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昔の人は何年前とかってどうしてたんですか?
年号なんて数年で改元することもあるしややこしくなかったの?
別の年号(皇紀?)見たいなのがあったの?

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A 回答 (10件)

年号単独で使用されることもありますが、多くは干支(えと)との併用


がされていたようです。ちなみにこの場合の「えと」は現在の十二支
ではなく、60年周期のものです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF

例えば、平成十九丁亥年などと表記し、この「丁亥」が24番目であ
ることから、60進法的な要領で他の年号との比較ができる訳です。
まあ60年あれば、たいていの人は自分の一生がカバーできるし、
自分の生まれた年を基準に+-60年あれば、だいたい親子孫3代が
範囲に含まれますね。
テレビの江戸時代ものドラマとかでも、時刻が「午の刻」などと12
進法になっていますが、言わばそれのパワーアップ版ですね。
現代の我々には、ちょっとなじめそうにはありませんが。

ちなみに、年号や干支は上流階級だけではなく、地方の農村の有力農
民など庶民の上層レベルにまで普及していたようです。古くは鎌倉時
代に百姓が領主に送った手紙などにも、年号や干支が記載されていま
す。
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この回答へのお礼

干支を使うのですね
それなら何とかなるか

お礼日時:2007/07/03 18:03

確かに、鎌倉室町の昔は京都から遠い東国では改元を知らずに、前の元号を使っていた、なんて碑文が残っていますが。


 
元号に併用して「庚午」などの干支で年を数えていたようです。道端の地蔵とか庚申塔とかに、元号ではなくて干支で年を表している例はよくあります。
 
戦前は西暦も普通に使われていたので、特に不便はなかったかと思います。
よく誤解されていますが、戦前の新聞雑誌記事で元号の次によく使われているのは皇紀ではなくて、西暦です。
皇紀が頻繁に使われるようになるのは、紀元二千六百年の昭和15年(1940年)以降の事で、それ以前は専ら、西暦です。
 
ですので、
日本では元号と干支が併用して使われていた時代が長く、
明治以降より、徐々に西暦も使われ始め、昭和15年頃より西暦より皇紀の方が一般的になった、といった感じかと思います。
 
また、皇紀は昭和30年頃まで学生の歴史年表などにも使われていましたので、皇紀がまったく使われなくなったのは、大体その頃を境とすると思います。
 
あれこれ書きましたが、江戸時代以前の一般の人たちは、○○があったのは何年前だ、なんて厳密にこだわる必要とかなかったんじゃないか、とも思います。
江戸時代生まれの人の戸籍、というのはかなりいい加減で、長寿日本一(江戸時代生まれ)といわれていた人が実は戸籍のミスで○歳若くて違った、なんて話が昭和の昔はよくありました。
自分の生まれた年もよくわからなくても特に問題なく暮らしている位だので、その辺の農民とか町人とかには、不便どうこうとか、そういう発想は無かったんじゃないでしょうか(かなり乱暴な結論ですが)。
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不便でした。

それで、いろいろ工夫して計算しやすく、前後関係が分かりやすいものにしようと努力していました。

干支は60年周期なので、60年以内であれば、誤解の恐れはないのですが、長い期間について考えようとすれば、同じ干支がいくつも出てくるので、不定性があります。実際に、昔の歴史書で60年とか120年ずれて絶対年代との対応がされている記事や、年数の数え間違いなど多いです。

皇紀は一つの智恵でしょうね。(BC660年が元年。『日本書紀』神武天皇即位の年とされる。根拠はまったく無いけれども....)

昔の仏教関係の人達は、仏暦(仏滅紀元)を使っていました。(BC543年あるいはBC544年が元年)鎌倉/室町時代の僧が書いた歴史書にはよく出てきます。

西暦も立派な「宗教暦」(キリスト教暦)ですから、本質的には仏暦と同じ考え方です。

平安時代から、歴代の年号をコンパクトに纏めたハンドブックが幾つも作られています。やはり、覚えられる人は少なかったようですね。
そのなかには、公式な年号でないもの(逸年号といいます)も多数掲載しているものがあります。たとえば、白鳳時代なんて、美術史で習いましたが、「白鳳」という年号は公式には無いことになっています。(『日本書紀』に記載なし)しかし、世間では、白鳳・天平文化などと使います。古文書には「白鳳XX年」という記事が沢山出てきます。通常の年表では、西暦何年に当たるのか分かりません。逸年号を含んだ年号リストが手元にないと、いつのことかも良く分かりません。
どうみても不便です。
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この回答へのお礼

やっぱり不便だったんだ
習わなきゃ覚えられないもんね

お礼日時:2007/07/05 17:16

蛇足ですが、ご参考まで



明治以降~昭和の戦前までは神武紀元(皇紀)が普及しました。
西暦が庶民に普及したのは、恐らく昭和30年代ごろからです。
西暦は神武紀元-660年ですので、神武紀元から西暦への移行は
昭和から平成に元号が変わったようなもので、たいした混乱はなか
ったと思います。
むしろ江戸時代までの「ころころ変わる元号+干支」から明治以後
の神武紀元や西暦などの「何百年何千年の単位になっても機械的に
年数を増やし続ける紀年法」への移行の方が、当時の人々にはすぐ
にはなじめなかったではないかと、勝手に推測します。
まあ、神武紀元が明治以降~昭和の戦前という長い年月をかけて、
徐々に定着してゆき、結果として西暦への移行の地ならしをしたと
いうことですね。
ちなみに神武紀元はもっと古くから存在していましたが、明治以前
は学問の世界など知識人や上流階級の一部にしか認知されていなか
ったようです。
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この回答へのお礼

今までどおり元号もあって、皇紀に西暦にって大変だったんだ
今も二つあって結構ややこしいけど

お礼日時:2007/07/05 17:14

そもそも昔は西暦を使っていなかったのですから、和暦と比較のしようがなかったでしょう。


比較対象がなければ比べようがありません。

「こっちのほうが便利なのに」と思うとしたら、「こっち」を実際使ってないとわからんですよね。

面倒だなあというのも、今の方式に慣れているからでしょう。
昔の人にいきなり西暦を使わせたらそっちのほうが面倒と思うかも。
(移行時期にはどうだったんでしょうね・・・)
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この回答へのお礼

今でも1分100秒、1時間100分、1日は10時間なんていわれたら面倒だ
便利かもしれないけど

お礼日時:2007/07/05 17:11

>それでも順番は覚えないと・・



大正~昭和20年までの小学生は(1年生から)歴代天皇の名を暗記していました

順番を覚えるのは、質問者が思っているほど負担にはなりません
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この回答へのお礼

できそうですね

お礼日時:2007/07/05 17:06

No4の方の言われる通り、西暦のような機能を干支が果たしていました。



干支は年だけではなく日にちにもあり、例えば戦国時代の武将の日記を見たりすると
「元亀**年丁亥 閏五月十日辛亥 諏訪上原城落去。諏訪殿を虜と為す」
といった要領の記述があります。(内容は全て適当です)

昔の日本人は、60種類の干支の順番と、いろは48文字の順番を全て覚えており、これらで様々な順番を把握していました。

例えば、五十音順ではなくいろは順の国語辞典(昭和20年代のもの)が私の家にあります。見出し語がいろは順で並んでおり、現代の日本人には全く使い物になりませんが、昭和20年代にも「いろは順の辞書」を選んで買う人が確実に存在したわけです。

アルファベットはABC・・・XYZと順番を理屈も何もなく丸暗記するしかありませんが、アルファベットを使う国の人は子供の頃からこの順番を叩き込まれ、順番を体で覚えています。干支60種類やいろは四十八音はこれと同じと考えてください。いろはの場合、意味がある「いろは歌」になっていますので、ABCより覚えやすいかもしれません。
(アメリカの子供は、アルファベットを節をつけた歌で覚えます。小学校に入ると「30個の単語をアルファベット順に並べろ」という宿題がしょっちゅう出ます)

というわけで、「元亀*年甲午から天正*年己未の間が何年か」は、昔の人なら直感的に分かったわけです。
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この回答へのお礼

アルファベットでクラス分けされてるのは直感的にわかりますね

お礼日時:2007/07/05 17:08

経過年数を詳しく計算することなど、めったにあることでは無いから、それほど不自由は感じなかったでしょう



逆に 元号でおおよその時期が判りますから、かえって便利です
昭和の様に60年以上もあるのは例外ですが、数年から二十年くらいであれば判り易いです

東京オリンピックの頃
大阪万博の頃
つくば万博の頃 ・・・  

これが年号だと思えば 昔の人がどのように感じていたかは、なんとなく見当がつくように思えます
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この回答へのお礼

それでも順番は覚えないと
アテネ、シドニー、アトランタ、バルセロナ、ソウル、ロサンゼルス
モスクワ、モントリオール、ミュンヘン、メキシコ、東京、ローマ
????、ヘルシンキ、ロンドン、
1956年はすぐに思い出せない

お礼日時:2007/07/03 18:02

天皇の在位によって年号が決められていると思うのですが、そういうのってかなり上の身分の人たちくらいしか把握してなかったのではないでしょうか。



現代のようにマスコミもないし、下の方の身分の人達に年号そのものの認識があったかどうか?専門家じゃないのでわかりませんが。
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この回答へのお礼

現代人がジュラ紀とか分からなくてもかまわないようなものなのかな?

お礼日時:2007/07/03 17:58

確かにぼくもそう思います。


だいたい年号を覚えることが面倒くさいですよね
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この回答へのお礼

でしょ

お礼日時:2007/07/03 17:56

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Q江戸時代後半、庶民は年号を知っていたか。

先日、類似の質問がありましたが、「農工商」に属する庶民の多くは、年号を知っていたのではないでしょうか。
以前、江戸時代の歌舞伎の地方公演を調べたとき、木版刷りの「芝居番付」に文政2年とありました。
また、通貨でも寛永通宝ほか元号の入っているものもあります。
そこで質問ですが、「黄表紙」等の印刷物には発行年月を入れるのがふつうですか。
また、借用証書、離縁状、寺に出す出生届けなどには必ず年月を入れるものですか。
その他、庶民が元号・年月を意識する例を教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

少なくとも江戸末期頃の人は知っていました。(たぶん初期の人も知っていたと思われます)

江戸時代は証文社会でした。借金、土地売買、その他ちょっとした約束でも証文にします。それらには必ず「天保三辰年八月」のように元号から日付を書きます(なぜか月までで日の数字が書いてないものが多い)。拙宅にも文政頃からの文書が何枚か残っていますが全部に元号からの日付があります。農民同士が交わした証文は庄屋や僧侶が代筆した可能性も否定できないかもしれません。しかし一般にどこの村にも寺小屋があって日常生活に必要な書面の書き方は教えていたので農民が年号を知らなかったとは考えられません。

一般農民も「万覚(よろずおぼえ~メモ帳)」や祝儀・不祝儀に関する帳面を作っています。その表紙にはタイトルの他に「文政五午年」のように年号を書くのが普通です。
帳面の例については以下を。(一般農民が作ったものではありませんが・・・)
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/m-exhbt/20140708AM/20140708.html

一般に墓には命日が書いてありますね。命日は元号から書いてあります。だいたい江戸中期以降は一般農民の墓でもそうなっています。

本など出版物では末尾に奥付があります。これは1722年(享保7年)11月に大岡忠相が命じたものですからこれ以降の出版物にはまず間違いなく出版年の記載があります。
奥付については  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E4%BB%98 をどうぞ。

地方への改元の通知ですが、当地(岡山県内)には1ヵ月弱で届いています。ひとつの例を書くと、元治2年(1865年)4月7日に慶応に改元されますが5月3日の庄屋日記にはその旨の記載があります。
江戸から地方の藩役所に届いた知らせは大庄屋から村々を回覧されます。その回覧ルートは決まっていました。各村の庄屋は自村用に書き写したのち見たことの証明として回状の末尾に署名・捺印して次の村へ回します。
村人へは組頭(五人組の頭)を経由するのが一般的だったようです。組頭は定期的に庄屋宅などで会合しており通達には庄屋がしたように署名・捺印して応じました。このように幕府からの通達は末端まで確実に伝わるシステムがありました。(現代より確実じゃないの?)

こんな状況でしたから少なくとも幕末には誰もが年号を知っていたはずです。

少なくとも江戸末期頃の人は知っていました。(たぶん初期の人も知っていたと思われます)

江戸時代は証文社会でした。借金、土地売買、その他ちょっとした約束でも証文にします。それらには必ず「天保三辰年八月」のように元号から日付を書きます(なぜか月までで日の数字が書いてないものが多い)。拙宅にも文政頃からの文書が何枚か残っていますが全部に元号からの日付があります。農民同士が交わした証文は庄屋や僧侶が代筆した可能性も否定できないかもしれません。しかし一般にどこの村にも寺小屋があっ...続きを読む

Q昔はなぜ新聞は和暦のみの表示だったのでしょうか?

昔はなぜ新聞は和暦のみの表示だったのでしょうか?
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Aベストアンサー

 朝日新聞が、1976年(昭和51年)から西暦優先表示に切り替え、毎日、読売、日経などが相次いで西暦優先になったようです。毎日新聞が右翼に脅かされる一幕もありました。NHKは、国内ニュースは元号、海外ニュースは西暦の使い分け組です。

 理由としては、やはり国際化でしょうか。外国と交渉したり、経年的なデータを扱うとき、和暦では仕事にならない。ローマ字入力とカナ入力の違いみたいなものでしょうか。

 歴史を学ぶときも、明治以前の年号を元号でスラスラいえる人は日本史の専門家以外には少ないのでは。また、明治時代、大正時代、昭和時代と年号で時代区分するのは便利なようですが、まず枠を決めてそのなかに史実を押し込む逆立ちした論理に走りやすい。昭和の終わりに近づいて、新聞社にも元号表示を見直す考えがあったのかなと推察します。


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