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なまじ知ったばかりに不幸に陥るということがあります。
自分では結構まともだと思っていたことが、客観的にみると劣っていることだったりした場合、その知識のために不幸に陥ったということもできます。逆に知らないためにたいしたものでないものをありがたがり、幸福の糧にできる場合もあります。

そう考えると、客観的には不幸なことでも本人にとって幸福なのと、その客観性を知ったばかりに不幸に陥ることは、どう考えればいいのでしょうか?まるで「知識」のせいで不幸に陥ったかのように思えます。「知識」が悪であるかのようです。

例:
後進国で情報統制してたために国民に世界的生活水準が知らされず、国民は結構これがいい暮らしなのではないかと錯覚している。

身体障害がある人がそれに慣れてしまって普通だと思っていたのに、健康体というものを再認識して不幸感に陥る。

子供で、自分の家庭が結構いい家庭なのではと思っていたが、ホームステイとかで他の家庭を垣間見て「ああ、おれは不幸だ」などと感じる。

A 回答 (21件中1~10件)

「アルジャーノンに花束を」でも同じような事が言われてましたね。


知能が高い事が幸福に繋がるわけじゃない、と。

満ち、足る。満足を知る事が幸せの条件なのでしょうが、
贅沢や違う世界を知ってしまえば、満たさなければいけない
容量が増えてしまうでしょうから、
幸せは遠ざかってしまうのでしょうね。
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この回答へのお礼

容量が増えるということが問題なんですよね。それが幸福とは反対方向の動きになってしまうんです。

お礼日時:2007/06/24 17:15

知識を持つことと幸福になることに関連性がないからでしょう。



知って、知ることができたことに幸せを感じる人もあれば、知ったことで今の自分に不幸を感じる人も居る。

知識を得ることはそれ以外に意味がないことで、その知識をどのように使うかはその本人しだいでしかありません。
幸せもその人のとり方しだい、同じ現象にあっても幸せに思う人も居れば不幸に思う人も居るからね。
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この回答へのお礼

そうですね。もしかしたら関係ないことなんでしょうね。

お礼日時:2007/06/24 17:16

「知って行った罪より知らないで行った罪のほうが重い」を考慮すると


知らない故の幸福は、主観は自由ですが、客観的には評価されないということでしょうね。
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この回答へのお礼

そういう言い方があるとは知りませんでした。
逆化と思っていました。確かに客観的には知るほうを評価しますね。

お礼日時:2007/06/24 17:18

知られるべきものは知られるようになるとまでは言いませんが 自分が知りたいかどうかだと思います。



知りたいと思ったら 知ろうとします。知りたくないと言っていても 知りたいときには 知ろうとします。

知ったあとに 幸福になるか不孝になるかは 本人の知ったことではありません。《知ることができてよかったけれども その内容は かえって 悪いものとなってしまった》というのは 人に対しての愛想です。

例示された場合は 単純だと思います。知られるべくして知られたで済むと思います。新たな知識を持って やっていけないようなら 知識を持つ前にも やっていけないような状態だったと考えられます。
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この回答へのお礼

そうですね。自我の脆弱性を払拭しなければならないという、当然の課題に突き当たります。

お礼日時:2007/06/29 08:50

 幸福感の基準なんだろうと思います。

その基準を公私のどちらに重きを置くか?にもよるでしょう。

 例えば、チベットやモンゴルでも最近は先進国で勉強する若者が出てきました。そして、先進国での暮らしに慣れて結局故郷に帰らない者が居る一方で、そこでの暮らしに違和感を覚えてまた戻る者も居る。

 一般的に幸せだと言われる価値観。と、自分はこれが幸せだという価値観。どちらが正しいのではなく、どちらを選択するか?と言うだけなのですね。

で すから、選択肢が無い方が可哀想なのです。

 しかし、例のような、他の家庭を羨むようなのは、選択肢として間違っています。所謂、境遇だとか、身体的な特徴だとかの、自分の行動によって変えられないものは、極めて、個人的な事なので、それを一般的なものと比べて幸せ不幸せを論じるべきでないのです。

 そこは、一般的なものに価値観を見出すのなら、それに近づくように出来るか否かが選択肢なんです。

 例えば、同一性障害に悩む者が、手術を行えるか否か?また、法的に転換を認めるか否か?こう言うことが全くタブーの国で暮らしていれば、彼らはとても不幸ですし、日本のようにある程度の条件が整えば、思いが叶う事が判っていれば、彼らは幸せだと思います。

 いずれにせよ、人の幸福・不幸せはその個が感じるものです。
 『知らぬが仏』と言う言葉は、知らない方が楽だよ。と言う意味で、それが、幸せかどうかについては触れていません。

 昔から一般的には知る事によって、さらに増える苦悩がある事は多々有ったでしょう。つまり、知ったからとて、そんな世界もあるという情報が増えただけで、何も現状が変わらない事から知る事による苦しみの方がケースとしては多かったのだと思います。

 しかし、今はこのQ&Aサイトのような情報源があるし、知りたければ、かなりのところまで知ることが出来ます。そして、生活様式は個人に重きを置いているので、人様に迷惑を掛けなければ、どんな生活を送ろうが自由です。日の丸を掲揚しなくてもお咎めはありません。

 ですから、今の我が国においては、『知らぬが仏』と言う言葉は、まさに個人に「貴方には知る権利が有るけれど、貴方はどうしますか?」と言う選択肢としての言葉だと思います。 
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この回答へのお礼

丁寧なご回答、ありがとうございます。
日本では自由がある知る権利がある知ることもできる知った後でいろいろ講ずる手段もある、そういうものがないところと比べれば、確かに幸せなはずです。豊かな人生の可能性を閉じられることは苦しいですから。しかし一方、悟りの境地のようなものと、無知の安定というものがあれば、それはそれで別の境地に達せられるのではないかと思ったしだいです。

お礼日時:2007/06/29 08:53

幸不幸の


客観性ねえ

比較級の幸せね。

相田みつおさん
幸せはいつも自分の心が決める。
この言葉
どお
思う?
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この回答へのお礼

相田みつおの言葉はどうも性に合わないんですね。
なぜか分析してませんが、奇麗事のベクトルを感じるということでしょうね。

お礼日時:2007/06/29 08:54

日本人の哲学は


表層的には相対的に見えても
内面的には絶対的なのかもね。
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この回答へのお礼

そこをもうちょっと噛み砕けませんか?

お礼日時:2007/06/29 08:55

質問の内容からすると


言ってる意味分かんないだろうな。。。
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この回答へのお礼

そういう含みがある回答はあまり親切じゃありませんね。

お礼日時:2007/06/29 08:55

質問を整理することからはじめます



質問タイトルから類推するに
<「知らぬが仏」には正当性があると言えるのか、あるいは言えないのか。その根拠は何か>
ということだと考えると、基本的には次のように言えます。

1.人は、知らない情報があると知ったとき、それを知りたいと思う。
2.情報には、人を不幸にする情報と、幸福にする情報と、そのどちらでもないものがある。
3.人はその情報が不幸をもたらすか、幸福をもたらすか、そのどちらでもないかについて、知ることはできない。
3.1. 知った結果が不幸な場合、「知らぬが仏」という諺には一定の妥当性がある。
3.2. 知った結果が幸福な場合、またはどちらでもない場合、「知らぬが仏」という諺には妥当性がない。

この上で、おそらく3.1のような形での妥当性/正当性がある、という言い方はどこまで真にそう言いえるのか。そのような問いかけがgeorge-mさんの問いだと考えました。

 今までの議論だと、ginga3104さんの回答が面白いです。「選択肢が無い方が可哀想」という発想をすれば、確かに3.1の議論に対する反論になります。そして、これは自由意志とか、選択前提とかそういう問題圏になるでしょう。
 次のような対立項を立てられそうです。

A.選択肢を知った上で、自由意志があり、その上で選び取られた状態。これにこそ幸せを議論する価値はある。
¬A.選択肢を知らず、自由意志がなく、選び取れない状態においても。幸せを価値を議論することはできる。

 Aと、¬Aのいずれが正しいのかは、状況によって色々な議論をすることはできると思いますが、
 800字以内にまとまるように、無難なお答えするとなると、
 Aと、¬Aのどちらが絶対的に正しいのかを言いうることは難しい。
 実際には人間が自分に関わる全てを知ることは不可能なことなので、Aは無意味。¬Aのような状況が圧倒的に正しいと言いうるかどうかも微妙。当人が「私は幸せです」という言明はおそらくできる。その意味で、¬Aは正しい。しかし、第三者から「あなたは私よりも不幸せです」と言われる可能性は常に存在する。なので¬Aの観点からのみの議論は常に他者から、覆される危険を帯びている。その意味で、¬Aの妥当性は常に、制限付きになる。

 こんなところで。
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この回答へのお礼

詳しいご解説、ありがとうございます。
質問事態も混乱しているようでした。知らぬが仏は妥当性があってそのことをもっと噛み砕きたいと思ったということです。

整理していただいたとおりで、妥当だと思います。2つの場合があり、ひとつの「仏」のほうは脆弱性があり、まさにそのためにこの問題定義をした感じです。もうひとつの意思が関与するほうは、本当の幸せに近づけるが、困難も秘めているということですね。

お礼日時:2007/06/29 09:00

知る知らないで言えば逆のことだっていくらでもあります。

解釈によってどちらでも取れる場合に情報が多くなって今迄の解釈が成り立たなくなった場合のことですが、しかしこの格言は自分のことではないようにも思います。つまりある人がある人を利用しているときに利用されている人がその事に気づいていない場合その人は利用しているひとにとっては仏のように思えるということではないでしょうか。自分のこととして考えれば利用されていることに気がつかない法が幸せというのは相当がった見方をしないと納得できないようにも思います。
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この回答へのお礼

格言の解釈にとしてそのように考えることもできるのですね。利用されているというのは侮辱的なことですが、それに気づかない幸せもありうるのでしょう。

お礼日時:2007/06/29 15:37

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