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なかなか理解できないのでしょうか。そんなことはないでしょうか。

できないとすれば なぜでしょうか。どうすれば よいとお考えになるでしょう。

A 回答 (84件中1~10件)

幾何学の精神は外在的であり、繊細の精神は内在的と言えると思います。

幾何学の精神から得られた原理は外在的ですから、それは、万人に適応可能ですが、繊細の精神から得られた知見は、内在的な心情を基盤としているので、必ずしも万人共通というわけにはいきません。もちろん、人類は共通の心情を多く持ち合わせていますから、共有できる部分も少なくないことは確かですが、幾何学の精神のように万人に適応可というわけには行かないでしょう。

その結果、幾何学の精神は絶対の概念に結びつきますが、繊細の精神は民族や文化の中での心情をベースにせざるを得ないので、どうしても相対的な知見になりやすいと思います。すなわち、幾何学の精神は文明や帝国を生み出す原動力となり、繊細の精神は個々の文化を豊かにする原動力になるのだと思います。

「神の国」は日本の繊細な精神が生み出したものであり、文化を越えた文明にはなれなかった。「キリスト教」は本来は繊細な精神の産物だったのが、ギリシャの幾何学の精神を注入することで、文明や帝国を支える基盤になり得たのだと思います。

パスカルに限らず、人類である以上、《心の内側》が問題になるのは当然のことですが、要は、幾何学の精神を積極的に持とうとするかどうかにかかっていると思います。議論は、また、元に戻ってしまいますが、結局、モチベーション(動機)の問題になると思います。繊細の精神は、そのほうへあたまを向けるまでもないですが、幾何学の精神は、そのほうへ”努力して”あたまを向けなければならないのですから。

台湾人一般はよくわかりませんが、次期総統有力候補の馬英九は、幾何学の精神をかなり持ってはいると思います。

天皇は繊細の精神の産物なので、帝国のシンボルにはなり得ないと思います。実際、太平洋戦争で敗北してしまいました。

この回答への補足

みなさん この回答を参照していただきたいと存じます。

補足日時:2007/06/10 22:04
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この回答へのお礼

何も申しつけくわえることがございません。

つぎは モチベーションの問題になるでしょうか。
つまり蛇足として 民族の思考や情感をめぐっての傾向の相違にかかわらず 絶対の概念は だれにでも 理解されうるという前提を確認してまいりたいと思います。

あと モチベーションとからむかどうかですが 数学での《無限》の問題があるようで 気にかかっています。(数学が苦手です)。

お礼日時:2007/06/10 21:52

全ての言葉は尽くしきりました。

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この回答へのお礼

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(#68)

羊の門は きちんとしたいと存じます。

コリントも冷や汗ものですが 書いたものは書いたものですので この脆弱さのまま進みます。もし途中で倒れたら krya1998さんにバトンタッチいたします。
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お礼日時:2007/06/27 15:26

話がますます込み入りましたね。

知識の優先は、程度と場面、性格などこそ違え、個人個人のことですので、勿論此身も自分を叱っております。本当にありがたくも、大事に対応してくださり、感謝しております。根本的なことは課題・ご質問で提示されたことに関連して、拙い僅かな知識を紹介もうしあげた限りで、その他には何も根本のことはあげつらっておりません。大小・量のことは根本に触れてはおりますが、文化を受け取る時の感覚や態度、認識的用具として触れました。どこの文化も、絶対というような不明な言葉ではなく、それぞれに合致した、基本用具で受け取る必要が先ずひつようなのだという、気持ちでした。日本には、近代の我々が思い描く、絶対という意識は希薄ですね。それは否めないので、もう何とか負け惜しみみたいに一生懸命申しあげてみただけです。だれそれが、この創造界での絶対とか、創造以前のこととか、そのプロセス、境目をお話になっておられました。学級的にはあぁいう論理のプロセスは不可欠でしょうね。そういうことで、此身もずいぶん勉強できると存じます。今次83の最後のフレーズに、かしこまらざるを得ないのですが、お会いしないでのことでして、上記以上のことは何もなく、どうか庭の小枝を風が抜けたくらいに思ってください。莽翁 寒岩
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この回答へのお礼

でしたら #80で 締めくくりのないままですが お伝えしたことばが もう一度 生きてくるかに思っているのですが。

《でも 考えようによっては われらがたましいは かれらの定規を包んでいて これを しかるべく――不必要なところでは持ち出さずに 必要に応じて――用いていくことが出来るとはお考えになりませんでしょうか。

二つの物指しと言いましたが 互いに対立し合うしかないとも限りません。

そして ふたたび きれいごとになるのですが かれらとて かれらのすべてが われらと同じようなたましいを持っていないとも限らない・・・。》

もしくは そもそもの初めに たとえば《まことありき。き(いざなき)とみ(いざなみ)とはここにより生まれ・・・》というかたちで表現される言挙げをきちんと為してから 認識と理論の形成はおこなうべしといったご見解なのでしょうか。

あとは 《大小・量のことは根本に触れてはおりますが》とおっしゃることに留意しておりますが。難しいですね。――たぶん 《文化を受け取る時の感覚や態度》として おっしゃるようなかたちで接してもらった体験がわたしには ないのだと思います。あっても そのときには 欺かれたという体験だったゆえなのだと思います。というところまで 話はすすむのかも分かりません。
(これは 愚痴になるとも思いますが 説明として出させていただきました)。(その意味では おっしゃるように わたしの言説は 悪魔を想定した上での議論になっているかと いま思いました)。
(大問題に入ったと言うべきでしょうか。もしそうなら またまた 途中になってしまいますが ご見解を伺えればと存じます)。

お礼日時:2007/06/27 10:47

こちらとしての存念の外のことにも、ご宸襟を煩わせ(寒からしめ)、ことばの難しさを痛感します。

あくまでも、貴兄さまの本件を一度この辺で切り上げ、という意味と、お返しいたしますという意味に、返上というお言葉を理解しておりました。これはどうでもよろしいでしょう。事の本質や課題には関係ありませんから。
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この回答へのお礼

ここまで回答をいただきつつ 対話をすすめてまいりました歴史にもとづき 言葉遣いなどにゆるい気持ちを持ってしまったのかと思います。

でも そのことは問題でないとすれば 《知識を優先させたこと》でしょうか。

わたしの信条として 《あやまつならば我れ有り》とすでにお伝えしていましたので この場合も わたし〔の考え方〕と同じように人を愛するという方針にのっとり 振る舞ってまいりました。

これが 根本的にまちがっていると批判されるのでしたら 致し方がないかと存じます。大小や量の問題ではないとおっしゃるのでしたら そうなると存じます。

一たんここで ご見解をお伺いできればと存じます。

お礼日時:2007/06/27 09:49

 ご返上させていただきます。

というお言葉はそういう意味と理解しておりました。少し寂しくはありましたが、これも浮世、様々なことが様々に映りますから。そして様々に見えて。ラートブルッフの具体的妥当性は、個別事象に内在する、事物の本性をどの程度斟み酌れ、普遍的当為要請原理からの抽象原理内容を実現できるか、の問題で、不思議なことにhindu的宇宙創造の構造に合致するものですから。あまり無縁なことも多々ありましょうから、ご誠実なご対応も、適当にして戴ければ何よりに存じます。
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この回答へのお礼

インタネットの向こうに待っておられるという思いがあって 文章の途中でも早いほうがよいと思ってのことでした。《そういう意味と理解して》いただいたということでしょうか。

知識を優先させたかたちになってしまったのかも分かりません。

お礼日時:2007/06/27 08:20

傷も付けられずに、自己温存が出来る中で、反省認識の場を与えられ、本当に感謝します。

厳しい大宇宙の中なんていうと、やはり勝手ともいえる具体的妥当性の中に入っていく可能性が許される側面があり、留意していきますので、どうかお許しを下さい。
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この回答へのお礼

じーんと来てしまいました。面食らってもおります。

と申しますのも お伝えしたように 途中で一たん切り上げさせてもらいましたし それほど気の利いたことを申し上げてもいないように思っていて・・・。

こちらこそ 感謝いたします。ありがとうございました。

では とりあえず このようなかたちですが・・・。

わたくしも それでも あと三十年はと欲を出しております・・・。

お礼日時:2007/06/26 18:00

法令の解釈で、ラートブルッフが、抽象的原理性と具体的妥当性のせめぎあいの中での、葛藤の中での、論理構成という側面を論述していますが、西郷さんの場合も、私達もやはり抽象的な側面が脱落してしまう傾向がどうしてもありまして、批判されております。

でもそういう批判者には、理屈ばかりもんだいにするな、という感情があります。今の眼前のことを今の眼前でしかものを見ようとしない、それで通ってきてしまった。厳しい大宇宙の中では認容してもらえない。でも理論構成には、依拠していきたくない。理論構成は結果であり、一つの認識方式でしかない。という思いで、宇宙全体での日本的なもの(自分)とはどうあるものかを今課題にしているわけです。
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この回答へのお礼

わかりました。わかったと思います。

一分(1%)のさらに一万分の一のところで 《わたしは 日本のラートブルッフであるべきか否か》という葛藤をお持ちなのではないでしょうか。

《ラートブルッフなど要らないと言ってはいけない》とお思いなのだけれど そこから出発するのは われらがたましいではないようだぞと。

でも 考えようによっては われらがたましいは かれらの定規を包んでいて これを しかるべく――不必要なところでは持ち出さずに 必要に応じて――用いていくことが出来るとはお考えになりませんでしょうか。

二つの物指しと言いましたが 互いに対立し合うしかないとも限りません。

そして ふたたび きれいごとになるのですが かれらとて かれらのすべてが われらと同じようなたましいを持っていないとも限らない・・・。

途中ですが いったん お返ししようと思います。

お礼日時:2007/06/26 17:42

とても難しいお話になり90%くらいしか、直ぐにはりかいできないのですが、仰るとおりであまり食い違いはなく、ご理解くださっていてありがたいことです。

要するに、私達は日本人は分かり合えている中を前提にして、生きてきており、グスタフ・フォン・ラートブルッフの悪魔にも通じたと看做して、万全のことを背景にして、ものをいっているぞ。なんてことは無用なのでした。そんな連中は、ものをいう相手としていない。これが私達でした。貴兄様は暗闇の、得体も知れない悪魔を頭に画いて生きておいででしょうか。江戸びともわたしもそんなコミュニティにはいないようです。そういうわたしなどは、平手造酒の、利根の川風袂に入れて、月に竿さす高瀬舟に感じるのです。国際的にみれば、通じない。判っている。西郷が、おいどんの命あげましょう、という時、日本次元でも、宗教次元でも絶対とか真理など考えてなくて、絶対に対面しながら、自然に自己決定しているだけです。これを国際用語の絶対ということばでの尺度を出されると、それはどこかヒマラヤの高さや、アメリカの広さでも測るときに使ってくれ。というだけで、こちらはいつも絶対の流れの中でしか、考えていない、一粒に徹しているのだ、そっちの絶対でしかこっちをみるなら、文化の質と対面しているものが、違うからね。いっしょにするなら、何か他の観念をお願いします。ということではないでしょうか。少し右翼ですが。確かに間違っていても、5.1.5や少し批判はあるが2.26の決起の将校に思いを寄せるラディカルな政党の支援者ではありますが。もちろん神道の清浄も、大事にしているのです。

この回答への補足

おっしゃるとおり とても難しいお話になりました。

ひとつ分かっていることは 《わたしとわたしのくにの人たちを見てくれたまえ。どのように生きているか。みんながどのようにして暮らしているか。何を思い何を考えどう生きているか。そのこころの中をじっくり見てくれたまえ》と言い そのように言っていく立ち場があるということです。

その隙を縫ってのように 一部では こういう事態もあります。別の質問のところで書いたことですが 《きみたちは 絶対を受け容れなさい。》――《いやいや 諸君こそ 絶対などというものは棄てなさい。 / あるいは―― いや そうではない。そうではなく はじめの諸君の絶対も 絶対はないという諸君も まちがっている。われらの絶対こそが 絶対だ。これを崇めなさい。》と言い合う事態です。

で この場合にも 初めに掲げました一粒の麦の立ち場が考えられます。物指しは一つであるとは限らないよ。よく見てみてと。

《貴兄様は暗闇の、得体も知れない悪魔を頭に画いて生きておいででしょうか。》――実際問題として すでに アメリカの精神(あえて)は わたしたちの生活のかなりの部分に影響を与え さらにその一定の部分を悪くしてしまっているかも知れません。とはお思いになりませんでしょうか。わたしたちは その《定規》をうまく使えないほどの模索の状態にあるかに思えます。

もう少し時を待ちたまえとおっしゃるのかも分かりません。そうすれば 水の澄んでゆくに従い 泥や何やかやは 下に沈んでいって すべてが治まるはづだよ。われらの清浄力を信じたまえと。

たぶん一割の部分は そのように出会った分岐点で 話し合いをつづけているのではとも思ったりします。おそらく まことを示すことば あるいは 言葉以外の表現 これが求められているとは思います。

おっしゃるところを伺っていれば あわれみの職務というものが 世界の人びとの中で もしあるとしたなら 日本人としての人はここにありと――言わなくとも―― 思っている姿勢が それでしょうし さらには やしろとして日本とは こういうくにですと つつしみつつ 胸を張って 暮らしている姿も 大切であると思えて来ます。

言葉の議論にかんしては まさに国際の場に出ているわれらがはらからにお任せすることが出来るというように思います。

そして おそらく あと一分(1%)では 国際場裏に出る人びとのために 早くから 思考の訓練をしておくか いや それは不必要かになるように思うのですが いかがでしょうか。きれいごとに堕してしまっていますでしょうか。

補足日時:2007/06/26 16:52
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早速ありがとうございます。

  (1)ラートブルッフは、仮にも理性が存するならば、仮令、最も邪悪な悪魔にも、法令として通じた、理解したという看做し(ご存じのように、看做しと推定は完璧に、結果させる、法律効果がちがいます)ができるように、言葉の厳密な内容と、文章で、法令関係はなさなければならない。文章とことばだけで施行できなければならない。そこで読み取れる内容が、法令の内容で、制定者や、当時の事情などは、単なる参考でしかない。という意味であります。法律と法解釈学のことば上の原則をいうにつきております。  (2)貴金属のこと:これはあくまでも物的なもので、これを評価する基準は、大小や重さでしかありません。と存じます。だから、その基準を文化や文明についての絶対ということついて当て嵌めていくことは、無理であると存じます。翻訳語の絶対という言葉や大小や重さは、日本の文化・文明の何かを、思考するときには、限界というか、そういう事柄を抜きにしているのが、日本の文化や文明だったのではないかという思いなのですが。そういうことに向けて、生きてきてはいないと存じます。ことばを当て嵌める、次元が違うのではないか。聴覚に対して、味覚を聞いても仕方ないというような、譬えの世界だと思ったもので、両者をくるめてのことであれば、それぞれの原子的根源の要素、その要素がどこからもたらされているかの面から扱って欲しいのです。所謂ロマン・ロランと湖人をを同一の言葉では扱わないで欲しい。ガンディと西郷隆盛を一方のことばで扱わないで欲しい。インドは真理で世界に貢献してきている。インドの本質は真理である。そのインドが暴力で独立を勝取るなら、そんなインドをw足しはもう愛さない。そんなインドは滅びて欲しい。このことばに感激しない人は誰もいません。がんとそびえるヒマラヤの岸壁です。そんなヒマラヤの岸壁は西郷さんにはりません。遠く狙ってきた資刺客。それはどうも遠いところをごくろうに存じます。今、丁度誰もいません。どうぞおいどんの命お取りください。  決起をつげる郷党の若者に、ではおいどんの命さしあげましょう。 僧との入水。これらはヒマラヤ岸壁と比べて評論するものではない。人間の要素、絶対者からきている同じ原子性。その原子性を示すKategorieは絶対という言葉では無理なのだと、惟うのですが。

この回答への補足

(1)少し勉強しましたら 次のようにも出ていたのですが そうしますと そのあとに述べますように 解釈してよろしいでしょうか。
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In sum, Radbruch's formula argues that where statutory law is incompatible with the requirements of justice "to an intolerable degree", or where statutory law was obviously designed in a way that deliberately negates "the equality that is the core of all justice", statutory law must be disregarded by a judge in favour of the justice principle.
http://www.en.wikipedia.org/wiki/Gustav_Radbruch
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《法律は 条理だとか法の精神だとかいわゆる自然法に基づくと考えられる。しかも それにもかかわらず そのように言葉として不分明な不文のものを判断の基準にするというよりは そうではなく 条文において あたう限りあらゆる場合を想定して その解釈と施行のほぼ一義的に決まるように 厳密に表現し制定しなければならない》と。

いづれにしましても わたしの《悪魔》の使い方は あてずっぽでした。M.ウェーバー(かれに同感してはいませんが)の用法を借りただけでした。

(2)やはり 表現の形式にちなんでは (a)翻訳(用語の対照)の問題と そして(b)むしろ不立文字と言うんでしょうか(あぁ 拈華微笑ともいいましたね) 無言としての表現の問題 この二つを挙げておられると捉えます。

後者の無言は 以前にも触れておられたように 実践の問題・いわば人間力というような実存のそれ・そしてさらに言うならば そのような生活態度の感化のもとにと思われるような地域社会におけるやはり情感の共同性という実情 これも視野に入れておられるのかなと捉えます。

舌足らずになるのを恐れますが 承って思うことには いわゆる物指しが 二つあるのではないかということです。《定規(規矩)》と 《定規を越えた息吹き(直観・洞察力・あるいは香り?)》です。

そしていくらか わたしの側に傾いてものを申すならば 定規を越えたところのものを 定規に合わせた言葉で表現するという課題を 現代世界では――われわれ日本人も―― 持っているというように思ったりするのですが。と言っても わたくし自身に限ればもはや 次の世代に任せるほかないといった情況なのですが。

絶対は 一応そのままで 相い通じ合うようにも思えるのですが。言いかえると その絶対に通じるかに思われそれを表わしうるような人間力の要素を きちんと伝え得る言葉が欲しいということになるのでしょうか。(それは 物語としての叙述の全体 あるいは 劇における演技の絡み合った全体ということになるのかも分かりません)。

補足日時:2007/06/26 14:28
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ご無沙汰をわびます。

ずいぶん専門的な展開になり、このご回答者のシリーズを勉強させていただきます。先週、江戸文化の勉強に行きました。多くの江戸文化は、町人や町人のある層でしょうが、職人たちの手になるものが多く、その伝統は日本の文化や意識の深層に流れている事を感じながら、この教えてに連想が続きました。私の友人達も日本刀に傾倒し、全国の方は東京にきて、我が家を拠点に東京を歩きます。先日の江戸文化は浮世絵やメディアの発祥です。彼ら職人達、その関係者はみな地域的に狭い町内に居住していました。彼らには見える範囲、理解しあえる同士の世界での仕事と意識です。そういう中では、それを出るような遣り方や要求、企図は異人、変人・奇人になることもありえます。了解のなかでの意識です。職人やその関係のものがやはり、日本の文化の大きな担当者であった。彼らの中にも論理と理屈出いくものもいたが、西洋やインドの論理とは質的に違いますね。彼らに絶対のことを聞いたら、魂と修練の技術というにつきるでしょう。ラートブルッフが、哲学や宗教と違って、統治権力の法令は≪悪魔にも通じ、通じたとして、施行できる言葉、概念、文章で作る≫もである。ということは彼ら職人や江戸・日本には無用できたのかも知れません。悪魔は自分達の外にしかいないのでしょう。そういうところの絶対を、この言葉の震源地の意味で考えることは凡そむりなのではないでしょうか。神に Sinless One は直訳では罪なきものでしょう。しかし日本語で"汝罪なきもの"といえば、他愛のないとか、なんてこともない、という意味になる。穢れなきは、穢れが少し違う。むしろ邪念なき、純なるものよ、でしょう。開悟の高僧がSinless Oneだと思います。しかしそのような概念は日本には無いので、今、ある本を訳しながら、唸っているのです。翻訳とは著作になっていくのです。これが絶対ということにも、起こっている事ではないでしょうか?N076さんの話もこれから勉強ですが、私はやはり貴金属の大小ではない何か、認識・探り出しの観念がないのかなぁと、悩みます。

この回答への補足

お久し振りです。

いいご経験をなさっているようですね。江戸の人びとなら江戸の人びとに見るというそのような歴史の掘り起こしが 大事なようにわたくしも感じています。(絶対の概念の導入という質問のほうで少し触れることができたかと思います)。

話題は《専門的》なのですが 思えば フラクタルのことをおそわっておきながら 特異点などの問題も 残念ながら明るくありません。(ウィキペディアは一通り読みましたが)。なんとか歯を喰い縛ってでも進みたいとは思っております。

今回は すでに見え隠れしてもいましたがその《表現の問題》という点を指摘していただいたと理解します。

二つの側面があります。

ひとつに そもそも表現する必要があったか あるかの問題です。江戸の職人の事例のように その道を究めることで おそらく《絶対》のことを見る(感じる)ことがあったと思われるが しかも これを 言葉にして表わすことは 総じて日本人は していない。その表現・分析・展開へとは進まなかったと思われるという事例です。

(その一:簡単に言って 言挙げして来なかった歴史。
(その二:《社会の統治には 個人のすべてを一様に同時に満足させることは出来ないゆえに 端折って言えば 悪魔と手を結ばなくてはならない場面もある》という場合 そのような場合が 《絶対》とかかわって 言葉による表現として現われるか否か。)――(ラートブルッフ等々は未読です。ご紹介いただければ おおよろこびです。)

いまひとつに――上の(その二)と関連しつつ―― では 表現するとした場合 表現するにしても 言語(もしくは 民族)のちがいによって 表現の形式に違いがあるだろうという問題です。通訳・翻訳の問題にもなります。

《罪》と《恥ぢ》の問題ではありませんが いっそのこと 翻訳語にかんして 全部 見直し当てはめ直すことが必要であるのかも知れません。

(その三:自身に引き寄せてみれば 例のアウグスティヌスの表現形式には とても日本人が理解できるとは思われない事例が いくらもあります)。
(その四:おっしゃるように 同じアジアと言っても 中国やインドの表現形式についてみても 相当ちがうと思われます。)

《やはり貴金属の大小ではない何か、認識・探り出しの観念がないのかなぁと・・・》――この後半はわかりますが 前半は 器ですとかその人の境涯といったことをおっしゃっているのでしょうか。ご説明をお願いしてよろしいでしょうか。

いやぁ またまた 前途洋洋とも言うべく 課題と範囲がべらぼうに広がりましたね。楽しみでもありますが。

補足日時:2007/06/26 10:56
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