今年で7年ほどになる生け垣のラカンマキがなんだか元気がなくってちょっと心配です。冬に油粕をあげて春先に少しだけ剪定してこの前虫がついていたので毎年使っている薬で除去作業して・・・でもなんだか元気がありません。7年もたてば根とかがいっぱいになってしまって元気がないのでしょうか?何かいい方法等ありましたら教えて下さい。

A 回答 (2件)

ラカンマキは扱ったことがありませんが、弱った樹木を復活させる方法として、メネデールを使用してみてはいかがですか。

なんか古木まで復活するらしいです。
HPで詳細が入手できます。

参考URL:http://www.menedael.co.jp/top/top.htm
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 少し早いですが油かすをやってみては?気になるようでしたらその時に、根の様子も見てやるといいのではないかと思います。

詰まっているようなら悪い根は切ってやります。梅雨のうちがいいですね。

 7年も育ててらっしゃるベテランですから、参考にならなかったかもしれません。すみません。
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Qラカンについて

ラカンのthe imaginary, the real, the mirror stageについて教えて頂けませんか?

それと今回、ラカンについてのレクチャーノートにthe subject exists in languageと書いてありました。以前、友達からegoとsuperegoは言葉から確立されて行くと聴いた事があるんですが、フロイトの本にはそのような事は書かれていなかったと記憶しています。(from the Freud reader, unconsciousness, ego and id and superego)これはラカンのthe imaginary, the real, the mirror stageに関係していますか?

Aベストアンサー

こんにちは。
懸案のフーコーは気になってるんですが、とりあえずこちらから先に片づけましょう。

ラカンは一次文献は読んだことがないので、「こういうことを言っている」ぐらいの知識です。それをもとに雑駁に書いていくので、いつもに増して危ういかもしれません。
だから、あまりつっこまれても、それ以上答えられない可能性は大です(笑)。
わたしがここでおもに典拠としているのはテリー・イーグルトンの『文学とは何か』です。

まず"the mirror stage" 日本語では「鏡像段階」というふうに訳されています。
これは"the imaginary" 想像界と大きな関係があるので、一緒に書きます。

まだ子供が赤ん坊ぐらいのときというのは、赤ちゃんは自分とお母さんの区別がついていません。遠いもの、近いものの区別もよくついていないんじゃないか、という感じもする。
ともかく、この主体と客体のあいだに明確な区分線がひかれていない。この状態をラカンは「想像界」と名づけます。

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「想像界」とは、確定した「自己」という中心を欠く状態、「自己」の総体が、対象へと流入し、対象もまた「自己」へと流入し、これが休みなくつづく閉じられた交換過程を形成するといった状態をさす。(「5 精神分析批評」p.253)
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ほんの小さな子供、立つのがやっと、ぐらいの子供が鏡に映る自分の姿を見ている。これがラカンのいう「鏡像段階」なんですが、このとき「想像界」にいる子供の内側で、統一された自己イメージが最初に発生する。
それまで「手」とか「足」とか、パーツとしてしか認識されなかった自分が統一的なイメージとして目の前にある。
ところがそれは鏡に映った像であって、真のその子の姿ではない。

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小児はこの像のなかに自分自身を「誤認」する。つまり、その像のなかに、自分自身の肉体においては実際には体験していない喜ばしい統一をみてしまうのである。ラカンのいう想像界とは、まさにそうしたイメージの領域である。私たちはそのイメージを自分自身と同一視する。しかし、まさにその同一視行為によって、私たちは自分自身を誤って考え、誤認へとみちびかれてしまう結果におわる。小児は成長しながら、諸対象と自分とを想像的に同一視することを続けるだろう。そうして、これが、小児の自我(エゴ)がつくられる過程である。ラカンによれば、自我とは、私たちが外界のなかに自分と同一視できるものをみつけることによって、統一された自己性という虚構の意識を、いや増しに強めていくナルシスティックな過程にほかならない。(p.254)
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この時期の幼児にとって、世界は幼児自身と、他者の肉体、すなわち、お母さんの身体から成り立っている。そこに父親がわりこんできます。父親は〈法〉を意味する。まず最初に近親愛を禁ずる〈法〉を持ち込むのです。そうすることによって、幼児は父親の姿のなかにより広い社会のネットワークを知る。自分がそのネットワークの一部であること、そこには自分のための役割もあることを理解する。そこで、自分の欲望を、無意識のなかへと押しこめる。

父親の登場によって、性差ということが問題になってきます。ラカンにとって重要な用語となる「ファルス」、この「ファルス」によって象徴される父親の存在によって、幼児は性差を知ることになる。

ラカンの独創性は、このエディプス・コンプレックスのフロイトの理論を、言語に置き換えた点です。

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鏡の前で自分の姿をじっとみつめている幼児は、一種の「記号表現」―つまり意味を付与できるもの―であり、また幼児が鏡のなかにみているイメージは一種の「記号内容」であると考えることができる。幼児がみている鏡像は、とりもなおさず自分の意味なのだ。
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ここで「記号表現」と「記号内容」はぴったりと一致しています。ここにはまだ差異もなにもない。

ところが父親の登場によって性差という差異を発見し、同時に言語を発見することになる。
最初は、おなかがすいた、寒い、ということを示す信号でしかない泣き声はしだいに、言語へと接近していきます。
ここでふたつのことを無意識のうちに学んでいく。
ひとつには、ひとつの言葉はそれ以外の記号との差異によって意味を成すこと。
もうひとつは、言葉はそれが意味している対象の不在を前提としていること。

こういうことを受け入れて、幼児は「想像界」から「象徴界」へと移行することになります。

ところがこの主体は、自我の支配する意識的生活と、無意識、つまり抑圧された欲望とのはざまで引き裂かれた主体です。

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これは、母親の身体つまり現実を「くまなく」想像的に所有している状態から、言語という「空虚な」世界へと追放されたに等しい。言語が空虚であるのは、それが、差異と不在からなる終りなき過程であるからにほかならない。子供はいまや、なにかをくまなく所有するのではなくて、潜在的には無限につづくとされる言語の連鎖にそって一つの記号表現から別の記号表現へとただ横すべりをするにすぎない。…この連鎖のなかでは、いかなる対象も人物も、完全に「現前する」ことはありえない。

 一つの記号表現から別の記号表現への、この潜在的にはてしがない移行をさして、ラカンは欲望と呼ぶ。あらゆる欲望は、欠如から生まれ出る。その欠乏をあらゆる欲望は埋めようとたえず努めている。人間の言語は、そのような欠如によって作用する。
----

つまり、ここにわたしがいます、ということは、実際に一緒にいるときには言う必要がない、ということです。推理小説に出てくるアリバイ、「わたしはそのとき××にいました」というのは、そこに不在であるからこそ語られなければならない言明です。上でもちょっと書いていますが、基本的に言語はそのものの「不在」を前提とするのです。

ここからラカンの言う「現実界」が出てくる。
質問者さんはカントを読んでるからわりとこれはピンときやすいと思う。
「現実界」というのは「もの自体」の世界のことです。
現実界とは記号作用の外側にあるもの。わたしたちは知ることも、接近することもできないものです。

だいたいこれで回答になっているでしょうか。
とりあえずはここらへんで。
わからないところがあれば、能力の及ぶ限り、おつきあいします。

今回はイーグルトンから引用しましたが、とりあえず、本だけはいくつか持っているので(笑)。

こんにちは。
懸案のフーコーは気になってるんですが、とりあえずこちらから先に片づけましょう。

ラカンは一次文献は読んだことがないので、「こういうことを言っている」ぐらいの知識です。それをもとに雑駁に書いていくので、いつもに増して危ういかもしれません。
だから、あまりつっこまれても、それ以上答えられない可能性は大です(笑)。
わたしがここでおもに典拠としているのはテリー・イーグルトンの『文学とは何か』です。

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Q萩の花が咲きそうにありません、庭植えの萩の剪定を春先に思い切って

萩の花が咲きそうにありません、庭植えの萩の剪定を春先に思い切って
根元から40センチくらいに切り詰めましたが、どんどん伸びて背丈より大きくなりましたが
花芽が出来ていないようです、外灯が近くにありますがやかんの明るさも影響ありますか
教えてください

Aベストアンサー

萩は確かに今の時期から咲き始めていることはありますが、今の時期に花芽がないからといってこれから秋にかけて咲かないとは言い切れません。
文章を拝見している限りでは、春先の強剪定後、手を加えていないということですが、この場合管理が間違っているわけではありません。
(梅雨時期に伸びた枝を軽剪定し、枝数を増やしながら花を持たせる、という管理もあります)。

もうしばらく様子を見てみることをお勧めします。

Qジャック・ラカンの不毛性

ジャック・ラカンの精神分析が、哲学として読まれるとき、そこには記号論と個体の発達段階論、あるいは自己同一性に関する独自の工夫を読み取ることが出来る。そこで問題になるのが、これが科学のテキストとして読まれるときに、説明能力の高い理論であるという風に誤解されているということである。実際には、子供や学生にしか適用できない。つまり、ラカンやラカン派の人々に与している人々によってしか、そしてその人たちが子供や学生を注意したり罵倒したり、批判したりする限りにおいて、説明能力を持ち、反対にこの種の能力が発揮されない学校や家族や大学の学部や大学院でしか、通用しないということである。このことは、臨床心理学の修士号を取得している臨床心理士達によってよく知られている。しかしながら、相変わらずよき教育者であたったり、教育評論家で会ったりする人たちはこの種の実務能力を持った人々と同等の知識を持たない。そして、依然としてラカンの提示した概念とその構成法に従って、まったく独創性も、対人的な影響力もない言動をして、教育関係者たちの間であまり意味のない説明や解釈を繰り返しているというわけだ。このことによって、ラカンの不毛性は証明されたと、私は考えるのである。

ジャック・ラカンの精神分析が、哲学として読まれるとき、そこには記号論と個体の発達段階論、あるいは自己同一性に関する独自の工夫を読み取ることが出来る。そこで問題になるのが、これが科学のテキストとして読まれるときに、説明能力の高い理論であるという風に誤解されているということである。実際には、子供や学生にしか適用できない。つまり、ラカンやラカン派の人々に与している人々によってしか、そしてその人たちが子供や学生を注意したり罵倒したり、批判したりする限りにおいて、説明能力を持ち、反...続きを読む

Aベストアンサー

 J.ラカンについては つねづね 解明を期待して来ました。むしろご教授を乞いたい そのための投稿です。
 
 《表象しえないもの》を表象しようとしているのではないですか ラカンは? 臨床の仕事については 分かりませんが 文章表現についてみるときには 何を言っているのか 理解を超えていると やはり 言わざるを得ないのではないでしょうか?

 具体論で考えてみます。ただし ラカンは 無理です。J.クリステワ゛を持って来ます。
 まづパウロの言葉に 《文字は殺しますが 霊は生かします》(コリント後書3:6)があります。いま きわめて端折った言い方で クリステヴァの見解をめぐって
 ○ 《記号象徴態 le symbolique 》
を この《文字》に当てはめますと おそらく
 ○ この文字=記号象徴態は 《霊》=《原記号態 le semiotique 》の代理表現なのだ
と思われます。
 これら霊(ル・セミオチック)と文字(ル・サンボリック)を全体として捉えたかたち あるいはまた そこに 人間の思想一般を容れて 全体として捉えたかたち このような構造が動態的にして 意味生成の過程を形成していると言っているのではないかという推測です。

 もしこの想定で考えうるところを述べよと言われたなら こうなるのではないでしょうか。クリステヴァの理論はすでに 哲学を超えている。つまり 霊ないし神の力を 原記号態(ル・セミオチック)が 自由自在に 発揮して 記号象徴態ないしテクストの上に 作用させその跡を残していると言っているのではないでしょうか。

 すなわち――かんたんな推論にとどまりましたが―― 表象しえぬものを あたかもニュートリーノがとおった跡を観察するのに似て 表象しうる経験事物において 捉えようとしていないでしょうか。
 例のE.A.ポーの《隠された手紙》をめぐって 評論風に展開するラカンの議論は あたかも そのような神探しに似ています。もちろん そうは言っていません。

 たとえばちなみに パウロを出した関係ででも 神なる三位一体( 父‐子‐聖霊 )はそれに 人間の三行為能力( 記憶‐知解‐意志 )の時間的な齟齬を伴なった一体が いくらかは 似ているという理論のようにです。それゆえ 順に 《司法‐立法‐行政》の三権分立(=社会全体の協業としては回りまわって一体)なる慣習があるという見方です。表象しえぬものの通った跡であるかのようにです。

 クリステヴァの場合も いわばこの超経験と経験とのあたかも交流があるとまで言おうとしているのではないでしょうか。
 少しなじって言ってみれば 公理だとか先験的であるとか言う場合には 表象しえぬものを すでに前提しているようにも考えられます。

 いづれにせよ クリステワ゛そしてラカンは けっきょく 神学の焼き直しであるように その思想の核の部分では 思われます。
 もし 構造主義が その基礎に横たわっているとすれば それは いわゆる《無主体》の思想となって現われていると見てよいのではないでしょうか。およそ 構造主義的に推移する社会は 根本的には 無主体の過程であると言おうとしていないでしょうか?

 もしそうだとして そのときには 《ひとは 主体ではない。すなわち 自由意志を持ち合わせていない》 こういう主題と議論の問題であるように考えます。自由意志説に立てば ラカニアンらは 不毛の議論をしていることになります。
 しかも 複雑であります。もし無主体として ラカン派が その主張を展開しているとすれば その意志は どこから来るのか。すべて受け身にて あらゆる人間と社会の事象を捉えていると言うとすれば どこへ向かうのか どこへわれわれをみちびこうとしているのか これを 明らかにして欲しいと思います。もし 成るように成ると言おうとしているのなら ほうっといてくれ わたしは わたしの自由にするからと答えるでしょう。

 J.ラカンについては つねづね 解明を期待して来ました。むしろご教授を乞いたい そのための投稿です。
 
 《表象しえないもの》を表象しようとしているのではないですか ラカンは? 臨床の仕事については 分かりませんが 文章表現についてみるときには 何を言っているのか 理解を超えていると やはり 言わざるを得ないのではないでしょうか?

 具体論で考えてみます。ただし ラカンは 無理です。J.クリステワ゛を持って来ます。
 まづパウロの言葉に 《文字は殺しますが 霊は生かしま...続きを読む

Q生け垣の強剪定の時期?

九州在住です。3年目のプリペット(セイヨウイボタノキ)生け垣が、丈も幅も大きく成りすぎました(丈は50cm、幅は片方で20cm両方で40cmオーバー)。
剪定時期を調べると「5月から2月おきに9月くらいまで3回」とありますが、5月まで待てばその芽が展開し、ますますオーバーになり、その時強剪定(再新芽の伸びを考えれば丈-60、幅-30cm)すれば、葉がなくなる状態と予想されます。)

ならば今の時期に、丈-60、幅-30cmの剪定をし、樹エネルギーを無駄にしない方がいいように思えます。

一般的に、成長旺盛な常緑樹の生け垣の丈幅キープ剪定について、新芽展開前の切りつめダメなのでしょうか?
(広葉樹なので、針葉樹カイズカイブキの幅ぶと放認、強剪定→新芽吹かない:ではないと思うのですが)

Aベストアンサー

セイヨウイボタノキは成長が早いので剪定は大変ですね。
一般的には5月以降が剪定の適期と言われてます。
理由としては寒さに強くない事と花を楽しめないことだろうと思います。椿がよい例ですが寒さに弱い木を冬場に強剪定するとかなりダメージが出ることがあります。
お住まいが九州で今年は暖冬ですのである程度前倒しして剪定しても大丈夫かとも思いますが、芽が動き始めてからの方が良いのではと思います。
街路樹のセイヨウイボタノキなどは5月以降にバリカンでガンガン強剪定しているように見受けられます。自信が無ければ春以降にされてみた方が良いのではないでしょうか。

Qクンシランの鉢替え

ここ何年も株分けや鉢替えをしていません。
鉢が割れて鉢替えをしたいのですが、水切りをしてもなかなか鉢から出てきません。
こういう場合は、鉢を割らないと出てこないのでしようか?
できたら鉢を割らずに鉢替えをしたいのですが???。

Aベストアンサー

二人がかりで、一人はクンシランの株元を持ち上げて地上に浮かし、もう一人は鉢の縁を移植ごての柄や垂木のようなもので上から下にコンコンとたたいてみてはいかがでしょう。力を加減して、周囲をまんべんなく叩くのです。
根がしっかり回って鉢に密着したものでも、大抵これをやると鉢がストンと落ちて分離できるのですが。

Qツツジの花を咲かせる方法教えて下さい!10年以上前に庭に植えたツツジの花が咲きません。毎年庭木剪定

ツツジの花を咲かせる方法教えて下さい!
10年以上前に庭に植えたツツジの花が咲きません。毎年庭木剪定を頼んでいるシルバーの方に相談すると[来年は咲くよ!]と言われ毎年楽しみに待っていますが今年も咲く気配は全くありません。陽当たりが良くない場所なので植え替えた方が良いでしょうか?

Aベストアンサー

品種が分からないけど日当たりのあまり良くない場所なんですね?
あと、剪定は適切な時期に頼まれてるのかな?
品種にもよりますがツツジの剪定は7月頃です(花枝分化するのが7〜8月頃)
「花が過ぎたらすぐに枝欠きしろ」と言ってましたから

他に確認したい事
・地面が踏み締められてる固い場所ではないですか?
・風通しが悪居場所ではないですか?
・肥料過多過ぎてるとか?

ツツジは浅根性の樹木で、根元を踏まれるのが苦手です
踏み締められたり粘土質でガチガチの土の場合は水やりで土がガチガチになりやすいので
古いドライバー等で地面を突いて少しずつ土を除けて腐葉土を入れてあげましょう

風通しが悪いところだと病害虫が付きやすいです
枝を透かして風通しを良くしてあげて8〜9月頃に消毒してあげると
花枝分化した枝が害虫にやられません

肥料過多だとボケて花が咲きにくいです

植え替え出来るようなら日当たりの良い場所に移動させるのが良いかもですね
ツツジは以前にツツジやサツキを植えてた場所は嫌うようです

Q駄温鉢と素焼鉢とテラコッタ鉢のちがい

駄温鉢と素焼鉢とテラコッタ鉢のちがいを教えてください。
また、それぞれの鉢の長所、短所も教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

テラコッタ(の鉢)というと、元々はイタリア産の赤い素焼きの焼きものをさすはずですが、厳密な定義はないようなので、素焼きと同じという理解で良いと思います。

素焼き鉢は、比較的低温で釉薬をかけずに焼かれます。駄温鉢は、素焼き鉢の一種ですが、高温で焼かれていて、鉢の上部に釉薬が掛けてあるものもあります。
素焼き鉢と駄温鉢を比べると、高温で焼きしめている駄温鉢のほうが強度がある代わりに、通気性や透過性がおとりますが、プラスチック鉢のように通気性が全くない訳ではなく、あくまで素焼き鉢と比べたら少ないというだけです。
逆に素焼き鉢は、強度が弱い代わりに通気性や透過性が大変良いです。しかし、通気性や透過性が良いということは、水がすくに蒸発してしまうという事でもありますので、水の管理が大変です。真冬などにしみこんだ水が凍って膨張し、割れてしまうこともあります。

駄温鉢はどこにでもある見慣れた形で外見に面白みはないのですが、植物の生育には最適な鉢だと思います。室内や玄関先などをおしゃれに飾りたい場合はデザイン性に富んだ素焼き鉢から選び、植物の生長を重視する場合は駄温鉢を使うという使い分けをすると良いと思います。

テラコッタ(の鉢)というと、元々はイタリア産の赤い素焼きの焼きものをさすはずですが、厳密な定義はないようなので、素焼きと同じという理解で良いと思います。

素焼き鉢は、比較的低温で釉薬をかけずに焼かれます。駄温鉢は、素焼き鉢の一種ですが、高温で焼かれていて、鉢の上部に釉薬が掛けてあるものもあります。
素焼き鉢と駄温鉢を比べると、高温で焼きしめている駄温鉢のほうが強度がある代わりに、通気性や透過性がおとりますが、プラスチック鉢のように通気性が全くない訳ではなく、あくまで素焼き鉢...続きを読む

Q剪定と強剪定って??

剪定と強剪定というのは違うものですか?
切り方などが違うのでしょうか??
ちなみにラベンダーの剪定について今調べています。

Aベストアンサー

 こんにちは。私もラベンダーを育てていますので、良かったら参考にして下さい。
 剪定と強剪定の違いですが、まず剪定の意味をタキイのHPで調べてみました。何となくそれ以外言いようがない感じなんですが(^_^;)。ちなみに強剪定は載ってませんでした。
http://www.takii.co.jp/glossary/se.html#27
 他のサイトでは剪定と強剪定の違いが載っています。
http://www.kysmp.com/yogo.html
http://sky.geocities.jp/shirasato99/glossary0.html
 調べてみたら、何センチとかは具体的には載っていませんでした。これは植物やどれだけ成長しているかによって違いますので一概にはいえないからだと思います。
 私見で申し訳ないのですが、私にとっての剪定はあくまでも少し形を整えたり、花ガラを茎ごと切ったり、中を少し透かしたりする程度です。全体的にはあまり形は変わらなくて、少し整えた程度でしょうか。
 強剪定はガッツリいきます(^_^;)。植物もガッツリに耐える草木が対象です。私の庭ではミモザ、椿、アリッサム、インパチェンス、ペチュニア、ハーブ類などが当たります。タイムやミントなど梅雨前に収穫を兼ねて行う強剪定は、半分以下に切り詰めます。この行為を「切り戻し」と言います。中を透かして蒸れを予防する働きもありますし、ペチュニアやインパチェンスなどは徒長して花も咲かなくなってきますので、ガッツリ切って(強剪定ですね)秋にもう一度花を咲かせるようにしています。
 ラベンダーは、私の種類と違うかもしれませんので(私のはストエスカスです)分かりませんが、強剪定可能です。全体の1/3ぐらい切り詰めて(高さは半分以上ぐらい)、中も透かしてOKです。ただあまりハゲ坊主にしますと枯れるかもしれませんので、全体を見ながら行って下さい。私のラベンダーはやりすぎて外国の金持ちのテーブルとかにあるロウソクの蜀台みたいになってしまいましたが(^_^;)、枯れずに今年も花が咲いています。
 一応切り戻しの仕方が書いてあるサイトを貼っておきます。
http://www.kusanone-en.com/contents2-6.htm
http://www.eonet.ne.jp/~bloom/2_raben.htm
http://heboen.hp.infoseek.co.jp/herb/lavender.html

 ご参考までにm(__)m。

 こんにちは。私もラベンダーを育てていますので、良かったら参考にして下さい。
 剪定と強剪定の違いですが、まず剪定の意味をタキイのHPで調べてみました。何となくそれ以外言いようがない感じなんですが(^_^;)。ちなみに強剪定は載ってませんでした。
http://www.takii.co.jp/glossary/se.html#27
 他のサイトでは剪定と強剪定の違いが載っています。
http://www.kysmp.com/yogo.html
http://sky.geocities.jp/shirasato99/glossary0.html
 調べてみたら、何センチとかは具体的には載っていません...続きを読む

Q二重鉢の作り方

鉢植えの夏の暑さ対策として、二重鉢の作り方を調べています。
鉢と鉢の間に土や軽石を入れている方法をよく目にしますが、何も入れないよりも効果があるのでしょうか?
間に土を入れてさらに水で湿った状態にしておくと、外側の鉢が日光をうけて発生した熱を、内側の鉢にわざわざ熱伝導させてしまい、二重鉢にする意味がなくなるように思います。
また、内側の鉢に素焼きの鉢を使って気化冷却を利用する場合、気化を妨げないためにも、やはり間に何も入れないのがいいと思えるのですが。
園芸初心者です。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

冬に夏対策とは良い考えですね。私も鉢植え多少持っていて、夏の暑さと冬の寒さに苦労しております。
二重鉢は良くしますが、間に何もいれない時が多いです。要は断熱ですので熱伝導の低いものとなりますが、
時折発泡スチロール(果物屋とか野菜屋で手に入れます。)の比較的薄いもの(1-1.5cm厚)を短冊状に切って隙間に詰めたりしております。多少効果があるようです。(間に土を入れて湿らすのは賛成しがたいですね。結局外鉢の温度が内鉢伝わってしまいます。むしろなにも入れない方がましと思います。)これは冬でも使える方法と思っております。
でも酷暑や極寒時はなるべく日陰や屋根のあるところに置いたり、冬は部屋に取り込んでおります。(手間がかかるし、日陰の場所が鉢の大きさによっては場所が取れないものもあります。)
7月から8月にかけては日陰が一番と思いますが。日陰だと二重鉢も不要かと思います。朝1-2時間日当たりに出してあとは日陰などとしております。間に土を入れるのであればむしろ冬の凍結対策に良いのでは。
どのような環境で育てられているのかわかりませんが参考になればと思います。

冬に夏対策とは良い考えですね。私も鉢植え多少持っていて、夏の暑さと冬の寒さに苦労しております。
二重鉢は良くしますが、間に何もいれない時が多いです。要は断熱ですので熱伝導の低いものとなりますが、
時折発泡スチロール(果物屋とか野菜屋で手に入れます。)の比較的薄いもの(1-1.5cm厚)を短冊状に切って隙間に詰めたりしております。多少効果があるようです。(間に土を入れて湿らすのは賛成しがたいですね。結局外鉢の温度が内鉢伝わってしまいます。むしろなにも入れない方がましと思います...続きを読む

Q油粕肥料は・・

園芸初心者ですが、今からの時期肥料を施すのが
多いですが、油粕はどの花苗にも良いのでしょうか?
反対にやってはいけない花などありますか?
教えていただけますか?

Aベストアンサー

油粕は窒素、燐酸、カリを含んでいましてほとんどの植木、花木対象です。
環境により粉末と固形物を使い分けると良いと思いますよ。
前者は即効性、後者は遅効性です。
あまり多くやりすぎますと雨の降った翌日からにおいがきついので程々に施肥しましょう。


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