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ある歴史の本を読みましたが、そこには承久の乱以前の西国では荘園領主(いわゆる皇室、公家、社寺)の力が強かったので武士の土地支配は未熟だった旨の記述がありました。
 そこで質問します。なぜ、またどのくらい荘園領主の力が強かったのでしょうか。相変わらず在地地主(実際に荘園を管理している現地の有力者の意味)は荘園領主に搾取されていたのでしょうか。西国に幕府の力が及んでいなかったとはいえ、在地地主は武力を持っていたし、平安時代に比べ荘園領主からかなり取り分を奪っていたと思うのですが。げんに東国では武士が自分たちによる土地所有、収益権を実現しています。
 自分では以下のように推理したのですが、この件に詳しい方がいらっしゃれば、誤りの指摘も含めてご教授願います。

(1) 西国武士も自身による土地支配を望んでいたが、彼らの権利を保障して くれるであろう鎌倉幕府の傘下に入る気がしなかった。これは西国武士と 源氏の主従関係が希薄であったためである。
(2) 西国では、在地地主は荘園領主に抵抗できるほど武装化していなかっ  た。

A 回答 (2件)

西国特に九州は中央政府に繋がっていた頃は菊池氏の時代に統一されたのですが菊池氏が滅ぶと小弐氏などに交代し群雄割拠となりました。


しかし菊池氏の時代に既に朝貢貿易による交易を中国としており、かなりの実益を得ていました。  宋銭の輸入などにより経済的にも半独立国の形態にありました。

在地領主の実力は既に確立されていて荘園領主の統治分は次第に侵食されていました。  在地領主はその権益の保障を鎌倉幕府に求めていた事は元寇時の戦功を侍所に訴えて認められた例によっても明らかです。

しかし遠隔地である事、訴訟に長時間を要するなど不便もあり次第に鎌倉離れになっていったとおもわれます。
これが後世になっても九州が小領主が乱立を続けた由縁と思われます。
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 私は、西国武士はそれなりに幸せだったのだと思っています。



 明治期以後の軍隊でも、連隊はほぼ出身地ごとに編成されていたようですが、「またも負けたか××連隊」「またも勝ったか○○連隊」という言葉があったそうです。

 ××には関西以西の出身者で形成される連隊の番号、○○は越後から東北各県で編成される連隊の番号が入りました。つまり、ずっと関西以西の先頭集団は弱いんです。

 関東から東北は、土地にしがみついて農業をやるしかない。農業というのは、みんなが田植えするときは自分も田植えしないといけないのです。逆張りして、みんなと違う時に田植えしようとしても、水路に水がないんですから。指導者の号令一下、水が入り、田植えが始まる。別な号令で水が抜かれる。

 雪が多い。みんなと違う行動をして迷惑をかければ捨てられる。病気になっても医者へ連れて行ってくれない。捨てられれば死ぬしかない。まさに一致団結。土地を自分の物にできるようがんばる。

 関西以西は天候がよい(逃亡して隠れられる)上に、商売があった。商売はみんなと同じことをしていたのでは大きく儲からない。アイデアが勝負。そういうのを見ているから、みんなが自分の判断で動きたがる。しくじったら自己破産すればいい、逃げればいい。バラバラな集団。意識的には、めんどうな事をするくらいなら、寝ていたい。

 西国武士と言われる人たちも、第一次、第二次の世界大戦ころの関西系連隊と同じ考えだったのでは、と思います。
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