痔になりやすい生活習慣とは?

なぜ,島津家が関ヶ原役後に改易を免れることができたのか,本当の理由はどこにあるのか?
関ヶ原役前後の石高にも変化なし。
旧石高)56万石 新石高)56万石

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A 回答 (5件)

奥州にこわーい伊達政宗が居ますからね。


関ヶ原前後でも不穏な動きを見せているので江戸をがら空きには出来なかったと思います。


何よりも薩摩の統治者候補が居なかったのでは?
島津家は鎌倉以来の土着の家柄。軍の団結力が半端ではない。
関ヶ原で参加したのがたった兵力1500。
精鋭の島津本隊は薩摩で無傷であること。
更に毛利も関ヶ原で戦っておらず無傷の大兵力を持っていること。

何よりも薩摩の正確な国力が不明だった事。
検知も中央から遠いことを良いコトにかなりの改ざんと南方貿易による経済力は秀吉時代から誤魔化していたようです。
薩摩は異色な土地なので間者が送りにくかったとか。
基本石高ですが、薩摩は米以外の産地ですので国力は掴めなかった。

やはり薩摩までの補給路の確保が難しいし、
戦略的に勝っても負けてもビジョンが見えず、
関ヶ原後の論功を見てもわかる通りに関西には外様ばかり。
こんな時にその最西端でどっしり構えるわけには行きません。

関ヶ原を終えて戦略的に立ち返って考えれば、豊臣に的を絞って島津はこちらにと言う方を選んだではないでしょうか。
家康自身の余命と秀忠の戦闘指揮能力を考えれば、ここで当代の名将島津義弘と戦うことはやはり選択できなかったと思います。

この回答への補足

jamiruさんの関ヶ原役後の日本国の統治という戦略眼に立ち返れば,島津家と正面切って戦うより支配下に置き,秀忠に引き継ぐ方が将来の徳川家のためと考える説に一理あると思います。
その他,経済面から考えれば,島津家を改易してしまった場合,東シナ海にて島津家が海賊化し,その後の南方貿易に無益になると考える見方があると思います。
上手に島津家を生かしつつ,琉球の支配を考える戦略にたった方が,徳川家が新たに乗り出すより数段早く,統治下できる考える見方もあると思います。

島津家は,結果的に地理的,経済背景等々の総合力によって,徳川家康から改易という大鉈を振るわせなかったものと考えます。
「徳川家-島津家」との戦という極論ばかり目がいってしまいますが,大隈,薩摩という地理的背景が要因となる経済面にも目を向ける意見があっても面白いのではないでしょうか?

補足日時:2007/06/24 16:34
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こんばんわ。



簡単に言えば、島津を滅亡に追い込んでも、意味が無いからです。

理由は、わざわざ鹿児島に行けば、後ろで反乱が起こった時に困るからです。宇喜多秀家や毛利輝元、などの領地は取り上げたとはいえ安泰ではありません。土佐も然りです。

西軍について没収された大名の領地でさえすごい量で、無事に治められるかが課題になります。

佐々成政が、熊本の反乱に巻き込まれ、秀吉に自害させられた事件は、あれは一歩間違えば九州全土が収拾のつかないことになりそうだったからです。それくらい、征服した土地を新しい領主が治めるということは難しいといえます。

政情が不安定だから、というのが答えになります。
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関が原の戦いのあとの、国内情勢によるところが大きいかと。



関が原の戦いのとき、九州では藩主が戦いにでかけて空き地同然になった領土を、黒田官兵衛が次々に征服していきます。
また東北では最上・伊達氏と上杉氏の戦いも継続しており、予断を許さない情勢でした。

特に黒田官兵衛の動きが読めなかったため(表向きは東軍に属していたが、本心は第三勢力になりたがっていた)、家康は官兵衛の背後に位置する島津氏の動向に注目せざるをえなくなります。

また島津氏の側も、国境の防備を固めて、攻めてくれば徹底抗戦の構えをみせる一方、外交交渉を通じて家康にこれ以上の敵意はないことを伝えます。

これらの要素が複合して、島津氏の領土が保たれる結果となったようです。
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当然の事ですが推測です。



幕末のイメージで薩摩は強国のイメージがあります。
が、これは江戸時代にご禁制の密輸(海外貿易)で財をなしたためです。
当時も秀吉が攻め落とせなかったのですから、兵は強かったのでしょうが国力となると・・・
白砂台地の為、石高はかなり低かったようです。
俗にいう加賀100万石なんて嘘八百です。
家康の時代には、防御は兎も角、攻め上がり天下を脅かす可能性は0だったと推察されます。

薩摩は守りやすい地形ですし、あえてリスクを犯さずに対応したのではないと・・・・
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徳川家が全軍を率いて薩摩まで行けなかったから。



秀吉が九州征伐にいけたのは、徳川家が恭順したから。
関ヶ原戦後の状況で、戦闘力の高い島津家を潰すのは、かなりコスト高。
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Q家康はなぜ島津を処分出来なかったのか?

関ヶ原で西軍に味方し唯一と言って良いほどお咎め無しの大名家が島津家です。
宇喜多秀家も島津を頼り死罪を免れ、佐竹も島津の口ぞえで出羽秋田への改易で済みました

しかし家康は関ヶ原で勝った立場です
島津を処分しようとすれば出来たはずですが何故しなかったのでしょう?
確かに元々は東軍加担でしたが伏見城攻略を巡って家康と対立し西軍に付き
戦場で取り残された時起死回生の中央突破で反転し退却しました。
もしや家康はビビったのでしょうか?


関ヶ原後に島津家を処分しなかったばっかりに約260年後
幕府は島津に倒されてしまうんですね(笑)

Aベストアンサー

azuki-7 さん、こんばんわ。


本当は関ヶ原後に島津家を処分したかったでしょう。しかし、関ヶ原で義弘が連れていた兵力は1500です。ところが、薩摩本国には義弘の兄義久が健在です。その兵力は少なくとも3万はあったと言われています。ここで薩摩を攻撃することはとてもリスクが高いことだと言えます。そこで、義弘が謝罪の使者を出してきたのを機に交渉に手を変えます。しかし、なかなか義弘は本領安堵の条件がない限り、上洛しなかったのです。その間に義弘は井伊直政に仲介を依頼します。かつては家康の要請で伏見城の守備に就こうとして妨害されたので、やむなく西軍に付いたということを述べたのです。そのあと2年間も交渉は続いたのですが、結局、慶長7年(1602)家康が折れる形で起請文を書き、本領が安堵されました。義弘の息子の忠恒(家久)が上洛して謝罪し、これで島津家は徳川幕府の統制下に入るのです。

結局、この交渉が長引いたために家康は征夷大将軍宣下が遅れたのです。


詳細は下記のURLを参照してください。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

azuki-7 さん、こんばんわ。


本当は関ヶ原後に島津家を処分したかったでしょう。しかし、関ヶ原で義弘が連れていた兵力は1500です。ところが、薩摩本国には義弘の兄義久が健在です。その兵力は少なくとも3万はあったと言われています。ここで薩摩を攻撃することはとてもリスクが高いことだと言えます。そこで、義弘が謝罪の使者を出してきたのを機に交渉に手を変えます。しかし、なかなか義弘は本領安堵の条件がない限り、上洛しなかったのです。その間に義弘は井伊直政に仲介を依頼します。かつては家康の...続きを読む

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q関が原の戦い後、なぜ、長宗我部は領地没収で、毛利・島津は領地減となったのでしょうか?

関が原の戦い後、なぜ、長宗我部は領地没収で、毛利・島津は領地減となったのでしょうか?

Aベストアンサー

その話はかなり有名ですよ。

基本的には西軍に属した大名は領地没収・改易になるところが、
毛利に関しては、吉川広家に対して
毛利家の所領安堵の約束をしていたのに、
それを反故にして領地削減させたわけです。
この経緯は、直接、家康が言質を与えずに
井伊直政を介して調略を行ったために、
正確には約束したわけではないというトリックがあったのですが、
吉川は最初の約束と違うと猛抗議します。
それで吉川家の所領を減らす代わりに
なんとか毛利家の存続だけは勘弁してもらった格好になりますが
毛利家ではこの一件の恨みをずっと持っていて
年始だったいつだったか忘れましたが、
毎年、徳川家に恨みを晴らす、討ち入るという儀式を
幕末までやっていて、それが倒幕の原動力となったのは
かなり知られてますよね。

島津家の場合は、大幅削減のはずだったのが
隠居していた島津義久などが内外で粘り強く抵抗をして
領地返上に抵抗して、外交交渉の結果、
薩摩・大隈という言葉も違う辺境ということもあって
島津だけは所領安堵・お咎めなしどころか、
琉球貿易の窓口という立場も容認されます。
これは無能な毛利家と違って、島津家の有能かつ交渉上手が
活きた格好です。
ただ関ヶ原前後で島津家内部では多少、内紛なるのですが
なんとか詰め腹でまとまるのがまさに島津式です。

この二国が幕末の主勢力になるのはあながち偶然ではないでしょう。

あとちなみにですが、
関ヶ原で西軍についたものでは、立花宗茂は唯一、改易後に
所領を新たに与えられてます。大名に復活したのは彼だけです。
理由は、武人の鑑として、徳川秀忠に気に入られたからです。

その話はかなり有名ですよ。

基本的には西軍に属した大名は領地没収・改易になるところが、
毛利に関しては、吉川広家に対して
毛利家の所領安堵の約束をしていたのに、
それを反故にして領地削減させたわけです。
この経緯は、直接、家康が言質を与えずに
井伊直政を介して調略を行ったために、
正確には約束したわけではないというトリックがあったのですが、
吉川は最初の約束と違うと猛抗議します。
それで吉川家の所領を減らす代わりに
なんとか毛利家の存続だけは勘弁してもらった格好になりま...続きを読む

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
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