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いつもお世話になっています。
文禄の役の制海権について教えてください。

1・信長が九鬼氏に造らせた鉄鋼船は文禄の役に出陣しなかったのでしょうか?(そもそも秀吉は鉄鋼船をまだ造っていたのでしょうか?)
2・出陣していた場合、制海権は互角ぐらいにはなっていたはずなのにボロ負けしているのはなぜ?
3・その文禄の役で、李舜臣率いる朝鮮水軍に亀甲船なるものが登場し、日本軍を打ち負かすのですが、予め日本の侵略対抗策として用意していたと考えてよいのでしょうか?急造したとは思えませんが。
よろしくお願いします。

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A 回答 (7件)

1) 信長の作らせた鉄甲船は、玄界灘を渡れるような航洋性を持ちません。

あくまで、瀬戸内海専用の軍船です。

構造的には、欧州の地中海で軍船として使われていた櫂で漕いで進退する喫水の浅いガレー船に、巨大な上部構造を載せたようなものとされています。海上での機動力はほとんど無視して「浮かぶ要塞」として使われたものでしょう。櫂で動かせる限度を超えた重さと大きさと思われますので。

上部構造が鉄の板(数ミリ)で覆われているため、当時の海戦で敵の船に火をつけるために多用された火矢を跳ね返すのが最大の威力です。さらに、数ミリの鉄の板が硬い木の「装甲」に裏打ちされているため、合成するとかなりの強度があり、火縄銃の弾も跳ね返したはずです。

信長の水軍(伊勢水軍主体)と戦った瀬戸内海の毛利水軍は、火矢と火縄銃以上の攻撃力を持ちませんので、鉄甲船を攻撃する手段を持たなかったことになります。

志摩の海賊大名である九鬼氏が建造して熊野灘を経由して大阪湾に回航したという話もありますが、果たしてどうでしょう。熊野灘回航は、上部構造を取り付けない船体だけの状態で行なったのではと個人的に考えます。それでも、竜骨のない日本式の船舶ですからかなり困難な回航になりますが。

2) 仮に玄界灘を超える鉄甲軍船を作るとすれば、
* 西洋式の竜骨を備えた構造でなければ、上部構造が重い鉄甲船は玄界灘を渡れない。
* 櫂で人力で動かすのではなく、西洋の帆船と同様に風力で動かすのでなければやはり玄界灘を渡れない。
となり、当時の日本では建造不可能です。日本で建造された最初の西洋式帆船は、江戸時代になって、イギリス人ウィリアム・アダムスが浦賀付近で建造したものです。徳川家康の求めによるものです。

朝鮮出兵当時に日本と接触していたポルトガル人やスペイン人は、西洋帆船の売却も建造技術の提供も一切拒否していました。ついでに言うと、大砲の売却や大砲鋳造技術の提供も一切拒否していました。日本が大砲を装備した西洋帆船を持てば、東洋の両国の植民地(フィリピン、マカオ等)があっという間に日本の手に落ちてしまうからです。

私は、玄界灘を渡った日本水軍の軍船や兵員輸送船がどのようなものだったのか非常に疑問なのですが、その中に鉄甲船が入る可能性はゼロです。

3) 日本水軍と朝鮮水軍の戦いは、文禄の役の最初は日本の方が優勢でした。だから、物資や兵員を無事に朝鮮に渡して快調に進撃できました。

「文禄の役で、李舜臣率いる朝鮮水軍に亀甲船なるものが登場し、日本軍を打ち負かす」と質問者様はお考えですが、そもそも日本水軍はそんなに弱くなく、「李舜臣の朝鮮水軍が日本水軍を打ち負かした」という話はかなり朝鮮側に有利に誇張されたものです。

李舜臣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%88%9C% …

質問者様が重視しておられる亀甲船が具体的にどのようなものだったのかは明らかではありませんし、どの程度の威力があったのかも良く分かりません。伝説の中の存在であり、韓国文化の常として、史実とは関係なく誇張して伝えられていると考えた方が良さそうです。

亀甲船
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E7%94%B2% …

信長の建造させた鉄甲船については、外国の宣教師が現物を見てローマに報告した手紙がありますので、「当時のヨーロッパにも存在しない、鉄で装甲した軍船が実在し、ヨーロッパ人の目で見ても強力な(強力に見える)軍船であった」のは確かです。
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この回答へのお礼

buchi-dog様の考察を拝見させていただきました。

私も巨大船が外洋を渡る姿があればいいなぁと言った希望的観測でしかないような気がしていましたが。やはり動力が人力では外洋は無理でしょうね。熊野灘海上戦も(あったとしても)誇張でしょうね。
とはいえ船の性能はさておき戦術的には倭寇の国、日本が勝っているとみるのは私の贔屓目でしょうか?

やはり自分の国に誇りを持っていた結果がこの「亀甲船大活躍の巻」なのでしょうね。誇張はあっても仕方なしとします(お互い様なのかもしれませんしね)。
伝説の巨船「大安宅???」対、朝鮮国英雄李舜臣操る「亀甲船???」。歴史の奥深さを思っています。
詳しい回答に感謝しています。ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/10 23:15

No3の者ですが、「軍鑑と装甲」の関係について簡単に。



1. 19世紀になって鋼鉄製の蒸気機関で推進する軍鑑が登場するまで、「鉄の装甲を備えた軍鑑」は西洋でも例がないはずです。例えば、ネルソン提督が座乗してトラファルガー海戦を戦った巨大な「戦列艦」であるビクトリー号が現在も保存されています。信長の時代から約200年後に英国の造船技術を凝らして建造された、大砲を100門も備えた強力な軍鑑ですが「鉄の装甲」などはありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3% …(%E6%88%A6%E5%88%97%E8%89%A6)
http://www.hms-victory.com/

2. 19世紀の後半になり、鋼鉄製の蒸気軍鑑が発達しだすと、20世紀の戦艦の原型になる「装甲艦」が登場しました。
装甲艦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%85%E7%94%B2% …
当初の「装甲艦」は、信長の「鉄甲船」のように、外洋を航海することを考慮しない「港湾防備の浮かぶ要塞」のようなものがほとんどでした。これは、初期の蒸気機関ではパワーが不足し、装甲を施した重い船体をまともな速度で動かせなかったこと、建造できるフネの大きさに制限があり、浮力に限度があるため、厚い装甲を施すとその重さで喫水線が沈んでしまい、高い乾舷を確保できなかったなどがあるようです。

3. 日本から荒波の玄界灘を超えて朝鮮海域に行って戦えるような「外洋航行可能な装甲艦」=「戦艦」が一応完成したのは、実に19世紀末のことです。
「1892年に竣工したイギリスの「ロイヤル・サブリン」(Royal Sovereign)型は、34.3cm後装施条砲4門を露砲塔に装備し、厚さ45.7cm甲鈑を舷側に装着している。この艦は均整の取れた攻防力と優れた航洋力を備えており、近代戦艦のはじめとする。」
戦艦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E8%89%A6

4. 日清戦争の際に清国が保有した二隻の「戦艦」、鎮遠と定遠は、地中海のような穏やかな海域に向く沿岸防御用の「浮かぶ要塞」的なフネであり、十分な航洋性を備えたものではありません。
鎮遠
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E9%81%A0_(%E6%88%A6%E8%89%A6)

5. 実際には、仮に秀吉がスペインやポルトガルから16世紀当時の西洋軍鑑を一隻譲り受け、これを運用できる「海軍軍人」を確保していれば、それ一隻で朝鮮水軍を圧倒することが可能だったでしょう。16世紀当時、海軍力については西洋とそれ以外で天地の差がありましたので。19世紀末まで存在しなかった「外洋航行可能な装甲艦」を300年の時空を超えて作る必要はありません。「その時代に実在した西洋軍鑑1隻」で十分です。

ただし、西洋帆船は、羅針盤や六分儀や海図を使い、数学の知識を駆使して天測航法をできる士官が一定数、嵐の夜でも数十メートルのマストに命綱なしで登って帆を操作するサーカス団員のような水兵が多数いなければ運用できません。そのような士官と水兵の養成には10年や20年は軽くかかります。

ポルトガルやスペインが、日本に軍鑑も大砲も一切渡そうとしなかったのは、No3の回答で記した通りです。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
鉄砲(種子島)でさえ(ある程度までは)模倣し、急速に広める技術がある日本人に軍艦なんぞ渡したら最後、と西洋人が考えるのは無理の無い話ですね。
人員も訓練する側の人間が居ないと成立しませんのでおっしゃるとおりですね。

前回の回答でもありましたが、一応外洋である熊野灘を航行したのは謎であります。熊野灘がOKで玄界灘がNGというのはおかしので。
サイズを誇張していた、もしくは存在自体無かった、などなど。
構造的に無理な上に疑問視しているのが、櫓による航海です。玄界灘を航海するには人力では非力だったと考えます。それは巨大であればあるほど無理があると思います。

話は飛びますが流石、島津は「鬼子曼津」と朝鮮国に恐れられただけあって強いですね。

技術的に外洋を渡る鋼鉄の船が朝鮮役の時代に存在しなかったということは納得できる回答でありました。ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/12 20:19

亀甲船について


これは李舜臣が侵略に備え、建造していたもので完成していた3艘が「サチョン」の海戦に加わりました。    全隻数は5艘のようで、海戦に対する寄与はわずかで、巷間いわれているのは過大評価です。
フロイスの「日本史」で「朝鮮の軍船は堅固で大きく、砲の威力が大きい」とあります。
日本の軍船は早い関舟、早舟を主力として銃を撃ちながら近づき、敵船に乗り移るのを得意として朝鮮水軍を恐れさせました。
屋根に刀錐を植え乗り移りを防止した亀甲船は、恐れず日本水軍に突入し、衝突して脆弱な日本軍船を沈め、朝鮮水軍の鼓舞に大きい効果が与えたと思います。   一番槍みたいなものでしょう。
亀甲船は16丁櫓、漕ぎ手32人と大型船としては少なく、船型も亀甲形なら速度は遅く、隻数もわずかでは戦果は小さいでしょう。(最後は1艘になったそうです)
ただ一番槍と同様活躍が目立ったので後世に名を残した訳です。   
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この回答へのお礼

Pinhole-09様回答ありがとうございます。前述の回答者様の回答の中にも見られた薙刀をカモフラージュして乗り移りを防止している、との点は乗り移りが得意戦法だった日本軍をまんまとやりこめてしまったのでしょうね。
一番槍説はわかりやすく、誇大評価であったことがうかがえますね。案外亀甲船も小規模です。とは言え亀甲船側の勇気もたたえられることには変わり有りません。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/12 07:25

1.信長が九鬼水軍に作らせた鉄鋼戦が毛利水軍を撃破後史上から姿を消したのは、鉄砲製造の為、鉄材が不足し解体されたとかんがえられます。



2.再建造されなかったのはその必要を日本側が考えていなかったと思います。 また九鬼水軍自体前線への補給に忙殺されており、鉄材の調達も困難であったとおもわれます。
朝鮮役の始め日本軍は圧倒的な鉄砲の数的優勢で破竹の勢いでしたから。

伸びきった兵站線を遮断することは兵法の常道ですが当時の朝鮮軍にはその能力も戦略もなかったと解します。  李舜臣はこの点に着目し水陸両用戦を試み成功したのです。

3.朝鮮の亀船は恐らく亀の甲羅のように甲板を強化した構造で船首の衝角で敵船を破壊するのと大砲の砲撃で戦闘する構造だったのではないかとおもいます。  砲身は外部に出ていますから発砲の黒煙は船内に籠もらないし和船では対抗の手段がなかったでしょう。
機動力の不足が欠点で使用されなくなったと思われます。
あらかじめ用意されたのではなく、明船の改造強化で作られたと考えるのが妥当でしょう。
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この回答へのお礼

私の認識不足からトンチンカンな質問、回答も多々あったと思われますが、皆様が意を汲み取って適切な回答を下さるので感謝しております。

1・鉄材の不足が鉄鋼船(鉄甲船)の造船に待ったをかけた。なるほど多数の銃器をして朝鮮の役を2回も果たしているわけですものね。
2・必要性が無い、つまりその分、鉄を銃器に廻した、と解釈してよいのでしょうね。最初から海戦では無く、上陸戦を想定していたわけですね。そこを李舜臣に衝かれたという訳ですか。
3・明国の船の改造強化ですか。前述回答しましたし、急遽日本襲来に備えていたとは考えにくいですものね。

九鬼氏もその後(信長後)造船していなかったとの回答も出ています。
また巨大船そのものを疑問視する回答も多くありました。実戦ではやはり小型船舶に勝るものはなかったのでしょうね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/11 20:45

1:鉄甲船は「大阪湾から村上水軍を追い払う」為だけに作られた外交目的のシロモノです。



軍船というか、戦闘に耐えれて相手に心理的恐怖を植え付ける目的が達せれば良かったのでしょう。
織田信長の恐ろしい点は、戦闘自体を外交にしていると言う事です。
しかも、明確に目的を持ち、目的を達成すればすぐに引く見事さ。

2:鉄甲船自体が外交目的なので、戦術目的のモノではないから。

3:亀船は神話の世界ですよ。

そもそも、戦国時代を生き抜いた猛者の精鋭日本軍に対して、
一体どうやれば追い払えるか考えてみればわかることです。
こんな船なんて作る暇は無かったと思いますよ。
そして国力と求心力に劣る国が国土を守るにはどうすればよいのか。
とられた戦術は少ないですよ。
それは簡単に褒めれるべきものではない戦術。
新たな領土野望に燃える日本軍の意志を断ち切る戦術とは

至極簡単。
…民衆を武器に使う。焦土作戦です。

得られる土地は焦土。得られた領民は奴隷で空腹状態。
聡明な武将はすぐに夢から醒めますよ。
飢えた非戦闘員の足手まといの民衆なんか抱えちゃ行動が制約されますからね。
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この回答へのお礼

亀甲船については、伝説である、との見解が多いですね。私の私見でしかないのですが、やはり「日本襲来」即「亀甲船造れ」は無理なのかなと、思っていました。日本側も同じで、こと軍船に関しては誇大広告をぶち上げていた感がぬぐえませんでした。
安定期?に入って弱体化していたので朝鮮国軍は明の助け無しには戦国時代を戦って、世界に名だたる日本軍を討つまでには至らなかった訳ですし。海戦で日本が散々に負けたと言うのも相手側の国民に向けた誇大広告でしょうね。第二次世界大戦時の日本の新聞のようです。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/11 07:20

http://www.rekishi.info/forum/forum100/200509111 …

この書き込みがなかなか面白いと思いますけど。

2006年06月20日13時11分の土龍さんの考えに近いのではないかな。
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この回答へのお礼

なかなか興味深い考察でありました。やはり信長時代の船と秀吉時代のそれとはサイズ、構造が違うので「安宅」でひと括りにするのは危険すぎますね。

前述の日付けの書き込みではありませんが、亀甲船の構造上、機動力に難がある、特に硝煙が篭る、見通しが悪い、海上戦以外(それも相手が近づいてくれると言う前提に立ってみた場合のみ)あまり活躍した形跡が無いなど、認識を変えてくれるものでした。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/10 22:45

1 鉄甲船は海上要塞というべき舟で機動戦や外海に向いているものではないです。



2 亀甲船は活躍が誇張され過ぎているようです。もし本当にそんなに凄い舟あるならば、日本軍が上陸すら出来なかったはずですが文禄慶長両役にて日本軍はほぼ安全に上陸しています。
 亀甲船はむしろ日本の輸送船団を脅かしたのみで、兵タンを遮断するほどの活躍はしておりません。つまり制海権は失っていませんでした。

3 最終的には島津の水軍にやられちゃいましたね。

 それでも、陸戦ではダメだった朝鮮軍が成果を上げたのは李舜臣だけであるのは事実で、それは亀甲船によるものではなく彼自身の指揮能力によるものが大だと考えればよいでしょう。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E7%94%B2% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。2に関しては道理であります。おっしゃるように上陸は無理と考えるのが正当ですね。
亀甲船はかなり扱いにくく、朝鮮の役の後半には陸上から狙い撃ちされて活躍の幅はかなり縮小せざるを得ない状態だったのですね。

活躍が誇張され李舜臣は英雄視されていたのは良くわかりました。亀甲船自体も誇張されていたのですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/10 22:54

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Q信長による九鬼義隆の「鉄甲船」と戦闘運用のその後

信長は九鬼義隆の九鬼水軍に「鉄甲船」を運用させ
「石山本願寺の戦い」において毛利水軍相手に大勝しましたが、
その後の秀吉の時代に
日本の水軍は朝鮮出兵では敵船の「亀甲船」に敗北してしまいました。

どちらの戦闘も
放火戦闘に対する防備の問題と攻撃火器が勝敗に大きく関わると思いますが、
九鬼義隆はどちらの戦闘にも関わり中心的な役割をになっているにも関わらず、
「鉄甲船」の経験は戦闘経験として活かされず、
原理的には「鉄甲船」と同様の「亀甲船」に破れる事に成ったのはどうしてでしょうか?
又、朝鮮の戦役で「鉄甲船」が戦闘に使われなかった理由はどうしてなのでしょうか?

昔から「新兵器」運用の歴史として不思議に思っておりました。
例えば「鉄甲船」は外洋航海に不向きで遠征出来なかった等の理由でしょうか?
御教導お願い致します。

Aベストアンサー

質問する必要がないくらい十分に調べているようですね。
私はこの分野にそれほど詳しくはありませんが
日本水軍は、鉄砲や弓矢、焙烙という手投げの火炎弾、
焙烙火矢などの武器を使いました。
主な戦い方はこの焼き討ちと接舷戦闘です。
大安宅船には大筒も装備され、砲撃も行ったそうです。

ま、それに対する対抗策が亀甲船なのでしょうね。
装甲などで焼き討ちと接舷を防ぎつつ、砲で攻撃するろいう。

ただこれは近代海戦とは(お互いに)程遠い次元の戦いで
敵に接近してど真ん中で戦うわけですから
亀甲船は特攻船のようなものです。
漆川梁海戦では全滅したように、
性能で戦ったというよりは、根性で戦ったようなところがあります。

ま、帆船時代の海戦というものは逃げ場がないので
世の東西を問わず
根性比べのようなところが多分にあるわけですが。


あと、前回間違ってましたが、
鉄板で装甲された安宅船が朝鮮で戦った記録もあるそうですよ。
それから竜骨を備えた船は、あの時代私の知る限り
日本では造られてないと思うのですが。
信長公記のその記述は長年謎とされてきたやつじゃないのですか?

参考URL:http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html

質問する必要がないくらい十分に調べているようですね。
私はこの分野にそれほど詳しくはありませんが
日本水軍は、鉄砲や弓矢、焙烙という手投げの火炎弾、
焙烙火矢などの武器を使いました。
主な戦い方はこの焼き討ちと接舷戦闘です。
大安宅船には大筒も装備され、砲撃も行ったそうです。

ま、それに対する対抗策が亀甲船なのでしょうね。
装甲などで焼き討ちと接舷を防ぎつつ、砲で攻撃するろいう。

ただこれは近代海戦とは(お互いに)程遠い次元の戦いで
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