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戦中、戦後は食糧難で大変だったようです。
どうして食糧難になったのでしょうか?
満州でとれた食料は運ぶ船が沈められたという話は
聞いたことがあります。
しかし国内で自給自足できたのではないでしょうか?
軍事に力を入れていたとはいえ、もともと農業立国です。
男手が足りなくて農家の生産力も落ちてしまったのでしょうか?

よろしくお願いします。

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A 回答 (10件)

 戦時中に限って回答させていただきますが,


http://mltr.free100.tv/faq08n.html#06064
http://mltr.free100.tv/faq08f02.html#02329

から纏めますと,以下のようになります.

 1940年の時点では,米の年間消費量1200万トン.
対して,国内総生産量は900万トン,つまり,差し引き300万トンは不足し,タイやインドからの輸入,朝鮮,台湾からの移入で賄っていました.

 外米輸入に必要な貨物船は,1万総トン級(今は10万総トンとかありますが,当時はこれくらいの規模が最大級)のものでも,単純計算で300隻必要になります.

 1945年には米の備蓄量は僅か3.8日分まで落ち込んでいます.
 これは移送に使用する船が悉く撃沈されたためでもあります.
 また,B-29によって日本列島近海には機雷が撒かれ,船舶の通行を妨げます.
 B-29による海上封鎖用の機雷投下は,昭和20年3月から始まっています。
 5月から本格化した機雷投下は,終戦まで続けられ、12.000個が敷設されました。

 この効果はすさまじく、終戦までに喪失した日本商船は総計890万総トン(2.534隻)に上りますが、その内訳は
*潜水艦 54.7%
*空母機 16.3%
*海軍および海兵隊機 4.3%
*陸軍機 10,2%
*機 雷 9.3%
*海難事故等 4%
で、実質わずか4ヶ月ほどで一割近い戦果を達成しています。

 関門海峡は繰り返し敷設され、いくら掃海しても間に合わない状態でした。
 瀬戸内海全体でも被害が出てますし,
 佐世保・舞鶴も封鎖されています。
 博多・仙崎・敦賀・七尾・伏木・新潟・酒田・船川など、日本海の主要港が主な標的で、八戸が最後に掃海完了となりました。

 また,機雷散布以外にも,灯台や気象観測所のような航路標識にも攻撃をしたりと,地味ながら確実に効く通商破壊戦を仕掛けました。
 これらのお陰で船舶輸送は殆ど麻痺、資源採掘地では輸送できない資源が山積みにされ、工場は殆ど操業できない状況に陥ります。
 モータリゼーションがあまり発達していなかった当時の日本にとっては致命的で、このまま戦争が続けば冬を越せない地域が出るという試算が出ていました。

 これらの結果,日本人の主食とされた米の生産は,1936~40年の五カ年平均(1,098万トン)を100とした場合,45年には60(660万トン)に下がり,この傾向は他の農産物でも同じでした.

 ちなみに,主要蛋白源である水産物(鮮魚,塩乾魚)にしても45年には39年の65%(198万トン)まで落ち込んでいます.
 これは,それを捕る漁船が海軍に徴用され尽くしたところにもありましたが.
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 根本的な間違いがあります。

日本は農業立国ではありません。完全自給を維持できたのは江戸時代まで。明治の人口膨張で、すぐ国内での食料維持は不可能になっています。そこで輸入により日本は食糧を確保します。主な相手は朝鮮半島です。サムソンが日本に対する穀物輸出で育った企業だというのは有名だと思います。朝鮮半島ももちろん人口に比べ食糧生産が豊かな国ではありません。多少は中国等からの輸入でしのぎますが、飢饉のたびに餓死者が出ます。そこで防穀令(穀物輸出禁止)を出すが、日本が政治干渉して力ずくで取り下げさせるなどの、けっこう強引なことまでやっています。つまり根本的な原因は、農業生産力の低下より、輸入船舶がなくなれば自動的に食糧不足にあるということです。ちなみに当時の日本は米くらい自給できたと思われていますが、そもそも国民皆が米を食べるほど豊かではありません。米のほとんどは国内産でしたが、輸入米を食べれるほど金がなかっただけです。
 
 ちなみに明治の日本を支えたのは、繊維、紡績などの軽工業や、鉱業あたりになります。
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戦争は資源を大量に使用することは知られてすが、食料も例外ではありません。

後方支援も含めて何十、何百万の非生産者をまかなうのにどれだけの食糧がいったかわかりません。
また、昭和初期の世界恐慌で第1次産業もあおりを食っていたと思います。
そして、戦争中統制経済下にあったので逆に食料の生産効率もおちたのではないでしょうか。
男手が足りなくなったのも事実でしょう。
これらの理由だと思います。(これ以外にもありそうですが)
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戦中の食糧難は大したことはありませんでした。

配給で曲がりなりにも食糧が手に入りましたからね。ところが戦争が終わると大陸や、朝鮮半島、台湾、東南アジアから大勢の日本人が引き上げて来ました。当然食糧の需要が増えますが、供給の方は日本列島だけになって減りましたから食糧難がひどくなったのは当然のことです。
 これに加えて売り惜しみです。農家は憲兵がいなくなったのを幸い、配給分に回す米まで隠匿してヤミで売るようになるのは当たり前のことです。こうして未曾有の食糧難が日本列島を襲ったのです。米が毎日10円単位で上がり続けて行きました。一番高いときには一升500円近くです。当時の給料の平均がそんなものでしたから、一升買えばそれでおしまいです(>_<)
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徴兵で学生、老若かかわらず男性が兵隊にとられ、女学生は軍需産業に従事させられましたので、農作業に従事する人手がありませんでした。



また、終戦間際は昼となく夜となく空襲警報が発令され、B29が爆弾を雨あられのように落としてくるので、ゆっくり農作業をしている余裕はありませんでした。
防空壕に逃げ、住宅が火災で燃えれば、バケツリレーで消火にあたるなど、農作業どころではありません。

学童疎開していた小学生などが、疎開先の田舎で人手の不足した農作業を手伝っていましたが、空腹と空襲に怯える日々でした。

産めよ増やせよで、戦力となる子ども(男子)の出産を奨励しました。食糧事情が悪い中で、人口は増加しています。

半年、一年かけて作物の収穫をするのが農業です。
また、土をおこし、手をかけなければ、痩せた土地では痩せた作物しか実りません。
全てにおいて戦争優先(勝つまで我慢)だったため、戦後の食糧事情にも影響したのです。
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 私の両親は大阪の戦前生まれですが、戦時中は食糧難にはなかったそうです。

不味い食べ物はいっぱい配給されたそうですが。父は学童疎開も体験しておりますが、1膳飯、吸い物、2菜(肉や魚と野菜もの)が必ず配膳されたそうです。母のはなしでは終戦直前はふすま(小麦の外皮)によもぎを練りこんだ得体の知れない物が配給され、これだけは食えなかったと言ってます。

 食糧難は戦後です。終戦により政府による統制がとれなくなり、配給システムが完全に崩壊してしまいました。その結果都市部に食料がなくなり、復員や疎開の帰還などで更に混乱したと聞いてます。
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1. 当時の日本の農業はほとんど機械化されていず、農薬や化学肥料も普及しているとは言えず、肥料作り・除草などに大量の人手を要しました。

「米にはお百姓さんの88回の手間がかかっている」といわれたとおり、あるいはそれ以上です。戦争で男性が戦場に行き、残った男性や未成年者・女性が軍需工場などに動員されて人手が足りなくなれば生産性は一気に落ちます。

2. No2さんが指摘されていますが、治水対策・灌漑施設整備にカネや人手(当時は土木工事も機械化されず人手が頼り)が回らず、今の北朝鮮のように「少し雨が降ると洪水」と言った状態になりました。水害は農作物に大きなダメージを与えます。

3. 当時の物流手段は内航海運と鉄道です。内航海運の船舶は次々に軍に徴用されて輸送船となり、片端からアメリカの潜水艦や飛行機に沈められました。終戦時、日本には外洋を航行できる鋼鉄製の船はほとんど残っていませんでした。これによって、主に船で運ばれていた石炭が運べなくなります。
石炭が運べなくなれば、石炭で動く鉄道が動きません。よって、内航海運と鉄道という二大物流手段が麻痺同然となりました。
戦後に鉄道が殺人的に混雑していたのは「石炭が足りなくて必要な列車を運行できない」のが主理由です。

上記の3つの理由で、農作物の収穫高が減った上に都市への輸送が思うに任せず、特に都市部で食料不足が深刻となりました。
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社会全体の使用量に対しては、相応の生産量と在庫量が必要です。


男手の減少等による生産力や社会不安による流通の混乱などが、食糧難の原因ですが、社会的な在庫が底をついていた事も理由の一つになります。
戦争中は補給線が伸び切り、制海権を握られた中で、次から次と「海に沈められる」為に食糧が本土外に運び出されて行きました。
一旦在庫が底を打った場合、生産力があっても慢性的な不足感が続くのは今の北朝鮮も一緒です。
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http://www.h3.dion.ne.jp/~muhi/kuwasiku-kakousi. …
日本の稲作は 1880年 200キロ/10アール から 1930年 300キロ/10アールへと 50%の成長を見た。
背景には
1:肥料・農薬
2:品種改良
3:灌漑施設
1は、国内輸送が必要であり、軍事優先輸送体制と、内舶輸送網の崩壊により、必要量が確保できなくなったことは容易に推測される。
2は品種改良とは、毎年よい品種の種を購入していると言うことを、非農家は見落とすポイントです。農家でないと、前年の籾から今年の分を植えてそだてているように思えてしまいますが、実際には毎年多収量品種の種を購入する必要があります。この輸送網も崩壊しました。
さらに、灌漑施設は常にメンテナンスが必要であり戦中はこれがおろそかになった。
※戦後間もない頃の台風の被害が激しいのは、そのころの台風が大きかったのではなく、治水対策が戦中にぼろぼろになっていたからです。治水と灌漑は、水を管理するという意味では表裏一体です。

単純に1,2,3が無くなれば、生産性が 300キロ/10アールから 200キロ/10アールに戻るわけで、耕地面積が一緒なら、生産量は 2/3になります。そして人口は明治期から昭和初期で 4~5千万人から7千万人に増加していましたが食糧難は必至です。

※ 日本での肥料・農薬の関与度は比較的薄いようですが、ドイツでは肥料・農薬が化学製品に移行していたために、工業生産ラインの崩壊によって、壊滅的に無くなったそうです。肥料・農薬の製造ラインは、ほとんど火薬の製造ラインと同等であり、ちょっと変えると毒ガスの製造ラインになりますから連合軍側も積極的に破壊していました。
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特に戦後の都市部で顕著ですが主な要因をあげます。


1.生産力の低下
 労働力の低下の他に資源不足や空襲による肥料や農機具の不足の影響
2.流通の崩壊
朝鮮や台湾などの海外からの輸入の途絶のほか、燃料不足やインフラの崩壊、運搬車両の不足  *買出し列車
3.経済の崩壊
 インフレの加速と闇経済・闇市による配給製の崩壊 *たけのこ生活
4.復員兵
 復員兵や引揚者の増加による急激な需要増
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Q戦中戦後の食糧不足はどうして発生した?

戦中戦後に発生した食糧不足は何故起こったのでしょうか?
食糧自給率がほぼ100%だったうえ、田畑の耕作放棄が起こったわけでも無いはずなのに、何故あれほどの食糧不足が発生したのでしょうか。

耕作人員にしても、国家総動員によって耕作者が減ったとも思えません。
海外に派兵した人員に比較しても、食糧不足は深刻だと思います。

昔とある田舎で、「配給制度ができて初めてお米が食べられるようになった」という話を聞いたことがあるのですが、配給制度の失敗からなのでしょうか。

Aベストアンサー

ミクロ的見知から答えられている人が多いので、
マクロ的見知からひとつ。
まず日本の内地(朝鮮、台湾を省く)の食糧自給率は戦前のときですら、80%程度でした。
残りの食料は満州、朝鮮、台湾などからの輸入に頼っていたのです。
また、窒素、カリ、燐酸などの化学肥料などはほぼ輸入に頼っていたので内地のみの力で賄える、実質の食料自給率はもっと下がります。
また米の生産量ですが、
1941年 825万トン
1942年 1000万トン
1943年 942万トン
1944年 878万トン
1945年 587万トン
と、最盛時に比べて半減していることがお解りいただけると思います。
他に1944年の化学肥料の生産はピークの1937年に対し、6分の1まで落ち込み、食糧の輸入はピークの1941年に対し、3分の1まで落ち込んでいます。
配給制度の失敗というより生産計画の失敗。
生産計画の失敗というより戦争指導の失敗といえるように思います。

Q戦時中の食料不足の原因?

戦時中には石油・鉄鋼・食料その他が極端に不足したとは歴史の教科書で習いました。

そこで疑問なのですが、石油・鉄鋼に関しては資源を輸入に頼っていた為に不足したことは理解できるのですが、食料に関しては何故でしょうか?

当時から食料自給率は低かったとは思えませんし、働き手が不足しただけという説明もピンときません。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

聞いた話ですが、当時は、まず一般市民よりも兵隊さんという考えが大変強かったそうです。もちろん軍部の政策や世相等によるものでしょうが、普通の市民よりも、お国のために命がけで戦ってくれている兵隊さんに食料をはじめ、ありとあらゆるものを優先させていたようです。

 戦いに勝っていた日清戦争から太平洋戦争初期の頃までは、戦場の物資も潤沢で、うまくいっていたようですが、中期・末期になると日本は連戦連敗で、一般市民を2の次・3の次にして集めた多くの物資も戦場に運ぶ途中に、輸送船(団)がことごとく撃沈されてしまい、食料をはじめ兵器も他の物資もその多くは海のもくずと消えていきました。

これはもともと日本軍部が兵站を軽視していたのに起因しています。

そして戦争も末期になると、送っても送っても戦場では物は足らなくなっていったようです。
その結果国内では、「欲しがりません勝つまでは」と言われるほど、国民の生活は窮乏していったようです。

Q将来日本に食糧難が襲うと思いますか?自宅の畑(約30坪)を潰して「離れ

将来日本に食糧難が襲うと思いますか?自宅の畑(約30坪)を潰して「離れ」を建築するのは危険でしょうか?来るべき食糧難に備え、自給の足しにするため、ここは今まで通り畑にして色々な野菜を作るべきですか?

Aベストアンサー

難しい問題ですね~。食料難の原因は何だと思いますか?

私は、一つには今年のような異常気象が原因だろうと思います、超猛暑に旱魃、そして豪雨。こうなってしまうと普通に畑を耕して果たして作物が取れるだろうかと思います。もっと天候の影響を受けない屋内とかで作物を育てないと、もう何を植えても作物が育たない状況になるのではないかと思います。

だから、外の畑に作物を育てて食料難に備えるというのは、あまり期待できないと思います。

そして、次の原因は食料輸出国の不作ですね。これはすでに何度も経験していることです。今年はロシアの小麦が不作でロシアが小麦の輸出ができなくなりました。日本ではロシアとの小麦の取引はほとんどないのですが、世界の小麦の相場が上がるので、輸入に頼っている日本はまともに被害を受けてしまいます。それで日本が食料難になるというパターンですね。

最後の原因は、この不況でしょう。昔から日本では飢饉が時々あって、そのために多くの餓死者を出したわけですが、その原因は飢饉で食料が不足することよりも、飢饉で作物が取れなくて、その作物を売って生計を立てていた農民が貧乏になり、自分が食べる食料を買えなくなって餓死する場合がほとんどでした。

作物が取れないから食糧難になるのではなく、食糧を買うお金がないから食糧難になったわけです。

だから、出来るだけ金銭的な貯えを減らさないように残す工夫も食料難対策には必要です。もし離れを建てても金銭的に余裕があるのならば建てても良いでしょう。借金するくらいならやめた方が良いですね。

畑を残す残さないは、食糧難対策にはあまり効果はないですね。本当に食料難になって畑に作物が植えてあれば盗まれますからね。

難しい問題ですね~。食料難の原因は何だと思いますか?

私は、一つには今年のような異常気象が原因だろうと思います、超猛暑に旱魃、そして豪雨。こうなってしまうと普通に畑を耕して果たして作物が取れるだろうかと思います。もっと天候の影響を受けない屋内とかで作物を育てないと、もう何を植えても作物が育たない状況になるのではないかと思います。

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Q戦時中は食糧難だったのですか?

良く、「戦時中は食べるものもなかった。」というような話を聞いたことがあります。なぜ、戦時中や昔は食べ物が不足していたのでしょうか?
日本は島国で魚介類はいっぱいとれるし、野山では果物や野菜等が手軽に手に入ったのではないのでしょうか?例え、男手がなくても。
いかがでしょうか?時間がある方、おつきあい下さい。

Aベストアンサー

食料が不足した例としては.軍による接収。軍に種まで取り上げられてしまった集落があります。
疎開者による需要増か。「山に食料はある」にはあります。しかし.翌年の収穫を確保するために残しておく場合があります。これを疎開者が食べてしまうと翌年に農村の食料がなくなりますので手放しません。
大体100軒の集落で必要な山林面積が1-2平方kmで.しかも.何年もかかって蓄積します。
秋口に収穫して.これを食べつづけるのです。ですから.とつぜん100人くらいが集団疎開してくると食料がなくなります。
農地を増やすとか作付けを増やすとか.あります。しかし.戦後まで農地は増えていません。開墾した場合には.何年か税金を免除するということがありましたが.開墾地は肥料がほとんどなく何も取れないのですぐに作付けが放棄されるような状態です。

漁業ですが.取る手段が
かぎられていました。結局巣もぐりに近い状態か.手探り(手を水中に入れて手の上に魚がくる野を待って救い上げる)しか方法がありません。金魚が比較的簡単に救い上げができます。金魚ばちの中の金魚を手で救い上げてみてください。
疎開者はこの救い上げの技術を持たず.高額な支払いをして現地から買うか.その地域で食べないものを食べる(同僚宅に疎開していた人は蛙しか取れないので蛙を食べていた)しか食料がないのです。
高額な支払いとしては.こめ1升と布1たんが交換なんて極端な工学取引があったようです。

山に関しては.地主が立ち入りを禁止している場合があります。戦争前の日常生活を話題にした小説がいくつかありますので参考にしてください。戦争成金の近所の地主は.山への高額な立ち入り料金を請求して.金を集め山を買いあさりました。

食料が不足した例としては.軍による接収。軍に種まで取り上げられてしまった集落があります。
疎開者による需要増か。「山に食料はある」にはあります。しかし.翌年の収穫を確保するために残しておく場合があります。これを疎開者が食べてしまうと翌年に農村の食料がなくなりますので手放しません。
大体100軒の集落で必要な山林面積が1-2平方kmで.しかも.何年もかかって蓄積します。
秋口に収穫して.これを食べつづけるのです。ですから.とつぜん100人くらいが集団疎開してくると食料がなくなります。
...続きを読む

Q戦中戦後の食糧難の理由

日本の第二次大戦中と戦後、食糧難に見舞われたようですが、なぜなのでしょうか?当時も食糧をかなり輸入に頼っていたのでしょうか?

Aベストアンサー

他の方が書いていない理由を挙げると、「流通システムの破壊」があります。食料は農家つまり田舎で生産されますが、人口は都市に多いです。都市に住む人々は食料を自給していませんから「輸入」に頼らねばなりません。
その輸送の主力は実は船でした。そして鉄道もあります。自動車は日本ではほとんどモータリゼーションが進んでいなかったので道路も未発達でした。

戦争が進むと前線で輸送船がボカボカ沈められます。でも戦争をするためには前線では船が必要です。生産して補充しなきゃいけないけど追いつかない。だから、それは民生で使っている船を徴用しなきゃいけない。でもその船を前線で使うと生産活動に影響がでます。つまり、それでなくても追いつかない生産が資材不足でさらに遅れます。それでさらに民生の輸送分を前線に回し・・・というデフレスパイラル状態になるわけです。
さらに戦局が悪化すると空襲されるようになって輸送船や鉄道が襲われます。そうやって流通ルートが根底から破壊されるようになります。そのため、仮に農家で食料を生産しても都市に輸送できなくなります。さらに当時は保存技術が今ほどないですから、どんどん食品がダメになる。

戦後は全てのインフラが失われていますから、混乱して右から左への輸送もマトモに行われなくなります。配給でなんとかしなけりゃなりませんが、闇で売ると高値で売れるから農家は配給への供出を出し渋り、高値で売れる闇市のブローカーに売ります。それで配給は滞り、闇市の値段がますます上がるというわけです。
戦争直後、闇米を口にすることを拒否して餓死をした判事さんがいたそうです。法の番人たる判事が法を犯して手に入れた闇米を口にすることを潔しとしなかったのです。当時まだ子供だった父から聞きましたが、当時それは大人たちの間で非常に衝撃的に受け止められたそうです。当時の人はまだウブだったので法を犯して闇米を食べることに後ろめたさがあったそうですよ。

他の方が書いていない理由を挙げると、「流通システムの破壊」があります。食料は農家つまり田舎で生産されますが、人口は都市に多いです。都市に住む人々は食料を自給していませんから「輸入」に頼らねばなりません。
その輸送の主力は実は船でした。そして鉄道もあります。自動車は日本ではほとんどモータリゼーションが進んでいなかったので道路も未発達でした。

戦争が進むと前線で輸送船がボカボカ沈められます。でも戦争をするためには前線では船が必要です。生産して補充しなきゃいけないけど追いつか...続きを読む

Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。


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