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現代曲というのは一体何処が魅力なんでしょうか。私に言わせればあんなのわけのわからない音階を並べて、奇妙な奏法で目を引くだけのつまらないものにしか思えません。聞いていて楽しいとも素敵だとも面白いとも全く感じません。

事実、オーケストラで催される演奏会のほとんど全部が所謂「クラシック」と世間(素人)で認識されている部類の、有名な作曲家の作品ばかりですよね。今の作曲家はなぜああいう素敵な曲を作ろうとしないんだろうと感じていました。

以前音楽大学に行っている後輩にこのことを聞いてみたことがありました。上のようなメジャーな曲はもうほとんどがそれらの時代に完成されていて今更同じような曲を作ったとしても駄目なんです、と言うことが作曲界の通説だったらしいんです。

はたして今作曲を志している皆さんはああいう音楽が受け入れられると思って作っているのでしょうか。それとも何か他の意図があるのでしょうか。

ちなみに私は楽器は趣味で長いこと吹奏楽、オーケストラで続けている、放射線・核物理学を専門にしているものです。専門家や玄人にだけ分かればいいという考えは決して受け入れられません(勿論モノによりますが)。それに、当然の事ながら音楽なんてのは大衆に聞いてもらってこそナンボですよね。

A 回答 (14件中1~10件)

> はたして今作曲を志している皆さんはああいう音楽が受け入れられる


> と思って作っているのでしょうか。それとも何か他の意図がある
> のでしょうか。

私は作曲家ではないので、確としたことは言えませんが、おそらく
ある程度受け入れられる、というか、理解してもらえるという認識は
あるんじゃないかと思います。

ところで、現代音楽といえば、理解しがたいもの、というのが、
まるで通念であるかのように言われることが多いのですが、
果して必ずしもそうなのでしょうか?

たとえば、現代音楽は、時に映画などで使われます。
有名な例としては、『2001年宇宙の旅』がそうです。
ここで使われていたのは、シュトックハウゼンという人の音楽で、
技法的には『ミュジック・コンクレート』というものが使われています
(違ったかな?)。
これは、調も何もない音の塊を演奏し続けるという、かなり実験的
と思われる技法なんですが、映画の中で、なかなか面白い効果を
出しているんじゃないかと思います。
効果が分かりやすいので、たぶん、映画を見ていた人で、
この音楽のことを難解だと思った人はいないんじゃないか
と思います(映画自体は難解でしたが...)。

けれど一方で、きっとレコードやCDで聴けば、この音楽に
眉をひそめる人は多いんだろうとも思います。

この両者の違いって何でしょう?

たぶん、ただ、聴衆としての聴き方、意識の仕方がちがうだけだろう
と思います。

つまり、音楽自体は立派に表現力を持っているのに、私たちは既存の
音楽の聴き方に引きずられてしまっていて、その表現をキチンと
受け止められない、単にそれだけのことで、現代音楽のことを「難解」と
言ってしまっているんじゃないでしょうか?

だから、「音楽」というジャンルを意識せずに耳にすると、案外簡単に
受け入れられるし、その音楽をとても面白い、気の効いたものとして
楽しめるんじゃないでしょうか?


ところで、ちょっと私自身の話をします。
私は、現代音楽について詳しいわけではありません。
それどころか、ブルーノ・ワルターの指揮するモーツァルトが好き、
という、クラシカルなクラシック(?)好き、という者でさえあります。

しかし、現代音楽がまったくダメ、というわけでもありません。

きっかけとなったのは、メシアンの『トゥーランガリラ交響曲』
という曲です。
エサ=ペッカ・サロネンという、現代音楽については定評があるという
指揮者が振っていました(オーケストラや録音日時は忘れました)。

これを聴いて、私は、心から凄いと思いました。
これが現代まで続いた音楽の歴史の頂点なのか、とさえ思ったものです。
なぜって、聴いていて涙さえ出たんですよ。
もちろん、こういう感想を持つかどうかは、純粋に主観の問題になるわけ
ですけれども。

それはともかく、そのとき私が発見した(と思った)のが、
やはり現代音楽は、現代人の感性に見事にフィットしている、
ということでした。
ワルターのモーツァルトも、天国のような美しい音楽でしたが、
やはり現代の傑作にくらべると、古さはいなめません。
熱狂できる要素が少ないのです。
もちろん、その穏やかさ、優しさがまたいい、ということもあるのですが。

だから、たぶん、音楽には色々な聴き方があるんだろうと思います。
たとえば、現代音楽では調はありませんから、そこに和声の美を求めるのは
無理というものです(当然か。書くまでもなかったですね...)。
調を超えて音自体の空間に遊ぶ(?)、というような聴き方になるだろう
と思います。単なる「たとえば」の話ですが...

ひとつの聴き方に強く拘ってしまうと、もしかしたら損になってしまうかも
しれません(もちろん、そんなのは個人の自由なんですけれど)。
単純に受け入れてみると、そこは昔の音楽にはない、「私たちの音楽」が
見えて来るかもしれないです。

要するに難解なんじゃなく、新しいのです。そして案外面白いんです。
だから、そういう意味では受け入れられると思って作っている
と思いますよ。
私みたいなのもいるわけですしね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

これはまた、違った角度からの見方で大変参考になります。
映画の音源として使われていると。「2001年宇宙の旅」…ですか!この映画と言えばやはりツラトゥストゥラ said as this (←勝手に…)ですが、これは吹いていると血管が破裂しそうになります。…余談でした


> つまり、音楽自体は立派に表現力を持っているのに、私たちは既存の
音楽の聴き方に引きずられてしまっていて、その表現をキチンと
受け止められない、単にそれだけのことで、現代音楽のことを「難解」と
言ってしまっているんじゃないでしょうか?

だから、「音楽」というジャンルを意識せずに耳にすると、案外簡単に
受け入れられるし、その音楽をとても面白い、気の効いたものとして
楽しめるんじゃないでしょうか?

とても幅広い受け止め方だと思います。どうしても「難解」のイメージが付きまとう現代音楽ですが効果として映像に重なると非常にスムーズに受け入れられるということになるわけですか。ですが「音楽」ジャンルを無視、そこまで行かなくても主眼を置かない、としてしまっては、純粋な「音楽」それだけで楽しめるか?否!という事も孕んでしまいますよね。映像があって初めて楽しめる、と言うものでしかないとちょっと存在意義は弱くなってしまうような気がします。


>きっかけとなったのは、メシアンの『トゥーランガリラ交響曲』
という曲です。
>これを聴いて、私は、心から凄いと思いました。
これが現代まで続いた音楽の歴史の頂点なのか、とさえ思ったものです。
なぜって、聴いていて涙さえ出たんですよ。

おっと、是非私も聴いてみたくなっちゃいました。


> だから、たぶん、音楽には色々な聴き方があるんだろうと思います。
ひとつの聴き方に強く拘ってしまうと、もしかしたら損になってしまうかも
しれません(もちろん、そんなのは個人の自由なんですけれど)。
単純に受け入れてみると、そこは昔の音楽にはない、「私たちの音楽」が
見えて来るかもしれないです。

> 要するに難解なんじゃなく、新しいのです。そして案外面白いんです。
だから、そういう意味では受け入れられると思って作っている
と思いますよ。

評価するようで失礼かと思いますがとてもいい着眼だなと思います。新しい楽しみ方として現代曲がその立場にいる、という事ですね。これまでの音楽の聞き方に固執すると(上に書いたばかりですが)存在意義がない、薄れるとかになってしまうのだ、と。

お礼日時:2002/07/15 22:16

他の方が貴重な意見を言われているので


ここでは特に付け加える事はないのですが、
じゃあ、何?
と思いますよね。
いや、「なんで、こんな曲が…」
って思いに、共感したって事をお伝えしたいだけです。

クラシックでも、確かに現代音楽は
僕にとっても馴染みの薄いジャンルだけど、
この音楽の事をいってるんじゃないんだよね。

今時の、日本の歌謡曲界というやつ。
モーニングなんちゃらとか、
エトセトラ。
ここでは発言を控えた方がいいと
思うくらい、クソミソに思ってます。

そうすると、「人の趣味」とか
最大公約数的な反論に会うわけだけど、
実際、あの程度の音符の垂れ流しが、
音楽、ミュージシャンとして
まかり通る世界に鬱々としています。

ま、現代音楽は、個人的には否定して
いないけど、
実際、商業的価値はあっても
意味がないどころか、
害悪となるジャンルもあるんじゃないかと…。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

…私も少々似た考え抱いてますよ
商売上手いよな~と感心しています。ただ、カラオケでおじさんたちが若い子に混じって歌えるイマドキの歌がある!という事には貢献しているのではないかと^^;

お礼日時:2002/07/15 22:26

> 「自分だけがよければよい」という事です。


> 両立可能かどうかを言ったわけではなく、前
> 者が現代曲作曲のとる主な立場ではないかと
> 言う事です。科学はこの様な立場をとりませ
> ん前者が現代曲作曲のとる主な立場ではない
> かと言う事です。科学はこの様な立場をとり
> ません

まず、『自分だけがよければよい』(これは通常は『独りよがり』というよりは『利己的』という言葉が当たると思いますが)というのは内心の問題です
『利己的』で『ある』ことを、外から判断することは(少なくとも過程においては)困難ですし、『利己的』で『ない』ことを判断することに至っては全く不可能です
また、結果としてその分野に寄与したから、過程においても私心はなかったはず、というのも、必ずしも真ではありません
ですから、『利己的』であるとか『信念を持った普遍的な真理の真摯な追究』とかいった内心の判定を含む分類基準は(少なくとも過程を評価する場合は)不適当だと思います(そのような基準は通常は『偏見』と呼ばれます)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

だいぶ難しい話になって来ましたが、要は

◎自分ひとりしか理解できない、楽しめないのは自己満足(なかなか理解してもらえない現代曲)

◎(仮に今のところ自分ひとりしか理解できていなくても)それが実験事実や法則に合うものなら--音楽で言えば(いずれは)皆が楽しめる、理解できる(科学や受け入れられている音楽)

の違いがあると言う事です。

お礼日時:2002/07/15 22:41

> 基本的に音楽と物理では探求しているもっと


> も大きなウェイトを占めるものが明らかに違
> います。それを僕は「エンターテイメント
> 性」「原理、法則や真理」と思っているから
> です。もしこの考え方が話し合う双方で違え
> ばこれから先の議論は全く意味のないものに
> なってしまいますが

あのー
このスレッドであなたが最初に質問したのは、平たく言うと、『自分に理解できない現代音楽があるが、これらはどんな創作意図や前提で作られるのか?』、という御内容でしたよね?
で、わたしは、『こういう前提に立てばこういう創作意図もありうる』というのを示したわけです
それを、今になってこういうことを言われても、じゃあ、一体何を訊きたかったの?、ってことになっちゃいますけど…

それからもうひとつ
『独りよがり』というのは、『他人に耳を貸さない様子』のことです
『普遍的な真理がこうなっているだろうという信念』と対立する概念ではなく、両者は両立可能ですよ
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

確かにこれを言ってしまっては議論もなにもないですね。自分の中でもやや混乱していたようです。大変失礼いたしました。

一応その前提に立った立場は前の回答では
> ・・・しかし言いたい事は分かってもらえると思います)である事は変えられません。
で完結しております。ここまではカットして下さい。


ですがそれ以降はこの前提抜きで考えられる事だと思います。

>『独りよがり』というのは、『他人に耳を貸さない様子』のことです
『普遍的な真理がこうなっているだろうという信念』と対立する概念ではなく、両者は両立可能ですよ

確かにこれもありますが「自分だけがよければよい」という事です。
両立可能かどうかを言ったわけではなく、前者が現代曲作曲のとる主な立場ではないかと言う事です。科学はこの様な立場をとりません。従って本質が同じとはいえないという事です。

お礼日時:2002/07/14 19:18

まず、


> はたして今作曲を志している皆さんはああいう音楽が受け入れられると思って作っているのでしょうか。

現実に多くの人が受け入れているのだからまったく問題ないと思うのですが。
クラシック畑の人には受け入れられないという人もいるかもしれませんが、
> 当然の事ながら音楽なんてのは大衆に聞いてもらってこそナンボですよね。


クラシック(と呼ばれる曲)はすばらしい、現在の流行歌は及ばない、という考え方が伺われますが、ある意味それは当然ではないでしょうか。
クラシックには詳しくないのですが、過去の作曲家というのは現在も有名な方々が全てなのでしょうか。
中には、歴史に埋もれてしまった佳曲、駄曲もあまた存在したと考えたほうが自然だと思うのですが。
また、モーツァルトやベートーベンの曲など今に至るまで繰り返し演奏されてきている作品も、作者がそれを目的にして作曲したものとは言えないでしょう。
あくまでも、当時の聴衆をターゲットにして書かれた曲が才能ゆえ(運良く?)普遍的な名作として生き残った結果だと思います。

現代の流行歌にそれだけの魅力があるか、それは今を生きている我々には判断のしようがないと思います。
数百年後の人たちの評価がその答えになるでしょう。
20~21世紀が"音楽の暗黒時代"になるかもしれませんが、"新世代の幕開け"と呼ばれる可能性もあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

> 現実に多くの人が受け入れているのだからまったく問題ないと思うのですが。
クラシック畑の人には受け入れられないという人もいるかもしれませんが、

やはり私が知らないだけなんでしょうか?以前(7~8年前)N響ミュージックトゥモローという番組でその年の作曲の権威ある賞をとった人たちの曲のお披露目をやってましたが、それ以来それらの曲、あるいはその他現代曲が他のコンサートホールや他のプロオーケストラ、いわんやアマチュアで演奏されるという機会を聴いたことがありません。せいぜい武満徹など超メジャーな人の曲が演奏されるくらいです。シェーンベルクの曲ですらお目にかかることは殆どないですよね。ちなみに私は東京23区に住んでいますので情報が疎いと言う事もないと思います。


> クラシック(と呼ばれる曲)はすばらしい、現在の流行歌は及ばない、という考え方が伺われますが、ある意味それは当然ではないでしょうか。

これは完全に誤解・曲解ですね。そんな事は私は微塵も言ってません。私だけの中ならクラシックの方が格段に上ですがこれは私個人の趣味の問題です。あと、これ以降の回答は私の質問内容とは関係がない話です。歴史の中に埋もれいてった作品などを否定するような事は全く考えていませんし言及もしていません。

お礼日時:2002/07/14 15:41

あえて反論を書かせていただきます。



クラシックの範疇に入る人たちの音楽がいい音楽で、
現代音楽の作曲家たちは「売れる音楽」を作る人って
それは偏見だと思います。
宮廷のお抱え音楽家であった彼らだって、王族貴族に気に入られるべく
売れる音楽を作っていたのではないでしょうか?
それが長い年月を経て、多くの人たちに聴かれていくうちに認識され
クラシック音楽として確固たる位置を得たのだと思います。

音楽に限らず、絵画でも何でも、芸術はリアルタイムでは認められず
不遇の時を過ごし、後の世で見直され認められるということが少なくありません。
ビートルズだって当初は、単にウルサイだけの音楽と取られていたでしょう。
いろんな音楽が生まれ、淘汰されて、いいモノが残っていく・・・
今、現代音楽として、あなたが眉をひそめるようなものだって
いつかは確固たる地位を築くものになるかもしれません。
長い年月の間に認められ、愛されてきたものと、今できたばかりのものを
比較するのも難しいのではないかと思うのです。
誰でも一度や二度は聴いたことがあるような名曲は、耳触りもいいでしょう。
初めて聴いたものには、違和感を覚えたり、居心地のよくないものを感じるかも
しれません。ピアノで弾かれる『エリーゼのために』は耳にも優しい曲ですが
『情熱の花』や『キッスは目にして』はまったく違う曲のように仕上がっていて
いかにも、その時代時代のアレンジです。(作曲家はベートーベンなのにね)

あぁ、何言ってるのかぐちゃぐちゃになってしまいました。
ごめんなさぁ~~い♪
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

> クラシックの範疇に入る人たちの音楽がいい音楽で、
現代音楽の作曲家たちは「売れる音楽」を作る人って
それは偏見だと思います。

えっと、これは・・・どなたかの回答に反論ですか?

お礼日時:2002/07/14 15:39

これは現代曲に限ったことではありませんし、理屈上、理念上の話なので、反論の種は数ある…。

ということを念頭においてきいてください。

音楽とは、楽しむものだけのものではない。

ということ。

ジョン・ケージは、「音楽とは、聖なるものに近づくためのものである」といっています。たしか、武満徹氏とのインタビュー本かなにか。

つまり、人間というのは、神というか聖なるものを感じるたい。そのための儀式であったり、捧げ物であったりとかいう部分がある。ギリシャ悲劇などはその典型ですが…。

つまり、聞いている人間が楽しむということは、二義的な目的かもしれない。ということ。



また、聞いていて楽しい音楽、情緒を揺さぶられるような音楽というのは、人を煽動するものでもある。
第2次世界大戦で、ワグナーの音楽がヒトラーの戦争宣伝に使われたように、そういう人の心を惑わす芸術というのが良いのだろうか。というムーブメントが生まれた。
その典型が、不条理劇だったのだが、同じようなことが音楽でもみられた。
その流れが、現代音楽にもある。



つまり、
人が芸術作品に触れたときに、感情を動かされることだけが、芸術作品の存在意義ではない。
芸術作品に触れることで、真剣に人間の存在、自分の存在を確認したり、神を感じたり、つまり、クールでいることを強いられる作品もある。
ということ。



とはいえ、現在の現代の作曲家が難解な曲ばかりをつくることは、果たしていいことなのか…。
といえば、否。と否定的に答えたくなる。



映画のたとえ話で申し訳ないが、
フランスの映画監督のF.トリュフォーは、
「シナリオを作るということは、自分のつくった作品が、世の中にすでにある作品と似たり寄ったりだという危険を犯す勇気を持つこと」
と言った。
音楽同様、映画の世界でも、すでにあらかたのお話は作られ、独創などは難しい状況である。だからといって、ゴダールのように、ストーリーをつくることを拒絶するのは、いくじなしだ。というのだ。



芸術家は、ミューズを目指して、作品をつくっていくもの。
だから、そこに観客が不在なのもしかたがないのかもしれない。

大衆に受けいられないものの、ひかれものの小唄のように現代曲をつくる人もいるかもしれない。



ということで、息せき切って書いたわりには、意味不明みたくなってしまった。
ごめんなさい。

最後に結論。…だけど、武満徹はいいよ。

失礼しました。

追記:
キュビズムは、色彩における点描の、立体版。アイデア商品です。
そのように立体を分解していくことで、人間の存在の意味、意義というものを見る人に訴えていく。空間の中での人間や物の存在ということ。
同じように、フランシス・ベーコンというイギリスの作家は、人間を肉の塊として描いた。人間なんて偉そうなことをほざいても、所詮は、肉屋にぶらさがっている牛の肉とたいして変わらないのだと。
ということで、訳はわからないのだけど、隠喩するものはあるわけです。
蛇足で失礼しました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
「音楽とは」学術・哲学的な分析、勉強になりました。音楽に対するひとつの考え方ですね。

> つまり、聞いている人間が楽しむということは、二義的な目的かもしれない。ということ。

お礼日時:2002/07/14 15:38

私の先輩に現代音楽の作曲家がいます。


生活は何でしているかというと、殆どが編曲(NHKの某音楽番組やテレ朝の某音楽番組など)で生計をたてているそうです。
たまに委嘱で作曲もするそうですが、合唱曲はまあ、普通に聴ける曲(音楽コンクールの課題曲になるくらいですから)ですが、管弦楽曲はちょっとついていけません。
それでもまあアメリカの現代曲作家のものに比べれば聴けるかもしれません。
いわば、芸術として新しいものを考えているのでどうしても万人には受け入れられないようです。
ですから、殆どそういう作曲をしないそうです。
あまり、生活の糧にはならないからです。
クラシックのような素敵な曲をなぜ作らないかというと
できたらできたで「~風」といわれるのがいやだし、なんか人の真似しているみたいだからだそうです。
それに新鮮味がないとも。
絵画でもピカソのキュビズムも純粋な意見をいえば訳わかりません。それと同じなのでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
現代作曲家の実態、貴重な情報をありがとうございました。

> できたらできたで「~風」といわれるのがいやだし、なんか人の真似しているみたいだからだそうです
それに新鮮味がないとも。

事情はすごく分かるんですが、残念な事ですね。レスピーギやR.シュトラウスのような絢爛豪華な曲を作ってもらえたら私は飛びつくんですが・・・。だれか猿真似だと言われようが何しようが作ってやる!なんて人がいないでしょうかね・・・

お礼日時:2002/07/14 15:37

極めて簡単なコトですが、



現代の作曲家(音楽プロデューサ等も含む)は、
純粋な「芸術家」ではなく「商売人」です。

良い音楽を作りたい、という思いを持った人
も居るでしょうが、本来は売れる音楽を作る為に、
また音楽を売る為に、それを職業として選んだ人たちです。

> はたして今作曲を志している皆さんは
> ああいう音楽が受け入れられると思って作っているのでしょうか。

思っているのでしょう。
実際、普通にCDは売れてますから、
さして間違っているとも思えません。

既に同じ回答も出ておりますが、何が良いのか、
は受け取った側の問題であって、人それぞれです。

現代の作曲家は、現代の民衆が良いと思いそうな物、を作っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

> 純粋な「芸術家」ではなく「商売人」です。
はい、私は音楽は結果論でいいと思います。売れる=大衆が求めている=聞いてて心地いい・楽しい・気持ちいい、だと思うので。もちろん、「お金のため」だとか「商売第一」なんてフレーズを前面に出してくるとやや悲しくもなりますが。作られた過程や動機なんてのはどうでもいいんではないかと。もしそれが「努力の賜物だった」とか二次的な物語が付随してくれば感動秘話としてますます受け入れられる一助になるやも知れないですし、逆に「実はこうこう言う汚い陰謀の中で作られた曲だった」なんて聞けばがっかりしてしまう事もあるかも知れません。

ただ・・・
> 実際、普通にCDは売れてますから、
私の周りにはいないだけなんですかねぇ
あと・・・
> 現代の作曲家は、現代の民衆が良いと思いそうな物、を作っています
これがどうにも信じられません。「良いと思いそうな物」と言うだけで「よいと思われた物」を作るのにあまり成功していないだけなんでしょうか。

お礼日時:2002/07/14 15:36

> 人の感性に訴えるものと真理を探究するも


> のでは同列には論じられません

両者はそれほどはっきりと区別できるものでしょうか?
例えば和声
多くの人が快と感じるこの現象に、物理学などが倍音等々の理論付けをしたところで、最後の一線、『それをなぜ快と感じるか』に答えることはできません
これを個々の感性の問題であると決め付けるのはご自由ですが、それでも『和声は快である』という法則にもとづくモデルは現実に合致しており、それゆえ楽典にその位置を占めているわけです
楽典はそうした法則の集大成ではありますが、それが既に完結し新たな法則は見出されない、と断言することは誰にもできないでしょう
一方物理学を含む科学において法則とされているものは本当に真理でしょうか?
これもまた現象に(現時点では)合致する、真理の断片のモデルに過ぎません
モデルに合致しない現象が現れれば変更されうる仮のものであるはずです
では新しいモデルがなぜ最初から採用されなかったのでしょうか?
科学者はサイコロを振ってモデルを選択しているのではないはずです
可能性のあるいくつかのモデルの中から己が『感性』に従って選択し、それを検証すべく研究を重ねるのではありませんか?

また科学者はなぜ真理を探求するのでしょうか?
そこには功利的なだけでない、世界の本質の美を見出したいという欲求もあるはずです
これは音楽家が、音楽を通じて追求するものと本質的に同じものではないでしょうか?

> 音楽と言うのは受け入れられる見込みのな
> い(事実今あまり受け入れられていない)方
> 向性のものに試行錯誤していてある要素を
> 付け加えたからと言って突然受け出す性格
> のものではないと思います

科学においても、最初から応用を見越して研究されたテーマばかりが、大きな成果を上げるとは限らないように、音楽でも、最初から大衆受けを狙った試みばかりが、楽典にあらたなページを付け加える結果になるとは限らないと思います
科学においても音楽においても、一見無益に見えるさまざまな試みが無ければ、新たな真理の断片にたどり着くこともありえないのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

> 両者はそれほどはっきりと区別できるものでしょうか?

できると思います。基本的に音楽と物理では探求しているもっとも大きなウェイトを占めるものが明らかに違います。それを僕は「エンターテイメント性」「原理、法則や真理」と思っているからです。もしこの考え方が話し合う双方で違えばこれから先の議論は全く意味のないものになってしまいますが。音楽に対して「原理、法則や真理」なんてのを求めるのは二の次の話でしょう。また音楽に真理なんてものはあるのでしょうか。哲学や定義の問題が絡んでくるのでこの話は避けますが。

先々に皆さんから出された回答で、音楽はこの"エンターテイメント性=大衆に受ける"がすべてではないと言う考え方がある事がわかり、確かにその観点からアプローチすれば両者には「研究」という共通点があるとできるでしょう。この意味で明確な区別はやや薄れると思います。ですが私は音楽に一番大切なのは「エンターテイメント性」(もっと適切な言葉が見つかればいいのですが、しかし言いたい事は分かってもらえると思います)である事は変えられません。


> また科学者はなぜ真理を探求するのでしょうか?
そこには功利的なだけでない、世界の本質の美を見出したいという欲求もあるはずです
これは音楽家が、音楽を通じて追求するものと本質的に同じものではないでしょうか?

功利的でなければ音楽家にとってのこれは独りよがりあるいは自己満足でしかないですよね。自分だけの美ですから。従って本質的に同じではありません。勿論そういう人たちを否定するつもりはないです。それはそれで彼らの人生です。相対論的量子力学で有名なディラックはとにかく数式の美を追求したそうです。これは彼の独りよがりでもなんでもなく普遍的な真理がこうなっているだろうという信念に基づいている事です。


> 科学においても、最初から応用を見越して研究されたテーマばかりが、大きな成果を上げるとは限らないように、音楽でも、最初から大衆受けを狙った試みばかりが、楽典にあらたなページを付け加える結果になるとは限らないと思います
科学においても音楽においても、一見無益に見えるさまざまな試みが無ければ、新たな真理の断片にたどり着くこともありえないのではないでしょうか?

私が言いたかったのはこの様な科学のアナロジーを持ち出しても詭弁にしかならないと言うことです。この引用の最初の一文の前半は当然の事です。奇妙な事ばかりやっている音楽があるときちょっとしたことで受け入れられるようにはならないだろうと言うのが私の意見です。ところが自然科学ではそれが有り得ます。科学では歴史的に見ても全く受け入れられなかった理論が、実験技術の発達などから実証され後に評価されたり、政治的な謀略が絡んで生前に評価されないなんて事はよくある話です。勿論クラシックでも作曲当初はあまりに前衛的で受け入れられない、政治的によろしくないために批判をくらうと言う事があります。ショスタコーヴィチなんかは最近ではその典型でしょう。ですが彼の音楽が現代曲のようにあさっての方向を向いていたとは思いません。その他、時代時代で評価が遅きに失した人たちの音楽を聴いてみても然りです。

お礼日時:2002/07/14 15:35

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