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 第2次大戦のきっかっけとなったドイツのポーランド侵攻ですが、次のことがよくわからないので、お手数ですが、教えてください。

・ 侵攻前、ドイツとポーランドは軍事的には互角と考えられていたようです。ドイツはその程度の軍事力とおもられていたにもかかわらず、イギリスやフランスが戦前ドイツに配慮していたのはどうして?

・ ドイツは宿敵ソ連と共同してポーランドに侵攻したのは、単独による勝利が難しいと考えていたためでしょうか。

・ ポーランドにソ連も侵攻しているにもかかわらず、連合軍がソ連にも宣戦布告をしなかったのはどうして?

・ 当時のポーランドは軍事大国でしたか?

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A 回答 (5件)

>・ ドイツは宿敵ソ連と共同してポーランドに侵攻したのは、単独による勝利が難しいと考えていたためでしょうか。



敵国に対して挟撃するのは戦略の基本です。後にナチス・ドイツがソ連と連合国に挟撃され、また日本が対アメリカ戦と対中国戦に兵力の分割を強いられたため(それだけが原因ではないですが)敗戦しました。たとえ自信があったとしても世の中思い通りにいくとは限りませんから、手を打っておくのは基本ですよね。第一志望の希望校への合格率が80%といわれても念のため滑り止めの学校は受けておくでしょう?それと同じです。

>・ ポーランドにソ連も侵攻しているにもかかわらず、連合軍がソ連にも宣戦布告をしなかったのはどうして?

ドイツ一国(厳密には+イタリア)でも対応に苦慮しているのに、おまけにソ連まで敵に回したら自分の首を絞めるようなものです。フランスでもイギリスでもアメリカでも勢力はそれほど強くなかったとはいえ国内に社会主義者を抱えていたので国内治安の不安定にも繋がりかねません。そもそも、ファシズムは反共主義ですから遅かれ早かれファシスト政権とソ連との同盟は長続きしまいという読みもあったと思います。

>・ 当時のポーランドは軍事大国でしたか?

軍事大国とまではいかないまでも、それなりに強力な国だと思われていました。そもそも、ドイツは第一次大戦後に軍隊が非常に制限されました。ナチス政権後、強引に軍事強化に踏み切りましたが、それまで様々な制限が加えられていたのでその実力は未知数というようにドイツ軍内部でも認識されていたようです。
実際問題、現実の結果がああだったのでドイツ軍の実力が過大に評価されているのですが、当時のドイツ軍は急速な勢力強化に装備が追いつかず(装備が追いつかないのはドイツ軍にとって最後までの悩みでした)、歩兵部隊は第一次大戦で使っていたような旧式武器を使わざるを得ない部隊も多くありました。伝説的活躍となる装甲師団も、主力は1号戦車と2号戦車。両方とも武装は機関銃しかありません。1号戦車はそもそも訓練用にと作られたもので実戦を考慮されていません。それでも無理やり使わざるを得ませんでした。しかも、それでも足りないのでもう当時でも戦力として疑問視されていた機関銃で武装された装甲自動車を装備せざるを得ませんでした。
電撃戦の父と呼ばれるグデーリアンの回想録を読むと、対ポーランド戦が今思われているほど簡単なものではなかったことがよくわかります。ナチス・ドイツ軍はオーストリア進駐で進軍し、そのときに実戦に近い経験を積んだものの「本当の戦争」は対ポーランド戦が初めてです。
開戦してみると、連絡が上手くいかず大混乱となり、自軍の位置もよくわからなくなる有様です。さらに、ポーランド騎兵部隊というのはナポレオン時代にまで遡る精強で知られた部隊だったので、ドイツ軍内でも主に兵隊レベルで大変に恐れられていました。あるドイツ軍部隊が「ポーランド騎兵部隊が接近しているという情報がある。退却の許可を乞う」と連絡してきたくらいです。

keikakuさんがおいくつか存じませんが、よく似ているのが湾岸戦争です。開戦前、日本中が総軍事評論家と化してあれこれと論じましたが、ほとんどの人が「イラン・イラク戦争の経験があり、砂漠戦に慣れているイラク軍に対し、アメリカ軍は本格的な実戦から遠のいており砂漠の環境にも慣れていないので苦戦する」と思っていたものですよ。あんなワンサイドゲームになるとは本職の軍事評論家でさえ思わなかったくらいです。
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この回答へのお礼

お礼がおそくなったことを、まずお詫びいたします。

大変わかりやすい回答で、よくわかりました。

お礼日時:2007/07/17 20:55

ポーランドとの開戦前夜、ドイツの戦略は独ソ不可侵条約でまず東方のポーランドを叩きその後フランスへ進撃することを考えていました。



ソ連とはポーランド2分割の密約がありましたがどの段階でソ連の参入があるかは未知数でした。

当時のポーランド軍は数的にはかなりの期間ドイツ軍に抵抗可能と予想されるだけの勢力を有しており、国境や各地の都市要塞は堅固で第1次大戦のような展開であれば英仏の参戦により十分持ちこたえられる筈でした。
従って英仏は時を移さず直ちに対独宣戦布告をしたのです。

しかし英仏とも戦争の拡大には及び腰で、かつソ連とドイツの蜜月関係は早晩破綻することが予想されていましたので対ソ宣戦布告は見合わされたのです。

ドイツ軍は対ポーランド戦は独力で勝利する自信は有していました。
事実ポーランド軍の布陣は対独が主体でソ連国境方面は手薄でした。
ドイツ軍の電撃戦は連合国の予想を遙かに超えたものでしたから開戦10日後にポーランド軍の防御線は破れ各個に包囲殲滅されてしまったのです。 
これを見たソ連は急遽参戦を決意しほとんどガラ空きの東部国境を越えポーランドに侵入したのです。

確かにポーランド軍は強力と見られていましたがその装備は古く時代遅れといえるレベルでしたが戦意は高く、その騎兵集団は有名でドイツ軍に突撃しましたがドイツ軽戦車に阻まれ全滅するまで闘いました。
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この回答へのお礼

お礼がおそくなったことを、まずお詫びいたします。

くわしい説明をしていただき、大変ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/17 20:54

イギリスとフランスは、第一次世界大戦でドイツに勝利したものの、あまりにも払った犠牲は大きく、できるだけ戦争はしたくないと考えていました。

もし、再び戦争になれば、また大きな犠牲を払う事になると予想されたからです。その為、ドイツに対し、妥協を重ね、弱腰とも言われるような政策をとっていました。

ドイツ国防軍総司令部では、ポーランドに対し単独による勝利は充分可能だと考えていました。問題はソ連が敵対するかどうかでした。「独ソ不可侵条約」の締結により、ソ連が敵にまわる事がなくなった為、ドイツ軍は安心してポーランドに侵攻しました。
ドイツ国防軍総司令部では、ソ連軍がポーランドに対し侵攻する事も、領土を独ソで分割する事が決定されていた事も知りませんでした。これらの事は独ソ政府の上層部の間で決められた秘密協定であり、軍に対してもヒトラーは知らせていなかったのです。
その為、ソ連軍がポーランドの国境を越えたという報告がドイツ国防軍総司令部に入った時、「ソ連軍の敵対行動の相手は誰か?」と、将軍達が慌てて確認をとったほどでした。

イギリス、フランスがソ連に対し宣戦布告をしなかったのは、自国にとって、それほどメリットがなかったからです。
もともと、ドイツのポーランド侵攻前、イギリスとフランスは、ドイツに対抗する為に、ソ連を引き込もうとしていた経緯があります。条件がおりあわず、ソ連を味方にする事はできませんでしたが、ソ連とドイツとの仲が、それほど強固という訳ではありませんでした。ソ連は状況によっては、どちらに転ぶかわからないような国だったのです。
そして、「独ソ不可侵条約」も、いつまで続くか、怪しいものだと考えられていました。
しかし、もし、イギリス、フランスが、ソ連に宣戦布告をしてしまえば、独ソの関係はさらに親密に強固になり、ドイツはフランスを次の標的とする事が決定的となるように思われました。しかし、ソ連を敵にまわさなければ、少ない可能性ながらも、ドイツの矛先が先にソ連に向けられる事もありえると考えられていたのです。
そして、イギリス、フランスは、何よりもドイツとの戦争を準備しなければならない状況であり、ソ連に構ってはいられなかったのです。
そもそも、イギリス、フランスのドイツに対する宣戦布告は、ポーランドの為というより、自国の防衛戦略に役立てる為のものでした。しかし、ソ連への宣戦布告は、おこなったとしても、自国の防衛に何ら寄与するものではなかったのです。

ポーランドは軍事大国でした。文献によりばらつきがあるのですが・・
ソ連、フランス、ドイツ、イタリアについで、欧州で5番目の規模の軍隊を持っていました。
戦争前、ポーランドは30個師団を持っていました。フランスは65個師団です。ドイツは52個師団です。
ただし、どの国も戦争になれば、予備役が召集され新たな部隊が多数編成されます。例えば、ドイツはポーランド侵攻の際は75個師団になりました。
東西から、挟み撃ちにし、長期戦に持ち込めば、充分、ドイツに勝てるというのが、イギリス、フランス、ポーランドの見方でした。
ただ、ポーランド軍は、それなりに数はいても、近代化に遅れていました。戦車は700両、軍用機を400機しか保持しておらず、他の兵器も旧式な物が多かったのです。
これに対しドイツは戦車を2500両、軍用機を3000機を保持していたのです。そして、ポーランドに対しては、兵力数でも上回っていました。
ポーランドは軍事大国の方でしたが、ドイツには劣っていました。
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この回答へのお礼

お礼がおそくなったことを、まずお詫びいたします。

大変詳しい回答をしていただき、本当にありがとうございました。

お礼日時:2007/07/17 20:52

>イギリスやフランスが戦前ドイツに配慮していたのはどうして?



英仏は、当時の独軍を過大評価したようで「宥和政策を堅持」していました。自国が戦争に巻き込まれる事を嫌ったのです。
そのため、ミュンヘン独伊英仏首脳会談で「チェコ領土の独逸への割譲」を承認しました。(チェコ政府には、発言権が無い)
その後、独は「チェコ全土を保護国」とします。

>単独による勝利が難しいと考えていたためでしょうか。

チェコが独に侵略されると、英首相チェンバレンは、急遽ポーランドと軍事条約を締結しました。
英・仏の強硬な反対(ポーランド侵攻)にあい苦境にたった独にソ連が支援を申し出たのです。(秘密協定として、ポーランド半分・バルト3国を割譲)
独・ソ連の電撃的侵攻により、英・仏は参戦に間に合わなかったようです。
秘密協定は、なかなか第三国に漏れなかったようでうね。
日本と中華民国が戦争をしている時、(日独伊三国同盟があったにも関わらず)独は「中国に対して軍事支援」を行っていた事実があります。

>連合軍がソ連にも宣戦布告をしなかったのはどうして?

ソ連は、フィンランド・ルーマニア・ブルガリア領土をめぐって独と争いになります。
その後、独ソ連は交戦当事者となり、「敵の敵は味方」の図式が出来たのです。

>当時のポーランドは軍事大国でしたか?

独軍の電撃的スピードでのポーランド西半分まで侵攻。
200万ソ連軍が「一発の銃弾を撃つこと無く(本当?)」東半分まで征圧。
この事実から、軍事力は過小評価されていたようです。
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この回答へのお礼

お礼がおそくなったことを、まずお詫びいたします。

よくわかる内容の回答で、疑問が解決しました。

お礼日時:2007/07/17 20:50

(1)イギリスもフランスも出来れば自分の国は戦争をしたくなかったのです。

また、ポーランドがあまりにも速く失陥してしまったことも手を出せなかった理由の一つでしょう。
(2)独逸とソ連は不可侵条約を結んでおり、ポーランド分割占領の密約がかわされていました。また、スターリンはドイツに侵攻されたのにも係わらずしばらく信じなかったほどです。
(3)ポーランド侵攻時はポーランドとフランスとイギリスの軍事同盟で連合国といわれる大勢にはなっていなかったのではないですかね。
(4)ポーランドが軍事大国でなく独逸軍の軍事力が過小評価されていたのです。実際には独逸とポーランドの軍事力には大分差がありました。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC% …
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この回答へのお礼

 お礼がおそくなったことを、まずお詫びいたします。

 よくわかる内容の回答で、疑問が解決しました。

お礼日時:2007/07/17 20:36

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Q第2次世界大戦のソ連の戦死者が多い理由は?

先日、池上彰さんのテレビ番組で「第2次世界大戦のソ連の戦死者は2000万人を超えている」「その恐怖からスターリンは、隣国を共産国にした」ということを知りました。

日本の太平洋戦争での戦死者は300万人くらいと聞いてますが、日本の戦死者と単純に比較できるのかどうかわからないのですが、日本の7倍の戦死者の数には、とても驚きました。

第2次世界大戦のソ連の戦死者が多い理由をお教えいただけましたら助かります。

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
最新装備と新兵がまぜこぜになった軍隊が、モスクワ正面の戦いを乗り切った、1942年当初のソ連軍でありました。

もちろん精鋭であり戦略予備といえるシベリアの部隊はありましたが、ノモンハンのときに日本の帝国陸軍と正面衝突を初めてして大損害をうけた経験から、軽々しく欧州戦線に移動させるつもりに、ソ連軍指導部はなれなかったのです。
そのノモンハンのソ連軍総司令官が、スターリン直々に任じられたジューコフでした。

ジューコフは、

1 ソ連軍は弱い

2 だから勝つためには、敵より多くの兵器と兵士を前線に惜しみなく投入し、その重みで押しつぶすしかない

3 だから、兵士も戦車も大砲も、とにかく数をあつめる

ということを、理解していたので、必要なだけの兵力を敵がつぶれるまで投入しました。当然ながら自分より強い相手を数でつぶすのですから、犠牲はふえます。
さらに、この考えをスターリンも支持したので、党、治安組織、軍事思考、動員体制、といったソ連という国家の戦争体制そのものが、勝てるまで人命も装備も前線に突っ込むように構築され、上から下まで人命軽視というより、人命より目的達成、のドクトリンが徹底しました。目的達成が勝利なら、なおよし、です。

そのような体制のもとで運用されたソ連軍の基本的ドクトリンは、

最低でも幅50kmの線に分厚く、最低でも敵の3倍、普通なら5倍、理想は7倍の二陣の部隊を結集させ、

まず砲撃と航空攻撃だけで相手の6割に損害をあたえ、

そして第一陣が弱った敵に突っ込みその第一陣が自分の損害を省みず敵をなぐるだけなぐったら、

味方第一陣の残骸を乗り越えて無傷の第二陣が第一陣と戦ってボロボロになった敵を蹂躙する、というものでした。

装備は更新されたし、戦車・武器も疎開した工場と米英のレンドリースでそろえてはいるが、兵士の教育が低い軍隊にむずかしいことはあまりできません。字の読めない兵士が珍しくないどころか、ロシア語がわからない兵士も珍しくありません。
なので、時には下級将校は選挙で選び出され、そのような将校には反抗するものを軍法会議抜きで「処分」する権利はあたえられました。戦争をしている国家と党に異を唱える者はいらない世界です。
また、女性が前線で銃をとったり、戦車兵をやったり、戦闘機・爆撃機パイロットをしたりしたのも、ソ連軍だけでした。

この残酷な単純化となりふりかまわなさが、精鋭のドイツ軍相手に血を流しつつも、ソ連軍を勝たせたのです。

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
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