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大河ドラマで本能寺の変をやっていましたね。昔TVで見たのですが、本能寺の変は、実は徳川家康と羽柴秀吉の共謀による暗殺であったと。そして実行犯の明智光秀は徳川家に入り、優遇されたと。
(その証拠に、光秀の首を秀吉は確認もしなかった、2代3代将軍の名前には光秀の字がつけられている、日光には明智平という地名まである、、、)

この説というのは、日本史学的にどういう位置づけ(立場)なのですか?やはり異端説??それとも実は史実に近いと思われているのでしょうか・・・

※こういう話題好きなので、その他にもあったら教えて下さい。。(長篠の3段程度の火縄銃隊では、実は騎馬隊が来る前に充填できなかったとか・・・)

A 回答 (65件中1~10件)

はじめまして。


私もこういう話題は大好きです。
後に徳川家康のブレーンになったとか、復興した比叡山の寄進者に名前があるとか色々ありますよね。
しかし、歴史的にみると「源義経=チンギス・ハン説」と
同じ物で残念ながら根拠らしい根拠はありません。
この話題も楽しむ分にはいいけれども、、、という感じですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

根拠はないわけですね・・残念です。面白いと思うのですが・・

お礼日時:2002/07/10 00:26

今回とは全然違う話ですが似たような話として源義経について。



確か藤原氏?のところで殺されちゃって
そのクビが鎌倉に送られて確認された件について

(距離的には)一週間くらいで鎌倉にいる源頼朝のところに
(義経の)クビを持っていくことが出来たのに
実際は40日以上かけて持っていったそうです

季節は夏だったためそのクビが鎌倉に着く頃には、ほとんど腐っちゃってて
義経本人かどうかは確認出来ないほどであったとか。

じゃあなんでわざとゆっくり行ったのかっていうと
以前は義経と親しかったけど後になって頼朝側についた人が
”できるだけゆっくり持って来い”って命令したそうです
(理由は忘れたけど…なんかもっともらしい理由をつけて)

つまりその人は源義経の影武者が本当は殺されたのを
知ってて、確認できないように首を腐らせて持ってこさせたのではないか。

とか。
ほかにもいろいろあったけど
長くなったのでこのへんで。
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オレが書いたらNo.2になってた。


No.1のヒトはどんなことを書いたんだろう…
あっ!!オレが書いたこと書いてる(爆)

じゃあリクエストに答えてもう1個(←リクエスト?)

源義経は身長が160センチ未満の小男。
ジンギスハンは2m近い大男だったそうです。

が、ジンギスハンが死んで棺に入れる時
彼の遺体はかなり小さくなっていて、みんな(仲間)驚いたそうです
でも、稀代の英雄にはこのような奇跡も起こるって強引に?納得したそうです

例えばナポレオン。
彼はちょっと太ってるイメージ(馬に乗ってる絵とか)がありますが
本当は痩せていたそうです。
ただ威厳を保つため、服の中に袋をたくさん入れて
太っているように見せていたそうです(マジ話)。

例えばアレクサンダー大王(多分)。
彼もなんかやっていました。忘れたけど
確かカツラ…だったかな。忘れたけど。

ジンギスカンもそういうのやっていたのではないか
つまり本当は小男だったのではないか。

とか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
ナポレオンは聞いたことありますねえ
義経伝説はすごいですよね。日本のあちこちに「義経公園」という公園があるんですって。
私の実家(北海道)にもありましたもん。

お礼日時:2002/07/10 00:29

織田信長を暗殺するようプロデュースできたのは誰でしょう。


家康、秀吉、光秀はライバル同士です。
ちくられたら終り、信長は絶頂、という時にそのような話題を課長クラスだけで
進められる訳がありません。
だれか社外にフィクサーが居たと考えるのが自然です。

もっとも気になるのは関ヶ原です。

なぜ、ああも豊臣恩顧の忠臣たちが豊家を裏切ったのか。
だれかシナリオを書いた人物がいるのではないか、
信長の戦略を忠実に実行している豊家の安泰を望まない
お方の使者として活躍した人物が、、、

その人物が実績として誰も追随できないような経歴の
持ち主だったとしたら。

石田光成がいかほど憎まれていようと、暗殺でもすれば
済むこと。
豊家を裏切る理由としての石田光成はあまりに小さい。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

うーん、、結局のところどうお考えなのか、、いまひとつ伝わらないのですが・・・・
読解能力がなくてすみません。

お礼日時:2002/07/10 00:30

光秀・秀吉・家康の共謀説は、史学会では話題にすらあがっていません。



公家の日記などの同時代史料によると、光秀の首と遺体は本能寺跡に曝されています。

<例1>「天正十年夏記」(勧修寺晴豐の日記)天正十年六月十五日条

「(前略)明智くひ勧修寺在所にて百性取候て出申候。本能寺ニむくろト一所首おかれ候。見物衆数しらぬ也。首共を信長はてられ候跡ニならへ候。三千程有之由候。」

<例2>「兼見卿記」天正十年六月十六日条

「(前略)向州頸・筒体(ママ)、於本應寺曝之云々、」

他にも類似の記述が残されています。光秀は間違いなく天正十年に死んでいます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
公家の日記ってどれくらい信憑性があるのでしょうかね?
こういう記録というものは、後世に事実を曲げて伝えるために嘘を書くのも当たり前と聞きますが・・・

曲げて伝えられた嘘を聞いたひとが、史料に記録したという可能性はないのでしょうか・・・

お礼日時:2002/07/10 00:33

私もこういう話、好きです。

で、いくつか耳にした話を。

長篠の戦いで、あの銃は敵に当たらなくてもよかったという話。なぜなら、銃の音で馬が驚いて暴れだし、役に立たなかったから。(あたらなくてもよかった)

南北朝の南朝方の末裔と自称する人がたくさん現れた事件。
熊沢「天皇」が有名ですね。

田沼意次善人説(再評価)。
当時の賄賂は、指導料みたいなもので悪くなかった、他の人も同じくらいもらっていた。あるいはもらってなかった説。大事なのが、彼が重商主義をとったこと。結局幕府は商業が発達していた長州や薩摩に滅ぼされましたよね。だから先見の明があったと評価する人も。

天草の乱がカトリックの国(から派遣された伝道師)から支援されてた説。
日本人なら知ってるザビエルさんは信仰篤い人らしいですが、南米の例を見ても、布教と侵略は紙一重なところがありますね。

孝明天皇暗殺説
明治天皇の一代前ですね。幕府に好意的(これは本当ですね)だったので。
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この回答へのお礼

いろいろありますね~

私が聞いた話は、
・秀吉が信長の草履を暖めて気に入られたというのは嘘(体温で暖めても、足の裏ではその温もりは気づかない)
・毛利元就の三本の矢の遺言も、後のひとが作った作り話
・タイタニックは保険金目当てでわざと沈められた

まだあったんですけど出てこない・・

お礼日時:2002/07/10 00:37

長篠合戦について、少し・・・



合戦場となった設楽ヶ原というところは、湿地帯みたくなっていたという話
を聞いたことがあります。ですから、騎馬で突撃することは困難だったとい
うことらしいです。加えて、設楽ヶ原には、馬防柵だけではなく、簡単な砦
が築かれていたという説もあるそうです。

光秀の謀反については、様々な説が巷で話題になってますね。

 1、野望説
 2、恨み説
 3、ストレス、病気説
 4、将来への不安説
 5、旧体制維持説(朝廷暗躍説)
 6、秀吉との共謀説

まあ、朝廷との関連は無かったと思いますが、自発的に旧体制を守ろうと
したのではないでしょうか。そういえば、光秀が生き延びて、家康の智嚢、
天海僧正になったという説もありましたね
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まず、「本能寺の変」ってのも不思議な話ですよね。


中国地方で毛利軍と戦うために出撃した明智軍はれっきとした軍隊です。対して、本能寺に駐留する信長一派は「手勢」です。
本能寺は「寺」であって、籠城できるような「城」ではない。
「軍勢」が「手勢」と戦えば、あっという間に決着し、明智軍は信長が炎に包まれるまでに信長の首を取れるはず。(あの天下分け目の関が原の合戦でも、小早川が寝返ってから2時間ほどで決着している)
炎の中で切腹して遺体も不明、なんてことがあるはずがない。
(信長が謀反に気づいてすぐ放火したならともかく、弓の弦が切れるまで応戦したというんだから。)

家康と秀吉については立場が違い、秀吉が天下をとろうと思えば、年齢差のない信長はどうしても邪魔ですが、家康にとっては、歳の離れた信長はあえて排除する必要がない(実際、秀吉が死ぬまで待とうホトトギスだった)。

長篠の合戦の「3000丁の鉄砲」については、毛利や上杉その他に対する「はったり」じゃないかと思います。実際に織田軍の持っていた鉄砲は全軍で1000丁ほどだったとか。全部を使えたわけでもないだろうし、本当に3000丁で撃ちまくったら、あっというまにかたがついてもよさそうだけど、実際のたたかいは、関が原よりさらに長くて、夜明けから午後までかかっているということです。勝頼も逃げているし。
その後の戦いでも「3000丁の鉄砲」が登場していませんからね。「勝った方の情報」で、「織田軍はすごいぞ」とPRすればすむ。なんといっても、武田軍が負けたのは事実だから。
(「3000丁の鉄砲」のうち、1割の300丁を明智軍がつかえば、弓矢で応戦する信長を射殺することは簡単でしょう。下手な鉄砲も数うちゃあたる。騎馬隊より狙いをつけるのは簡単だ。)
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No.5の者です。



> 公家の日記ってどれくらい信憑性があるのでしょうかね?

公家や僧などの日記というのは「古記録」と称せられ、「文書(もんじょ:公私の手紙や制札など)」と共に最も信憑性の高い史料とされています。信憑性の高いとされている『信長公記』ですら史料のくくりでいえば「軍記」という分類になり、『信長公記』も多くの誤記が指摘されています。「軍記」より「古記録」・「文書」の方が一般的に(というか圧倒的に)信憑性が高いです。
要はある事柄が起きたときに、これと同じ時期に書かれたか、時代が下ってから書かれたか、ということが信憑性に直結してきます。これに加え、傍証があるか(複数の史料に記述されているか)ということも非常に重要になってきます。

> こういう記録というものは、後世に事実を曲げて伝えるために
> 嘘を書くのも当たり前と聞きますが・・・

確かに著者が意図して事実を曲げた事例はありますが、これを証明できる事例は非常に希ですし、基本的に日記は公の目に曝されることが希ですので、事実を曲げる必要性が非常に薄いです。『兼見卿記』はこの希な事例ですが、これは「別本」というものも存在しているため、また著者の身に危険が迫ったために事実を曲げています。ただし、引用した天正十年六月十六日条には「別本」が存在しませんので、信用に足りると考えます。

> 曲げて伝えられた嘘を聞いたひとが、史料に記録したという可
> 能性はないのでしょうか・・・

可能性はあります。たまたま嘘が広がったか、意図されたプロパガンダか…。
ただし、天正十年六月に光秀が死んだかどうかということについては、引用しませんでしたが『言経卿記』『多門院日記』『蓮成院記録』をはじめ、多くの古記録・文書に記載されていますので、疑いようのない史実と考えて差し支えありません。
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「光秀の首」ですが、書いた公家さんは真実を書いたつもりでも、小栗栖の田舎はずれで「名もなき者」に討たれた「光秀の首」が、京の都まで届けられて検分の際に「ホンモノ」であったかどうか、という保障はありませんね。

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