぶ機会がありました。
とは言え今の学校教育のようなイメージでは無く漢文を学ぶ為のテキストとしてたまたま中国の歴史書を使った為自然と覚えたという形です。ですから体系的なものではありませんでした。
それと江戸時代以前までで歴史というのは中国史であって日本史は国学が盛んになるまでは比較的マイナーな扱いだったりします。

一番有名なエピソードとしては鎖国政策が実は江戸幕府の政策だったのに古来(神武天皇とかの時代)からの法と思ってた人が結構多かった事があります。これには江戸時代の人で頼山陽という学者の書いた日本外史というテキストがベストセラーになりました。これは源平から徳川初期までが書かれていたのですが太平記等を下敷きにしたものでしたので文学とか小説みたいな感じです。今で言うならば司馬遼太郎の作品が似たような感じです。

なので肝心の学問的な価値は低い代物であった為重要な政策等が分かりづらい欠点があります。ありますがそれを差し引いても多くの人々に訴えかける「何か」があり後世の幕末に多大な影響力を行使したと言えます。私はその「何か」とは熱血とか燃えとかだと思いますけど。

少し脱線しましたが庶民はというと所謂琵琶法師や講談或いは芝居や歌舞伎といった形で軍記物等の歴史に接しました。今ならば映画や小説とかテレビの時代劇がそれにあたります。なので庶民が知る歴史とは現在ならば銭形平次や水戸黄門とかNHKの大河ドラマを見て歴史を語る様な物であったりします。

結論を言うと武士や貴族は藩校(武士の学校)や個人的な塾や家庭教師という形で歴史教育というか教養として学ぶ機会がありました。
とは言え今の学校教育のようなイメージでは無く漢文を学ぶ為のテキストとしてたまたま中国の歴史書を使った為自然と覚えたという形です。ですから体系的なものではありませんでした。
それと江戸時代以前までで歴史というのは中国史であって日本史は国学が盛んになるまでは比較的マイナーな扱いだったりします。

一番有名なエピソードとしては鎖国政策が実は江戸幕府の政策だ...続きを読む

Q江戸時代の酒場

時代劇に登場する居酒屋は、現在の蕎麦屋にあるような木製のテーブルや腰掛が出てきますが、ああいうテーブルに腰掛けて食事をするというスタイルは、実際には大正時代のカフェという酒場が出来てからだそうですね。
また、酒樽に腰掛けてカウンターのような席の酒場も見たことがありますが、これも江戸時代には有り得ない光景だったようです。
江戸時代の実際の酒場は、ほとんどが今で言う座卓だったのでしょうか?
また、こうした時代劇の誤りを指摘した本などがあれば教えて頂けると幸いです。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

酒を飲むお店はいろいろありますけど、酒屋が店先で酒を飲ませる形、屋台の店、そして居酒屋は「煮売り屋」からの発展系と思います。
この煮売り酒屋ですけど、

http://www.cleanup.co.jp/life/edo/03.shtml



http://homepage3.nifty.com/shokubun/izakaya1.html

を見ても、お盆の上の皿に料理を盛って畳に置いて食べていますから、座卓もなかったと思いますよ。

Q江戸時代の庶民は他国の脅威を感じなかった?

現代の日本ではことあるごとに、北朝鮮がミサイル発射するだの、
中国が尖閣に攻めてくるだの、他国の脅威を感じていて、
ふだんの生活でもグローバル競争社会で日本は生き残れないだの
言われてますが、黒船が到来する以前の江戸時代の庶民はこういう
他国の侵攻や弱肉強食の国際社会での生き残りなんて
気にしないで、のほほんと生きていたのでしょうか?

Aベストアンサー

 東日本ではどうだったかわかりませんが、西日本では庶民もある程度他国の脅威を感じていたのではないかと考えます。
 元寇に実際に攻められ、広範囲ではないにせよ戦場となり、実践を戦ったことは寺子屋や僧侶、末端の武士を通じて知っていたでしょう。
 元寇のあとに、外国からの襲来に備えた土塁が西日本各地に作られたのは日本史でも習いましたが、それら防御施設は漁民や農民、庶民の生活のすぐそばにあったわけです。土塁と言うと白村江の戦いの後の福岡市の水城が有名ですが、ああいう大きくて史跡指定になってるようなのじゃなくて、元寇後の中小規模の土塁は今でもポツンと海の近くにあったりします。「これは異国が攻めてきたときに異人の兵隊が、村になだれ込んで来ないために、先祖がつくったものじゃぞ。」というのは口伝えで伝えられていたでしょう。
 東日本の人からしたら日本史の教科書の中の文字の話かもしれませんが、西日本の人間からすればまさにこの場所であった歴史です。
 その前の時代、刀伊の入寇(といのにゅうこう)などでも、突然やって来た異国人に博多の町は焼かれ、住民が殺され、女は手のひらに穴を開けられてじゅずつなぎにされて奴隷として売るために連行されて行きました。
 また西日本の海岸には大陸からの漂着民というのがよく来ていました。以前研究者が書いた一般人向けの資料を読んだことがありますが、江戸時代だけでも「えっ、そんなに!」というくらいの数の漂着民が来ていて驚いたことがあります(具体的な数は忘れました)。
 自分たちとは違う服装をし、違う言葉を発する異国人を最初に発見するのは漁民などの庶民です。漁民というのはどこの漁民もそうですが、昔から海賊的部分を持っていました。海辺に流れ着いた者が弱っていれば身ぐるみ剥いで金目のものを奪って、見殺しにする。なので逆に、漂着民のほうでも警戒して、助けるふりをしてやられはしないか、やられそうなら先に相手を殺してでも生き残らねば、と身構えます。
 漂着民を助けるのも気をつけないと、助けようというこちらが逆にやられるかもしれない。特にことばの通じない異人は、ちょっとした勘違いで誤解されて攻撃を受けることになるかも。

 国際社会がどうのとかは知らなくても、おそらく庶民でも皮膚感覚で外国の恐さというのは感じていたのではないでしょうか。
 庶民にとって外国といえば、お釈迦さまの国、天竺(てんじく)とか、偉い人がいっぱい出たというシナとか、この辺でも昔たまにヤシの実が流れ着いていたのですがヤシの実がなってる南の方にもどうやら異国があるらしい、あとは朝鮮。そのくらいでしょう。
 外国からはお釈迦さまの話とか良いものも来るけど、自身の生命を脅かす悪いものも来る。なので、漠然と気のかまえはあったでしょう。

 また話が前後しますが、秀吉の朝鮮出兵のときは全国から庶民が兵士として駆り出されましたが、特に西国(さいごく)からは多くの庶民が徴発され朝鮮へ送られました。
 私が住んでいる県からも徴発され、ある村からは男という男が全て徴発され、村には女子供老人しか残りませんでしたが、文禄慶長の役が終わってもとうとうただの一人の男も半島から帰って来ず、村は労働力を失い極貧に瀕します。むらおさが「これからどうしたらいいのか」と途方にくれて書いた文章が○○家文書として残っています。この悲しい記憶は江戸時代を通じてずっと語り継がれて行きます。
 また、その隣り村では運良く帰国出来た者が朝鮮から捕虜2人を連れて帰ります。「2人に耕地を与え農業をさせ、地元日本人娘と結婚もさせ、2人とも元気でやっております。」という記述も△○家文書として残っています。
 つまり、海の向こうの異国とは戦争をすることもあるのだということ、戦争では人が死に大変な被害が出るということ、戦争で異国に捕まったら帰って来れず異国で暮らすことになることもあるということ、弱い国の人間は悲しい目に合うのだということ(弱肉強食)、そういうことを庶民も実際の体験やオーラルヒストリーで知っていたのです。
 秀吉の時代って江戸時代の人からすればすぐちょっとちょっと前、こないだなんです。徳川の御世のすぐ前ですから。

 ( 御質問は庶民の意識ですが、では武士は他国の侵攻や弱肉強食の国際社会での生き残りを気にしていたでしょうか。徳川幕府の人間はどうだったでしょうか。今大河でやっている東北の諸藩はそういうことを考えていたでしょうか。
 よくは知りませんが、少なくとも西国諸藩は黒船到来以前から考えていました。黒船が姿を現す前から国防の重要性や産業の振興を考え、新式武器を自力で開発したりしていましたね。御存知のように、佐賀藩、薩摩、長州などがそうでしたですね。長州では黒船より前に、村田清風という上級武士が『海防論』を著わしたりしています。 ) ← 余談でした。

 東日本ではどうだったかわかりませんが、西日本では庶民もある程度他国の脅威を感じていたのではないかと考えます。
 元寇に実際に攻められ、広範囲ではないにせよ戦場となり、実践を戦ったことは寺子屋や僧侶、末端の武士を通じて知っていたでしょう。
 元寇のあとに、外国からの襲来に備えた土塁が西日本各地に作られたのは日本史でも習いましたが、それら防御施設は漁民や農民、庶民の生活のすぐそばにあったわけです。土塁と言うと白村江の戦いの後の福岡市の水城が有名ですが、ああいう大きくて史跡指定...続きを読む


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