今、学校で、源平合戦について調べています。

そこで、源平合戦で戦場になった場所、そしてその戦いの様子などを教えて欲しいです。

ちょっと文が分かりにくいと思いますが、よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

「一の谷の戦い」、「屋島の戦い」、「壇ノ浦の戦い」っていうのがあります。


これで後は、ある程度調べられませんか?

参考URL:http://homepage3.nifty.com/heikebiwa-arao/EMAKIK …
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治承・寿永の乱(一般的には「源平合戦」)の詳細は


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF% …

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF% …
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勉強はネットで調べるのではなく、ましてや教えてGooで誰かに教えて貰うのではなく、ちゃんとした学者などが書いた本を読んでするものです。



小学校か中学校か知りませんが、学校の図書館に歴史の本は一通り揃っているはずです。何で本を調べないでネットで他人に答を教えてもらおうとするのでしょう?学校でそのように指導されているのですか?

例えば下記の本を読めば質問の答は全て書いてあります。
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31444019
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Q源平合戦について

今、学校で、源平合戦について調べています。

そこで、源平合戦で戦場になった場所、そしてその戦いの様子などを教えて欲しいです。

ちょっと文が分かりにくいと思いますが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「一の谷の戦い」、「屋島の戦い」、「壇ノ浦の戦い」っていうのがあります。
これで後は、ある程度調べられませんか?

参考URL:http://homepage3.nifty.com/heikebiwa-arao/EMAKIKIKOU.HTML

Q平安後期~鎌倉以前と源平の合戦について

『平安後期から鎌倉幕府成立以前』の人々の暮らしや、
源平の合戦関連の事について調べています。
以下に関してご存知の事や、ウンチクなど何でも良いので教えて下さい。
或いは、詳しく説明されているサイトや本などを紹介して下さい。

(1)当時の貴族・武士・庶民の生活様式全般について

特に、貴族の住居の造りや間取りの詳細、使用していた道具類の名称が知りたいです。
例えば当時使っていた照明は灯台なのか、秉燭なのかとか、
武士が普段着ていた衣服は直垂なのか、もっと軽装だったのかなど。

(2)熊野水軍・熊野三山など、熊野について

湛増が熊野別当であった時、紀伊に置かれていた国司の名前。
それから、別当と国司それぞれの役割、関わり方、力関係。
更に、水軍(海賊)とは戦以外に何を生業としていたのかとか、
(↑間抜けな質問ですが、漁業はしていませんよね?)
熊野で盛んだった他国との貿易の内容など。

どんな小さなことでもいいので、情報をお願いします!

Aベストアンサー

1)の参考サイト
  http://www.kyoto-  np.co.jp/kp/koto/yorimichi/yori28.html

http://www.iz2.or.jp/heian/menu.htm

2)の参考サイト「

http://www.gtoweb.com/native/detail27.htm

http://www.birds-i.com/sandan/suigun/

Q源平合戦について分かる観光名所

源平合戦についてレポートをまとめたいです。
もともと、自分自身が興味をもっているので、夏休み中に自分の足で歩いて調べてみたいというのもあります。

なので、日本内ならどこでもいいのでそういう博物館や観光名所などありましたら教えてください。

Aベストアンサー

瀬戸内海を舞台にした場面がまとまっていていいでしょう。
(1)神戸市(私立博物館には源平合戦の屏風絵があります)
  http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/meihin/015.html
  福原=清盛が都にしたところ。(今は何も参考になるものはありま  せん)
  一の谷=鵯越から山伝いで瀬戸内海へ逃げた場所
  【須磨寺】平敦盛が熊谷直実に討たれた物語の遺品[青葉の笛]
  【敦盛塚】須磨浦公園内
  【一の谷】ここに立って合戦の模様を一義あり。
(2)屋島
   http://www.21kagawa.com/genpei_guide/info.htm
  【屋島の戦い】の古戦場。
   奈須の与一の弓で扇の的を射落としたところ。
   舟隠しの岩。
(3)壇ノ浦の合戦の戦場=現下関市
  ここが源平の合戦の面影がいちばん残っていて見るべきものがあり  ます。
  【赤間神宮】安徳天皇をお祭りしています。
  【平氏の墓地】耳なし芳一の物語で有名な墓地。
  【合戦場】源平の合戦に終止符がうたれた壇ノ浦の合戦の場である   関門海峡が眼下に見られ、ニ位の尼に抱かれて入水した安徳天    皇・源氏の平氏に助けられ京都に送られ山里ではかない人生を送   った建礼門院徳子の生涯や落人となって全国に散って行った平家   の公達・兵士のことを偲ぶのにはいい場所だと思います。
   http://www.geocities.jp/kakitutei_pickup/genpei/akama1.html
   ・他


   

瀬戸内海を舞台にした場面がまとまっていていいでしょう。
(1)神戸市(私立博物館には源平合戦の屏風絵があります)
  http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/meihin/015.html
  福原=清盛が都にしたところ。(今は何も参考になるものはありま  せん)
  一の谷=鵯越から山伝いで瀬戸内海へ逃げた場所
  【須磨寺】平敦盛が熊谷直実に討たれた物語の遺品[青葉の笛]
  【敦盛塚】須磨浦公園内
  【一の谷】ここに立って合戦の模様を一義あり。
(2)屋島
   http://www.21ka...続きを読む

Q治承寿永の乱 源平最後の合戦の舞台

治承寿永の乱において、源平最後の合戦の舞台は壇ノ浦でしたが、このことについてどう思われますか?

Aベストアンサー

壇ノ浦の合戦は、俗に言う治承寿永の乱の枠組みに入るのだろうか。と思う。治承年間の戦い、寿永年間の戦いなど、数多くあるが、それをひっくるめて、まとめてしまうにはやや乱豪かとも思う。

Q源平合戦

平安末期に源平合戦がありましたが、
平氏の立場(視点)から書かれたのが、『平家物語』 で、
源氏の立場(視点)から書かれたのが、『源氏物語』 と言って、
ほぼ間違いないですか?

Aベストアンサー

 よく出てくるんですよね、この手の質問が。
カルチャーセンターで講師を務めた時期がありますが、その折りにも類似した質問が“教養のありそうな?”ご婦人から出されたことを今でも鮮明に憶えています。
 源氏物語とその時代背景を読み解くとのテーマで『源氏物語』を読んでいた時、「先生、源義経は何時になったら出てくるのですか?」とのご質問を真剣な表情で尋ねられ困惑してしまいました。
 恐らくは鎌倉幕府を創設した源頼朝に代表される武家源氏と恋の遍歴を重ねた光源氏双方が持つ「源」が同一のものであると推察しての質問だったのでしょう。
 結論からいえば『平家物語』と『源氏物語』両者は全く別物です。成立年代からすれば『源氏物語』が平安時代の半ばであるのに対し、『平家物語』は平安末の11世紀から鎌倉時代にかけて成立したとされています。この点が先ずは質問者の誤解です。
 次に『源氏物語』が創作小説であるのに対し『平家物語』はある意味ノンフィクション小説ともいえます。この点が第二の誤解。
 そしてここが大切なポイントで、「源氏・平氏」に共通して使われてる「氏」の表記です。この問題に即して少し詳しくお話しさせていただきます。
 ここに示されている「平氏」と「源氏」は少々乱暴な表現をすれば「家柄としての平氏」「家柄としての源氏」の意味になります。単なる苗字ではないことに注意してください。
 家柄を示す「氏」の性質は下記の特質を持ちます。
(1)「氏」は天皇が上から与える形式を採る「公的な表記」であるのに対し、苗字は自らを私称する「名前」である。
(2)平安時代以降の姓は父系制的な血縁原理によって継承される名であり、父系に血縁関係をたどる氏人はみな同姓なのに対し、苗字は「家」いう社会組織自体の名であり、決して血族の名前ではない。
 この具体例を示してみます。「左馬頭源朝臣義満」これは足利義満のことを指している呼び方です。ではなぜここに足利義満と書いていないのか、との問題になります。
 ここで先の説明が生きてきます。源という称号は朝廷から下賜された(認められた)政治組織上の序列を示すですから、ここにある「左馬頭」の任を果たしている源義満という意味になります。そして源義満は一般的に足利義満と呼ばれる人物であるとなります(なおこの古文書に登場する人名は左馬頭源義満・左少辨藤原朝臣仲光・権中納言藤原朝臣實綱の三人であり、歴史上の人物にあてはめて読みますと足利義満・藤原仲光・藤原實綱となります)。
 話は少しややこしくなりましたが、「社会的地位を示す呼び方としての“氏”と明治時代以後は誰でも持つことができた“苗字”は意味が違う」ことだけは理解しておく必要があります。
 最後に文学評価の観点からいいますと『平家物語』が書かれている視点は必ずしも平氏の立場を代弁したものでもありません。冒頭の祇園精舎が語る栄枯盛衰を仏教の末法思想(世紀末思想)を借用する形でアレンジし、それに基づいて歴史を説明した作品です。従って平氏の立場でもなければ源氏の立場でもありません。ずるい作品です(仏教の正当性を我田引水的に説明するカルト教団的ともいえ、決してお勧めのできる性質ではありません)。そして「源氏物語」は一件ラブストーリーにみえますが、それも平安期の王朝国家体制をベースとしてそこに生きる者達の理不尽さなどが冷静な筆致で描かれた作品でもあります。紫式部は社会派小説の先駆者ともいえるでしょうね。

 よく出てくるんですよね、この手の質問が。
カルチャーセンターで講師を務めた時期がありますが、その折りにも類似した質問が“教養のありそうな?”ご婦人から出されたことを今でも鮮明に憶えています。
 源氏物語とその時代背景を読み解くとのテーマで『源氏物語』を読んでいた時、「先生、源義経は何時になったら出てくるのですか?」とのご質問を真剣な表情で尋ねられ困惑してしまいました。
 恐らくは鎌倉幕府を創設した源頼朝に代表される武家源氏と恋の遍歴を重ねた光源氏双方が持つ「源」が同一のもので...続きを読む

Q現在源平盛衰記の巴御前の調べ学習をしています

現在源平盛衰記の巴御前の調べ学習をしています
巴の家紋は左三つ巴で巴もそれを愛用していたという話がネットにあったんですが、それは具体的に何処に記述があるか教えてください

Aベストアンサー

巴御前が三つ巴の家紋を愛用していたというのは、こちらにでています。
ただ、左三つ巴と明言しているわけではありませんね。

家紋ガイド
http://www.aduchimomoyama.com/guide_k.htm

こちらの方は左三つ巴の写真の下に、源平盛衰記に巴御前が三つ巴の家紋
を愛用していたとの説明書きが書かれていますが、こちらも左三つ巴と明
言しているわけではありません。

土佐八幡宮
http://www.geocities.jp/hinahusako/rekisi/okazaki/rekisi-toro-.html

ですので、実際に「左三つ巴」を愛用していたかどうかは、源平盛衰記の
原本を当たられる方がよいかと思いますよ。

ご存じのとおり源平盛衰記は、平家物語をさらに増補したものであり、史
実とはほど遠いものです。女性が「家紋」を「愛用」するなどということ
が当時あったのか、私には疑問です。

専門家ではありませんので断言できませんが、単なるゴロ合わせではない
でしょうか。

参考URL:http://www.geocities.jp/hinahusako/rekisi/okazaki/rekisi-toro-.html

巴御前が三つ巴の家紋を愛用していたというのは、こちらにでています。
ただ、左三つ巴と明言しているわけではありませんね。

家紋ガイド
http://www.aduchimomoyama.com/guide_k.htm

こちらの方は左三つ巴の写真の下に、源平盛衰記に巴御前が三つ巴の家紋
を愛用していたとの説明書きが書かれていますが、こちらも左三つ巴と明
言しているわけではありません。

土佐八幡宮
http://www.geocities.jp/hinahusako/rekisi/okazaki/rekisi-toro-.html

ですので、実際に「左三つ巴」を愛用していたかどうかは、源平...続きを読む

Q源平合戦で平家が滅んだそうですが、何人くらいが亡くなったのでしょうか?

源平合戦で平家が滅んだとされています。
しかし実際に死亡した人は少ないと思います。
10万人いたとして戦死者は1万人もいないのではないでしょうか?
戦記などではどうなっていますか?

また土地を奪われてしまったら、滅びたとされてしまうのでしょうか?
生き残った人たちのその後を教えてください。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

源平の時代に一万人も死者がでたら大虐殺です。
まず第一に十万人もいませんが、
10パーセントもの大量の戦死者がでるようなこともありません。

基本的に戦争の仕方が違います。

集団戦闘の時代ではないので、合戦参加者がすべて
殺しあうわけではありませんし、
一般に平家物語などの記述に登場する人数は
非戦闘員を多数含んでいます。

源平の時代は1人の武士に最低4人以上の従者がついていますが
彼ら郎党は個人的にその武士のためにだけ働き
その武士が死んだら遺体かその一部をもって国に帰ります。
中世においては、軍も国の統治もすべて階層制になっています。
総大将も陪臣に対して直接命令することはできません。
(もちろん状況に応じては何らかの要請をすることはできる)

要するに、戦闘は個人戦であって、
従者たちは直接の主君が武勇を上げるのをサポートする存在で
その主君が死ねば、彼らに戦う義務はなくなります。
だからそんなに大量の死傷者がでることはありません。

家が滅んだら、(血縁関係にない)従者たちは別の就職先を探すわけで
死ぬ必要はありません。
また平家と血縁関係にある場合でも、
その後、戦国時代まで存続した家系はごまんとあり、
実際問題としては、平家滅亡といっても、
伊勢平家の嫡流と主な庶流の家系が絶えただけです。

九州には鎌倉時代になって源平合戦の功労者たちが
下り衆として派遣され、地頭などになりましたが
現地で平家系の豪族と争ったり、婚姻して同化したりしてます。

つまり守護職クラスの平家は滅びましたが、
地頭や荘園領主クラスの平家系豪族はそのままずーと存続していたわけです。
ほとんどの場合、土地も奪われてません。
というのは鎌倉時代の初期には、全国にまだかなりの荒地があって
開墾して新荘園にする余地があったからです。
その後、鎌倉末期から南北朝騒乱期に、
利権争いが激化していきますが、それはまだずっと先の話です。

源平の時代に一万人も死者がでたら大虐殺です。
まず第一に十万人もいませんが、
10パーセントもの大量の戦死者がでるようなこともありません。

基本的に戦争の仕方が違います。

集団戦闘の時代ではないので、合戦参加者がすべて
殺しあうわけではありませんし、
一般に平家物語などの記述に登場する人数は
非戦闘員を多数含んでいます。

源平の時代は1人の武士に最低4人以上の従者がついていますが
彼ら郎党は個人的にその武士のためにだけ働き
その武士が死んだら遺体かその一部をもって国...続きを読む

Q源平の時代「天皇家」は「王家」でOK?

大河ドラマ「平清盛」が始まった当初、
劇中、天皇家を王家と呼んでいて話題となっていました。
結論として、どれでしょうか。
1.当時は「王家」と呼んでいた。
2.当時は「王家」と呼んでいなかったが、適切。
3.「王家」と呼ぶのは誤り。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

答えは3.です。

続日本紀に以下のような記述がある。つまり正解は「皇室」です。大河ドラマ「平清盛」は賊臣が捏造した御伽噺です。

<引用開始>
孝謙天皇 天平宝字元年八月十八日

 天皇は次のように勅した。

 朕は徳が薄いのにもかかわらず、忝くも皇位を継ぎ、八方の国土に君臨し、今に至ること九年、これまで善い政治もしていない。これについて日も夜も憂いの思いを抱いている。危険な淵に立っているように案じ、薄い氷を踏むように慎重にしている。

 ところが去る三月二十日、天の神は我に「天下泰平」の四文字を賜わって、天下の安らかなことを表し、朝廷の運命の永く続くことを示された。

 しかるに賊臣である廃太子の道祖と安宿・黄文・橘奈良麻呂・大伴古麻呂・大伴古慈悲・多治比国人・鴨角足・多治比犢養・佐伯全成・小野東人・大伴宿禰麻呂・答本忠節らは、生まれつきの性質が悪くかたくなで、迷った心で悪事に走り、君臣の道を顧みず、鬼神の力も恐れず、密かに謀反の徒党を組み、皇室の本家を傾けようとはかった。しかしことごとく天の咎めを受け、皆、罪科に服した
<引用終了>

道祖王は一度は皇太子に立てられながら、不行跡を咎められて孝謙天皇によって皇太子を廃されて、橘奈良麻呂の乱に加担し獄死した人です。

答えは3.です。

続日本紀に以下のような記述がある。つまり正解は「皇室」です。大河ドラマ「平清盛」は賊臣が捏造した御伽噺です。

<引用開始>
孝謙天皇 天平宝字元年八月十八日

 天皇は次のように勅した。

 朕は徳が薄いのにもかかわらず、忝くも皇位を継ぎ、八方の国土に君臨し、今に至ること九年、これまで善い政治もしていない。これについて日も夜も憂いの思いを抱いている。危険な淵に立っているように案じ、薄い氷を踏むように慎重にしている。

 ところが去る三月二十日、天の神は我に「天下泰...続きを読む

Q源平合戦時代の年のとりかたは?

源平合戦時代、年はどのようにとっていたのでしょうか?
今と同じように、誕生日がきたら、ひとつ年をとっていたのでしょうか?
それとも、一年経ったら、みんな一緒にひとつ年をとっていたのでしょうか?
ご存じの方がいらしたら、教えていただきたいのですが・・・。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

数え年の習慣ですね。
数え年とは人間は生まれたときに、一才と数え、正月が来ると神社にお参りして
神様におかげさまで新しい年を元気で迎えることが出来、ひとつ年を取ったことを報告していたのです。

何故生まれたときに一才か?
西欧では人間がこの世に生まれ出てきた時から年令を数えます(満年齢)。日本では妊娠したとき(生命の誕生)から数える習慣があり、約10ヶ月で生まれたとき一才としたのです。これは仏教の考え方だと言われます。仏教が日本に伝わる前からの習慣かも知れませんが、今の数え年の起源はそう説明されています。

数え年の習慣は法的には約50年前に廃止されましたが、民間では習慣として今でも残っています。60才以上の人は実際に自分の年を数え年で数えていた経験があります。7-5-3のお祝い、還暦(60歳のお祝い)なども数え年で行われます。

参考URL:http://ww4.tiki.ne.jp/~kameyama/kigann/kazoedosi.htm

Q源平合戦の時の各勢力の目的を教えてください。

はじめまして。

源平合戦で出てくる以下の勢力は、互いに争ったり時には手を取り合ったりしていたと把握しています。
「平氏」「木曽義仲」「源頼朝」「源義経」「後白河上皇」
これらの勢力はどういう目的があり、またどういった経緯でそれぞれ争ったり協力していたりしたのでしょうか?

ざっくりとでいいので教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

基本的に、軍事力による政権の奪取を目的としていたと言えましょう。
その過程で共通の敵に対して協力するような場面もありました。

政権の維持、都落ち後は奪還を図った平氏
平氏を倒し、軍事政権をたてようとした義仲
朝廷に依存しない関東での政権確立を志向した頼朝
頼朝の意向を把握せず、後白河に推戴された義経
武家を朝廷内に取り込み軍事力を掌握しようとする後白河

近年提唱されている説をとりいれるとこんなイメージでしょうか。
なお、地方でも有力武士が蜂起し、国衙を占拠して地域支配を試みています。
治承・寿永の内乱と呼ばれる所以でしょう。


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