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一応検索したのですが見つからなかったので質問させていただきます。
どうか教えてください。

タイトルの通り、なぜ日本は第二次世界対戦に参戦したのでしょうか。
その背景には五・一五事件や二・二六事件も関係していると聞いたことがあるのですが、どういうことでしょうか。
そもそも、日本は第一次世界大戦に参戦し、戦争はたくさんの人の命を奪うということが分かったはずなのに、どうして戦争を止められなかったのでしょうか。
レベルの低い質問で申し訳ございません。
よろしくお願い致します。

A 回答 (8件)

 歴史の流れによるものです。



 鎖国からの開国時、アジアの極東の一島国でその他大勢の国の一つであった日本は、日清・日露・韓国併合・第一次世界大戦と軍事・外交的成功を収め、欧米から列強の一つとして認められるまでになりました。

 ただ、列強トップのイギリス・アメリカとは大きく水をあけられており、イタリアやロシア革命の混乱を脱しはじめたソ連、第一次大戦の敗戦国ドイツなどと同列でした。

 しかし、多くの列強が国境を接ししのぎを削りあっているヨーロッパ・アメリカから最も遠い極東アジアには、列強の利権が最後まで未確定であった中国がありました。
 衰退した清朝の倒れた後の中国は、軍閥が群雄割拠する政治的に混乱した社会があり、中国と隣り合う日本はもっとも有利な地理的位置におり、中国の利権を手に入れれば一躍、アメリカ・イギリス(広大な植民地の中でも、インドという人口の多いアジアの重要地域を手に入れたことが、イギリスの繁栄の原動力でした。)と並ぶ列強トップになれるように見えました。

 第一次世界大戦の破壊からヨーロッパが回復するにつれ、世界の列強間の経済戦争が激化し、お互いの勢力圏から他国を締め出すブロック経済が進展、利権の確定していない中国が各国の経済戦争の主戦場となりました。
 
 経済戦争だけでは、国力のあるアメリカ・イギリスに勝てない日本は、その地の利を生かして軍事的に中国の利権を確保すればよいという考えが、軍内部に生まれました。

 皇道派(現場指揮官が多く、天皇に対する忠誠心など精神論を信奉。)と統制派(陸軍大学卒業者の参謀などが多く、論理を重視。)に分かれていた軍内部は、五・一五事件や二・二六事件によって、統制派がコントロールするようになり、暴力機関である軍の力を恐れた文官・政治家が増えたこともあり、軍内部で独自の政治的意図を持って行動する素地が生まれます。

 この時点で日本の選択肢は、日本がアメリカの覇権を認めるか(第二次大戦後、現在も続いている状況です。)、日本がアメリカと並び立つかという選択になりました。(当時、あめりかのGDPは日本の10倍と言われていました。)そして日本は日本がアメリカと並び立つ可能性にかけたわけです。
(ですから、日本とアメリカの間の戦争は侵略戦争ではありません。)

 日本がアメリカと並び立つには、その経済力の差を少しでも埋めなければなりませんが、その可能性は列強の権益の確定していない中国にしかありません。
 まともに正面から経済戦争をしたのでは、アメリカに勝てません。そこで軍事占領による市場・資源の確保を目指したのです。
(ですから、中国に対しては侵略戦争となります。)

 アメリカに対抗する以上、満州事変から日華事変(=支那事変・日中戦争)太平洋戦争と続くこととなりました。
 
<<個別エピソード>>
・満州事変と支那事変の開始
 戦前の日本の政治システムにおいては、日本軍は皇軍=天皇の軍隊として存在しており、内閣と軍(陸軍=参謀本部、海軍=海軍軍令部)は、天皇のもとで並立する立場でした。
 明治時代においては、明治維新の重鎮(政治家だが、明治維新では軍指揮官としても活動。)が生存しており、内閣・軍双方に対して強い影響力を持っており、天皇を補佐する枢密院のメンバーとして内閣と軍をコントロールし、日本の政治力の根源となっていました。
 昭和になると、この枢密院に軍・行政双方に強い力を持つ人物がいなくなり(政治体制が確立して年数がたったため、軍・行政いずれかの出身者となり、どちらにも強い発言力を持つ人物がいなくなったのです。)、軍事・行政を統括した視点で政治力を発揮出来なくなったのです。

 そのような状況の中で、政府・参謀本部ともに「満州では、極力事を構えない。」方針であった(=満州の軍閥、張学良の兵力は、日本軍の10倍あるといわれていた。)のに、満州派遣日本軍(=関東軍)の参謀であった石原莞爾・板垣征四郎が、この方針を無視して軍事行動を起こし、張学良軍を電撃作戦で圧倒、軍事作戦としては大成功をおさめました。参謀本部・日本政府ともに関東軍の軍事行動を追認し、満州国建国に至ったのです。ここまでは、石原莞爾の戦略通りの展開となったのです。

 その結果、石原は陸軍同期の中で最も早く大佐となり、陸軍内部で「軍参謀は中央の方針に反しても、作戦で戦果を挙げれば、出世する。」という認識が生まれることとなりました。

 石原莞爾は、満州を取って「日本・朝鮮・台湾・満州を日本の経済圏として開発することに専念すれば、アメリカに対抗できる。」との見方を持っており、そのための戦略は、『満州を勢力下に置いた後は、他国との軍事衝突は外交力を総動員して回避し、軍事費を抑え経済開発に専念する』というものでした。

ところが・・・・
Wikipedia抜粋 
 石原莞爾は、1937年の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長となり、内蒙古での戦線拡大に作戦本部長として、中央の統制に服するよう説得に出かけたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱えたが、当時関東軍司令長官東條英機ら陸軍中枢と対立し、1937年9月には参謀本部から関東軍に左遷された。

 日中戦争を開始した中国派遣軍参謀を評して、石原は「鵜の真似をする烏」と言ったらしいが、過去の自分の行動が影響を与え、石原の戦略は崩壊することとなって行きます。

<<日米開戦>> 
 開戦直前に昭和天皇は「本当にアメリカと戦争して大丈夫か」とかなりしつこく聞いています。御前会議(天皇出席の会議)で昭和天皇は「発言する」と言い出して周囲を慌てさせています。当時、既に御前会議は形骸化していて「陛下、このようになります」という申し出に天皇がケチをつけるというのはありえないこととなっていたのです。会議において天皇自らが発言すること自体が異例となっていたのです。
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3146246.html
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第190部隊です。



日本は第一次世界大戦においては、連合国側(ドイツなどの敵国)として参戦しました。特に第一次世界大戦は、その主戦場はヨーロッパであり、極東アジアの日本周辺では、中国にあったドイツの租借地と南洋諸島の要塞制圧奪還が日本の主な戦果であったと思います。日本軍は地中海などに海軍の艦船等を派遣し、輸送船の護衛や支援にあたりました。しかし、実質的に日本はこの大戦においては、ヨーロッパの地上の主戦場での戦闘は経験しておらず、第一次世界大戦における戦争の悲惨さや、その影響についての認識はヨーロッパ諸国とは大きく隔たりがあったと考えられます。
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第一次大戦参戦に関して、日本は母国から遠く離れたドイツの中国での権益などを殆ど損害無く勝ち取りました。

英国からの要請でマルタに英軍の後方支援として艦隊を派遣したぐらいが犯したリスクで、その火事場泥棒的態度は中国を始め、米国など従来好意的だった国の反感を買いました。
質問者さんの「参戦」は真珠湾攻撃に際しての宣戦布告を指されると思いますが、それに至る過程は第一次大戦から続いたものであり、正確に簡単に記述されているのは歴史の教科書でしょう。
尤も「日本」というのは個人でなく集団であり、「なぜ」ということは夫々の構成員の心の中の話で、「国を憂いた人」「国際常識音痴」「功名心・利益に駆られた人」等々により皆違います。
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>そもそも、日本は第一次世界大戦に参戦し、戦争はたくさんの人の命を奪うということが分かったはずなのに、どうして戦争を止められなかったのでしょうか。



まず、人の命優先の考え方は平和国家である日本国の考え方です。
帝国主義の大日本帝国は人の命よりも国益優先です。一億玉砕なんていうくらいですから。
戦争に反対する者は非国民でしたよね。これは主に大戦中に使われた語ですが、国民のナショナリズムが高まっていたことがわかります。
大日本帝国の小学校の教科書でも読めば、当時の思想が理解できると思います。

世界恐慌後、帝国主義に走った日本は中国に対し侵略戦争をしました。
その後石油等の資源獲得を目指し南に進出したことで、ABCD包囲網を敷かれ、経済的に孤立してしまった日本は国家的危機に陥りました。
で、ハルノートの提出により開戦を決めた。

というのが一般的ではないでしょうか。

五・一五事件や二・二六事件に関しては軍部の力が強まったということでいいと思います。
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なぜ日本は第二次世界大戦に参加したか?を考える前に


是非、知っておくことは、
日本は第二次世界大戦が始まる前にすでに
戦争に突入していたということです。

日本の戦争開始は”1931年”です。主要国のなかで最も早いです。
これは満州事変の年ですが、15年戦争の第一段階。
ドイツやイタリアよりもずっと先であり、
この時点ではスペイン内戦やエチオピア侵攻など
局地的戦争とみることも可能ですが、
1937年にはさらに完全な全面戦争である日中戦争が
事実上、始まります。
これは第二次世界大戦の二年前です。

だから日本は単独で極東において戦争をしていたのです。
日本の悩みは自分の戦争をどう経営するか、
どっちに組して有利に戦うかということにつきます。
もうこの時点で戦争は人名を奪うからいけないとか、
そういう生ぬるいことは考えていません。
そもそもシビリアンコントロールが利いてないので、
世論はほとんど問われず、軍部の行動を追認していたというのが実情。
だれも戦争の是非を検討はしていません。
むしろ当時はこの戦争でいかに日本が得をするかみたいな
論調が多かったようです。何しろ政府に不利なことを書こうものなら
すぐに特高や憲兵がやってきて逮捕されますからね。
当時の日本は、大政翼賛と警察国家という物を言えぬ暗い国家だったのです。
この状況では、少なくとも庶民には戦争はとめる術はないでしょう。

さてどう戦争を経営するかという問題で、
重要になってくるのは石油・ガソリンの問題です。
アメリカの石油禁輸処置は、日本の戦争継続を困難にしました。
これは意外と誤解している人が多いのですが、
日本経済が干上がるから打って出なければという発想ではなくて、
日中戦争が続けられなくなるから、南方に進出して石油を分捕ろうという
考えなんです。
つまりは”戦線の拡大”です。
これは新しい戦争に突入するというのではなく
さらに戦線を拡大するというだけ。
実際、中国も公式に(それ以前も事実上は英米の支援を受けていた)
連合軍に加わるので、そういう構図になります。

太平洋戦争とは15年戦争の第三段階。最後の五年間にすぎません。
もう戦争をしていたので、戦争をするかしないかの次元で迷ってはいませんでした。
迷ったのは、ソ連に宣戦布告してシベリアを攻撃するのか、
それともソ連と不可侵条約を結んで、南方に進出するのかというだけ。

便宜上、日本は枢軸国の一員となりましたが、
現実的にはこの同盟は誰の得にもなっていません。
イタリアはドイツの重荷になり、
日本の対米開戦はドイツの負担を増し、日ソ中立条約はドイツのモスクワ侵攻を失敗させ、
日本とドイツはお互いにほとんどなんの援助も得られませんでした。
要するに、めいめい単独で戦争をする結果になったわけです。
だから参戦したいう感じではないのです。
それはあくまで外交上のこと。
現実的には”無謀にも”対戦国を世界中に広げて単独で戦っただけ。

このような無謀な結果に突き進んだことでもわかるように
合理的理由や理性が働いた結果ではないのです。
惰性で進んだというのがもっとも分かりやすい説明でしょう。
大日本帝国は、天皇大権がある一方で大権は行使されず、
輔弼制度のため下が決めたことを承認するだけになっていました。
つまりは無責任国家であり、官僚的体質が加味されて責任の所在が
不明確、結果オーライと軍財官の派閥の馴れ合いから
なーなーがまかり通る最低の状態です。(どんな失敗しても罰を受けた人はまずいない)
ナチスドイツのような独裁者は存在せず、
衆愚国家の愚挙が日本の戦争の真相ということなんです。
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日本が当時大東亜戦争と呼んだ戦争に突入した理由は、素朴な疑問でありながら非常に難しい問題で、誰もが納得する答えは無いでしょう。



考え方の一つとして参考URLを紹介します。

もっと色々なページがあるはずですし、書店にも色々な本が売ってます。もう少し調べてみる事をおすすめします。

参考URL:http://homepage2.nifty.com/Bokujin/index.html
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本能と思えばいいのでは、学術的には不適切な表現と思います。

しかし、子供もけんかするでせう。教えてもらってしてませんよね。教えてもらっていないのにできることは本能と私は思っています。戦争はたくさんの命を奪うということがわかっている。とありますが、違います。戦争の目的が人を殺すことなのです。領土拡大とか、名誉とかと言うのはこじつけで、まず、目的は「人を殺す」なのですが、自分はかわいいから、大義名分をつけて、~のためにと。
あなたも、人を殺したいと思った事ありませんか。あいつ死んだらいいのにとか、権力と実行力のある人が現れたときの必然です。だから、指導者のいない国では紛争(これも人殺し)は起きても、戦争はおきていません。昭和20年までは日本の主権は天皇にあったの、傀儡かも知れませんが大臣は摂政、関白のような力を出せたのです。日本の戦国時代でも指導者と成れなかった天皇は戦争をしていないでしょ。今も、総理が戦争する言えば、総理に絶対服従というようなひと、あんましいないんじゃないですか。
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いろいろな論議があり、多方面からの意見を聞き自分自身で考えてください。


このジャンルで「第二次世界大戦」で検索してください、たくさん出てきます。
   
尚「第二次世界対戦」ではなく「第二次世界大戦」です、語句は正確に・・・・
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