【無料配信♪】Renta !全タテコミ作品第1話

一般に言われている秀吉死去時の両家の石高、豊臣の直轄領は徳川よりも少なかったという評価。
でもこれっておかしくないですか?
豊臣の200万石には譜代大名の石高は入っておらずに代官管轄の直轄領と旗本領のみ、しかし徳川の250万石には10万石を超える徳川三将(本多、榊原、井伊)、それ以下でも大久保や酒井の万石級の所領や与力にあたる結城秀康の所領も含まれている数字です。
もっとも秀吉存命時は全ての大名は秀吉の家臣だったから、それなら全国全て豊臣領とも言えますが、徳川以外の大老や外様大名は除いて考えればよいと思います。
具体的な譜代・外様の区別は秀吉の手で万石取りになった大名を指せば良いかと。
つまり有名どころでは両加藤、福島、浅野、石田、大谷、藤堂、蜂須賀、山内、堀尾、中村等です。
これを含めれば徳川の250万石をゆうに凌ぐと思うのですが、この解釈はやはり無理があるのでしょうか?
ご意見をお願いいたします。

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石田三成」に関するQ&A: 石田三成と真田昌幸

A 回答 (5件)

秀吉の家臣から大名になった者の多くが、関ヶ原の際、東軍についたので、単純に合計するのは難しい気がします。

豊臣と徳川の石高を比較する目的にも、よるでしょう。
ちなみに豊臣を二百万石とする数え方でいくなら、家康の直轄領は百万石程度になるようです。ただ徳川家の家臣団は家康の命令通りに動きますので、まとめて二百五十万と数えて問題ないかと。
なお豊臣家へは毎年、全国の鉱山から莫大な金銀(米になおせば一千万石以上でしょうか)が上納されていましたので、経済力では圧倒的に豊臣が上でした。(秀吉の死後、家康によって停止されます)
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
やはり経済面の豊臣のアドバンテージは大きいですよね。
この質問の元々意図は、家康は果たしてどの段階で豊臣家からの政権奪取の可能性や方法を図ったかを考えたからなんです。
僕たちはその後の関ヶ原の結果も豊臣家の行く末も知っていますが、秀吉末期当時の家康から見ても豊臣家の力は巨大に写っていたのではないか、豊臣家臣団の切り崩しは必須条件だったにせよ、どこまでが味方になってくれるかは読みきれなかっただろうし。
三成挙兵が起こらなければ、意外とその後の独裁政権樹立は難航したんじゃないかと想像しているんです。

お礼日時:2007/05/28 23:34

>この質問の元々意図は、家康は果たしてどの段階で豊臣家からの政権奪取の可能性や方法を図ったかを考えたからなんです。



秀吉が死ぬと、家康は「勝手な婚姻を禁じる」との秀吉の命令を無視し、福島正則・蜂須賀家政・加藤清正(ほかに伊達政宗)との縁組を約束します。また、朝鮮出兵の苦労に報いるとの理由をつけ、豊臣家の蔵入地を次々に諸大名へ与え、露骨に人気取りをしました。
石田三成の挙兵は、家康に追い詰められたからであり、毛利が三成の誘いに乗ったのも、家康に天下を取られる危機感を抱いていたからではないかと考えます。
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後の大阪の陣が念頭にあったから含まれてもおかしくない石高を引いてしまったとか。

この回答への補足

ありがとうございます。
やはりこの数字は後世に結果を踏まえた上での指向性のある数字のようですね。
当時の人にはきっと徳川家の領土の方が大きいという認識はあまりなかったんでしょうね。
家康個人の能力や徳川軍団の精強さは別として。

補足日時:2007/05/28 23:43
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家臣には、直臣と陪臣があります。


直臣は、直接の家臣で、陪臣は、家臣の家臣となります。

豊臣家の場合、徳川家、両加藤、福島、浅野、石田、大谷、藤堂、蜂須賀、山内、堀尾、中村家などは、直臣ですが、本多、榊原、井伊などは、徳川家の家臣なので、陪臣となります。

通常は、家臣の領土には、陪臣の領土も含みますので、徳川家の領土は、250万石となります。
同様に、上杉家120万石には、陪臣である直江兼次の領土30万石が含まれます。

それに対し、福島家や加藤家などは、豊臣家の直臣ですから、立場上徳川家とは対等となります。
そのため、徳川家250万石と言った場合に対になるのは、個々の直臣の領土となります。

また、豊臣家の場合、直轄領は意外と少なく、ほとんどが蔵入り地であったはずです。
これは、豊臣家が、家臣に管理をまかせた直轄地で、ほとんどの大名領に設定されていたはずです。(うろ覚えですが)
そのため、諸大名は、蔵入り地の割合に応じて、豊臣家に支払いをする必要があったと思いました。
これらの蔵入り地は、関が原の戦いの後は、各大名が、自分の領土としてしまいました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
豊臣政権の中の豊臣家、徳川家と考えるか、あくまで豊臣軍団と徳川軍団と考えるかの差があるんですね。
蔵入り地の事勉強になりました。
関ヶ原語の恩賞には大幅な加増以外にも、蔵入り地横領の黙認も含まれていたということですね。

お礼日時:2007/05/28 23:43

秀吉は農本主義でなく、重商主義だった。


ということを言いたいので、豊臣200万石、徳川250万石。というデータを作った。というのが真相かな。
No1さんのご指摘のように、
「けど 莫大な金山・銀山がさぁ」
というような、説明文章でしか、この豊臣200万石、徳川250万石という数字は見た記憶がないのです。
資料というかデータというのは、思いついたふと出てきた、というモノではなく「○○だと、私は考える、その理由は■■のデータによる」というようにデータは、作られるモノです。

豊臣政権の圧倒性
というような主張をするのに、質問者のようなデータを作ることは、なんら問題ありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
豊臣と徳川の政策の違いを強調するための後世の資料という側面もある数字なんですね。
確かに私も豊臣の経済力を示す資料と合わせてこの数字を知りました。
データの持つ指向性、勉強になりました。

お礼日時:2007/05/28 23:37

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Q徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

こんにちは。

私の手元に、「江戸(嘉永)時代大名紋章及び城郭図」という地図があり、それを見ていて疑問に思ったのですが・・・。
徳川家は八百万石という力を持っていたにも拘わらず、江戸と呼ばれる範囲はあまりにも小さいと気が付きました。
他の裕福な藩は(加賀など)広々とした領土なのに、どうして徳川家の領土(城下町?)はこんなに狭いのでしょうか。
江戸以外にも、直の領土があったのでしょうか。
それとも、広い城下町を持つ必要がなかったのでしょうか。

教えていただけたら、ありがたいです。

Aベストアンサー

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代には御料、御領、御料所などと呼ばれ、明治以降は天領と呼ばれますが、天領と呼ぶのが一般的です。全国に散在し、直轄地がなかったのは蝦夷地くらいのものでした。ただ、蝦夷地も、寛政11年1799に東蝦夷地を直轄領とし、文化4年1807には西蝦夷地も直轄領にします。この処置は、文政4年1821に東西共に松前氏に返却しています。
大きな直轄領としては、九州の日田地方、石見東部、愛媛東部、備中西部、播磨西部、但馬西部、大坂・堺・京都周辺、近江南部、大和南部、飛騨一国、中期以降の甲斐一国、三河・遠江・駿河・伊豆の過半、武蔵・安房・下総・上総の過半、常陸南部、会津西部、山形北部、秋田南部など全国に及んでいます。
一般に10万石以上の地域を支配する場合は郡代を、それ以下は代官を派遣して支配をしています。また、一部では譜代大名などに預けている場合もあります。
この他に全国の主要都市を、江戸・京都・大坂以外に、伊勢神宮門前町の山田、貿易港長崎、金山の佐渡、旧貿易港堺、他に奈良、伏見を直轄地として、遠国奉行を派遣しています(幕末には神奈川、下田、兵庫、新潟、函館などの開港地も直轄領化し、奉行を派遣)。
佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。

以上、参考までに。

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代に...続きを読む

Q100万石は今で言うとどのくらいすごい?

戦国武将が100万石の領土を持っているのって
今でいうと、どのくらいの資産・土地を持ってるくらいすごいのでしょうか?

100億円持ってるぐらいすごいですか?
100戸の家を持ってるぐらいすごいですか?

ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

戦国時代の石高なら、下の説明をみてください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011269740
http://bit.sakura.ne.jp/tuwamono/tizu-tougou1.htm
http://sengokutan9.com/sengokukassen/sekigaharazengokokudaka.html
 
石高は、領土の大きさを米の生産量に換算した『ような』ものです。
人口にも関係しますし、産業の状態にも、畑作や米作にも関係します。
単純には言えません。
 
石高は、一応、年間の経済力(その領土の年間総生産高)を示しているようなものですから、預金や資産の額との比較は出来ません。
1石を年間一人の生活費と考えれば、100万石は100万人の生活費相当ということになります。
 
領土全体の総生産高ですから、住民の生活費も、戦国武将の家臣や家臣の家族の生活費も、この中で賄います。戦国時代の武将ならば、築城費、河川改修費、干拓や開墾費、武器弾薬の購入費もこの中から出します。
 
なお、現在のように戸籍制度や帳簿制度、通貨制度がはっきりしていて、集計をする人が同じ方法で集計しているのではないですから、石高1万石と公表されている地域が10箇所あれば、10箇所が全部違う実態で、7000石~16000石程度にはばらばらだったでしょう。
また、天候などにも生産高は大きく左右され、戦争があれば農地も荒れたり、兵隊や労役にかり出されたりしたでしょうから、いつも同じ生産があるとは言えないと思います。 

戦国時代の石高なら、下の説明をみてください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011269740
http://bit.sakura.ne.jp/tuwamono/tizu-tougou1.htm
http://sengokutan9.com/sengokukassen/sekigaharazengokokudaka.html
 
石高は、領土の大きさを米の生産量に換算した『ような』ものです。
人口にも関係しますし、産業の状態にも、畑作や米作にも関係します。
単純には言えません。
 
石高は、一応、年間の経済力(その領土の年間総生産高)を示しているようなものですから、預金や資...続きを読む

Q加賀藩はどうして石高が大きいのか?

加賀百万石といいますが、どうして親藩でもない加賀藩は石高が大きいのでしょうか?
尾張徳川家や紀州徳川家も遠く及びません。
確かに前田家は織田信長の頃から力をつけてきていましたが、江戸幕府が開いた後、大大名の豊臣家は滅ぼされました。
江戸幕府としては、体制維持の為、大大名は弱体化させるように動くと思いますが。
というか石高は大名の力とは関係ないのでしょうか?

Aベストアンサー

金沢藩初代の前田利長は関ヶ原の戦いの前から 80万石を超える所領を持っていて, かつ徳川とも協調路線をとってきた (準親藩扱いとなったのもその一環) ため, 徳川からすれば
・削る理由をあげにくい
・下手に削って敵対されると (最終的に勝ったとしても) ダメージが大きい
という判断をしたんじゃないでしょうかね. ちなみに加賀・能登・越中 3国で計 122.5万石, 加賀金沢藩としては支藩の越中富山・加賀大聖寺 (各 10万石) を除いて 102.5万石.

あと一般にいわれる石高は基本的に「表高」つまり「検地の結果として幕府に届け出た値」であり, 年貢の算出基準である「内高」とは異なります. さらに, 藩の収入にはほかのものもあるので, 石高は必ずしも大名の力を反映した値とはなりません. 例えば, 御三家筆頭である名古屋藩は表高こそ 62万石弱ですが木曽ヒノキの権利を持っていたため実際の収入はもっと大きな値になっています.

なお, 石高は家格に反映されるため, 家の格を上げるためわざと本来の石高よりも大きな値を申告した例もあります (もちろん負担も大きくなるため住人が割を食う形になります).

金沢藩初代の前田利長は関ヶ原の戦いの前から 80万石を超える所領を持っていて, かつ徳川とも協調路線をとってきた (準親藩扱いとなったのもその一環) ため, 徳川からすれば
・削る理由をあげにくい
・下手に削って敵対されると (最終的に勝ったとしても) ダメージが大きい
という判断をしたんじゃないでしょうかね. ちなみに加賀・能登・越中 3国で計 122.5万石, 加賀金沢藩としては支藩の越中富山・加賀大聖寺 (各 10万石) を除いて 102.5万石.

あと一般にいわれる石高は基本的に「表高」つまり「検地の結果と...続きを読む

Q織田信長は800万石、豊臣秀吉は220万石?

織田信長の直轄の版図は、北条、大友、宇喜多、徳川等の完全に又は半分以上従属したような大名の版図を抜かして計算しても600万石から800万石あったといいます。
対して豊臣秀吉の直轄領は220万石といいますが、この差はどこからくるのでしょうか?
豊臣秀吉は織田信長の後継者としてさらに版図を拡大させて人ですよね。

それと、織田信長の版図の600万石から800万石という話しですが、その間の200万石はどこのことなのでしょうか?
ご存じの方がいたら、あわせてお願いします。

Aベストアンサー

信長と秀吉の違い
現在の会社の感覚で言えば
秀吉は分社化したので、系列子会社(前田とか弟の秀長とか)とかは含まない。本社の単体計算。
信長は分社化する前なので、オール織田家。
という違いです。

信長600~800万石
早い話が太閤検地までは、正確な石高理解なんて無かった。
戦国時代の○○家■■万石というのも、太閤検地からの逆算ですので。
だいたい、石高制度ってのがまだないっす。信長の時代は。

Q秀吉最大の失策:家康の関東移封で大盤振る舞い

北条氏討伐後、家康の関東移封が大盤振る舞いすぎたのではないでしょうか。
250万石に及ぶ大領でなくとも、武蔵相模下総3か国120万石程度でもよかったのではないでしょうか。もちろん長年の領主を失った関東を治めるのは大変なことであり、家康の統治力もあって250万石を盤石にした面もありますが、結果ライバルをより強大化させてしまいました。
120万石程度であれば、秀吉の死後家康が突出することもなかったと思います。

Aベストアンサー

う~ん、失策ですか。

個人的には、秀吉としては三河など5ヶ国から家康を追い出したかったんじゃ?と言う気がしなくもありません。大坂や京都により遠い関東に家康を追い出すことで、豊臣政権の中心地を"距離の防御壁"のようなもので守ろうとしたんじゃないかなーと。

その証拠、ではありませんが旧・徳川領には豊臣派的な大名を詰め込んでますし。家康に調略を面倒にするためか、かなり細切れに配置してますよね。まー配置された大名は関ヶ原ではほぼ家康方になるわけですが、そこは秀吉を責めちゃいけない気がします。


というわけで、家康を関東に移封すれば上方の安全確保に繋がる、と秀吉が考えた場合、なんとかこの実力者のヘソを曲げることなく引っ越してもらうには、大盤振る舞いも止む無しではないでしょうか。本拠地移転やそれに伴う家康の家臣への言い訳?の為にも。


>結果ライバルをより強大化させてしまいました。
豊臣政権の繁栄、まではいかなくても存続を最優先にした場合、家康なんか肥らせとけばよかったんです。いくら肥ろうと大坂城の西の丸に入ろうが、ほっときゃよかったんです。あんな挑発をしている内は「豊臣家の筆頭大老」でしかなく、豊臣家の実力者ではあっても日本のトップには登れなかったんだから。

寧ろ挑発に乗った方々こそ、家康に日本のトップになるチャンスを進呈した方々。結果から見れば挑発に乗りやすい面子を除けなかったことが、秀吉の失策な気がしますが。

結果論でしかないのは重々。長文失礼。

う~ん、失策ですか。

個人的には、秀吉としては三河など5ヶ国から家康を追い出したかったんじゃ?と言う気がしなくもありません。大坂や京都により遠い関東に家康を追い出すことで、豊臣政権の中心地を"距離の防御壁"のようなもので守ろうとしたんじゃないかなーと。

その証拠、ではありませんが旧・徳川領には豊臣派的な大名を詰め込んでますし。家康に調略を面倒にするためか、かなり細切れに配置してますよね。まー配置された大名は関ヶ原ではほぼ家康方になるわけですが、そこは秀吉を責めちゃいけない気が...続きを読む

Q豊臣家の石高

豊臣家は関ヶ原後にはわずか六十万石の大名とされたようですが、関ヶ原以前の直轄領はどの程度あったのでしょうか?

Aベストアンサー

全国各地に蔵入地として代官を置き、二百万石以上ありました。なお代官といっても、石田三成や加藤清正など、大名クラスの人たちです。
秀吉が死ぬと、徳川家康の工作により、朝鮮出兵の出費で苦しむ大名たちに、ほとんどが恩賞代わりに分配されました。
豊臣家の主な収入源は、全国各地の鉱山から上納される金銀で、年に金3万3970両、銀79万4150両。荒っぽい計算をすると、一年に日本全国で取れる米(1851万石)を、まるごと買い取れる金額とイメージすれば、わかりやすいかもしれません。
金銀の上納も、秀吉の死後、家康によって停止されました。

Q関ヶ原以降の豊臣石高について

関ヶ原以前豊臣家の石高は二百万石ですよね。
で関ヶ原以後の石高は家康によって六十五万石になりましたよね。で不思議に思うのですが関ヶ原の戦いは豊臣家対徳川家の戦いではなく豊臣家の内部争いでそれを東軍の総大将家康が豊臣をまとめたわけでこの時点では少なくても形式上は家康は豊臣家の家臣なわけで関ヶ原の戦い後家康が豊臣家を二百万石から六十五万石したけどなぜ家臣である家康が豊臣家を二百万石から六十五万石にできるのですか?
普通出来ないですよね。
そこらてへんがよくわからないので教えてください。

Aベストアンサー

豊臣家に逆らった、石田三成などの逆臣を倒した、徳川家康を始めとした、忠臣に、豊臣家の大老である徳川家康が恩賞を出すのは当たり前であります。

忠臣に報いるために厚く恩賞を出すべく、豊臣直轄領を減らすことなど、当たり前のことです。

というようなロジックです。

Q鎌倉幕府、室町幕府の直轄領

江戸幕府の直轄領(天領)は400万石くらいあって、いかなる雄藩もはるかに上回るものでした。
それでは鎌倉幕府や室町幕府の直轄領はどのくらいあって、それは有力な御家人や守護大名
と比べてどれだけの規模だったのでしょうか?
どの範囲までを直轄領とみなすかにもよりますし、江戸時代と鎌倉時代や室町時代では土地の制度も
政治制度も違うから、一概に比較は難しいかもしれませんが。

Aベストアンサー

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄領はなかったようです。
直轄領に裏付けられた直轄軍がありませんでしたから。

室町将軍家は、直轄軍としては奉公衆がおり、最大で一万程度と言われています。逆算すると江戸時代の換算では、35万石くらいになります。
室町期の人口が1000万≒1000万石(全国)だったはずなので、江戸期の3000万人≒3000万石 に換算すると江戸時代における100万石くらいではないでしょうか。

結構、鎌倉将軍も室町将軍も、直轄軍を持っていません。
結果として鎌倉将軍も、室町将軍も江戸期の将軍よりも専制的でなかった、鎌倉期も室町期も内乱だらけですが、江戸期は内乱がほぼありませんでした。
逆の見方をすると、鎌倉将軍は主敵である平家を滅ぼして、建前上は、武士の統領(=つまり、みんな部下)であり、室町将軍も主敵である南朝を滅ぼして、建前上はすべての守護大名の上司でありました。比較の仕様ありません。立ち位置が違うので。
ところが、江戸将軍は関ヶ原の後も江戸=大坂二重公儀制を保ち、豊臣家を滅ぼしても、完全には仮想敵を滅ぼしきっていません。全部が部下になりきらなかったから、徳川家直轄領が残ったのかもしれません。
最後の二重公儀制にかんしては、戦争の日本史 17 (17) 笠谷 和比古よりです。

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄...続きを読む

Q一万石 大名には家来は何人ぐらいいたのでしょうか

一万石 大名には家来は何人ぐらいいたのでしょうか
また 家来は毎日どのような生活をしていたのでしょうか

Aベストアンサー

諸大名の所領・石高で準備しておく、一定の兵員と武器は「軍役」という制度で最低の線が決められています。
備える義務のある兵員は石高50石につき一人で、1万石では最低200名が必要とされ、軍役・武器は馬上(侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されています。
慶安2年(1649)の軍役規定を見ますと、1万石の大名は馬上(侍)10騎・徒歩侍16名・弓・鉄砲・鑓持ちなどの足軽や中間等が209名の計235名とされています。
この人員が軍役として必要とされる人数ですので、基本的にはこの人数が大名家の抱える家臣ですが、「中間」は武士階級でないので、この人数を引いた数が武士としての家臣です。
中間などを約100名として、1万石の大名家の抱える武士は120名~150名ではないでしょうか。
また1万石の大名の参勤交代の行列は馬上3騎・足軽20名・中間人足30名となっています。
江戸における幕府からの拝領屋敷地は2500坪。
なお幕末時点で城持ちの城主大名家が158家あり、無城大名家(陣屋敷のみ)が100家あります。この無城大名家の総石数が151万石なので1家平均1・5万石となります。
この様に1万5千石以下の大名は陣屋敷のみの大名が多く、1万石大名で城持ち大名家は松前城の松前家、美濃苗木城の遠山家の2家のみです。
(以上、コピペ)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1010085595



家来は毎日どのような生活をしていたのでしょうか
  ↑
藩にもよりますが、無役、つまり何もしないで
遊んでいる武士が多かったとされています。
つまり、仕事が無いのです。

仕事がある人も、ほとんどが三日に一日
出勤とかする程度が多く、釣り三昧、という
家来も多くいました。

仕事は、藩という地方自治体の官僚と同じ
ような仕事です。
一部の幹部は忙しかったようです。

仕事に就かないと出世も出来ませんので
仕事を得る為の猟官活動が盛んでした。

諸大名の所領・石高で準備しておく、一定の兵員と武器は「軍役」という制度で最低の線が決められています。
備える義務のある兵員は石高50石につき一人で、1万石では最低200名が必要とされ、軍役・武器は馬上(侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されています。
慶安2年(1649)の軍役規定を見ますと、1万石の大名は馬上(侍)10騎・徒歩侍16名・弓・鉄砲・鑓持ちなどの足軽や中間等が209名の計235名とされています。
この人員が軍役として必要とされる人...続きを読む

Qどうして家康は内府と呼ばれていたのですか?

豊臣政権末期で、徳川家康が「内府」と呼ばれています。どうして内府と呼ばれていたのでしょうか? 国内の政府の代表だからですか? 家康以前にこの様に呼ばれていた人はいたのでしょうか?

呼び方(読み方)も「ないふ」と「だいふ」とあるようですが、どちらが正しいのでしょうか?

「内府」があるならば、「外府」「小府?」等と呼ばれたりした人がいたのでしょうか?

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

「内府」とは朝廷の官名「内大臣」の漢名です。
徳川家康は「内大臣」の命を受けていたので、「内府」と呼ばれました。
豊臣秀吉のことを「太閤」と呼ぶのも、
「太政大臣」の官名が「太閤」だから。
ということだったかと。
中納言のことを「黄門」と呼ぶとか。
(水戸黄門ですね)

尊称として呼ぶときに、中国由来の呼び方をしたと思われます。
たしか、総理大臣のことを「首相」とよぶのもそういう意味合いですね。

外大臣はいないから、外府と呼ばれた人は、いないと思います。


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