最新閲覧日:

史実、三国志の中における倭国の位置付けとはどんなものだったのでしょう?
明確な解釈が見つからず、悩んでいます。
よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

下記nuts氏の見解に同意です。


所詮は東「夷」、つまり野蛮人です。中国にとってはどうということのない辺境の一小国です。
ちなみに三国志中で異民族を扱った伝は、東夷伝の他には烏丸伝と鮮卑伝しか立てられていません。
東夷伝の中にさらに「夫餘」「高句麗」「東沃沮」「(手偏)邑婁」「(けもの偏)歳」「韓」「倭」が出てきます。これらについては、前史の欠を補うために記述した、と陳寿が述べており、西域については、漢書にある通りで変わらないということから記述しなかったようです。
ということで、東夷伝も大した変化が無かったら、西域伝と同じ運命だったかもしれません。

字数を数えたわけじゃないんですが、注釈を除けば烏丸伝、鮮卑伝を抜いて、倭人の条の記述が最も多いような気がします。
とはいえ、これもやはり一目置かれていたというんではなくて、朝貢をしていたということと、動乱があった(なおかつ情報が中国まで届いている)ということが大きいんでしょうね。

参考までに。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

nutsさんの見解と共に、非常に参考になりました。
この時代、まだまだ倭の国は位置付けとしては低かったのですね。
その点、お2人ともわかりやすい解釈をありがとうございました。

お礼日時:2001/01/23 03:56

一言でいえば「とるに足りない辺境の野蛮国」です。


俗に「魏志倭人伝」とされている文章は、正確には「魏志東夷伝倭人条」で、たしか2000文字ぐらいの記述しかないのでしたよね。一冊の「伝」を建てるに足りないと判断されたわけですし、また実際それだけの情報しか魏には届いていなかったのでしょう。紀伝体の元祖である「史記」では、「帝王に本紀を建て、それを助けた人物に世家を建て、いずれにも入らないが漏らすには惜しい人物に列伝を建てる」という基準で分類されています。さらにその下に、一人の人物ではなく複数をまとめて一編の列伝にまとめてしまうという扱いもあります。後続の正史では世家を列伝にまとめてしまいましたが、つまり「魏志」での倭国の扱いは、「記述は必要だろうが最低限でよろしい」というレベルです。
内容を見ても、「これこれこんなに遠いところに、これこれこのような野蛮な風俗をもつ国がある。生意気にも朝貢してきたので、恩恵を与えてやった」というだけの話で、朝貢の事実がなければ(本当の意味で朝貢という意識があったかどうかも疑問ですが)正史には残らなかったでしょう。
こんなところが趣味で中国史の本を読みあさっているわたしの解釈ですが、どんなものでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます! 非常に参考になりました
やはり勉強としての解釈より、趣味として楽しんだ解釈の方がわかりやすいですね。
邪馬台国の方共に、ありがとうございました。

お礼日時:2001/01/23 03:54

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード


人気Q&Aランキング

おすすめ情報

カテゴリ