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高校の教科書に載っている「I was born」という詩があります。
「人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね。」と言った子供に対して父親が、長く生きるように体が作られておらず、卵だけが、目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが咽喉もとまでこみあげているように腹にぎっしり充満しているという、ただ子を産むためだけに生まれてくる蜻蛉の話をし、お母さんがお前を産み落としてすぐに死んだのはその蜻蛉のことを知ったすぐ後だったと話す
という内容です。
お父さんは蜻蛉の話をすることによって子供に何を伝えたかったのですか。
私にはこの子供の意見を認めつつもちょっと違うぞ、と言っているように思われましたが、自信がないし、詳しいところまでわかりません。
意見をお聞かせください。

A 回答 (2件)

人間は自分一人で生きているのではない、多くの人に生かされているのだということではないでしょうか。



参考URL:http://www2u.biglobe.ne.jp/~roy/poetry.htm#yoshino
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この回答へのお礼

これです!
なんか、もやもやしていたけど言葉に出来なかったのがこれです。
うれしいです。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2002/07/02 07:17

吉野弘さんの散文詩ですね。


>私にはこの子供の意見を認めつつもちょっと違うぞ、と言っているように思われましたが
かいつまんで言えば私もそう思います。^^;
#1の方が参考サイトを紹介してくださっていますが、
私にも少しだけつけ加えさせてくださいな。

僕に「産んでくれとは頼んでいないのに」という無力感はみられません。
英文法的なあるいは哲学的なひらめきに上気している息子に動揺しているのは、
父親の方。
その父親が蜉蝣の話を語ることで、
はじめは命が生まれることの不思議さに無邪気に打たれていた「僕」は、
「ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体」
であった自分を初めて知り、
父親の悲しく切ない想いにシンクロすることになります。
(父親とは、成長した現在の「僕」=作者という解釈もできます)

生まれる、ということは単純に喜ばしいだけのものでもなく、
また男女の性交の結果にとどまるものでもなく、
この世にムリヤリ引きずり出されるのでもない。
他の命とひきかえに新しい命は生まれるのだということ。
こうして生まれた命は、
蜉蝣の雌の腹にぎっしり充満した光りの粒々のように、
美しくて、そして悲しく、せつないものだということ。
生きていくということは、
運命に惰性的に流されるのでなく、人まかせなのでなく、
まさに命がけなのだということ。

知らないでいるということは、人を無邪気でいさせてくれますが、
父親は「僕」のこの無邪気さを否定したかったのだと思います。
すべてを知っている父親の心に刻まれている、命のありかたの悲しみとともに、
命の愛おしさを息子に知らせようとしたのでしょう。

僕の命は、母親の体いっぱいにつまった悲しみと愛おしさそのものだったんだ。

そう感じた「僕」の中に、ある種の罪意識…いやそれよりも、
母にもらったこの命に対する畏敬の思いが、強く強く湧き上がった、
そんな印象を受けます。

命がけで自分を生んでくれた母の命を大切に思うことが、
自分の命をも大切に思うことになる。
父親の(そして作者の)意図はここにあるのではと思いました。
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この回答へのお礼

全然気がつきませんでした。
そうなんだそうなんだ。という感じです。
特に「生きていくということは、運命に惰性的に流されるのでなく、人まかせなのでなく、 まさに命がけなのだということ。」
のところ。
ほんとうにその通りだと思います。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2002/07/02 07:20

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