哲学のところでする質問かわからないのですが・・。
科学と宗教を同等のものと見る見方がありますが、納得いきません。
科学信仰なんていう言葉があることさえ理解できません。
科学は宗教と違って、全ての人にとって客観的に、事実として存在するものです。
熱心なキリスト教信者も「イエスは存在します。」と、疑いなく言うでしょうが、それとこれとは違うでしょう?イエスは、そのキリスト教信者の心の中には確かにいると思いますが・・・。
“僕は~教を信じていません。だから僕の中には神はいません。”と言うことは論理的ですが、“~教徒は科学を信じていません。だから彼の中には科学は存在しません。”とは言えません。もしそう言えるならば、彼の乗った飛行機は墜落してしまうでしょう。
(宗教がデタラメだと言う気は全くありません。)
どなたか助言をよろしくお願いします。

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A 回答 (13件中11~13件)

>科学は宗教と違って、全ての人にとって客観的に、事実と


>して存在するものです。

これは微妙に間違っていると思います。

つい最近まで常識とされていた宇宙は「ビックバン」に
よって始まったという説だって、ただの「説」で
事実ではないと、最近は言われています。

これまでだって、一度科学によって実証されていたことが
覆ることは少なくありませんでした。

天動説から地動説。

宇宙には何も無いという説から、今では、宇宙には
色々な物質が漂っていることになっているようです。

ダークマターという物質など、理論だけでいまだに
証明されていません。

「全ての人にとって客観的に、事実として存在する」
というのも、言ってみれば「科学信仰」による
錯覚であるという見方もできるのではないでしょうか?

熱心なキリスト教徒にとっては「主」だって
「客観的に、事実として存在」しているのではない
でしょうか?

物事にはすべていくつかの解釈があります。
「これが正解」と決め付けることは危険であることは、
他ならぬ科学が証明してくれているのですね。
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この回答へのお礼

ごもっともです。が、それは承知の上でした。私は生物学を勉強してますが、生物学は今ものすごい勢いで発展しています。最近まで常識だったことが、全く違っていた、なんてことは日常茶飯事です。
しかし、目の前で飛行機が飛び立つのを見て、それが「科学信仰」による錯覚だ、とは言えないでしょう。
そう言う意味で、科学は事実として存在すると、私は言いたかったのです。
ご指摘ありがとうございました。

お礼日時:2001/01/24 21:40

科学は絶対的なものではないと思います。

理論的にはうまくいくはずが、ずれてしまったり、うまくいかなかったり。論理的に証明されたものの積み重ねが現在は正しく見えても後々ひっくり返されたります。もしかすると今の私達の常識を根本からくつがえす何かが私達の死後、未来に発見されるかもしれません。本当の、真実のことは、一つかもしれませんが、私達が知ることはできない気がします。科学を信じるか信じないかの選択権があると思います。
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この回答へのお礼

確かに、「ポ○リスウェットはスポーツをした後の体に良い」なんて言われて、そのまま信じるのはどうか、と私も思います。それを信じる権利はありますよね。
でも、“飛行機は空を飛ぶものだ。”ということに対して、それを信じるか否かを選べるでしょうか?(飛ばない!と言い張ることもできますが・・・。)
私の言い方が悪かったせいで、難しく考えさせてしまったようです。すみません。

お礼日時:2001/01/24 21:56

あくまでも私の考えです。

おしつけるつもりはありませんのでそのつもりでお読みください。
科学は宗教では無いかも知れませんが、信仰の対象である事は間違いないと思います。大槻教授とかは熱心な科学信者ではないでしょうか?
よく「そんな事が科学で証明されたのか!」みたいな事を言う人がいますが、科学で何かが証明されると思うこと自体間違いです。科学にできるのは、ある事柄をもっともらしく説明することです。で、他のひとより面白く説明した人が偉大な科学者と呼ばれるのだと思います。
一昔まえの科学の本を読むと、現在とは全く違う事がかかれている事ってよくありますよね。これは科学がその時点での知識の範囲である事柄を説明しようとしているから当然そうなるわけですが、その説明を鵜呑みにして「科学で証明されたから事実だ」って決め付ければ、これはもう信仰としか言い様がありません。
だからと言って、科学が悪いものだとは全く思いません。面白く物事を説明してくれるんですから。
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この回答へのお礼

全くそのとおりですね。
「科学で証明された」という言葉を拠り所にすべきではありません。
でも、科学で何かが証明されるというのは間違いでしょうか?科学は、鉄の塊が空を飛ぶことを、もっともらしく説明するだけでしょうか?
少し疑問です。

お礼日時:2001/01/24 22:25

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地球科学科の鉱物科学の研究室から化学科の結晶化学などの大学院に進学することはよくあることでしょうか?

また鉱物科学と結晶化学の決定的な違いはなんでしょうか


よろしくお願いします

Aベストアンサー

化学はあくまでも「物質の変化の学問」ですので「反応性」が主になるはずです。
地球科学の中の鉱物科学は時間のスケールが最小でも千年、長ければ億年。
その辺りに一番の違いが有るように思われます。
その間に物性物理が挟まる様な気がするのですが。

Q聖書と科学の矛盾をキリスト教信者の方はどう捉えているのでしょうか

宗教というカテゴリーがなかったので、こちらにに質問させて頂きます。新年に神社でお参りし、教会で結婚式を挙げ、死んだら寺の墓に入る無宗教の日本人の素朴な疑問なのですが、キリスト教を信仰してるであろう国の科学者達は(科学者だけではないかもしれません)、聖書の中に書かれている内容と、人類学や科学などで考えられたり証明されたりしている事実との矛盾を、どうとらえているのでしょうか。
例えば、人間は猿から進化したものとされていますが、キリスト教では神が創ったとされています。(正確にいえば人間ではなくアダムですが)学問と宗教で真実が異なるわけですが、宗教を信仰している科学者は科学と相反する教えをどのように捉えているのか、無宗教の私にはずっと疑問であり謎でした。どなたかこの疑問にお答えいただけないでしょうか。よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

質問者さんがお書きの
>学問と宗教で真実が異なる
事を多くの人は理解しており、社会生活を営んでいます。
それは聖職者であっても科学者であっても同じ事です。
むしろ科学者のような高度な教育を施された人の方が、割り切り度合いは大きいでしょう。

『神のものは神に、カエサルのものはカエサルに』とは聖書の言葉ですが、
「人が何を信じどう生きるか」と「人がどんな栄養素を採れば生きられるのか」
は別の問題だと、認識しているので矛盾しないのです。
『人はパンのみに生きるに非ず』という聖書の名文句を聞いて
「人には肉体的な満足感だけでなく精神的な満足感が必要だ」という意味で引用する人はいても
「人にはパン以外に野菜や肉も食べないと栄養が偏るよ」という意味で栄養学の教科書に引用する人はいないのです。

以下余談
#5さんがご指摘のようにキリスト教にもイスラム教にも原理主義者はいます。
彼らは「学問と宗教で真実が異なる」事を同じ土俵で解決しようとしているから矛盾するのです。
そして、現実を捻じ曲げて解釈しています。(キリスト教原理主義者たちが『汝の敵を愛し』ているとは到底思えませんがね)
こう考えると、宗教を迷信として無視する科学万能主義者と原理主義者は精神構造が近いのかも知れませんね。
世の中の全ての事はたった一種類の法則で説明可能である、というのは理想でしかないからです。
その法則をE=mc2(二乗)とするか聖書に(あるいはコーランに)求めるのかだけの差という意味で。

では我々日本人は?臆病な科学信奉者とでも言えますでしょうか。多くの日本人が「バチが当たる」という言葉を
忘れて久しいですが、それでも多くの人は結婚式に仏滅の日を選ぶ勇気はないのです。
以上余談。

よって、聖書などに書かれているのは神の言葉であって科学法則ではない、から矛盾しないのです。
もう少し哲学風に言えば、形而上の話と形而下の話を一緒にすれば矛盾するのは当然であるから、です。
お釈迦さんが生まれた時甘茶の雨が降ったとか、産まれた直後に「天上天下唯我独尊」と言ったとかをマジメに研究して甘茶の雨は降る事ができない!とか産まれた直後に直立して自然言語を操る新生児はいない!と否定する日本人はいませんよね?それと同じ事ですよ。

質問者さんがお書きの
>学問と宗教で真実が異なる
事を多くの人は理解しており、社会生活を営んでいます。
それは聖職者であっても科学者であっても同じ事です。
むしろ科学者のような高度な教育を施された人の方が、割り切り度合いは大きいでしょう。

『神のものは神に、カエサルのものはカエサルに』とは聖書の言葉ですが、
「人が何を信じどう生きるか」と「人がどんな栄養素を採れば生きられるのか」
は別の問題だと、認識しているので矛盾しないのです。
『人はパンのみに生きるに非ず』という聖書...続きを読む

Q「科学」と「化学」

自然の「カガク」は、「科学」
実験の「カガク」は、「化学」

「科学」と「化学」はどう違うんでしょうか?

Aベストアンサー

科学
《 science 》一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。また、その成果としての体系的知識。研究対象または研究方法のうえで、自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。一般に、哲学・宗教・芸術などと区別して用いられ、広義には学・学問と同じ意味に、狭義では自然科学だけをさすことがある。サイエンス。

化学
《 chemistry 》物質を構成する原子・分子に着目し、その構造や性質、その構成の変化すなわち化学反応などを取り扱う自然科学の一部門。対象や研究方向により、無機化学・有機化学・物理化学・生化学・地球化学・核化学などに分けられる。

単に、ネット辞書を引いただけで、すぐに解るでしょ?
特に、化学(発音するときは「バケガク」とも)の「物質を構成する原子・分子に着目し、その構造や性質、その構成の変化すなわち化学反応などを取り扱う」を抑えておけば良いんじゃない?
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 そうなると、逆に無神論や不可知論の範囲になってしまうのでしょうか?ニーチェのようにキリスト教を否定せずに、イエスを介さず神と個人との関係に言及した西洋の学者、及び著書はありますか?あるいは、この種の問題の概説書等で参考になるものがあれば教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

シモーヌ・ヴェイユの「神を待ち望む」("Attente de Dieu" 1942)はどうでしょうね。
存在の根底から神と個人の関係を問いかける誠実な哲学者だと思います。
キリスト教の風土から逸脱せずにとくに信仰と関わりなく読み深められると思います。
神学というスタンスで書かれてはいません。

イエス抜きのキリスト教神学となると、近いのは神秘神学の範疇になってしまいそうですね。
エックハルトの流れを汲むドイツ神秘主義は、観照を重視するものであり傑物を多く産んでいます。

興味の向かうベクトルがどのようなものなのかわかりませんが、
キリスト教は、古代エジプトのヘルメス思想とイスラム科学を後継することで正当性を蓄えたのです。
これらはギリシャ哲学にもキリスト教の母胎であるユダヤ教にも影響を与えました。一神教はその過程の中で定着したのです。あとはユダヤ教からどのようにキリスト教が乖離するかという問題になってくるのですが、「物語」を信じるのでなければ、ユダヤ教にせよキリスト教にせよ学びを限定する意味はないかと思われます。近代の精神を理解し洞察するにはキリスト教との関わりが不可欠ですが、唯一神の概念と人間の心を知るためであれば、キリスト教にこだわらずに歴史と地理を横断するのもよいのではないかと思います。

シモーヌ・ヴェイユの「神を待ち望む」("Attente de Dieu" 1942)はどうでしょうね。
存在の根底から神と個人の関係を問いかける誠実な哲学者だと思います。
キリスト教の風土から逸脱せずにとくに信仰と関わりなく読み深められると思います。
神学というスタンスで書かれてはいません。

イエス抜きのキリスト教神学となると、近いのは神秘神学の範疇になってしまいそうですね。
エックハルトの流れを汲むドイツ神秘主義は、観照を重視するものであり傑物を多く産んでいます。

興味の向かうベクトルがどのような...続きを読む

Q「物理化学(科学?)」とは?

友人が博士課程で化学を専攻してます。先日、「物理化学(科学?)をまともに勉強して来なかったので辛い」と反省し猛勉強していまた。この「物理化学(科学?)」とはどのような学問ですか?分かりやすく教えて下さい。お願いします。

Aベストアンサー

極簡単(若干の言葉足らずはご容赦を)にですが,無機化学や有機化学は物質そのものの性質を調べたり合成したりが主で,物理化学は原子・分子の構造や,エネルギー状態など理論部分を主にしていると思います。
もちろん,化学をやる上ではそれぞれの分野も深くなればなるほどお互いが相関してくるものです。

ご参考まで。

Qキリスト教、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教・・・などなど、さまざまな宗教の考え方や特徴を知りたいです。

最近、宗教について興味を持つようになりました。たとえばイスラム教では女性の地位が低かったりヒンドゥ教にはカーストがあったりと、宗教によってさまざまな考え方の違い、特徴があると思います。そんな宗教の違いなどについて分かりやすく解説していただけたら幸いです。

Aベストアンサー

 こんにちは。

 宗教事情と言いますか 実際の生活日常にどう現われているかについてよりは 考え方をめぐって理論的に捉えようとしてみます。

 ヒンドゥイズムは古代では ブラフマニズム(バラモン教)ですが この宗教はすでにいわゆるカーストが定まったところで起こっています。侵略と支配が出来あがったところで そのおしえが持たれます。
 ひとつには 宇宙の原理ないしその力としてのブラフマン(梵)とひとの《わたし》としてのアートマン(我)とが一体であると説きます。梵我一如と言うようです。
 もうひとつには 輪廻転生かつ因果応報の説があります。梵我一如を身に現わしたとされる司祭(ブラフマナ)は 過去世で善い因を積んだ結果そう成ったというわけです。
 そしてこの場合 低い身分の人びとは 過去世で悪い因を積んだ結果だというのですが それだけではなく いま現在善い因を積めば そして生まれ変わり続けていつの世にかは よき身分に生まれると説きます。

 ブディズムは このブラフマニズムを批判し否定して起こりました。
 ただ その内容は必ずしも明確ではありません。
 低い身分のまま生まれ続けるという六道輪廻は 目覚めた状態(ブッダ)に成れば断ち切ることができると言いますが 輪廻転生が全体として否定されたわけではありません。
 ひとは仮りにモノが集まってその存在となって生まれて来たものだから 《わたし》が確固とした存在だとは見るものではないようです。(諸法無我)。何ものにも依存しないブラフマンと一体でありうるというアートマンであるとは見ない。ただし 誰もがブッダの状態に成ることができるというその《仏性》を身に宿すとも もう一方では説くようになります。
 ですから一般には 《梵我一如》をブディズムのおしえだと捉えているのではないでしょうか。

 イスラームは 単純です。《神(アッラーフ)》が直接にムハンマドの口を借りて ひとの思いやおこないをすべて〔と言っていいほど〕おしえの中に示しているということです。きわめて具体的な内容を示すかたちで表現されていますから。 

 ▲ (クルアーン=コーラン)~~~~~~~~~~~~~~~~
 まことにわれら(* アッラーフ=神 の自称・複数形での語り)が 汝(ムハンマド)に啓示したのは ノアとそれ以後の預言者たちに啓示したのと同様である。われらは アブラハム イシマエル イサク ヤコブの各支族に また イエス ヨブ ヨナ アロン そしてソロモンに啓示した。また ダヴィデに詩篇を与えた。(4:163)


 おまえたち(* ムハンマドを含めた信徒たちのこと。むろんアッラーがムハンマドの口を借りて語っている)は言うがよい。
   《われわれは神を信じ そしてわれわれに啓示されたものを アブラ
   ハムとイシマエルとヤコブともろもろの支族に啓示されたものを モ
   ーセとイエスに与えられたものを 信じる。
   また もろもろの預言者が主から与えられたものを信ずる。われわれ
   は これらのあいだでだれかれの差別はしない。
   われわれは神に帰依する。》
    (2:136)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ちなみに セム語は三個の語根子音から成るのが 一般です。
 《S-L-M》は ヘブル語でも シャローム( SaLooM )と言って挨拶に用いる語です。アラビア語では 定冠詞(アル→アッ)を付けて 《アッサラーム(al-SaLaaM = 平安を!)》です。
 同じ S-L-Mから派生する語として イスラーム iSLaaM は 《降伏・服従》の意をも伴なう《身をゆだねる》つまり《帰依》のことです。
 その帰依した信徒を表わすムスリムは 《〔わたしはそこで自らが健全・安寧(S-L-M)であると知覚し認識し これを受け容れて わたしは〕 すこやかならしめられた》と言っています。〔  S-L-M > muSLiM。(初めの m- は いわゆる過去分詞の接頭辞)というわけのようです〕。
 つまりは ブラフマニズムやブディズムで目指された《安寧としてのさとり》の状態は ムスリムとしては その名前じたいの中に堂々と名乗っているというわけです。《われ やわらがしめられたり》と言っています。
 ひとこと悪口を言えば つねにいつもいつも《われはアッラーを信じる。アッラーに帰依する》と言っていなければならないのかと思ったりします。そんなことぢゃ 信じていないのではないか。弱いのではないかと思ったりします。
 
 さて ムハンマドに乗り移って語ったアッラーフの言葉の中に アブラハムやモーセのほかに イエスも出て来ています。そこで クリスチアニズムについてです。
 これは ひとことで言えば 人がついていけないほど すっ飛んでいます。なにしろ ヨセフとマリアという夫婦から生まれた人間であるイエスは この世のものではないなぞの霊としての存在である神の独り子であり みづからも神である。こういう出で立ちです。

 いくらかは分かるようなところを示してみますと。
 ひとは誰でも《仏性》を宿すと言ったりしますが クリスチアニズムもひとには神の霊が宿ると言います。
 ブラフマンとわたし(アートマン)とが 一体となるという説に対しては 神〔の霊〕がわたしをおおい包む。そこでわたしは 無条件に只で(無料で=恩恵として)癒されやわらがしめられたと告白する。
 ただし これはすべて ひとりの人の主観の内において起こる出来事であり その主観内面におさまるものであると知っています。ですから 神が人間の言葉でそのまま語るということは まぼろしとして――文学表現において――触れたりすることもあるにはあるようですが 基本的にはないと思っています。
 神をひとは見ることが出来ない。それは 非思考であると捉えます。言いかえると その信仰の内容を 言葉にして伝えることはあるにはあっても その人の主観の問題であると捉えています。言いかえると 二人以上でこの信仰内容をおしえとして具体的な表現において共有するということは すでにもはや非思考の信仰ではなくなると見ています。すなわち 教義と組織を伴なった宗教は 信仰の自殺行為であると見ます。そういう信仰です。
 (教会組織は わたしに言わせれば 犯罪行為です)。

 さらに言いかえると もし人と人のかかわりやつながり あるいはきづな これらのことを《愛》と言うとすれば そのような愛は 非思考つまりなぞにおいて神のほうがなんとかしてくれると思っているという意味です。人もその一端をになうと言ってもいいでしょうが――そして人間の為し得る努力という努力はすべておこないますが―― 基本は 絶対他力です。隣りびとを愛せとは 自分と同じくらいは――もしくは自分を思う前に一秒くらいは相手を先に思うかたちで――愛しなさいということです。

 こんにちは。

 宗教事情と言いますか 実際の生活日常にどう現われているかについてよりは 考え方をめぐって理論的に捉えようとしてみます。

 ヒンドゥイズムは古代では ブラフマニズム(バラモン教)ですが この宗教はすでにいわゆるカーストが定まったところで起こっています。侵略と支配が出来あがったところで そのおしえが持たれます。
 ひとつには 宇宙の原理ないしその力としてのブラフマン(梵)とひとの《わたし》としてのアートマン(我)とが一体であると説きます。梵我一如と言うよ...続きを読む

Q【科学】科学は自然科学・人文科学・社会科学の3つに分類される。医学も物理学も化学は自然科学の一分野だ

【科学】科学は自然科学・人文科学・社会科学の3つに分類される。医学も物理学も化学は自然科学の一分野だ。

人文科学・社会科学って何ですか?

工学も自然科学の1つ?

どういう細分化されているのか教えてください。

Aベストアンサー

自然科学は、自然を観察する事により得られる科学分野で、通常は物理学・科学・生物学・地学(地球科学)・天文学です。
自然科学で無いのは、数学・哲学などの抽象的学問ですね。
人文科学は、広義には、人間が為した文化等を研究する分野なので、社会科学を含みますが、社会のみを研究分野とする場合は、社会科学は人文科学と分離されます。
その場合の人文科学は、哲学(倫理学・論理学・数理哲学)・歴史学(考古学)・文学・芸術学(美学)・宗教学・文化人類学(民族学)・教育学・心理学などです。
社会科学は、政治学(政策科学)・経済学(経営学)・法学・社会学などです。
上記を見ると、数学が入る場所がありませんが、便宜上は形式科学ですが、大学などでは自然科学分野との関わりが強いので、自然科学の分野に加えられています。

Q創価学会,幸福の科学,エホバの証人←これらの宗教の信者は相手の宗教につ

創価学会,幸福の科学,エホバの証人←これらの宗教の信者は相手の宗教についてどのように考えているのでしょうか?

この間幸福の科学の信者である友人にエホバの話をしたら,輸血の話を持ち出して「エホバは非常に危ない宗教だ.かかわらない方が良い」と言われました.自分はエホバの信者ではないのですが,エホバ信者の方とは親しくさせていただいていて,非常に良い人ばかりなので視野が狭いのではないかと思いました.

また,最近付き合いだした彼女が創価学会の信者でした.今のところ本人は隠しているつもりですが,家に行った時に聖教新聞や仏壇などがありすぐにわかりました.

これらの彼女や友人達をお互いに会わせて宗教について話をした場合,どのようなことが起こり得ると考えられるでしょうか?やはり喧嘩になったり議論が噛み合わなかったりするのでしょうか?

Aベストアンサー

あくまでも私見ですけれど

創価学会  
他教他宗は邪教と見ているようなふしがあります
「他から攻撃されるのは本物だから」 と言ってました 修道者にしては変な言い分です
宗教と言うより政治団体と言った方が相応しいかも知れません
全てでは無いでしょうが「修道」 は無き如くで 「ご利益信仰」 のみ強い気がします
初めの頃は良く解らないでしょうけれど 何時までも「ご利益信仰」ではいけない事に気付けない方が多いのでは無いでしょうか?
一部の方は攻撃的です 日蓮自身がそんな所がありましたからでしょうか?

エホバの証人 
何人かと何度か お話した事あります 知り合いではありません
他宗は邪教とまでは言わないようですが自分達だけが聖書を正しく解釈しているが如くです
聖書の一部について他所と違う事を指摘したところ自分たちのは意訳であると言ってました
意訳は解り易くなる代わりに間違いが起こる恐れがあるのですが

知り合いの小学校女教師から聞いた事です
子供の親は教えに反する?とかで学校のある行事に参加させたくないとか
あれこれ注文付けるのでやり難いとか言ってました でもキリスト教の中では聖書に忠実と感じております 
輸血の話は以前 大きなニュースになりましたのでこの事についてだけ ご存知の方は多いでしょう
でも直接 お話をした事のある方は殆ど居ないでしょう

幸福の科学 
本屋で立ち読みした事があり 我が家にも1度来た時 少しばかり お話した事があります
本で知る限り教祖は霊能者です 霊能者にもピンからキリまでありますが
釈迦の生まれ変りとなっております 本当かどうかは兎も角 霊能で得た情報なのです
何も解らない方には何かの病気に見えるでしょう
この事で以前マスコミを賑わした事がありますが病気ではありません

伝統宗教の開祖 例えば キリスト 釈迦 は霊能者です
現代社会では受け入れがたいのか宗教上は強調してませんが明らかな霊能者です
この お二人に限りません 現代近代の新興宗教でも開祖は大抵霊能者です

宗教は兎角 他所を排斥しがちな部分がありますが指導に何か間違いがあるからと考えます
何事も広く解釈すれば争い事は無くなると思うのです

ある新興宗教の開祖の一人(故人)は言ってます
「宗教やっていて物の見方が狭くなるようでは本物では無い」 

心が広くなって行かなければならないのです 心を狭くしていくような宗教では宗教では無いでしょう
中身(心のあり方)より 形(戒律とか)に囚われる為に 争い事が起こるのだと思います

これら3つは それぞれ目的とする所が違うように思いますので噛み合わないでしょう
言語が違うと言ったら良いでしょうか?

あくまでも私見ですけれど

創価学会  
他教他宗は邪教と見ているようなふしがあります
「他から攻撃されるのは本物だから」 と言ってました 修道者にしては変な言い分です
宗教と言うより政治団体と言った方が相応しいかも知れません
全てでは無いでしょうが「修道」 は無き如くで 「ご利益信仰」 のみ強い気がします
初めの頃は良く解らないでしょうけれど 何時までも「ご利益信仰」ではいけない事に気付けない方が多いのでは無いでしょうか?
一部の方は攻撃的です 日蓮自身がそんな所がありましたから...続きを読む

Q科学と化学は何がちがうのでしょうか?

あまり深い意味ではないのですが、科学と化学は何が違うのでしょうか?というより科学の方がいまいちピンと来ないのですが、科学とはどういう意味になるのでしょうか。

Aベストアンサー

中学の理科の授業を思い出してください。
(1) 電流や磁石に関すること、熱に関すること
(2) 水溶液に関すること、物の燃焼など
(3) 植物や動物に関すること
(4) 地震・天体・天気関すること
などが挙げられます。(2)が化学で、(1)~(4)をまとめて科学と言います。

ただし「動物」という言葉がゾウリムシや人間を含む場合があったり含まない場合があったりするように
「科学」という言葉にも広い意味と狭い意味があります。
上に書いたのは「科学」の狭い意味です。「自然科学」とも言います。

「実験や観察によって理論を組み立てる」ような手法を科学的手法といいます。
科学的手法によって、人間や社会のことを理解しようというのが
人文科学(文学、語学など)や社会科学(経済学、歴史など)ですが、
自然科学・人文科学・社会科学をまとめて「科学」と言う時もあります。これが広い意味での「科学」です。

「教えて!goo」での「科学」は狭い意味での科学と言えると思います。

Qイエスのユダヤ教観とユダヤ教徒のイエス観は?

1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E5%8F%97%E5%AE%B9 
ここに
>>イエスは自身をユダヤ教徒であると認識しており、真正のユダヤ教徒として当時の保守化・教条化したユダヤ教を批判していたのであって新たな宗教を起こす意図はなかったとされている。<<
との記述があります。素人の直感とよく合いますが、「保守化・教条化したユダヤ教」を具体的に幾つか例示することができますか。

2
また、
>>神の子を自称したとされ、最高法院の裁判にかけられた後、ローマ帝国側に引き渡されて、反逆者として磔刑に処せられた<<
との記述もあります。
ユダヤ教徒の立場で見るとき、イエスの罪状は「神の子の自称」だけでしたか、他にもありましたか。

3
「最高法院」の構成員は分かっていますか。ユダヤ教徒に議決権があったのですか。

よろしくお願いします。

1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E5%8F%97%E5%AE%B9 
ここに
>>イエスは自身をユダヤ教徒であると認識しており、真正のユダヤ教徒として当時の保守化・教条化したユダヤ教を批判していたのであって新たな宗教を起こす意図はなかったとされている。<<
との記述があります。素人の直感とよく合いますが、「保守化・教条化したユダヤ教」を具体的に幾つか例示することができますか。

2
ま...続きを読む

Aベストアンサー

>>1
ユダヤ律法は、公正、忠実、憐れみ、神に対する愛といった原則の下に制定されていますが、当時の独善的なユダヤの宗教指導者(以下、宗教指導者)たちはそうした原則を忘れ、律法の内容を細分化し、膨大な数の規則で民を縛る事で、その価値を損なっていました。

例えば、宗教指導者たちは「清さ」に関わる律法を拡大解釈し、食事の前に手を肘まで洗う事を義務付けていました。それを守らない者は違反者であり、汚れた者だと主張したのです。
言うまでも無く、律法にはそのような項目はありません。
(マタイ15章1-2節;マルコ7章1-5節)

安息日とは、神への崇拝をささげるために取り分けられた日であり、安息日に仕事をする事を律法は非としています。
ある安息日に、イエスの弟子が歩きながら穀物の穂をむしって食べるのを見た宗教指導者は、その行為が収穫の業、つまり仕事に相当するとして、イエスと弟子たちを非難しました。
(ルカ6章1-2節;マタイ2章1-2節)

宗教指導者は立場の低い人々を蔑む一方で、そうした人々に救いと慰めを差し伸べるイエスを、目の上のたんこぶのように思っていました。それゆえ、彼らはあらゆる手段を講じてイエスを攻撃したのです。

>>2
厳密に言うならば、イエスの罪状は「神の子を自称する事で、神を冒涜した」というものです。旧約聖書の約束のメシアに関する預言の中には、イエスと合致するものが数多くありますが、宗教指導者たちは最後までそれを認めませんでした。
しかし、自分たちがイエスを殺せば、イエスを尊敬する大勢のユダヤ人の反感を買う事になると考え、「ローマ帝国の政治的理由による処刑」という形をとる事によって、自分たちの責任を逃れようと考えたのです。それゆえローマ帝国側には、
[1]ユダヤ国民を撹乱し
[2]ローマに税を払う事を禁じ
[3]自分は王キリストだと主張した
という濡れ衣を着せて告訴したのです。

>>3
ユダヤ教最高法廷は「サンヘドリン」と呼ばれています。サンヘドリンは71名の成員から構成されており、パリサイ派、サドカイ派という二つの派閥に分かれていました。成員すべての名前は聖書には記されていませんが、カヤファ、アンナス、後にはアナニアといった著名な人物の名前は記されています。
当時ユダヤ地方はローマ帝国の属州であり、本国から派遣された総督が監督の任に就いていました。サンヘドリンには、当時の総督であるポンテオ・ピラトの管理下の下で一定の自治権を認められていましたが、飽くまでローマ帝国の支配下における限定的なものでした。
ちなみに、イエスに直接死刑宣告を下したのはポンテオ・ピラトですが、彼自身はイエスを無実だと考えていたようです。しかし、宗教指導者に扇動された大勢の群集が、イエスを殺せといきり立っていたため、恐れのあまり、彼はイエスを死に処しました。

>>1
ユダヤ律法は、公正、忠実、憐れみ、神に対する愛といった原則の下に制定されていますが、当時の独善的なユダヤの宗教指導者(以下、宗教指導者)たちはそうした原則を忘れ、律法の内容を細分化し、膨大な数の規則で民を縛る事で、その価値を損なっていました。

例えば、宗教指導者たちは「清さ」に関わる律法を拡大解釈し、食事の前に手を肘まで洗う事を義務付けていました。それを守らない者は違反者であり、汚れた者だと主張したのです。
言うまでも無く、律法にはそのような項目はありません。
(マ...続きを読む


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