出産前後の痔にはご注意!

 神様が、兄カインの貢物は受け取らず、弟の貢物は受け取ったので、カインがアベルに嫉妬して殺してしまったと言いますが、なぜ神様はそんなことをしたのでしょうか?

 そんなえこひいきをするから悲劇が生まれたとしか思えないのですが・・。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

アンサープラス

諸説ありますね。


2016年にはその兄弟をモチーフにしたドラマが放送されていました。

[フジテレビ カインとアベル]
http://www.fujitv.co.jp/CainandAbel/index.html

A 回答 (8件)

カインとアベル、二人の生業がミソです。


カインは農業、アベルは遊牧でした。
つまり、アベル=ユダヤ民族、カイン=他民族なのです。

旧約聖書は、ユダヤ民族のためのものですから、当然神に愛されるのは、ユダヤ民族、ということになります。
現代の感覚で見ると、えこひいきに見えますが、昔の宗教というものはそういうものです。

ことにユダヤ民族は、戦争によって自国を失った寄る辺のない民でしたから、民族としての統一感を守るためにも、
強く男性的で、しかも自分たちユダヤ民族のみを愛してくれる神が必要だったわけです。
    • good
    • 21
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:37

アダムとイブも素直に謝ればよかったものを


あんまりお腹が減っていたのでつい。。。
御免なさい。
って。
罪は罪だけれども。

カインも素直に言えばよかったものを
アベルのだけじゃなく
僕のも召し上がってみてください。
って。
素直な自然の発露の言葉には心に響くものがある。

それでも受け入れられなかったら
その時は
自分で自分を
その心ごと抱きしめてやれ。

誰にも知られなくても
神にさえ知られなくても
誰も見ていなくても
神でさえ見ていなくても
私は私を知っている。
私は私のことを見ている。
自分の心はごまかさない。
自分の心はごまかせない。
それが道。

アベルはアベル
カインはカインである。
二人が逆に扱われたらどうなっていただろう。。。
血筋と育ちで同じことが起こったかもしれないし
アベルは踏み止まるかも知れない。
誰にも解らない。
悲劇と言えば悲劇。
運命と言えば運命。

そのような中にあって自らはどのように生きようとするのであろうか。
ユダヤの民も。
    • good
    • 16
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:33

ユダヤ教は神からの背きの教本みたいだ。


神の姿に似せてアダムとイブをつくった。
アダムとイブ。
神の後を継ぐものであった。
その途中の段階で蛇の力に負けて邪な道に知恵を使ってしまい追放される。
カインとアベル。
如何に切り離されたかに感じても神を見失ってはならなかった。
その境目で人は天秤にかけられる。
カインも一子相伝として全てを受け継ぐものであったと考えられる。
悲劇と言えば悲劇
運命と言えば運命
能力の限界と言えば能力の限界
自己の選んだ道と言えば自己の選んだ道
それを見抜けなかった神が悪いと言えば神が悪い
神のせいにしていると言えば神のせいにしている。
カインはカインであった。
    • good
    • 11
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:34

えこひいきではなく、兄カインの心の持ち方です


アベルとカインの貢物に対する心の違い
カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
アベルは羊の群れの中から「肥えた初子」を持って来た。
(つまりアベルは選んだと言う事)

もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか
どうでしょうか?私たちもありますよね
あいつのために私は・・・・
あいつさえがやっていないなら・・・

カインが正しいと思うなら別に殺す必要もない

ただカインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。 」ここがポイントでその後
主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。
    • good
    • 12
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:34

2つの説があるようです。



「時を経て、カインは土の実りを主のもとに捧げ物として持ってきた」
「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持ってきた」
(新共同訳)とあります。
これにより、肥えた初子と言えば最上の捧げ物だから、単に「土の実り」を捧げたカインとは違うことが判ります。
そして、「羊の群れの中から肥えた初子」の部分のヘブライ語を直訳すると、「彼の羊の初子を、そして肥えたものを」となります。
ここでの「そして」を「しかも」の意味にとり、「彼の羊の初子を、しかも肥えたものを」と理解すれば、
神がアベルに眼を留めたのは、最上の捧げ物を捧げたからだ、と説明することが出来ます。

「アベル」という名前の為。ヘブライ語ではアベルは「ヘベル」であり、
「息、はかなさ、無価値」と言う意味の言葉です。
古代では名前がその人の本質を示すとされ、アベルは「無価値なもの、弱くはかないもの」と見られていたのであり、
神はそのような小さい者に目を留めたと言う解釈です。

ご参考までに。
    • good
    • 8
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:35

私もかつて「どうしてだろう」と調べたのですが、これ という決定的なものは見つけることはできませんでした。




ですので推測の域を出ないのですが。

アベルは育てた作物の初物を神に捧げ、アベルは育てた羊の初子を神に捧げた。



・イエスは神の初子とされ、殺された。

・アブラハムは神殿において神に対する信仰を示すために、自分の初子であるイサクを殺し、神に捧げようとした。

・創世記ができたのは、バビロン捕囚の頃で、その地には生贄の儀式があり、神の再生を願い神を殺すという風習があった。



神話伝承辞典より
【ほとんどのアジアの神々は、サンスクリット語でヒラニヤガルバという子宮の初子を意味する添え名があった。

どの聖職者も自分の神が創造女神の初子であるように望んだ。
最年長の子は、他の子に対して生まれながらの権威を振舞えたからである。

初子になれるのはただ一人の神だけだったから、学者たちは添え名を用い、それぞれの神が太母神が処女のときに生まれた初子の一人であると主張した。

典型的な例は釈迦牟尼で、多くの化身となって生まれたが、その都度、女神の現世の姿である神殿乙女すなわちdevadasiの初子として生まれた。
初子は神の子であるが、釈迦牟尼の場合は「万物の神」ガネーシャの息子であった。】



みたいにインドあたりにこのような概念があった。
これが後に習合されてイエスは神の初子で、再生のために神の初子を殺す必要があった ってなったようなんですね。



【最古の時代から、神のもうけた初子はサケル すなわち特別な運命のために最初から選び抜かれた者たちと考えられていた。
この時代には、あらゆる種類の初物の果物が、それらを当ててくれたと思われる神に捧げられた。
初めに生まれた息子は神の姿を写し、神になり、神に捧げられた。
エジプトで大量の初子が生贄にされたことが、ユダヤの律法学者によって旧約聖書に記録されていた。

律法学者は、自分達のヤハウェがエジプトのこどもたちの殺戮の責任があったと主張するために、伝説に手を加えた。(出エジプト記)

事実、エジプトの初子ー生贄には大変に古い伝統がある。
死者の書には「初子を小さく刻む日に・・・・天界の力ある者たちは、初子の大腿が積み上げられた大なべに火をつけた」とある。

後期の王朝になると、これが動物の生贄に変わったかもしれないが、「大腿」の象形文字は動物ではなく、人間の足を示していた。

聖書はヤハウェがエジプトの「天界の力ある者たち」の行為を真似て、祭壇でアロンの息子たちを焼き滅ぼす火を送ったと述べた。(レビ記)】

私の推測では、これは訳の問題で、、、殺したというより、穢れを清めるために火の儀式をしたって意味じゃないかと。(浄化)



【エジプトの神のように、ヤハウエは聖職者達に言った。
「全ての初子、すなわちすべての初めに胎を開いたものを、人であれ、獣であれ、みな、わたしのために聖別しなければならない。 それはわたしのものである。(出エジプト記)

代わりに子羊を捧げて、子供を贖うことを聖職者が許可しはじめるまでは、最初に生まれた子たちはヤハウェの祭壇に捧げられた。(出エジプト記)

このように過ぎ越しの祭りの伝説に登場する過ぎ越しの祭りの子羊は本当に息子の代用品であったのだ。

これはヤハウエの祭壇でイサクに入れ替わった雄羊が、人間から動物の生贄へ意向を表していたのと同じであった。(創世記)

イサクと雄羊の話は、恐らくボイオティア神話にある王の初子のウリクソスの話をまねたものだろう。
プリクソスは祭壇で生贄にされるところだったが、金の羊毛の雄羊が身代わりとして奇跡的に現れたのだった。】



というわけで、エジプトあたりの概念(風習・儀式)がそうだったからじゃないかと。
それがメソポタミア方面に伝わり、ユダヤ人に伝わった、と。


エジプトのラーは神の初子とされ、エジプトには勢力が衰えた王を殺して、また力を復活させるという儀式があった。

何故太陽神の誕生日が12月25日かというと冬至は1年で最も日が短く、そこから長くなっていくので、誕生とか再生という意味で12月25日になった。

で、エジプトには血の中に魂があると信じられていた。
だから、もしかして殺した王の血を飲んでいたかもしれない。


キリスト教のその名残が残っています。
「これは私の肉である 食べなさい。 これは私の血である飲みなさい。」

という儀式の文句。
生贄を食って自分にその命を取り込むって儀式なわけです。


それが倫理問題からのかアテン教の影響なのかわかりませんが、創世記のその部分をバビロン捕囚の時に作るとき、バビロンのような人間を生贄にする儀式を否定し、動物にするべきだとして、アブラハム イサク物語を他の神話からもらって名前を変えて、ユダヤ教の中に取り込んだんじゃないかと。



せっかく動物が人間の生贄にかわったのに、キリスト教ができたとき、また生贄が復活。
王(神)を殺して食うという儀式の復活です。



教会次第では、「これを理由無き、根拠無き神の選びを表しており、このことに不服を思うなど神様に対してなんと恐れ多いことをカインはしたのでしょう。 神の理由なき差別に不服を言ったためカインは兄弟を殺すことになった」と教訓として教えているところもあるようですが、、、、


違うなぁ・・・

カインが兄なら初子はカイン。
生贄の血は大地に流さなければならなかった。
初子のカインではなくアベルの血が大地に身代わりとなって流れた。

どういう意味でしょうねぇ・・・・。


ま とにかく根拠はあるはずですね。
何を捧げたかではなく、何故アベルが大地に帰還したのかも意味があるのかもしれません。

双子だったら、、、、、 どうなんでしょうね。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:35

《狭いながらも楽しい我が家》とか《雪の降る夜は楽しいペチカ》とか言います。

《家やペチカ》が楽しむわけではなく そこにいる人びとがです。

表現の問題というのが 一つの要因だとは思います。

《ねたむ神 怒る神》と言います。《神》が怒ったり嫉んだりするという解釈もありましょうが 別様に 神のもとにあって ありながらも その人びとが嫉んだり怒ったりしているとも解せられるのではないでしょうか。きれいごとに堕していますでしょうか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
カインは主に言った。
――わたしの罪は重すぎて負いきれません。・・・わたしに出会う者は誰であれ わたしを殺すでしょう。
主はカインに言われた。
――いや それゆえカインを殺す者は 誰であれ七倍の復習を受けるであろう。
(創世記4:13-15)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もっとも 《風は気ままに吹く / わたしは自分が憐れもうとする者を憐れみ 慈しもうとする者を慈しむ / わたしはヤコブ(弟)を愛し エサウ(兄)を憎んだ》などともあります。

最終的な答えとしては 申し訳ありませんが 口をつぐまねばならないと今は思っております。つまり おっしゃるように 《えこひいき》です。(答えになっていませんが)。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:36

神は人の行動と心の中を良く見ておられます。


カインとアベルの捧げ物がどのように違ったのか良く読んでください。
カインの心は、その前からゆがんでいた事もすぐに推測できるはずです。
創世記4章3~5節
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:37

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qカインは なぜ・どこが わるかったのか?

 明確には分かりません。いくつか解説を読みましたが たたき台とする案も見つかりません。

 ▲(創世記 4:1-16) ~~~~~~~
 1: さて、アダムは妻エバを知った。
  彼女は身ごもってカインを産み、

   「わたしは主によって男子を得た」

  と言った。

 2: 彼女はまたその弟アベルを産んだ。
  アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。

 4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
  主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

 5: カインとその献げ物には目を留められなかった。
  カインは激しく怒って顔を伏せた。

 6: 主はカインに言われた。

     「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
     正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。
     お前はそれを支配せねばならない。」

 8: カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、
   カインは弟アベルを襲って殺した。

 9: 主はカインに言われた。

     「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」

    カインは答えた。

     「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」

 10: 主は言われた。

     「何ということをしたのか。
     お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。

 11:  今、お前は呪われる者となった。
     お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも
     なお、呪われる。

 12:  土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出す
     ことはない。
      お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」

 13: カインは主に言った。

      「わたしの罪は重すぎて負いきれません。

 14:   今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたし
      が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となって
      しまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺す
      でしょう。」

 15: 主はカインに言われた。

       「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の
      復讐を受けるであろう。」

    主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに
   しるしを付けられた。

 16: カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ のちに弟アベルをころすまでに到る心の深い闇のような悩みがあったのかと推し測られますが それを具体的にどう捉えればよいのでしょう?

 ▲ (同上) ~~~~
 6: 主はカインに言われた。

     「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ こういう声を聞いてカインは 否まなかった。のなら 何か心の中にやましく心苦しい動きがあったのかと推察されますが それが何かは 読む者の解釈に任せられていましょうか?

 農民と遊牧民との違いを指摘してそこに何かがあるといった議論も聞きますが むしろそれのほうがはっきりしないと考えられます。なんで職業の種類が 心のやましさにかかわるのか?

 よろしくお願いいたします。

 明確には分かりません。いくつか解説を読みましたが たたき台とする案も見つかりません。

 ▲(創世記 4:1-16) ~~~~~~~
 1: さて、アダムは妻エバを知った。
  彼女は身ごもってカインを産み、

   「わたしは主によって男子を得た」

  と言った。

 2: 彼女はまたその弟アベルを産んだ。
  アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。

 4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子...続きを読む

Aベストアンサー

弟を殺したことがやましかったのでは? 

信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

とヘブル人への手紙11:4にあるので、信仰がないこと=正しくないこと がわかっていたとか。

Qカイン

聖書を読んでいて思ったのですが、
弟(アベル)を殺したカインは、神に追放されましたよね。
それなのに、
「私がさすらい人になれば、出会った誰にでも殺される」
と云ったカインに、神が、
「カインを殺す者は7倍の復讐を受けるだろう」
と云って、カインに、殺されないようにしるしをつけたのは何故なんですか?
殺されてもいい…とゆうか、仕方ないと思うんですが…

出来れば、宗教学見地からのご意見を伺えないでしょうか。
いえ、個人的なご意見でも良いのですが、
「なるほど!」と納得出来るようなお答えを、ぜひ宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

いろいろな見方があるかと思います。

出エジプトの時代に、ヤハウェの神は
『だれでも、人を撃ち殺した者は、必ず殺されなければならない』
という律法をイスラエル人に与えますが、それまでは殺人
についての明確な戒めはありませんでした。

ですので律法以前の時代においては、刑法の規定(現代的
に述べると)がないので、裁量的な判決を下していたので
はないでしょうか。


カインはアベルを殺してしまいますが、それに対して
『あなたは地上の放浪者となるでしょう』
と神は判決を下します。

その後で
『わたしを見付ける人は、だれでもわたしを殺すでしょう』
とカインが神に訴えると、
『だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう』
と答えます。

これは「あなたは死刑判決を受けたのではないから命を取
られることはないですよ」という確証を与えたのだと捉え
ています。


この神の「情状酌量」については、もっと後に出てくる
「ヨナ書」とかを読むとわかりやすいかもしれません。
ヨナ書では、ニネベの町に対して神が審判を下そうとし、
預言者ヨナを通して町の滅亡をニネベの町の人に宣告しま
すが、ニネベの町の人が罪を改めた時、神は思いとどまっ
てニネベの町を滅ぼすのを止めました。

いろいろな見方があるかと思います。

出エジプトの時代に、ヤハウェの神は
『だれでも、人を撃ち殺した者は、必ず殺されなければならない』
という律法をイスラエル人に与えますが、それまでは殺人
についての明確な戒めはありませんでした。

ですので律法以前の時代においては、刑法の規定(現代的
に述べると)がないので、裁量的な判決を下していたので
はないでしょうか。


カインはアベルを殺してしまいますが、それに対して
『あなたは地上の放浪者となるでしょう』
と神は判決を下します...続きを読む

Qイエスの「山上の説教」について

新約聖書の「マタイによる福音書」に有名なイエスの「山上の説教」がありますね。
この冒頭で、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という文にはじまって、同じ形式の文が8回繰り返されています。

最後の(8個目の)部分は、「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という言葉です。仮に、この部分がカットされて、冒頭7つの「幸い」だけが書かれていたら、どんな印象を持ちますか?

実はあるテキストで、この8つめがカットされて、最初の7つの「幸い」だけが引用されているのを見つけました。クリスチャンではない編集者によるものです。深読みなのかも知れませんが、最後の「幸い」をカットすることで、テキスト全体の印象を変える意図があるのかしら、と考えました。

必ずしも専門的なお答えを期待しているわけではなく、この8個目の「幸い」がカットされていることで、どのようにテキスト全体の印象が変わってしまうか、などのご感想・ご意見をクリスチャンの方などにお答えして頂けると、大変嬉しいです。もちろん専門的なお答えがあれば、助かります。

新約聖書の「マタイによる福音書」に有名なイエスの「山上の説教」がありますね。
この冒頭で、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という文にはじまって、同じ形式の文が8回繰り返されています。

最後の(8個目の)部分は、「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という言葉です。仮に、この部分がカットされて、冒頭7つの「幸い」だけが書かれていたら、どんな印象を持ちますか?

実はあるテキストで、この8つめがカットされて...続きを読む

Aベストアンサー

#1 です。

>引用されていたテキストというのは、実はある国の中学生向けの教科書です。私は関心があって、外国の教科書の内容分析をしており、原文でそれを読んでいます。その国ではクリスチャンはマイノリティであるため、政府が意図的に聖書の内容を軽んじる、利用するなどという可能性があるのかないのかを考えたわけです。

 …なるほど。とてもよく背景が分かりました。マイノリティであるにも関わらず、「教科書に載せる」ということにとても面白さ(←funny という意味でなく)を感じております。
 戦時下における日本のキリスト教弾圧に関しては少し資料を読んだことがありますが、戦時下では「敵国の宗教」として禁じたことがありますが、キリシタン弾圧等の徹底した弾圧をかけるより、少し操作意図を含ませた「解禁」の誤った教義の中で泳がせておきたいという国の思惑が見え隠れするのですね。
 そうすると、「その国がどんな文化を持っているのか、もしあれば国教はなんなのか」ということでも髄分と削除の意味合いが違ってきますね。キリスト教では「両親を捨てて自分についてくるように」また、「信仰を弾圧するような法に屈しない」(原文のママではありませんが)という思想がありますよね。
 それは国家だけでなく、時の権力者にとってはとても怖い考え方であって、「非暴力・不服従」ではないですが、少しずつ改竄した経典を与えることにより、一本貫かれている教義を形骸化することが出来るようにも思います。
 クリスチャンがマイノリティの国、それでも教科書に母国語でバイブルを編集して載せる国。色々と思い浮かべていますが、今思い浮かぶ国の文化の中で#1 の (1)~(7)を排除する思想を持った国を思いつきません。(だからこそ教科書にも堂々と載せているのでしょうが)
 「生ぬるい」クリスチャンに仕立て上げるには(8)の削除は確かに有効と思えます。
■聖書 / 新改訳 (翻訳:新改訳聖書刊行会)■
【日本聖書刊行会 1983年 2版5刷より引用・抜粋】
わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろあなたが冷たいか熱いかであってほしい。このようにあなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないのでわたしの口からあなたを吐き出そう
【ヨハネの黙示録 第3章15節~16節】
を連想させられます。

>なお、この質問は個人的・学問的な関心に基づいており、何かの団体や政治的利害に関係しているわけではないことをお約束しておきます。

 そういった心配はしていなかったので(無用心?)安心なさってください。私も学問的関心から宗教の一つとして持っている知識の中で、思ったことを書いただけですので。
 ただ、マイノリティであるクリスチャンは正しい教義を知っている人もあり、実際にそういった国に住んでいるクリスチャンが「原典」を書き換えられるといった行為にどれだけの憤りを感じているのかと思うと(当たり前ですが、「聖書」から加えたり引いたりする者は「呪われよ」とも書いてありますよね、確か)非常にお気の毒に感じます。
 私も哲学のカテに参加すること自体、1ヶ月程度の「教えてgoo」というコミュの中では2度程しかありませんし、確固たる「信仰」を持った人間ではないのですが、宗教論を書くことは時に危険を伴うものという認識くらいは持っております。
 …ので国名は書けませんが、割と近くて私にもある程度読み書きの出来る言語を持つ国で、非常に弾圧が強かったけれど、マイノリティであったはずのクリスチャン人口が増え続けている国が一つ想起されています。
 今では地下活動でしか「正しい聖典を学べない」というのはそういったことなのかな、とも思っています。宗教の違い、宗教観の違いは国と国との争いにまで発展するのは言わずもがなのことですから、教科書に載せるには「丁度いい温度」が必要なのでしょうか。
 私が「国教はキリスト教」というところにポンと放り込まれるとしたら、確かに、「何もかもを捨ててキリストについていきなさい」と言われるよりは、「生活に支障を来たさない程度の」「生ぬるい」宗教を望むと思います。日本は宗教観の曖昧な国ですが、その文化の中で生きてきたものにとっては、「何時になったら何をしていてもコーラン」といったように「生活に干渉されたくない」という気持ちが強いので。
 生活に干渉するからこそ宗教だという気持ちもあるのですが、本来は仏教の教えも厳しい部分があるのにもかかわらず、なんら制約をうけず生活をしているたくさんの「そういえば、うちブッディスト」という人たちと変わらないのが私個人です。
 中学生の教科書に「あえて削除したものを載せる」ということは、小学生の教科書に載せるより、はるかに効果があるようにも思えます。家がクリスチャンの中学生なら、はっきりと「意図的に削除されている」という無言のメッセージを感じ取ることが出来る年齢だと思うので。(何歳から中学生の国かは拝察しかねますが。)
 度々失礼致しました。そうやってなまぬるい生活を許されているうちに、軍事大国として憲法も変わっていたということのないように、宗教だけでなく、なまぬるい日本の生活観念を改めなければならない危機感のようなものを教えていただいた気がします。

#1 です。

>引用されていたテキストというのは、実はある国の中学生向けの教科書です。私は関心があって、外国の教科書の内容分析をしており、原文でそれを読んでいます。その国ではクリスチャンはマイノリティであるため、政府が意図的に聖書の内容を軽んじる、利用するなどという可能性があるのかないのかを考えたわけです。

 …なるほど。とてもよく背景が分かりました。マイノリティであるにも関わらず、「教科書に載せる」ということにとても面白さ(←funny という意味でなく)を感じております。
 ...続きを読む

Q歯と歯の間の虫歯はどう治療するのですか?

前歯と隣の歯の間に虫歯ができました。
歯石が詰っていて気になっていたんですがとってみたら明かに虫歯くさいです。
通院中の歯医者とはまだこの歯については語ってないんですが、もし治療するとしたら、綺麗に直せるものなんでしょうか?
レーザーで虫歯部分だけを除去して白い詰め物をするとか、そんな方法があるんでしょうか?
それともこんな目立つ歯が銀色の被せものに覆われることになってしまうのでしょうか。
教えて下さい。

Aベストアンサー

 こんにちは。

 私も歯が弱いのでよく治療しますが(前歯の隙間にも出来ました。),歯と歯の間の場合,虫歯部だけを治療するのは無理みたいで,虫歯部まで届くように最小限の範囲で歯が削られます。虫歯の大きさにもよりますが,小さいのでしたら,仕上げに削った穴に白いセメントのようなものを詰められますので,ほとんど目立ちません。

Q創価学会って実際、なんですか?(長文です)

婚約した途端、彼に家族全員創価学会だと告げられました。

隠されていた事がかなりショックでしたし、私は創価学会についてよく知りません。
でも、結婚するなら入信するよう、彼の家族は言っています。

私がショックで、彼が脱会してくれなければ、結婚をやめるというと、しょうがないね、と言われました。
彼は熱心な学会員ではないらしいのに、です。

私の家族は浄土真宗(一応)ですが、彼が創価学会ということについても何も反対していません。

ただ、友人知人が、もし私が入会するなら、私とはもうつき合えない、と言います。人に聞いてみても、創価学会に対して良い感情を持つ人はいないようです。

私自身、学会には色々矛盾を感じています。
でも、彼にそこを聞いても、世間の間違った思い込みだと言われます。

私は仏教には関心があるのですが、創価学会も仏教なんですよね?
それなのに、私には学会員が何を信仰して、何を目的としているのか
さっぱりわかりません。
学会員に聞いても、よくわかっていないようなのですが…
しかも仏教の教えについて批判さえしています。

それでは、創価学会とは一体なんなのでしょう?

そして、どうして非学会員のほとんどが学会を毛嫌いするのでしょう?

学会の方、非学会の方、両方の意見が聞きたいです…

婚約した途端、彼に家族全員創価学会だと告げられました。

隠されていた事がかなりショックでしたし、私は創価学会についてよく知りません。
でも、結婚するなら入信するよう、彼の家族は言っています。

私がショックで、彼が脱会してくれなければ、結婚をやめるというと、しょうがないね、と言われました。
彼は熱心な学会員ではないらしいのに、です。

私の家族は浄土真宗(一応)ですが、彼が創価学会ということについても何も反対していません。

ただ、友人知人が、もし私が入会するなら、私と...続きを読む

Aベストアンサー

困りましたね・・・
現在私は学会員ではありませんし、過去会員だったこともありません。そもそもが宗教自体に頼ろうとは思っていないので、将来も恐らく入信しようと思うことはないでしょう。
ただ、過去自分が担当していた仕事上のお付き合いから、中央のかなりの地位の方々や地方組織の然るべき方、また一般の会員の方々に至るまで、様々なお立場の方々を存じ上げておりましたので、投稿させていただきました。
仕事でしたので、かなり冷静に見つめてきたつもりです。
長くなりそうですが、お付き合いください。

創価学会は日蓮正宗各寺の信徒団体(各寺檀家の、寺をまたいだ横のつながり)だったものが、異様に大きく膨れたものです。本来の教義についてはNo.5様のおっしゃるとおり、オウムのような悪い考えではありません。どちらかというと、むしろ世界の平和を求めている宗教です(と、彼らは言っています)。
歴史的にはそもそも「日蓮」自体が排他的だったそうですし、「日蓮正宗(大石寺)」は「日蓮宗(身延山)」と袂を分かち日蓮の教えを正しく受け継いだはずですが、本来、日蓮正宗寺院の檀家であった創価学会は本山(大石寺)のご僧侶とも袂を分かち、もう10年位前に破門になっています(学会の仕切る葬儀には僧侶がいません)。
つまり、本来の日蓮正宗からも離れ、特定の個人崇拝になって、ますます排他的・独善的になっているということです。

私は仕事上のお付き合いでしたので、部外者の目で内部のことを見聞きする機会がとても多くありました。守秘義務がありますので、ここでその一つひとつを例示するわけには参りませんが、特定の個人とその周辺を中心にした組織の仕組みには、私個人としては首肯できないものがありました。No1様のおっしゃる「巨悪」が真実かどうかは存じませんが、さもありなんと思うところがあるのは確かです。

逆に、日常生活レベルではいいこともあります。
毎日朝晩、正座して背筋を伸ばして腹から声を出してお題目(南無妙法蓮華経)を唱えれば、冬場に風邪を引きにくくなる程度のご利益はあるのではないでしょうか。まぁこれは冗談です。
学会では地域の会員達の集まり(各地の「会館」で行われるものと、もう少し狭い範囲の「地域の世話役」の自宅で行われるものとがあります)が頻繁に行われます。
組織も年齢、性別や職業(学生・主婦含む)で複合的になっていますので、複数の会合に出席することもあるようです。
昨今隣近所のお付き合いも減り、また、2世代3世代が一緒に暮らす大家族ではなくなりましたので、年寄りの知恵の伝承もなされず、例えば子育てをするヤングミセスにも苦労が多いと聞きますが、学会の地域での会合に出ることにより、フラストレーションが解消される、例えば子育ての先輩の知恵が伝承される、困った時に助け合える、何よりも同じ価値観を持つ仲間がいるなど、町内会やご近所付き合い的な効果により、彼らはとても明るい生活を送っています。

学会員は、それぞれ「仕事」と「家庭」の他に、地域社会でも熱中できる対象を持っているわけですから、それはそれで幸せなんだろうな、ちょっとうらやましい人生かもしれないな、などとふと思うことがあります。

これを、「だまされている」というのは簡単です。でも、これが宗教なのです。
創価学会に限らず宗教は皆そうなのですが、信じない人から見れば全く理解できません。価値の尺度が異なるので、私たちの判断基準と合わないのです。
インチの物差し(学会)とセンチメートルの物差し(一般)ではゼロ以外に一致する個所はありません。
偶然2本の定規の線がそろう所もあります。そこが一般社会との窓口です。
ですが、ゼロからの長さは同じでもインチとセンチですから、お互いに相手の尺度で測らなければ、やっぱり何だかよくわからないのです。
お香典を全部持っていってしまうのも、インチの世界に入って見れば、地元組織として一種の互助会的に対応していると言い換えることも出来ます。

一般に毛嫌いされるのは、「あなたのため」と、学会の考えを強要するように感じさせるからです。実は彼ら一般会員は善意なのですが、センチの領域に入ってこようとしないからです。
これは最初に書いた日蓮自体の排他的な歴史の流れと、第二次大戦中の弾圧への反動もありますが、昭和40年代ごろの全国的に行われた強引な折伏(これにより大きな組織になった)が、「学会は・・・」という評価を定着させてしまったことが大きいでしょう。

試しにインチの世界に入って見れば(1~2ヶ月一緒に活動して見れば)ひょっとすると何か分かるかもしれません。
ただ、No1様ご指摘のような、裏と表までは見分けられないでしょうが・・・
いやなら戻ってこられるうちに戻ってくればいいのですが、おそらくその時は彼とはお別れしなければなりません。きっと「金縛り」から逃れる時のように、思い切った動きが必要でしょうから・・・。みんな良い人たちだし、結構楽しいし、このままでいいやと思えば、あなたには新しい世界が開ける代わりに、今のお友達とは縁遠くなる可能性があります。

今の状態のままで結婚なさっても、ご両親が熱心な学会員であればいつかは入信することになるか、さもなければ価値観の相違に耐えられなくなるかのいずれかのような気がします。

困りましたね・・・
現在私は学会員ではありませんし、過去会員だったこともありません。そもそもが宗教自体に頼ろうとは思っていないので、将来も恐らく入信しようと思うことはないでしょう。
ただ、過去自分が担当していた仕事上のお付き合いから、中央のかなりの地位の方々や地方組織の然るべき方、また一般の会員の方々に至るまで、様々なお立場の方々を存じ上げておりましたので、投稿させていただきました。
仕事でしたので、かなり冷静に見つめてきたつもりです。
長くなりそうですが、お付き合いくだ...続きを読む

Q経験を活かす?それとも生かす

質問の通りなのですが、どちらが正当なのでしょうか?
辞書も見ましたが、「活かす」が正しい様な・・・
どちらでもいいような・・・?
私自身はずっと「生かす」と覚えていたのですが、
活用するという意味だから、
「経験を活かす」がより正しいのでしょうか?

詳しい方よろしくお願いします。

Aベストアンサー

新字源ではどちらにも「いかす」の意味があります。ただし常用の訓読みがあるのは「生」の方だけです。

さてその「いかす」ですが、

「生」…「死なさない」の意味
「活」…「役立てる」の意味。活用

「経験を生かす」とは「経験を役立てる」ことなので、漢字としては「活」がふさわしいと言えます。

しかし、常用訓では「活かす」は現状認められていないため使用する状況を考えた方がいいでしょう。

「たずねる」の意味の「きく」を「訊く」「尋く」と書くようなことと同じで、近年特に目立つようですが(実際仮名漢字変換ではすぐ出ます)、状況を考えずにあまり使いすぎるのは考え物です。

Q愛情不足な環境で育った人間はどう成長するか。

こんにちは。
初めて質問させて頂きます。
唐突なのですが、愛情不足な環境で育った子供は大人になるとどんな傾向があるのでしょうか?

私は母子家庭で育ちました。
親には苦労こそかけましたが、特に愛情不足を感じたこともなく、
今も平和に平凡に暮らしています。

しかし以前、同じように母子家庭で育った友人(こちらの方がもっと複雑な家庭環境だと思われます)から、
「やっぱり、片親で育った人は変わってる。あなたも変わってるもん」と言われたことがあります。
あまり深く突っ込まなかったので真意はわかりませんが、
自分と同じものを感じる、という意味の発言だったようです。

私は貞操観念や倫理観があまりない所があり、
彼女がいる男性のことを好きになることが多いのです。

先日ネットサーフィンをしていて、
『恋人がいる人を好きになり、相手が振り向くと途端に好きじゃなくなってしまうような人間は、
子供の頃十分な愛情を貰って育っていない可哀想な人間』
という記述を目にしました。
相手が振り向くと好きではなくなる、ということはあまりないのですが、
彼女がいる人を好きになる、そういう傾向があるのは確かです。
また、自分に恋人がいても他に好きな人を作ってしまったり、二股していたこともあります。

以前また違う友人(同じく母子家庭)には、
「心理学を勉強している人に言われたんだけど、
母子家庭みたいに男性がいない家庭で育つと、男性との距離感がつかみにくくなるらしい。
父なのか兄弟なのか友人なのか、区別がつかないから、すぐ好きになってしまうんだって」と言われました。
私もその友人も、すぐ人を好きになりやすいので、この話には非常に納得しました。


私は自分の貞操観念や倫理観があまりないこと、また恋愛に一途になれないことが
自分のウィークポイントだと思っています。
どうにか改善していきたいのですが、この今の状況が家庭環境に関係しているのかどうか判断して頂きたいのです。(難しいとは思いますが・・)

ちなみに22歳女です。
よろしくお願いいたします。

こんにちは。
初めて質問させて頂きます。
唐突なのですが、愛情不足な環境で育った子供は大人になるとどんな傾向があるのでしょうか?

私は母子家庭で育ちました。
親には苦労こそかけましたが、特に愛情不足を感じたこともなく、
今も平和に平凡に暮らしています。

しかし以前、同じように母子家庭で育った友人(こちらの方がもっと複雑な家庭環境だと思われます)から、
「やっぱり、片親で育った人は変わってる。あなたも変わってるもん」と言われたことがあります。
あまり深く突っ込まなかった...続きを読む

Aベストアンサー

相変わらず長文です。覚悟して読んで下さい(笑)

> もしかしたら外的要因(この場合家庭環境)もあるのではないか?

なるほど、判りました。

(理想的な両親や母子家庭の場合で)両親がそろっている場合と、
片親だけの場合どのような、違いがあるのか?
考えてますと、以下のような違いがあると思います。

1)親が子どもを叱る(叱られる)場合や親と対立した場合の逃げ道

  ・両親がいれば、片親が怒っても、もう片親が慰めてくれるとかの
   怒りを緩衝してくれる働きや、子どもの避難場所に成ったりもします。
  ・一方、片親だけの場合、緩衝的な役割がなく、直接怒りを受けます、
   子どもにとっては、逃げ道がなく、対立したときには、
   完全に対立したままか、不本意でも親の意見を受け入れざるを得なくなり
   折衷案的な解決方法を経験しないままに大人になると思われます。
   もしかすると、一か八か的な性格が形成されるのかも知れません。

2)もらえる愛情のバリエーションの多さ(二人分)

  ・余り説明の必要はないと思いますが、二人分のタイプの違う愛情をもらい
   愛された経験ができます。
  ・片親だけの場合は、主にひとりの親だけの愛情・・・愛し方を受け入れること
   になります、その分、愛情の濃密度は濃いかも知れませんが、片親では
   経験できない愛情表現があるかも知れません、そしてそれが特に母子家庭の
   場合には、ふた親のそろった家庭との男性からの愛情経験の差・・・が
   男性との関係(距離の取り方)に影響(※)を与えている可能性があります。
   (※惚れっぽいとか、騙されやすいとか、質問にeco39さんが書いてあることです。)

まだまだあるかと思います。この辺が大きな差かなと思います。

3)そして、『倫理観』については、上の両親が居た場合と違って、
 母親の性格的な部分に左右されてしまうことが大きいのです。
 交流分析の理論では、倫理観は主に、父性的な性質をもち、両親が健在の場合
 子どもは、どちらかというと父親側から倫理観を受け取ることになりますが、
 母子家庭で、なおがつ母親がそういった父性的な厳しい部分が少ない場合、
 子どもの倫理観は育たないまま大人になって行くことになります。
 (このことを心配して厳しく躾けた場合や、母親が倫理観に厳しい場合また別ですが…)

兄弟関係だと、兄弟同士の相性問題や親の愛情の取り合いなども有り、
理想的な兄弟関係は、ちょっと考えられないです。
これは↑我が家の愛憎ごちゃ混ぜの兄弟関係が邪魔して考えつかないのかも(笑)スイマセン!

> これは具体的にどのようにすればいいと思われますか?
> 好きという感情をコントロールする術を身につける、

このような、1)2)3)性質が自分の中にあるのを感じたら、
そういう性質が悪い方向に向かわないように、
初期段階で少しづつコントロールすれば良いと思います。

その為に、先ず自分を正確に知ることかも知れません。
カウンセリング受けることや臨床的な心理学を学ぶ事も役立ちますし、
交流分析(※)などは、論理的で解りやすいのでお薦めですし、
意識して、友人や他人との比較することや世間を知ることが、
自分を知ることにつながると思います。自分はいつも他人や世間との
“あいだ”に立現れて来るものです、自分の好み・好きなものを
追求し探してみて下さい。案外好みと思っていたものが、幼い頃の
男性像の残骸なのかも知れません(笑)

 余談ながら、世間で言われる『自分探し』がもっとも自分を解らなくし
 混乱を招く一番下手(上手?)な方法だと私は思います。

最初の一歩はそれ自分の性格を自覚することから始まります、
人は、無意識・無自覚の好みや嗜好に引きずられて、
異性を求めていたりします。無意識に理想の父親像を男性にみていないか?
子どもの頃どんな父親が欲しかったのか?ちょっと思い出して書出してみてください。
その理想の男性(父親)のイメージを、異性に投影していないか?
経験したことのない異性の行動を愛情と勘違いしていないか?
いままでに、好きになった、つきあった男性達を通して共通項を探すのも方法です。
その人達は、無意識に引きずられて好きになったものではないのか?
検証してみる必要があるだろうと思います。

勿論、無意識が幸せに向かっているなら、問題ないでしょうが、しかし、
多くの場合、幼い無意識に支配された嗜好は、不幸な結果を招く事になります、
なんであのような酷い男性を好きになったのかと後悔する場合がとても多いのです。
その為、燃え上がった恋心が長続きしないのです。

 私にも遠い昔(オイオイ!)に経験がありますが、本格的に好きになる前の段階なら
 理性的に、感情を抑え変えることも可能です。最初の段階で徹底的に調べて
 行くか止めるか決めると良いですよ。大火事に成る前に消し止めるのが、
 感情のコントロールの方法です。感情は思考の結果生まれるものです。
 考え方・受け取り方を変えれば、感じ方が変わります。

例えば、倫理観の薄い性格の場合、相手側にも倫理観の薄い人を選ぶ傾向があります、
その結果、不倫や犯罪の被害者や加害者になることさえあります。
「君子危うきに近寄らず」「無事これ名馬」世間で言い継がれて来た言葉は、
やはり、真実を含んでいると思います。

まして、貴方は女性です。倫理観の薄い男は、薄い倫理観を正当化する為に、
自分勝手な倫理観や屁理屈を持っていることが多ようです。
そういった男達とつきあうのは、危険なことでもあります。

そして、科学的な実証はされていませんが、経験上、
江原氏や三輪氏の言う正負の法則は、やはり在るものと思います。
不倫とかの世間に顔向けの出来ない方法で結ばれても、大病したり
別れたり、殺し合ったりと、そういった心理傾向をもつ人達のグループでは
不幸な結果になるプログラムに支配され従って、無意識に動いて居るのですから…

> 男性と接する機会を減らす、等でしょうか。

これは、むしろ逆だと思います、と言っても特定の男性ではなく男性の友人を
沢山作ってみてグループや大人数で沢山の男性と楽しく付き合ってみて下さい。
男性の友人を沢山作ると男性的な思考ややり方、行動、見方を学べますし
相談も出来ます、ひとりの男性に夢中になり他人が見えなくなるのが
最悪のパターンだと思います。まだお若いのですから、誠実で人間として
良い男をとは?どんな行動をするのか?考えて観察して、
ひとりでは心許ないなら色んな友人の意見を取り入れて、
男性を選ぶ眼を養ってみたら如何でしょう。

故事曰く「己を知り、敵を知れば、百戦危うからず」と言うことです。

お節介ながら、お礼の疑問にお答えしますと、

> これは、幼少期のときにということでしょうか?
そうだと思います。

> 父の愛、兄弟の愛が足りなかったから、母との信頼関係が崩れたということですか?
そういうことはありません、元々に父や兄弟は存在しないのですから、
父・兄弟の愛に関わらず、母との関係は親子の二人の間の関係です。
そこに元からなかった愛の不在を感じることは、普通にはあり得ません。

(子どもに限らず)人間は愛が欲しい生き物です、
特に親の愛情は子どもの「心の栄養」と言われています、
欲しいときに親からの心の栄養が十分でないなら、幼い子どもは
「親が悪い(他罰的傾向)」や「自分が悪い=愛される資格がない(自罰的傾向)」の
傾向がつよくなります、心の栄養失調が余りに過ぎると、成長してから
「他人を信じられない」とか「自分を信じられない」とかの要素が強くなり、
 (中には、両方の要素を強く持つ人も多くいます。)
ここに倫理観の希薄さや誤った価値観が重なると、
前者では、最悪の場合「殺人者」後者では「自殺」という結果を引き起こします。
「他人を責めるまたは、自分を責める」このことが人間不信の正体と思います。
このふたつの考え方では、問題は解決しません、子どもの頃なら考えも幼いので
この考えに逃げ込むしか生きる方法が無かったのですが、問題なのは、
大人になってもこの幼い解決方法を自動的に使い続けた結果、
孤独に成って行く可哀相な人達がいるということです。
これは、eco39さんの事ではありませんのでどうぞ心配なさらずに(笑)

> 裏切られない何か、を人間に対して求めることは可能なんでしょうか?

No.1 の回答者さまの論は、何を意図してなのかは、私には判断できませんが、
「裏切り」と感じる為には、そこに何らかの約束や期待があっただろうと思います。
その「約束」は確約なのでしょうか?伝えてあるのでしょうか?
双方の了解事項なのでしょうか?
「人は皆、自分が基準です」しかし。いつも「他人には他人の基準」があることを
無視したり忘れてしまっています。「裏切り」と解釈する一歩前にもどって
どのような「約束」を取り交わしたか、考えて見ては如何でしょうか?
そして、信じる強さは、『相手に期待しない・依存しないで信じること』です。
これは、親の愛、母の愛によく似ていると思います。


※交流分析にエゴグラムという心理テストがあります、
 これがすべてではありませんが、自分を知る為の一助となると思います。
 検索しても色々なエゴグラムテストが出てきますが、参考URLを貼っておきます。

参考URL:http://www.sinritest.com/ego-test.html

相変わらず長文です。覚悟して読んで下さい(笑)

> もしかしたら外的要因(この場合家庭環境)もあるのではないか?

なるほど、判りました。

(理想的な両親や母子家庭の場合で)両親がそろっている場合と、
片親だけの場合どのような、違いがあるのか?
考えてますと、以下のような違いがあると思います。

1)親が子どもを叱る(叱られる)場合や親と対立した場合の逃げ道

  ・両親がいれば、片親が怒っても、もう片親が慰めてくれるとかの
   怒りを緩衝してくれる働きや、子どもの避難場所...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Q恥骨ってどこ?

しょうもない質問ですみません。今妊娠後期なんですが、
臨月近くなると恥骨も痛むといいます。もうすぐ9ヶ月なんですが股の部分が少し痛みます。恥骨って言われる場所ってどこなんでしょうか?イマイチよくわからないのです。ちなみに恥骨が痛むってことは下がってきてるってことなんでしょうか?

Aベストアンサー

おへそから、まっすぐ下に向かって、お腹を触って行くと、股の上あたりで、固いものに触れます。
これが、恥骨です。
恥骨は、骨盤の一部で、腰や、ふとももの付け根の骨などと、一体のものです。
骨盤は、恥骨のところで、まんなかから、左右に分かれているのですが(骨盤が輪になっていて、輪の一部が切れた状態だと思って下さい)、その部分を恥骨結合という組織が、のりのようにくっつけています。
妊娠後期になると、恥骨結合組織がゆるんできて、骨盤の輪っかが広がって、出産にそなえるわけです。(決して、恥骨が割れるわけではありません。)
骨盤の輪っかが広がると、赤ちゃんも広くなったお腹の下の方に下がってきます。

経産婦さんの場合は、ゆるみやすくなっているのですが、初産婦さんの場合は、組織が固くてゆるみにくいことがあるので、痛みがともなうこともあるようです。
でも、全ての初産婦さんに、痛みがあるというわけではありません。

この痛みは、出産のための大事な準備なのです。
無事のご安産をお祈りします。
※あまりに痛いときは、主治医に相談してください。

Q目処(めど)と目途(もくと)

目処と目途の使い分けについて教えてください。
送り仮名に違いがありますか。
PC辞書で「めど」の変換を探すと目途が入っているのもありますね。
これは明らかに誤用ですよね。

Aベストアンサー

めどはやまと言葉ではないでしょうか。もしそうなら漢字は当て字であり、どちらが正しいというものでもなく、世間で一般的にどう使い分けされているかということに過ぎないと思います。

広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく
不親切です。朝日新聞社の漢字用語辞典では、めど(目処、目途)とあり、私のPCでも、めどで両方が転換できます。

解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、
ものごとがその完成、実現にちかずいたということを意味し、目標とは若干ニュアンスが異なると思います。目標は高くとは言いますが、目途(目処)は高くとはいいませんね(この部分は蛇足です)


人気Q&Aランキング