些細なことで例えますと、職場で挨拶をしても返してくれない人に対して、すれ違った後に…「地獄に落ちればいいのに」「どうせ、こんな人間はろくな人生歩まない」「帰り道で事故にでも遭えばいいのに」など、とても酷いことを考えてしまいます。

もちろん顔や、言葉には出しません…いえ、顔には出ているかもしれませんが。

最近、自己啓発関連のもので、悪い思考は自分に返ってくる…という内容のものを知ってしまい、とても苦しくなります。

かといって、良いほうへ良いほうへ考えようとしても苦しいです。

「悪い思考=人を許せないこと」はそんなに悪いことですか?

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A 回答 (19件中11~19件)

>「悪い思考=人を許せないこと」はそんなに悪いことですか?


自分にとって良い結果をもたらさないから、良いことは言えないと思います。
現に、あなたはそれで苦しんでいるのですから。

別に物事を必ずしも良いほうへ考える必要はないと思います。
でも悪いほうに考えれば、大方自分を嫌いにしてしまう傾向があると思います。

人を許せないのは、その人が自分の思い通りのことや気に入った行動を
しなかったからかもしれません。
でも人があなたの思い通りの事や気にいた行動をしなければならない理由は
ほとんど無いと言えると思います。
もちろん挨拶をすることは良いことです。
でもたまたま聴こえなかったか、気が付かなかったか、挨拶をする習慣を
持っていないのかもしれません。
だからといってあなたが挨拶をしないから許さないと思っても、何一つ
物事は変わっていないのです。
強いて言えば、あなたが嫌な気分になりストレスを感じてしまったことだけです。
そんなことのために、あなたは貴重な時間をあまり役の立たないことに
使ってしまっているのです。

誰かを許さないと思って、誰かの行動を変えようとしてもほとんど
効果がないどころか自分自身の心を傷つけてしまうのです。

だから、人が自分の思い通りの行動をしなくても気にしないで、自分の
出来ることをすることが大切なのです。

誰かに罰を与えようとすれば、気が付かないけれど自分にも罰を与えて
いることになってしまうのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。とても解りやすいです。

そうです、私が許せなくても、状況は何一つ変わっていません。

だからといって、許そうとしても苦しいのです。

要するに気にしないことが一番なんですよね…でも、それが難しいのです。

誰かに罰を与えようとすれば、自分にも罰を与えている…身に沁みて感じます。

お礼日時:2007/07/13 12:11

もう一度、書き込みます、おゆるしを。


>>・・でも、この人にとって、これは良い修行になるだろう」
ここは、素晴らしいと思いますよ。

ただ、ここがねぇ、いけない。
>>・・ほら見ろ、だからそういうことになるんだ。
似たケース、けっこう、あるので、気持ちはわかります。
でも、この時の心の働き、自分自身の"けがれ(=例、嫌悪など)"が、あり、それに感応、つまり同調するから、そう思うのですよ。
でも、だからと言って、そこまで、自分を制御するのは無理だと思う。
この場合、逆に『早く、仕事を覚えるといいのに。』と心で、思ってみては??、と。

>>私が人を許しても、何故、相手は私を許してくれないのか・・
苦しいなら、懺悔することです。
なにも、相手に直接、謝るのではなくて、まず自分自身の行為について、反省し、悔い改め、その悪い行為を遮断するようにすること。
それでも、苦しいなら、やはり相手に懺悔すること。
これも、やはり直接、誤るのではなく、まずは、自分自身の心の中で、相手に悪いことをした・・と懺悔すれば、おのずと、その苦しみは小さくなっていくものと。
やり方は、例えば、相手の方を心の中でイメージします。
で、いままで行ったこと、何でも良いので、迷惑かけた等、又は、気にかかることを心の中で、誤ればよいのです。
そのうち、おのずと心が、静まっていき、いつか、きっと、相手にそれが、届くと思うけど。

あと、ここ、勘違いかもしれないが(__)
関係が、ギクシャクしてたら、相手を賞賛すること。ただし、賞賛に与えすることが、あれば。
又は、相手を哀れむ(あらけむ)言葉を使い、話すこと。
ただ、これって、直接、相手にいうのではなくて、自分の周りの人にでも可能。簡単にいうと、二枚舌、仲たがいする言葉の、逆(賞賛)バージンという感じ。
結局は、周り回って、自分自身に帰ってきます。悪口、嫌悪はもちろん、賞賛や哀れみもね。これを忘れずに。

あと、今回の回答、大きな勘違いだったら、本当にすいません。
以上
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この回答へのお礼

度々、ありがとうございます。

正直、苦しいのにも拘らず、私自身、この気持ちを改めるべきなのか解らなくなってきました。

どうして、私が懺悔しなくてはならないのですか?私に懺悔しなくてはならないような気持ちにさせている相手は、一体何様なのでしょうか?

折角、回答、アドバイスを頂いているのに、反発しているようですみません。

許せないことを許されない…私は、神でも何でもありません。ただの人間です。気持ちの制御は、とても難しいです。

お礼日時:2007/07/13 12:03

簡単に回答してみます。



すべての現象は、心、口(言葉)、身体(行動)の三つの要素で現象化、つまり、実際におこるものと言われてます。ですから、心で、「地獄に落ちろ」と念じた場合、その心の働きが、次は、言葉、行為に及ぶものと。

で、今回の場合、この「地獄におちろ」は、どういう心で、思いましたか??、例えば、嫌悪、怒りを背景なら、当然、地獄に落ちる原因にはなります。

さて、『因果応報に囚われる』は、つまり、すべての行為は自分に回り、回って帰ってくるという意味。
つまり、カルマの法則、原因が、あるから、結果がある。
これの例えば、本当に、その思念で、相手のひとが、地獄に落ちたなら、その原因は、あなたの嫌悪の心にあることになりますよね。なら、そのカルマによって、いずれ、あなたも地獄に落ちます。

>良いほうへ良いほうへ考えようとしても苦しいです。
なら、まだ心の行為だけですので、心において懺悔してみては??
例えば、心の中で、「嫌悪を持ち、『地獄におちろ』と念じてしまいました。ごめんなさい」とか。
これの対象は、相手の方でも、良いのですが、自分自身の行為の反省という意味でも、かまいません。
>「悪い思考=人を許せないこと」はそんなに悪いことですか?
はい、ダメです。心において、嫌悪を持って念じるなら。
逆に、心において、「成長して欲しい」と念じて、「悪い好意を遮断してほしいな」と思うのはかまいませんが。

>職場で挨拶をしても返してくれない人に対して・・
これは、哀れみ(あられみ)の心で、接しては??
例えば、「この人は、心の成長が、足りなくて、挨拶が、できない。」とか、又は、自分の心において、「私が、コミニュケーション、接し方にまだ、足りないところが、あるため、相手は挨拶が、できない」と
か。

だから、物事を肯定的に考えましょう。
『すべては心の働き』、嫌悪を持って接したら、必ず相手も自分のことを嫌悪を持って、接するようになります。
これが、カルマですからね。
以上、趣旨と違ったら、ごめんね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

その酷いことを考えた相手が、仕事でミスをして怒られていたり、他の人間から影口を叩かれていたりする場面に出くわすと…「ほら見ろ、だからそういうことになるんだ。私の思考だけが、この人をこのような状況にさせたわけじゃない…でも、この人にとって、これは良い修行になるだろう」こう、考えます。

しかし、この思いが自分に巡って、自分が今、このように苦しんでいるんだ…と考えてしまい、苦しいです。

だからといって、私が人を許しても、何故、相手は私を許してくれないのか…物事を肯定的に考えられません。

お礼日時:2007/07/12 22:35

人を許せないという誰にでもあるものではありませんか?


ただ、あまり厳しくなりすぎると自分が辛くなるのでは?

挨拶を返さない人も、ただ人付き合いが苦手、口下手だけかも知れません。意外と心の中では声をかけられた事を快く思っているかも知れません。

情けは人の為ならず・・・ってよく聞きますが、
これって、情けは人の為にならないと言う意味ではなく、情けをかけるのは、自分のためですよ、と言う意味ですよね。

自分が気持ちよく生きるためには、人に情けをかける(=人のことをことさらに悪く思わない)方が楽ではありませんか?

こんなことで悩んで、自分の心を傷つけたりするのは、もったいないと思います。かといって、無理に良いほうへ考えようと努力するのも大変です。
少々のことには目をつむって、自分の心を豊かにしてください。
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この回答へのお礼

アドバイス、ありがとうございます。

挨拶を返さない人に対しても…「聞こえなかったんだ」「考え事していたんだ」と、考えるようにしても、その後、「何で私がそこまで、あの人間のことを考えなくてはならないんだ、悲惨な目に遭って、人の痛みを知れ!」と、どこまでもグルグル思考が巡っていきます。

どうしても、目がつむれません。

お礼日時:2007/07/12 22:13

「悪い」思考だと自分が認識している時点で脳は不快感を味わっているのでは?なら自分にいいはずがないですよね。


でも無理矢理良い方向に、というのも不自然で苦しいでしょう。

仕事関係以外で楽しい趣味を充実させて毎日幸せいっぱいな気分でいれば、些細なことなんて気にも止まらなくなると思いますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

家に帰っても、うまく、仕事とプライベートの切り替えができず…それが原因だとも思います。

お礼日時:2007/07/12 22:07

● このような悩み事のときって、ご自身でお気付きになっていないだけで、ちゃんと御自分の質問投稿文中に、あなた自身の結論なりお答えなり方向性が書いてあるものです(・・といってもケースバイケースですけど)。


貴方がここの質問投稿に書かれた文は、とても端的明瞭に書かれていて、さほど混然としていませんから、恐らく、ホンのちょっとしたコツを知る事で自己消化できるようになると思います。以下、御参考までに ちょっとしたコツ=読み方のコツをお伝えしますね。

● 御自身の考え・悩み事を あれこれ書いた後に「これは、自分じゃない別の人間が書いた文章だ」という視点で、客観的に感情を交えずに読む事を訓練すると、自分の気持ちというのは整理しやすくなります。

> 些細なことで例えますと、職場で挨拶をしても返してくれない人に対して、すれ違った後に…「地獄に落ちればいいのに」「どうせ、こんな人間はろくな人生歩まない」「帰り道で事故にでも遭えばいいのに」など、とても酷いことを考えてしまいます。
● これは「すれ違って挨拶をするのが当然なのに、返してくれない人に対して、過剰な感情を持ってしまいます」と読みます。

> もちろん顔や、言葉には出しません…いえ、顔には出ているかもしれませんが。
● これは「顔や言葉には出すべきでない、出さない方がいい、と思う自分がいますが、顔に出てしまっているようです、自分の感情をコントロールしずらいです」と、読みます。

>最近、自己啓発関連のもので、悪い思考は自分に返ってくる…という内容のものを知ってしまい、とても苦しくなります。かといって、良いほうへ良いほうへ考えようとしても苦しいです。
● これは「自己消化できないことを悩んでいます」です。

「悪い思考=人を許せないこと」はそんなに悪いことですか?
● 「自己消化できずに過剰反応してしまう私に同調・共感してもらえないですか? そんなに僕は悪くないですよね??」です。
● あくまで私見ですが、人間、誰でも感情の起伏はあるので、若干、良い方、悪い方のどちらかよりな思考になることは、心理状態によって、別に珍しいことではありません。
でも、それも限度がありますよ、と、いうことです。
質問投稿に書かれている文だけからの判断になりますが、貴方の場合には、ちょっと過剰反応しすぎなきらいはあるので、自己消化する訓練はしたほうがいいかな・・と、いうのが私の見解です。
自己啓発の本を読んで落ち込んでしまう場合・・・確かに、いろいろな類の本があるので、どんな本かにもよりますが、でも、貴方の場合は、読み方・捉え方にそもそも根本的な原因があるように思います。
良く言えば素直過ぎるんですが、悪く言えば依存心が高すぎるから、それだけ影響されてしまうことに気がつく事から始めたほうがいいかな、と、思います。
「悪い思考は自分に返ってくる」という視点で読むのでなく、どうしてそのような悪い(と、自分が思う)思考を自分が持つに至るか? 何故、その思考を悪い、と、自分は認識するのか? という過程を、丁寧に順にたどるといいですよ。
一般的には・・・ですが、挨拶を返してくれないときに、誰でも多少、不快な感情を持つことはありますが、質問投稿に書かれているほどの過剰反応する事は少ないですね。これは、貴方が仰るような「人を許す、許さない」というのが問題なのでなく、貴方自身の捉え方が、幾分、過剰反応してしまう傾向にあることによるものです。本を読んで落ち込むのも同じです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。とても解りやすいです。

過剰反応しすぎ、自己消化する訓練…その通りです。

例えの流れですが…逆に、挨拶しても返さずに、平気でいられる人の神経が羨ましいです。

どうして、人がこんなにも気にしているのに、気にせずにいられるのか…こんなことで悩んでいる自分が悔しいのです。

お礼日時:2007/07/12 22:04

リベットの禁止権説は、意識が機能する仕組みを鮮やかに記述する一方で、日常生活における人間の実像を、根本的に誤解させる説明とも言える。

「意識があって初めて意識ができる」という、あの基本原則を思い出してほしい。このコンテクストで考えれば、意識的な禁止を実行できるのは意識だけ、ということになる。ありとあらゆる無意識の欲望に無意識の禁止を課すことはできるが、そうすることは意識には全く関係がない。
意識的な禁止とは、私達が意識できる禁止だ。では、行為を実行する0.2秒前にその決意を禁じるようなことを、実際に私達はどれほど頻繁に行なっているのだろうか?
確かに状況によっては、自分の衝動を頻繁に意識的に禁じるようなこともある。しかし、大抵そんなことはしない。頻繁には起きない状況でしか、禁止が頻繁に起きることはないものだ。例えばこんな場面だ。恥ずかしさと緊張のあまり、足がもつれ、言葉がつかえ、いても立ってもいられず、唐突な身振り手振りを使い、やりかけたことを不自然な形で中断し、奇妙奇天烈な言葉を口走って周囲の人々を愚弄したり当惑させたりする。でなければ、上手くできずにぎこちなく、自分の出来る事と出来ない事に、切ないくらい自意識過剰になり、やりかけては途中でやめ、いかにもきまり悪げな初心者といった面持ちで立ちつくす。
或いは、自分にとって非常に大切なことがあって、それが大切であるが故に、まさしくそのために、全く馬鹿げたことをしでかして、上手くいくものも台無しにしてしまう場合もある。映画『ボギー!俺も男だ』のウディ?アレンのように、女性に触れようと興奮する間中、自分で自分の行為を中断するようなおかしなまねをする。つまりそれは、自分自身について意識したり、行動への衝動を繰り返し抑えていることに気付いたりする、なんとも嫌な場面と言える。
何かしたいという衝動を禁じるのが不快なのは、天罰を怖れるときばかりではない。そのプロセス自体が不快なものだ。ぎこちなく、無様で、不自然なのだ。
やりかけて途中でやめることを繰り返すのは、上手くやれる自信がなかったり、他人の目が気になったりするからかもしれない。私達は、人に笑われるのが恐い。自分を意識しているとき、私達はとにかく自分に批判的になり、自分を外側から他人の目を通して眺めがちだ。
意識的禁止が必要な唯一の理由は、意識的な意図と無意識の衝動の求めるものが違う点にある。無意識な衝動を禁じる行為には、意識と無意識の好みに違いがあるという事実が現れている。この意識の禁止権を発動させずにすまそうと、人はアルコールや精神安定剤、その他もろもろの薬物を際限なく自らに注ぎ込む。私達は、どうにかして自分の衝動を禁じるような場面を避けたいと願う。
とはいえ、意識と無意識との対決という視点は、リベットの見解とうまく馴染む。日常生活における禁止権についての手紙の中で、リベットはこう記している。「意識的禁止が不快な場面でより多く現れるというのは、なかなかいい視点だと思います。ただ、私としてはあまり狭く限定したくありません。他にも、愉快とは言わないまでも少なくとも状況で、意識的禁止はしばしば重要な役割を果たしています。例えば、人に何か言いたくなるのを思いとどまる場合や、子供が今にもやりかねないことを止めなくなる気持ちを抑える場合などです。しかし、意識的な意図と無意識的に始動する衝動との対立などの結果として禁止権を捉える貴殿のお考えは、決して瑣末なものではなく、十分主張する価値のあるものです。
20世紀初頭、デンマーク哲学、心理学者ハラルド?ヘフディングは、禁止権説についても、禁止に不快感が伴うという考えについてもむろん知る由はなかったが、この点についてきわめて明確にこう述べている。「無意識の行動傾向が意識的な思考や感情と同方向を向いているかぎり、人はその傾向にはなかなか気付かない。……殆どの場合その力は、意識に上る動機の力と一体化している。そして、行為全体の名誉や不名誉は、意識的動機のほうに帰せられる」
言い換えれば、私達が無意識に気付くのは、それが意識に反する場合のみということのなる。というのも意識は、自分と自分の持ち主を同一視したがり、無意識の衝動に屈するのを良しとしないからだ。
〈禁圧〉された経験が前意識的性質を持つことを、フロイト派が特に強調してきた理由は、このメカニズムで説明できるのかもしれない。無意識は意識されないという、まさしくそのために、意識は無意識の存在を認めたがらない。そして、人間には意識以外のものもあることを意識が認めざるをえなくなるのは、意識と無意識との間に葛藤がある場合に限られる。そのため、逆説的ながら、かえって〈禁圧〉された衝動ばかりが目につくことになる。

前意識……意識の現前野から外されている心の領域。とっさには意識されないが、無意識へと抑圧されたものではないので、比較的容易に意識化される。

禁止プロセスがたいてい不快感を伴うとしても、そうした意識的禁止を行いうることには変わりがない。使わなくても禁止権は存在する。使ってもいいが楽しくはないというだけだ。それはまた、私達が一番安らかでいられるのは、意識が自由意識を行使しないとき、ということでもある。人は、意識を介さず無意識の衝動に従うときが最も幸福だ。ただ行動するだけのときが一番満ち足りている。
しかし、こう考えると、気分のいいときに主導権を握っているのは意識ではない、という事実を突きつけられることになる。すると疑問が浮かぶ。人間は不快なときにしか自由意思を持たないのだろうか?気分のいいときにも自由意思はあるのだろうか?そうだとしたら、それは誰の自由意思なのか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

正直、私にとって、とても難しい内容です…

理解できるよう、時間があるとき、ゆっくり読ませて頂きます。

お礼日時:2007/07/12 21:59

意識の禁止権説と自由意思



だが、自由意思の問題はどうなるのだろうか?画鋲の上に座ったとき、つべこべ言う間もなく飛び上がることは、この際、脇に置いておこう。リベットの実験結果は、私達に自由意思はない、と言っているのだろうか。意識以外に、自由意思を行使できるものはありえないのだから。手を伸ばして物を取ることを決めたと思ったときには、すでに脳が活動しているのだとしたら、人間に自由意思があるとは言い難い。
リベットの〈準備電位〉の実験を振り返ってみると、実はこれまで話題にしなかったきわめて重要な事実が残っている。確かに意識が生じるのは脳が動いた後かもしれないが、それは手が前でもある。
決意を意識してからそれが実行に移されるまでには、0.2秒の余裕がある。だとしたら、意識はどうにかして実行を中止できるのではないだろうか?
このこと、つまり意識は禁止権を持つ、というのが、リベット自身による自由意思の救済案だ。意識には、行為の実行までにその行為を禁止する時間が十分にある。事実リベットは、そうした禁止メカニズムが働くことを示す実験的裏付けを得ている。被験者が、実行しようと決めた行為を途中でやめたと報告したとき、やはり〈準備電位〉は発生していたが、実際に実行したときと比べると、終わりに近づくにつれて電位変化の様子が違っていた。被験者は自分の行為を思いとどまることができた。つまり、自由意思を持っていた。意識は行為を起こすことはできないが、実行をしてはいけないという決断はできるのだ。リベットは自由意思と意識機能に関する禁止権説を構築した。「個人の責任と自由意思に関連するプロセスは、自発的行為を起こすのではなく、意思決定の結果を選択ないし制御する目的で作動する」
この見解はたいへん興味深い。歴史的に見ると取分けそうだ。自由意思は選択を通じて働くのであって、立案を担っているのではない。自由意思は、環境が自然淘汰を通して生物進化を方向付けるのに似ており、日常生活における意識的選択の仕方を想像したときに、大抵の人が自然に思い浮かべるように、意識が計画や青写真を作るというわけではない。意識は、脳内の僕に指令を下す高位のユニットではない。無意識が提供する多くの選択肢の中から選りすぐること、それが意識であり、その結果、生じるのが意識だ。意識は提案を退け、無意識が勧める決定を拒むことによって機能する。意識とは、処分された情報、却下された選択肢、「折角だけれど、結構」なのだ。
意識を禁止権限と捉える考え方は実に鮮やかで含蓄に富んでいる。思想史をひもとけば、ダーウィニズムと自然淘汰以外にもこの見解の類縁を見出すことができる。
禁止の原理は、いつの世にも人間の道徳に見られる。「倫理的拘束は、十戒の殆どがそうであるように、ある種の行為を禁じるものである場合が多い」とリベットは1985年に記し、更にこうつけ加えた。「行動しようという最終的意図が無意識のうちに生じるのならば、体の動きという形での行為の成就は意識的に制御できても、そうした意図が生じること自体を意識的に妨げることはできない」
リベットは、体の動きとしての行為と、心的現象としての行為の衝動とを区別し、行為は制御できても衝動は抑えられない、と結論付けている。この区別はきわめて深遠な意味を含んでいる。してもいいことを説く道徳観と、したいと思ってもいいことを説くものとでは、大きな違いがあるからだ。
リベットは語る「他に、フロイトの言う衝動の〈禁圧〉が作用する仕組みが考えられるでしょうか?行為の衝動と行為そのものの間に違いがないのなら、〈禁圧〉など機能しようがありません。〈禁圧〉のための時間が、どうしても必要なのです」

〈禁圧〉……不快な、或いは不都合な観念や情動を、意識から締め出そうとする精神作用。同じような作用をもつ抑圧が無意識的プロセスであるのに対し、禁圧は意識的プロセスである。また、禁圧された内容も、無意識の領域に押し込められるのではなく前意識にとどまるため、思い出すことが可能。

ユダヤ教は、他人に対して酷薄な思いや望みを抱くことを許す、魂の免罪符となる危険を孕んでいる。自分がされたくないことを人にしないかぎりにおいては、何を考え、何を感じようと構わない。ユダヤ教の思想に心の倫理規定がないために、シェイクスピアが『ヴェニスの商人』で描いたような内面の無慈悲や邪悪さが生まれることになる。それでも、相手に影響を与えるのは行為だけなのだから、内面的な問題は全て許容される、とユダヤ教は語る。確かに数十年前までならば、科学的に見てそう信じる根拠はあったかもしれない。しかし、これは断じて間違っている。
問題は、閾下知覚やプライミングといったものが存在するのなら、実は私達は自覚している以上に他者の考えや気分がわかっている、という点にある。だから、お互いについて何を考え何を感じるかは、本当は重要な問題なのだ。例え「あんな奴は叩かれて当然だ」と心の奥底で思っているだけなら誰にも害はないというのが、意識の告げる常識だとしてもだ。
他者に影響を与えるのが言葉と行動だけなら、何を考え何を感じようと問題にはならない。だが、この見方は人間の実像を正しく捉えていない。実際、ユダヤ人であるリベットの発見は、ブーメランのようにユダヤ教の倫理観に跳ね返ってくる。意識は遅れるというまさしくその理由から、どれだけの思考が現実の行動と化すかはなかなか制御できないのだ。ユダヤ教の難点は、意識が本当は抑制できない内面の酷薄さを容認していることだろう。私達が自覚する以上のものが、ボディランゲージなどを通じて表に現れることを許すからだ。
近年、意識の意味合いについて新たな認識が生まれつつあることを受け、基本的な道徳の問題を抜本的に見直す議論をする必要性がある。

とはいえ、禁止権説が興味深いのは、高尚でスケールの大きい道徳的議論との関連のみからではない。この説は、いたって日常的な問題を考えるうえでも、実に面白い視点を提供してくれる。
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憎まれっ子世にはばかるって言いますし…苦しむ必要ないのでは。


良い思考に持っていこうとするのが苦しいなら止めてしまった方が良いと思います。
その時は堂々と性悪説を説いて生きてほしいですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

悪い思考、良い思考、どちらに持っていっても辛いのです。

私は、やはり性悪でしょうか…

お礼日時:2007/07/12 21:56

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Q因果応報(カルマ)を信じますか?

因果応報(カルマ)を信じますか?



因果応報のように、悪いことをしたら自分に返ってくると思いますか?



それとも、因果応報は弱者の負け惜しみや心の寄りどころ程度の迷信だと思いますか?

Aベストアンサー

「因果応報」は、「原因」があって「結果」があると言う意味で、「迷信」とはまた意味が違いますよ。

極端な話し。
悪い事をした人間が、自分がやらかした悪事と同じ目に合うと言う様な「判り易い世界」では無いとも思いますネ。

何年か前でしたが、学校の女性教員を強姦して首を絞めて殺し、その遺体を自宅の床下に埋めて生活していた男の事件を思い出しました。
女性教員は、「行方不明」から「死亡したもの」と見なされ、事件は「時効」が成立します。
しかし、犯人の男の家が道路用地で買収され「取り壊し」が決まる。
男は、「遺体が見つかる」と思って、警察に自首するが「時効が成立」している。
でも、この犯人の男の事を、
「人を殺したのに逮捕もされず、まんまと逃げおおせた幸運な男」
と思えるでしょうか?。
「因果応報」は、この男には成立しないと考えますかね?。
女性教員の、確か弟さんは、
「刑事訴訟がダメなら、民事訴訟を起こす。あの男を許さない」
と言ってました。
男は、顔こそモザイクされてましたが、テレビカメラにも映されてました。

私は、「因果応報」を信じてます。
「原因」に合った「結果」は、出るものだと思いますがね。
まあ、その「結果」に「納得出来る人」と「納得出来ない人」が出るのは、仕方がないと思いますけど。

「因果応報」は、「原因」があって「結果」があると言う意味で、「迷信」とはまた意味が違いますよ。

極端な話し。
悪い事をした人間が、自分がやらかした悪事と同じ目に合うと言う様な「判り易い世界」では無いとも思いますネ。

何年か前でしたが、学校の女性教員を強姦して首を絞めて殺し、その遺体を自宅の床下に埋めて生活していた男の事件を思い出しました。
女性教員は、「行方不明」から「死亡したもの」と見なされ、事件は「時効」が成立します。
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Q因果応報について教えてください。

因果応報について質問です。

人にしたこと(特に負の出来事)が当人に還ってきて同じような境遇や感情を味わうという人と、別に反省するでもなくそういう目にあわずに生きていける人がいるのはなぜですか?

人間関係や置かれている境遇での上下関係や力の強弱関係が変わったり、中年期以降に自分の気力や運気か低迷しだすと過去の負の言動のつけが帰ってきやすいということをいうひともいるのですが、逆に言うと、相手、または集団におけるその人のポジションが変わらない間は因果が巡ってくることはないのです

質問の内容が分かりにくいかもしれません。うまく伝えられなくて申し訳ありません。

Aベストアンサー

まず、因果応報というのはあくまで錯覚にすぎません。
そういった法則は存在しない、ということです。

それが真理なのですが、そのように考えると、
>別に反省するでもなくそういう目にあわずに生きていける人がいるのはなぜですか?
:という問いには、ご自身ですでにお答えになっていることがおわかりになるでしょう。

すなわち、
>相手、または集団におけるその人のポジションが変わらない間は因果が巡ってくることはない
:からにすぎません。
因果応報という法則があると思っていると、それは不公平じゃないか、などという的外れな不満も生じますが、そんな法則はありません。

ただ、大事なのは、
>人にしたこと(特に負の出来事)が当人に還ってきて同じような境遇や感情を味わう
:という確率は非常に高い、ということです。
(因果応報は100%ですが、そうではないことがミソです。あくまで確率です)
しかし、これは因果応報の結果ではありません。
たとえば、このサイトでもよく見かけますが、他人の悪口ばかり言っているような人は、幸せな人生を歩めないことが明白です。

しかし、悪口ばかり言った結果として幸せになれない、という因果応報が作用しているわけではありません。
他人の悪いところばかり目につくというのは、そして、それを声高に叫ばすにはいられないというのは、元々、その方面にかけて自分自身にも同様に欠けている要素があればこそなのです。
同じ要素があればこそ目に付き、それが悪口となって噴出します。
そのように悪い要素を抱えたままの人が幸せになれるはずがない、ということです。
他人に悪口を言った言わないは直接的な「因」ではない、ということが重要です。

つまり、因果の因とは、為した行為のことではなく、自身が内包している要素にすぎないわけです。
他人の悪口を言う場合、それは自分自身のことを言っているのだという自覚が必要です。
その自覚が無いと、自分だけは正しいと信じてしまうため、自らの悪い部分に気づきません。
気づかないので平気でそれを前面に出して他人と接触することになります。
嫌な接触をされた相手は『通常の状況であれば』反抗に転じますから、それなりの応報を蒙ることになる。
という論理的な結果が待ち受けているわけです。

ただ、あくまで「通常の状況であれば」です。
100%ではないので、そうではない場合も当然ある、というだけのことです。
 

まず、因果応報というのはあくまで錯覚にすぎません。
そういった法則は存在しない、ということです。

それが真理なのですが、そのように考えると、
>別に反省するでもなくそういう目にあわずに生きていける人がいるのはなぜですか?
:という問いには、ご自身ですでにお答えになっていることがおわかりになるでしょう。

すなわち、
>相手、または集団におけるその人のポジションが変わらない間は因果が巡ってくることはない
:からにすぎません。
因果応報という法則があると思っていると、それは...続きを読む

Q因果応報ってあるんでしょうか?

因果応報って確実にあると実感することはありますか?

例えば、不倫→略奪婚して長く幸せになったという人がいたとしたら、
因果応報は働かなかったということになりますよね?

また、人を傷つけても自分は幸せに生きている人もいますよね?
元カレには散々傷つけられましたが、新しい彼女もいて幸せにやっていることでしょう。
略奪した彼がいる友人も、今のところ、順調に続いているようですし。

その反面、自分の仲間の悪口や酷いことを裏で言っていた元友人は
なかなか子供ができないみたいです。
(子供に罪はありませんし、不妊が因果応報とは言いません。)

果たして、因果応報はあるのでしょうか?

Aベストアンサー

お初です。
因果応報は、必ずあると思います。
巡り巡って、溜まりに溜まってから、忘れた頃に本人に、もしくは、その人の大切な人に返って来るのだと思います。

「いつまでもあると思うな、
親と金。
無いと思うな、運と災難」

イイ事ばかりも続かないし、
ワルい事ばかりも続かない。
イイ事もワルい事も必ず起きる?んです。

生きていれば。

ワタシの独断と偏見ばかりで、大変申し訳ありませんでした。
また。長々と偉そうに、大変失礼致しました。

Q過去の暴言に囚われて、未だに許せない人

過去の暴言などに囚われて、未だに許せない人っていませんか?

時間の経過で緩和したものの、完全に心を開けない...
些細な、言動によって「やっぱりこの人って...」ってなってしまう事があります。

あげく「この人は根本は昔のままで、いま同じ事をすると問題になるから、ギリギリのラインを保ってるんじゃないのかな?」...
人間不信ですね。

処方して下さい

Aベストアンサー

もう一つの質問に回答させて頂いたものです。
上手く言い表せないのですが、今回も参加させてください。m(_ _)m


所詮、相手の方は他人ですよね。身内じゃないんですよね。
親子や、きょうだい、夫婦が拗れた場合より余程ましです。
親子やきょうだい、夫婦だと、「愛憎」と言う言葉があるぐらい、根深い確執が生まれることがあります。
家族だと、お互い理解し合いたかった(理解を示して欲しかった)、信頼していたかった(信頼を示して欲しかった)という思い入れが強く関わりが深かった分、赤の他人に裏切りを感じたときより、立ち直りに時間が掛かったり、修復不能になるケースが多いと思います。
極端な場合、目を覆う様な事件に発展するケースもあるじゃないですか。

仕事以外は、顔を付き合わさないで済むのだから、その人の前では当面は仮面をつければいいのではないでしょうか。
淡々と業務をこなせばいいのだと思います。
そして、その人が嫌う言い回しや行動は避けて、衝突の少ないやり方を模索して行くより仕方ないと思います。

その方は、仕事の面ではパートナーであっても、家族ではありません。
家族のような深い繋がりは求めなくて良いと思います。
だから、そこまで苦悩しなくても良いのではないでしょうか。


>あげく「この人は根本は昔のままで、いま同じ事をすると問題になるから、ギリギリのラインを保ってるんじゃないのかな?」...
人間不信ですね。

質問者さんは、無理にその方を好きになろうとするから、辛いのだと思います。恐らく、質問者さんは情が深い人だから苦しんだのでしょうが、嫌いは嫌いのままで良いと思います。

誰にでも、どうしても嫌いで食べられない食べ物があるのと同じです(中には好き嫌いなどない人もいるかもしれませんが、そのような人は希ですよね?)。
そして、健康維持のために、どうしても食べなくてはならなかったとしたら、食べ方を工夫しますよね。
結果、好き嫌いを克服できたらどんなに良いでしょう。
食べ物も無駄にならず、自分も健康でいられます。これこそ理想です。

…けれど、どうしても上手く行かない場合もあります。
口に入れると、吐き気までするぐらいなら、もう食べるのを諦めるしかありません。

そうやって諦めたからと言って、嫌いな食べ物を世の中から消そうとまで思う人は、先ずいないと思います。
そして、その食べ物とその食べ物が嫌いな自分を責める人もまずいないと思います。
そして、その食べ物がそこにあるという事実も、自分がそれを嫌いだという事実も受け入れていくのだと思います。
人間関係も、それと同じことが言えることがあります。
それは、二人の間に腹を割った会話が成り立たない場合です。

質問者さんが、その方を許せないのは、その方を無理にでも変えたいと思ってしまうからだと思います。
そして、何故自分ばかりが、いつも折れなくてはならないのだと思ってしまったからではないでしょうか?

無理に変えようとしなくて良いのではないですか。
あるがままで良いのではないですか。
その方にも、いつか、
「自分の今までのあり方は何処か良くなかった。何故、自分はこうも人を傷つけてしまうのだろう?」と、ふと、我を振り返る時期は来るのではないでしょうか。それが今ではないのが質問者さんには腹立たしく、許せないのでしょうが、人の心は自分の力では中々動かせないものです。

自分一人の力で変えようと思ったら、その人の生まれたその日から、今に至るまでの出来事や内面を知り尽くしていない限り、とてもじゃないけれど、変えることは困難です。
その上、自分も相手から信頼されていなければなりません。
信頼されるには、自分も相手を信頼しなくてはなりません。


もしもどうしても、質問者さんがその方から信頼を得たいのなら、自分からその方を許して態度に示すことです。――綺麗な形に拘るのならばです。
どちらが正しかったとか、正しくなかったとか、そんなことから一度離れて、真っさらな状態に戻すために、今までの全てを許すことだと思います。
人を許せないでいると、自分をも罰していることになります。
いつも、過去の恨みに囚われて、心がもがき苦しみ続けます。
相手が自分にしてきたこと、その時に自分の中に湧いたドロドロとしたどす黒い感情がぶつかり合って、自分も相手も許せなくなって二重の苦しみです。

信頼したくないのなら、それはそれで良いと思います。
信頼して、裏切られてを繰り返してきたのなら、許すことに疲れたのなら、もう仕方のないことだと思います。
今まで充分、許そうと努力してきたんですから。
許せない自分を許すか、それとも相手を許すのか。
もう、そのことを考えるのに疲れ果てて、傷に触れるのが嫌ならば、ここまで来たら、自分も相手もあるがまま受け入れる事だと思います。

あるがままを受け入れることは、相手に何か働きかけることではないけれど、これもまた許しなのだと思います。

もう一つの質問に回答させて頂いたものです。
上手く言い表せないのですが、今回も参加させてください。m(_ _)m


所詮、相手の方は他人ですよね。身内じゃないんですよね。
親子や、きょうだい、夫婦が拗れた場合より余程ましです。
親子やきょうだい、夫婦だと、「愛憎」と言う言葉があるぐらい、根深い確執が生まれることがあります。
家族だと、お互い理解し合いたかった(理解を示して欲しかった)、信頼していたかった(信頼を示して欲しかった)という思い入れが強く関わりが深かった分、赤の他人に裏切...続きを読む

Q因果応報って本当にありますか?

9年付き合った彼に二股かけられていました。
彼はもう一人の女性と結婚したそうです。
人に話したところ「彼の事は忘れて、自分が幸せになることだけ考えなさい」「彼の二股を周りにばらそうとか考えなくても、因果応報だから大丈夫だよ」など、慰めてくれます。

そう思って3ヶ月間、前を向いて頑張ってきましたが、最近になって、やっぱり傷ついて苦しい、許せないという気持ちが強くなってきました。本当に因果応報なんてあるのでしょうか?
結局、元彼は幸せに暮らしていきそうだし、私は苦しい気持ちを引きずっていて、前を向く事に時間がかかりそうです。
私は因果応報を少なからず信じているので、彼の二股をバラさないでいようとここまで我慢してきたけれど、なんで私ばかり苦しんで我慢しないといけないのかわからなくなってしまいました。それに、ここで私がばらしたとして、私にも因果応報があるのでしょうか?私はバラすというよりも「元彼に騙されました」って周りに言ってしまいたいです。それはいけないことなのでしょうか?彼の奥さんは傷つくかもしれませんが、それは私のせいになるのですか?
因果応報ってどういうことなのか、わからなくなってしまいました。
ご助言よろしくおねがいします!
心が弱っているので誹謗中傷はご遠慮ください。

9年付き合った彼に二股かけられていました。
彼はもう一人の女性と結婚したそうです。
人に話したところ「彼の事は忘れて、自分が幸せになることだけ考えなさい」「彼の二股を周りにばらそうとか考えなくても、因果応報だから大丈夫だよ」など、慰めてくれます。

そう思って3ヶ月間、前を向いて頑張ってきましたが、最近になって、やっぱり傷ついて苦しい、許せないという気持ちが強くなってきました。本当に因果応報なんてあるのでしょうか?
結局、元彼は幸せに暮らしていきそうだし、私は苦しい気持ちを引きず...続きを読む

Aベストアンサー

うーん、私もずいぶん昔だけど、二股かけられた上にこっぴどい仕打ちの上、振られたことありますけど。
二股の相手が既婚者だったりして、どん引きました。(苦笑)
ちょうど就職活動も終わり、皆内定が出た頃だったんですけれどもね。
興信所でも使えば、既婚者の方も分かったろうし、内定先や相手の家族にこれまでの事をバラシてもよかったんですけど…私は止めておきました。
何よりそんなお金やパワーがもったいないと思ったし、色々ぶち壊してみたところで過去が拭い去れる訳もなく。
自分自身がそうした報復をした、という罪悪感に悩まされそうだなって思ったからです。
おそらく実行していたら、私は自分自身に一生背負わなければならない重荷を課すことになると考えたからです。
その数年後、相手の男は私の(元)友人と結婚しました。ブランド志向の強い、お似合いの夫婦ですわ。
私はブランドなんて気にしないし、どーでもいいのでちょっと笑っちゃいましたけど。

さて、閑話休題。

9年間もの長きにわたって付き合った上に二股ですか…サイテー男じゃないですか。
しかもmomoring3 さんとは、別のお相手と結婚したのですよね。
良かったじゃないですか、そんな男はのし付けてあげちゃいましょうよ。
後腐れなく別れられてラッキー☆ですって。
だってその男、また同じようなことを結婚生活で繰り返すかもしれませんよ?
不倫までいかなくとも、その人が良き配偶者、ひいては父親になれると思います?
夜遊びして回ったり、せっかくの休日にもどこか出掛けてしまったり、自分の趣味に時間を費やしたり。
およそ「安寧かつ幸せな家庭づくり」に向いているとは、ちょっと考えづらいのではないでしょうか。

実は私も夫も共通の知人に、似たような方がいるんですよ。
結婚式の一週間前まで、結婚相手とは別の女性と関係が切れてなかった方が!
もちろん奥様もそのことはご存知で……仕事・家事・育児すべて一人で切り盛りされていました。
仲間内では「…あのままだと、確実に熟年離婚の引導渡されるな…」ともっぱらの評判です。

『因果応報』は、こういう時に出るのですよ。

momoring3さん、まだ3か月しか経ってないのならば、苦しむ気持ちはよく分かるつもりです。
自分の足元がガタガタと崩れていくような感じ、堪らなく辛いですよね…。(涙)
心の傷を癒すにも時間がかかるのかもしれませんが、ここは潔く新たな陸地に足を付ける勇気を持ってくださるよう、心から願うばかりです。
どうか心を鎮めて、真新しい一歩を踏み出してください。
「騙された」ことが事実であっても、そんなところに力を注がず、
これも人生経験の一つと割り切って、一皮剥けた「イイ女」になりましょうよ。
自分を磨き心身ともに美しくあろうと努力していれば、必ず道は開けますから。

ソースは私自身。
本当に偽りのない私自身を、真摯に愛し大事にしてくれる人(現夫)が、突然現れました。(笑)
出会いから一年もかからずのスピード婚でしたが、今も仲良しですよん♪

うーん、私もずいぶん昔だけど、二股かけられた上にこっぴどい仕打ちの上、振られたことありますけど。
二股の相手が既婚者だったりして、どん引きました。(苦笑)
ちょうど就職活動も終わり、皆内定が出た頃だったんですけれどもね。
興信所でも使えば、既婚者の方も分かったろうし、内定先や相手の家族にこれまでの事をバラシてもよかったんですけど…私は止めておきました。
何よりそんなお金やパワーがもったいないと思ったし、色々ぶち壊してみたところで過去が拭い去れる訳もなく。
自分自身がそうした報復...続きを読む

Qマイナス思考とプラス思考

(1)私は「性格が暗い」と悩んできましたが、あるとき、ある本で「性格が暗くてもいいではないか。人はそれぞれ違っていい」という一説を読んで元気が出ました。しかし、いま、少し疑問が湧いているのです。この論理でいくと、「人はイライラしていい、情緒不安定でいい」「人は憎んでいい」となり、何でも認められ、それによって、周りの人が嫌な思いをしてしまうとしたら、「人は暗くてもいい」「人は情緒不安定でもいい」「人は憎んでもいい」ということは、言えないのではないかと思うのですが。しかし、一方、「暗くても良いよ」「イライラしても良いよ」「憎んでも良いよ」と言われると、心は安心します。この矛盾に何か良いお考えをアドバイスしてください。

(2)人をある人を憎むときがあります。そして、その憎いという思いが、生きるバネになり、力にもなることがあります。でも、憎いということは「マイナス思考」ですね。よく世間で「マイナス思考」より「プラス思考」が良いと言われますが、「憎い」というマイナス思考は、やはり捨てることが大事なのでしょうか。憎しみから生まれる、頑張るぞ!というプラス思考のエネルギーは、よいものではないのでしょうか。

 まとまりのない質問ですが、 よろしくお願いします。

(1)私は「性格が暗い」と悩んできましたが、あるとき、ある本で「性格が暗くてもいいではないか。人はそれぞれ違っていい」という一説を読んで元気が出ました。しかし、いま、少し疑問が湧いているのです。この論理でいくと、「人はイライラしていい、情緒不安定でいい」「人は憎んでいい」となり、何でも認められ、それによって、周りの人が嫌な思いをしてしまうとしたら、「人は暗くてもいい」「人は情緒不安定でもいい」「人は憎んでもいい」ということは、言えないのではないかと思うのですが。しかし、一方、...続きを読む

Aベストアンサー

個人的な思いですが、現代は、「プラス思考症候群」とも言える病気ですね。

どこぞの自己啓発本が元凶なのでしょうが、「プラス思考症候群」が生み出しているのは、
極少数の達成感と大多数の敗北感だけなのではないかと、訝しく思っております。

(1)について、心理学的には、人は、そのままの自分自身を認められると力が沸いて来ます。
  「人は暗くてもいい」「人は情緒不安定でもいい」「人は憎んでもいい」と
  そのままの自分を認められたとき、あなたもわかっているように、「心が安心」します。
  「安心した心」は外(他人)への攻撃性が低くなり、
  少しだけでも、頑張って見ようって気持ちになります。

「性格が暗い」から「性格が明るい」へと一気に変えるのは、
心理的に大変にキツイ事ですし、まず無理です。
自分の暗さを認めて、安心(安定)した心で、「ではどういう対応が、自分の得になるか?」と
徹底して考えてみてください、「憎むこと」「イライラすること」「仕返すこと」が、
(最初に)自分にとって、(次に)相手にとって最大の得になることなのか、
得になるには、どうすれば良いのか?プラス思考ではなく、損得思考をお薦めします。

(2)にあなたが、言われている憎しみをバネや力にすることを「昇華」と云います、
  憎さが、エネルギーになっている時に、憎さを手放すと、エネルギーがなくなります、
  憎さを手放して、幸せに向かうか、エネルギーを維持して、モノゴトに向かうかは、
  あなた自身の選択です。得だと思う方を選んでください。

> よく世間で「マイナス思考」より「プラス思考」が良いと言われますが

世間は世間に都合のいいことを、あたかも真実のように言うものです、
世間のものさしは、自分に合うのか?自分にとっての損得をよく吟味する必要があります。

私個人は、「幸福は最大の復讐」と心に刻んで、
絶対に憎い相手よりも幸せになろうと誓っております。

※近頃ボケて来て、誰が憎かったか思い出せない、錆びついた脳みそですが・・・(笑)

個人的な思いですが、現代は、「プラス思考症候群」とも言える病気ですね。

どこぞの自己啓発本が元凶なのでしょうが、「プラス思考症候群」が生み出しているのは、
極少数の達成感と大多数の敗北感だけなのではないかと、訝しく思っております。

(1)について、心理学的には、人は、そのままの自分自身を認められると力が沸いて来ます。
  「人は暗くてもいい」「人は情緒不安定でもいい」「人は憎んでもいい」と
  そのままの自分を認められたとき、あなたもわかっているように、「心が安心」します。...続きを読む

Q因果応報

因果応報を信じますか?

Aベストアンサー

因果応報だ!と思えることは意識していないとないかもしれませんが、
何事にも原因があって、誰かにした善行は自分に返ってくることもあります。
逆に、怠けたことであとで後悔するのも原因があって起こった結果です。
起こった事実から未来を変える、因果を覆すのは難しいことだと思いますよ。

仏教的な考え方としては、よくわからないので、そっちの内容だったらごめんなさい。

Qチンパンジーの思考の特徴と人間の思考の特徴

チンパンジーの知性と人間の知性の違いを比較した場合、おそらく言語の違いが大いに関連してくるとことになりますよね。
では、「思考の特徴」を比較した場合、どのような相違点がでてくるでしょうか?また、それはどのような理由によるものでしょうか?
やはり言語の有無がカギになりますかね…。
詳しい方助言よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「思考の特徴」というくくりでは、日常の損得計算から哲学的な命題まで
広すぎて何とも言えませんが・・・。

チンパンジーだったか記憶が曖昧ですが、霊長類の子を育てて言葉を覚えさせる
試みは既になされていて有名な筈です。
人間の様な声帯の構造を持っていないためか、かなり限られた語数しか覚えなかったと
記憶しています。

また、サルに「嘘」の概念があるという観察報告もありました。
身振りである程度の「会話」を出来るようになったサルが、嘘をついてそれを見抜かれると
"I'm sorry"というサインを出したという内容でした。
発達心理から見ると「嘘」は高度な知的活動であるため、それが表現可能ならば
サルも嘘をつく知性がある点と、嘘をついたことを指摘されたときに罪悪感の
ようなものを感じる・・・らしいという点で興味深いですね。

「悪いことをした」ことの自覚が言語を覚えさせたから芽生えたのか、そもそも
生得的に持っているのかは今のところ確認された研究は見ていません。

Q因果応報はありますか?

不倫をすると因果応報で自分が妻になった時に浮気をされるとか、幸せになれないと聞く事がありますが、既婚男性の方には因果応報はないのでしょうか?女性な妻になった途端今度は浮気される側になり悩むという事を聞きますが、男性においては何も聞いた事がありません。バチがあたったりしっぺ返しがあたったりした人はいないんでしょうか?

Aベストアンサー

仏教的な意味での因果応報はわかりませんが
不倫したり浮気したりを繰り返す人は
普段からそういう考え方だから出来ると思います。

こういう不倫・浮気だけでなく、ギャンブルとか借金で考えるとわかりやすいのですが、一度大失敗し、親戚や友人知人が助けても、いつかまた借金を繰り返す人が多々います。

人間の行動は本能ばかりでは無くて、特に大人になればなるほど、思考の末に行動が成り立ちます。
ですから考え方が改まらない人は、因果応報かどうかは知りませんが、いつかは大きなしっぺ返しを食らう可能性は高いですよね。

不倫や浮気は、結局は自分のパートナーを裏切る行為です。
それを繰り返していると、パートナーもいつかそういう人が嫌になります。
それがわからない人が、誰からも裏切られないなんて、常識的には考えられません。

男性と女性との比較は、表面に出すかどうかの違いだけで、悩み事はそんなに変わりません。

Q理知的なる思考者と感情的思考者の嫌悪感

物事の考え方における、理知的傾向があるひと、感情的傾向がある人、様々であり、思考対象によって個人の中でもうつろうものだと思います。
例を挙げるとあまりに限定的になってしまうので、総論としておきますが、ある議論について、かなり理知的な思考を持った人と、感情的思考を持った人が、それぞれの存在に抱く感情とはどういうものでしょうか?理知的というのは、自分で掘り下げるという作業を必要としますから、かなり率直な、自分の言葉が多分に入った意見です。感情的な方は、もちろん率直な心からの意見もあるのですが、えてして世俗に惑わされるというか、大衆迎合的な面もあるようで、そのときは、かなり自分の率直なところから出ているのか怪しいが、本人にもなかなか自覚されにくいという厄介な面があるようです。言い方を変えると、世間でもてはやされている多数派的な意見というのは、多分に感情的傾向があるということです。
私は、特に、この感情的思考のなかの後者(世俗に毒されている、影響されている)という傾向がある(気がする)思考を、ここで読んだり、そこここで見聞すると、非常にいやな感覚を覚えます。「自分出してる?考えてる?奇麗事ばっかりヒステリックに言ってない?ちゃんと人の気持ちを考えてる?」というような疑問を感ずることが多いからです。前者の真心がある感情的思考は、これは純粋で打たれるものがあります。
疑問なのは、感情的思考者(特にある状況設定で後者の傾向に思考が傾いている人)が、理知的思考者のいうことを聞くと、どういう感覚を持つのかということです。
それから真心の方の感情思考に対してもどうなのか、これも疑問です。

どんなものなのでしょうか?

物事の考え方における、理知的傾向があるひと、感情的傾向がある人、様々であり、思考対象によって個人の中でもうつろうものだと思います。
例を挙げるとあまりに限定的になってしまうので、総論としておきますが、ある議論について、かなり理知的な思考を持った人と、感情的思考を持った人が、それぞれの存在に抱く感情とはどういうものでしょうか?理知的というのは、自分で掘り下げるという作業を必要としますから、かなり率直な、自分の言葉が多分に入った意見です。感情的な方は、もちろん率直な心からの意...続きを読む

Aベストアンサー

感覚とか嫌悪感なら、自分で体験するしかないですよね。

人間には集団心理があるので、あなたの普段取らない思考過程を踏むグループに属してみるといいですよ。自分を無にして他人の価値観に自分をゆだねるのです。これが出来ないと、別の思考過程を踏む人を理解することは出来ません。

もっとも、思考が切れすぎてついていけない人がいると、体験するのは難しいですけどね。

原点 (拠り所) に戻って論理を点検することを「ゼロ点思考」などといったりしますが、これが冷静かつ客観的に出来る人はそう多くありません。

多くの人は力を抜いた瞬間に、短絡的思考に走って行きます。逆にそうでないと、考えることが多すぎて処理し切れません。(結果としてパフォーマンスが落ちます)

もうひとつの問題は、論理的であることが常に正しい結論を導くとは限らない点ですね。直感、感情、慣習といったもののなかにも知恵はあります。

>疑問なのは、感情的思考者(特にある状況設定で後者の傾向に思考が傾いている人)が、理知的思考者のいうことを聞くと、どういう感覚を持つのかということです。

焦りとか戦闘意欲ですかね。どっちにしても嫌な感じと怒りでしょう。

説明してるのに説得できない ←→ 正しいことがわかってるが説明できない

憤りはおなじことだと思いますけど。

感覚とか嫌悪感なら、自分で体験するしかないですよね。

人間には集団心理があるので、あなたの普段取らない思考過程を踏むグループに属してみるといいですよ。自分を無にして他人の価値観に自分をゆだねるのです。これが出来ないと、別の思考過程を踏む人を理解することは出来ません。

もっとも、思考が切れすぎてついていけない人がいると、体験するのは難しいですけどね。

原点 (拠り所) に戻って論理を点検することを「ゼロ点思考」などといったりしますが、これが冷静かつ客観的に出来る人はそう多...続きを読む


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