1つだけ過去を変えられるとしたら?

長子の権限が確立したのはいつごろでしょうか?
古事記によるとヤマトタケルの尊は次男で、長男を殺しましたが、大王の地位を相続したのは三男です。ま、残酷な殺し方をしたというのも影響しているかもしれません。

保元の乱の原因ともなった、関白摂政藤原の忠通と○通、○○親子も、元関白の親父さんが次男を立てて家督を相続させました。

いったいいつの時代に、長男を嫡子とするようになったのでしょうか?

太平記や平家物語を読むと、すでに嫡子と庶子(次男以下)では差別があったようです。

A 回答 (5件)

家督相続に限定すれば、既に前の方々が説明をされていますので、特に付け加える点はないのですが、


ご質問の冒頭に「長子の権限が確立」とありますので、私も「長子の特別扱い」について若干気になって
いる者として、コメントしますね。ご質問が公家や武家の「家督相続」に限定されるものなら完全に
蛇足ですので、以下は無視して下さい。
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ご質問の中にも嫡子と庶子との差別があったと書かれているように、長子や成人した男子の中の最年
長者を特別扱いするような習慣?はかなり古くからあったようですね。長子が仮に家督相続しなくても、
一門として一家を構えたり、その子を次の当主としたり‥ 
年少の兄弟たちが一生部屋住みであったり、分家しても家臣の扱いとされたり、格下の他家に養子に
出されたり、とはえらい違いです。ちなみに、分家筋にあたる家の長子が格上の本家の養子として
本家を相続し、弟が兄の代わりにその家を相続するケースも、ちょくちょく見受けられますね。
これらの、「長子の特別扱い・権限」が、何か制度として「確立」した画期があったのかどうかは
疑問で、私には分からないのですが、恐らく父系原理と同様に民族的な習慣として古くからあった
のだろうと思います。
ちなみに、天皇家の場合はもっと厳格で、生まれた順よりも生母の尊卑が完全に優先します。
平安以降、正室に皇子が生まれていなくても、側室の実家の身分によって、皇子が皇位につけるか
否かの命運が分かれました。特に室町以降になると皇太子やその候補がいない場合でも、身分の低
い母から生まれた皇子は幼児のうちに寺に入れられるか、宮家の相続者と決められました。で、
結果として、条件に合う後継者のいないまま天皇の健康状態が危なくなると、上記の皇子を寺
や宮家から呼び戻して後継者とする、というようなことが行われています。但し、身分の低い
母と言っても、天皇に近侍できるのは中級貴族の娘ですから、もし他の公家や武家に嫁いでい
たら間違いなく正室の身分です。平安から昭和までの歴代天皇で、下級貴族かそれ以下の身分
の女性を母に持つのは六条天皇と光格天皇くらいですね。
一方、宮家の場合は、他の公家や武家と同様に、正室の家柄にはこだわりますが、生母の身分が低い為に
家督相続対象者から外される、ということにはなっていないようですね。
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いろんな説が挙げられるとは思いますが



私もやはり世の中が平和になってから定着したものと思いますhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D% …
秀忠らは忠長を寵愛しており、竹千代廃嫡の危機を感じた福は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父の家康が嫡庶の序を明確にし、家光の世継決定が確定したとされる。
 とあるようにこのことを諸藩が習いその後の風習となったというのがもっとも有力な気がします・・・・・

 あくまで私の説です^^:ご参考に成ればと・・・
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当主の権限よりも家臣の権限が強かったのでは?


とりあえず、当主は長子として当主不適合ならば引き摺り下ろして次の人。

日本は結構多かったそうです。
部下の忠誠心は当主よりもお家に向いているので当主は血統順守だったのではないでしょうか。
下克上はこの慣習の成れの果てだとか。

昔から才能がありすぎるのも無さ過ぎるのも蟄居、隠居、幽閉が待っていますから。
家臣に都合が悪ければおさらばですね…。

嫡子と庶子の差別はナンバー2を作らないためですね。
ナンバー2を作ることはそれだけ内部分裂を引き起こしやすいので。
日本人の性格上、派閥を作りやすいので嫡子以外に権力を与えるわけにはいかなかったのでは?
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基本的には戦国時代でしょう。

鎌倉時代は分割相続の結果、御家人の力が衰退して苦しんでいます。室町時代になると、単独相続が増えるが、直ちに長男の相続となるともいいきれないでしょう。下克上が多くなってくると、もっとも有力(信頼の置ける)な家老に、長男を預け養育させるようになります。家老にとっては代替わりした暁には親代わりとして家中第一の権勢を誇る、大名にとっては配下の勘所を早いうちにおさえる、こうして誰か一人早い段階で跡継ぎを定める必要が生まれ、自動的に長男の相続という流れができたのだと思います。
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武家の例で言うと鎌倉時代は全員(女子も含めて、ただし均等ではありませんが)に相続権がありました。

そのため所領が細分化して貧しくなりました。
その反省から室町時代には子の中からいちばん器量(能力)のある子に相続させるようになりましたが、争いが絶えませんでした。
そういうことから江戸時代になると社会が安定したこともありますが、バカでも長子が相続することが原則となりました。(必ずというわけではありませんし、側室がいるような場合はあくまでも正室の長子ですが。)
ただ商人や技術の必要な職業ではそんなこともいっておられませんので能力のあるものが家を継ぎ、子に能力がなければ養子に継がせるというのは普通でした。(場合によっては実子は無条件に廃嫡し娘に婿を迎えて家を継がせるというような家もたくさんありました。)
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この回答へのお礼

すばらしい回答です!
近松門左衛門のある小説に、商人のぼんぼんが途方もなく遊び人なので養子をとるとチラつかせるのがありましたが、まさにこのことをおっしゃってるのだろうと思いました。

お礼日時:2007/06/28 14:16

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