プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

1)「自然は数学で書かれた偉大な書物である」と。(ガリレオ)
2)「自然は数学で出来ている」がや。(何処かで聞いたような)

1)から2)の帰結が肯定されそうですが、

1)では、自然に対する敬意と謙虚さを保持して、
その上で、自然を体系的に観察するには数学が有効である、
と、述べるに留まって、否定の必要はあまりなさそうですが、
2)では、自然を単なる対象として、数学で理解できる、といった
断定的な意図が見受けられます、つい、否定したい誘惑に駆られます。

1)から2)への論理的誤謬について、ご指摘下さい。(誤謬の有無を含む)
さらに、
1)ついて、ではそれ(数学で理解するのが容易)は、なぜか?
このことを問題にした哲学者や資料があれば教えてください。
結局、2)だから、1)だという事になりそうで、混乱しています。

テストもレポートの予定もありませんし、私見も混入していますが、
宜しくお願いします。

A 回答 (22件中1~10件)

そうでしょうかっ!?


失礼しました。

回答ではないですが、
自然は数学(数式)ではないと思います!
アインシュタインも確立肯定派だったのかな?

生物学的には1+1=3以上で、2だったら子孫繁栄しません。
1+1=1+1
答え『2』という取り決めはは人間が作った数学概念(?)。


数学は嫌いというより全然(滝汗)。
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この回答へのお礼

失礼です、と切り返せないのがつらいですが。
私も数学は(も)苦手で、自信が無いから切り返せません(笑。

先月、DVDのお店にやっとダビンチコードのパッケージに中身が
早々借りてきて見たのですが、何を見たのか覚えていない中で、
「フィボナッチ数列」が印象に残っています。
1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89・・・
この数列は、兎の増え方から、カタツムリの殻、植物の葉の配列まで説明でき
簡単に総和も計算できまるらしいのです(私は良く知らないですが)。

確率も数学じゃないの、と言いたい所ですが、数学音痴、どうなんだろう。
たっぷり汗をかいて、内臓脂肪の解消が出来ると一石二鳥。

そうそう、決して、
自然は数学で出来ている、と決め付けているわけではないですよ。
此処では、穏かに「なぜ」に注目、有難うございました。

お礼日時:2007/05/04 06:29

難しいことは分かりませんが、



例えば
1.車は設計図で出来ている
2.設計図は紙である
3.ゆえに車は紙で出来ている

ということになれば誤謬(この言葉も難しい)って事でしょうか?
ちょっと違うかな・・・
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この回答へのお礼

面白い例え話ですね。
この例の話では、間違いということでしょうが、
今回の質問の、1)と2)の関係は微妙ですね。
これは言葉の使い方の問題かもしれませんが、
ガリレオの言葉を単純に「なぜ」というのは以外に難しいですね。
数学で説明できるからと言って
数学でできているとは限らない、ではなぜ説明できるのか?
あっ、ひょっとして、秩序の法則が数学でできている、
いかん、やっぱり数学でできていることになってしまう。
ご回答有難うございました、寝ながら考えてみます(笑。

お礼日時:2007/05/07 18:34

>>ANo.1 お礼


>確率も数学じゃないの、と言いたい所ですが、数学音痴、どうなんだろう。

 いちよ確率も数学でしょ。だって、数学の授業でならったんですから。そんな定義でいいと思うんですが。

 
 また、数学にしろ、確率にしろ、これが本当の真理かどうかっていうのは微妙だと思います。何せ人間の作ったものですから。
 人間の発見した真理というのは、ただ人間にとって、便利な法則というような感じか、そう信じているだけだと思います。
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この回答へのお礼

>確率も数学でしょ。だって、数学の授業でならったんですから。
もしもし、声が大きいです。
この辺りは、あまり固いことを言わずに、穏かに(笑。

ところで、変なこと突っ込むみたいで
前言と矛盾していますが(おぃ。
数学は人間が作ったもの、発見したもの、どっちなんだろう。

脱線も楽しめれる範囲内ならいいのですが、
度を過ごすと嫌われてしまう、今回セーフ?アウト?
ご回答有難うございました。変なお礼しか思い浮かばずゴメンナサイ

お礼日時:2007/05/07 18:46

こんばんは、fishbowll66さん。




●1)自然は数学で書かれた偉大な書物である


●2)自然は数学で出来ている





うへぇーん、泣きはいりそうなお題だこと。情調的な 1)をみてから 2)をみると、ありゃまぁ、ちと無味乾燥?味気ないかなぁと思いもするか?味にたとえると 1)は濃い味 2)は薄い味と。先に濃い味を口にすると、あとから口に入れたのは味もしゃしゃりもないように物足りなさを感じちゃうだろうな。ほでも、まてまて、先に薄味をひと口口へ入れてみなはれ。口の中でそのものの味広がりませんか?飾りがない、ないということはある意味表現の自由が担保されてるとみることはできんやろか?幅がある。限定されてはいない。広がり可能性を含む。



そないこない、思いながらここを眺めてますと…ダッシュとアポストロフィーに思いが飛びます。
類似していることを表すダッシュ。所有をあらわすアポストロフィーs。


【わかる算数 5年生】

【2つの三角形の面積】
http://web2.incl.ne.jp/yaoki/2trisur.htm

http://web2.incl.ne.jp/yaoki/a2trisur.htm


【第73号第95条 錯誤】
http://www.mainiti3-back.com/archives/2005/11/po …


【互助法】
http://www.math.kobe-u.ac.jp/~taka/asir-book-htm …

【岡本綺堂 中国怪奇小説集】
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1301_ …


【九鬼周造「いき」の構造】
http://www.su-ki-da.com/aozora/search?query=cach …


【なぜ関数プログラミングは重要か】
http://www.sampou.org/haskell/article/whyfp.html





一文字、一文字、手入力、、、汗かいてます。

この回答への補足

浮世の義理ごとと読書を楽しんでいましたが、最近
そこへお絵描きが加わり、なかなかどうして、忙しい振りが身に付きました。
読書やお酒は、眠たくなるのですが、
お絵描きは、いつの間にやら二時間と、きりがありません。
月曜の朝は寝坊をし、思ったより眼が疲れている。

そんな訳で、ご紹介頂いたページがなかなか、
なんとか読み終えてから、御礼をします、御礼飛ばしと誤解されないように
補足しておきます。

PS折角の前島密、横浜の観光案内を持って東京見物、お馬鹿さんでした。

補足日時:2007/05/08 19:03
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この回答へのお礼

つぎに、おなじ年(1504)の晩春に日根野荘で起きた、菖蒲村の検断一件である。同じ村人の米俵を盗もうとして見付かった、正円右馬という百姓は、ほかに盗みの余罪もあるということで、これは村の「寄合」で、あっさり首を切られてしまった。領主もさっそく検断権を発動して、まずは犯人の「検断物」の押収にかかる。・折から一帯は大飢饉にみまわれ、庄内には盗みが頻発していた。・
さらに「跡之田地等作職以下」について領主は、「譜代百姓也、於子孫者、不断失、公事屋等可置」と思案していた、とある。そこへ、「菖蒲村之惣地下」を代表して、番頭の源六宮内がやってきて、いう。
「遺跡事、公事屋条、不可被失哉、然者、彼作職以下、子ハ年少之条、伯父(大屋右近)以下、為惣地下預置、彼之子ヲ可取立之田、望申了、」
犯人の遺跡は村の公事屋なので、作職以下は伯父と「惣地下」で預かり、遺児が成人したら「取立」ててやりたい。・・・
こうして、村側の遺跡取立ての申請が認められ、領主に払う「一献料」は千疋ときまった。さっそく村からは、その一部をもって領主館へ礼にでる。遺跡を売り払えば、三、四千疋余にはなるのにとか、作職はぜひ隣の大木村になどと言う声にも、領主はいっさい耳を貸さないが、然るべき額の礼金は、しっかりと取るのである。さらに二十日ほどして、一献料を「皆済」すると、それを機に菖蒲村の村人は、領主に「書下」つまり領主の証明を申請し、菖蒲村あてに、つぎのような奉書(家来の発行する証書)を交付してもらった。
正円右馬遺跡田畠等事、一紙注進被、御覧畢、爰子就小年、可成人之間、伯父以下為惣地下預申、勤御公事、可致其役之田、申請条、被聞食之田、仰出者也、仍状如件、・
父が盗人の咎で処刑されたあと、遺された上の女児は十二歳、下の男児は六歳であった。だから、伯父や惣地下による田畠の耕作と公事の肩替りは、おそらくその男児の成人まで、十年ほどにもわたることになる。・
なお、この「遺跡」はその後、惣衆も大屋右近(伯父)もともに知らぬうちに、村の番頭の源六宮内が独り占めしていたことが露顕し、大きな騒ぎになる。村の遺跡取立てといっても、それが現実の姿で、実現には多くの困難が伴っていた。(「村と領主の戦国世界」藤木久志)

その上、今月のお絵描きは、三点。自転車散歩一日。
連休後半を活用したとは言え、何しろ、忙しかったのです。

お礼日時:2007/05/25 22:40

数学ぽく描いてみます。



世界Wがあって、世界Wを数学Mに対応させる写像Fがあって、世界Wの要素全てをMの要素にに対応させることができる。このとき、要素とは、それを構成するものだけでなく、構成するものの間の関係も対応させることができる。これが(1)「自然は数学で書かれた偉大な書物である」です。でも、本当は(1-a)といったところでしょうか?理由は以下の通り。

まずはともかく、Wの要素(や関係)wがMの要素(や関係)mに移されるとします。しかし、数学Mはべつに世界ではないので、Wの要素(や関係)xをMの要素(や関係)mに対応づけてもOKです(個別性を持たなくても良い)。言葉でも同じで「私はあなたを愛している」という言葉で「私」がAさんやBさん、あるいは、私でも良いわけです。つまり、WをFで移したものF(W)は確かにWに含まれるとしたとしても、実はF(W)をもとに戻すと1対1になっていなくて(例えば「私」をAさんやBさんや私に対応させる世界です~パラレルワールド!)、Mでは何かが抽象されてしまうわけです。
これを私たちは「なんか大事なこと忘れてませんか?」というわけです。

ことろが、じゃあ、抽象されないように全ての要素と関係を丸ごと写し取ってしまえばよいではないか!という考え方もあります。「私はあなたを愛している」というのは失格で、「AさんはXさんを愛している」「BさんはYさんを愛している」「私はZさんを愛している」という言葉が正しいわけです。つまり、数学Mに世界Wを写像Fで埋めこんだものと、世界Wが1対1の関係で結ばれるわけです。これが(1-b)になるでしょう。でも、そんなの人間わざとは思えないし、なんか危うさを感じます。

さて、(2)は「自然は数学で出来ている」がや、といっているので(1-b)との対応関係にあるかと思いますが、(1-a)とは別物です。この辺りが、つまり、できるんだかできないんだか危うい1対1対応のありなしが、誤謬の香りがする原因ではないでしょうか?

数学で理解するのが容易な理由は、数学がわれわれが「理解した!感動した!」という感覚をえることのできる関係性を記述する学であるためではないでしょうか?

でも私は思うのです。私がもっとも理解したいと思い、感動したいと思うのは、「物語」なのではないかと。それゆえ、私にとって、世界は(言葉ではなく、もちろん数学でもなく)「物語」により語られるべきではないかと。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
なかなか、読み応えのあるご回答です。

ご回答を簡潔に判り易く、曲解して単純化すると、
現象学的に、認識の象徴形式により数学的理解が有益、と。
この曲解には、誤解があるでしょうか。

だとすると、
水一リットルは、一キログラム、
水銀一リットルは、一キログラム×比重、
このような、物質の性質そのものへのアプローチは、
軽視もしくは無視して、現象的レベルで収まりきるでしょうか。
この辺り、少々疑問が沸きます。
勿論、ご回答者様にご指摘頂いたような、構造は確かに有ると納得できますが、
まだまだ、別の理由も有るのかもしれない、などと、考えあぐねています。
大変参考になります、有難うございました。

お礼日時:2007/05/08 19:06

>>ANo.3 お礼


>数学は人間が作ったもの、発見したもの、どっちなんだろう。

 数学って、世界の規則を人間が表した学問ですよね。そうすると、世界の規則は人間が発見したもので、数学は、人間が作りだしたものということになるんだと思いますよ。
 また、世界の規則というのは、人間が便利になるように考察したり、ただ興味本位に世界の規則だと言って喜んでいるだけだと思いますんで、完璧に、それが存在しているかどうかは分からないと思います。


>度を過ごすと嫌われてしまう、今回セーフ?アウト?

まあ、話していけるんで、セーフっぽいですね。本当に嫌いだったら、話しませんから。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
我侭な道草にお付き合いを頂き有難うございます。
結局、私も今回は存在のことか良く解らないようで。
そこでガリレオの言葉が引っかかったのでしょうか。
現象学の判断中止とか、物自体とか、
存在そのものが、最近、おざなり状態のような気がします。
お礼が遅れて、失礼しました。

お礼日時:2007/05/12 17:32

自然を数学で語ることの有益性は認識の象徴形式であるとは思います。

ただし、数学は内在的に人間の認識を超えた演繹性を有しており、数学的に「・・・でなければならない」という理由でいろいろ未知の自然現象がわかったりします。

たとえば、数学で物質の運動が記述できれば、その空間のなかにいながらにして、空間の曲がり具合を知ることができたり、100年前は電子と陽子しか知られていなかった(つまり、人間は自分の体重の半分がなにで出来ているのか知らなかったわけです)それが実験ではなく、理論的に予言され確かめられたりしたわけです。

私たちは自分の認識した経験のない事柄を、認識するための道具として、なんでも埋め込んでしまえる数学という装置を使います。数学はその埋め込まれた認識のかけらを純化して新たな関係を浮き彫りにし、私たちは、その事柄を(数学的に)認識できるようになります。それゆえ数学とは認識そのものであり、その一方で私たちの認識の範囲を広げてくれます。そしてどうやら、私たちがそういう営みで「わかった」と思った瞬間に、いつも私たちの知らない認識すべきものの影がちらつくようです。つまり、数学は自然のように豊かであり(つまり、数学に自然を埋め込もうとすると記述できる範囲で出来る)、自然は数学に映し出される構造をいつもはみ出しつづける、といったところでしょうか?

「物質の性質そのものへのアプローチ」は性質そのものを数学に埋め込めばよいわけです。究極的には物質を構成する粒子の運動を記述すれば、性質そのものを記述できますし、性質そのものに着目して、たとえば光の反射具合も、人体への影響も、それぞれのレベルで数学に埋め込んで、反射率や生理反応としてあらわせばよいのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

再度のご回答有難うございます。
物分りの悪い、質問者てご迷惑をお掛けします。

いつも思うことなのですが、
どんな学問もある意味限定して、考察しますから
何かしら、はみ出すものがあるんですよね。

雰囲気として、それで仕方が無い、という事でしょうか。

1)と2)の関係は国語の問題みたいですね。
問題は、最後の、質を量に還元出来てしまうのか、
それともここでも、はみ出すものが出てくるのか、

最近は、「差異のみが存在する」と言った哲学が
もう一つ理解できずに、困っております。
御礼が遅くなりまして、申し訳ありません。

お礼日時:2007/05/12 17:49

存在形式が書物と数学では違うので、2は不合理です。


あきらかに自然は延長を持つから。
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この回答へのお礼

お礼が遅れました。
難解なご回答、有難うございます。
内包とか延長とか外延とか、難しいですね。

難解なお礼。
存在しないものに関して、あれこれ考えたくない、
とすると、現象学でよいのかな、と。

お礼日時:2007/05/12 17:55

こんばんは、fishbowl66さん。




ANo.4へのお礼を読みました。なんか、お気遣いいただいているような…気ぃーつかわんといて下さい、littlekissにおいては。返事があろうがなかろうが気い悪うにはしやしませんて。逆に返事返さな返さなと、気いもまれて急いて具合悪されても困ります。かえって気い遣わせたみたいな格好になってごめんやで。


ところで、横浜の観光案内を持って東京見物ですか?


ガグッ=☆



ズッコケてどうする!!!


あっ?!コレ、お約束? < 吉本新喜劇かぁー

ほでは、ぼつぼつ石橋を叩いて…いや叩き割らない程度にこのお話つづけます。よろしく。しかし、ヤバいです。1)と2)をみてますと…ぽわぽわぽわとゲシュタルトあらわる。『自然』が後ろの書物という文字につられて『辞書』とみえてくるから艶めかしい。ひとつ「論理的」とことばを引くと、論理にかなった様とこうでてくる。続いて「論理」を引くと、論証の筋道と。「筋道」と引くと、道理、手続きと。「道理」と引くと、物事がそうあるべき筋道と。「手続き」と引くと、事務上必要な一連の手順。「論証」証拠を示し、正しい論理によって証明すること。山手線ゲームのようにぐるっと一巡、はじめにもどる。こうみると、辞書って言葉の整合性が保たれてるけど、なんか曖昧、化かされてるみたい、くるっとまわるんだもん。辞書は言葉の束の集積。ひとつひとつの言葉を数学という形式を用いることで仕訳し繋ぐ。そうして修められた言葉の束を辞書と呼ぶとすると、1)は辞書ー完成品 2)は辞書の成り立ち筋道手順ープロセスー構造とみることできるんじゃなあかなぁー。



大きく辞書と捉えれば、1)=2)


ものとつくりと捉えれば、1)≠2)






http://www5b.biglobe.ne.jp/~nitti/kaken/3/affoda …
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この回答へのお礼

littlekissさま、お早うございます。
気を使っているわけではなく、最初の数学が難解。
三角形をひっくり返して悩んでおります。

千代田区、国会議事堂前の早朝。
何とか坂の上から皇居方面、大手町を見下ろし
絶好の喫煙タイム、と、と、上手の方から警察官が接近
下手、正門前の警備車両の脇の警察官もこちらに注視、
やや、右手にライターとタバコを持って、不安がよぎる。

千代田区は路上禁煙という平和な日本の「吉本」でした。

山手線と辞書の言語ゲーム
「私たちには本質的に『象徴作用』が有るのさ」
『象徴作用』という言葉に責任転嫁して
私の思考が止まってしまった様な、
あぁ、また三角形がぐるぐる廻る。

お礼日時:2007/05/13 08:02

どうも難解なお礼文ありがとうございます。



明晰判明な表象が数学ということですよね。
結局、存在者とは何か、という問いは実体とは何かという問いなんですね。
しかし世界は表象であって実体は認識不可能だから函数関係に解消して理解する方法がない。
人間は直観で世界を把握できないようですから。
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この回答へのお礼

>人間は直観で世界を把握できないようですから。
などと、皆さん、解決済みと澄ましていませんか、って。

例えば、2)は間違いらしい。
なのに、1)は、どうやら成立するらしい。

で、そこには抽象化があって、もれるものもある。
そうなんでしょうね。
すると、数字の[1]は、量なのか質なのか。
頭の中に、山手線がぐるぐる廻っています、
こんな日は、外に出かけよう。有難うございました。

お礼日時:2007/05/13 08:19

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