ソシュールの入門書などを読むと、以下のように言っているように思えます。

<< この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>>

もし、それが正しいとすると、「リンゴ」という言葉がないと、「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、それは、おかしいと思うのですが。もちろん、「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。

ソシュールはどういう意味で、上記のようなことを言ったのでしょうか?

 

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A 回答 (77件中31~40件)

今回 No.45そしてほかの補足説明されたものを読んで 推測の限りでは 簡単なことで議論が長引くことになったかも知れないということでした。



というのは たしかに心分けの位置づけにかかわっているのではないでしょうか。ソシュールないし丸山は この心分けを 独立させようとは思っていない。(字義どおりには 《何ひとつ分明なものはない》と言う)。批判する(疑問を抱く者の)側としては そこのところを はっきり位置づけるべきだと感じている。

この心分けは 丸山の説明によれば
  《シーニュによる分節以前の実質》=《星雲》・《マグマ》
であると言い つづけて
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
イェルムスレウL.Hjelmslevはのちにこれを《メニングmening》とよびました。この術語は英語でpurport フランス語ではsensと訳されますが サンスと言っても既成の《意味》ではなく 意味化以前の未分節にある意識 意味志向である・・・。
(《ソシュールを読む》p.40)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《意識 意味志向》というからには 《心》の問題であるはづです。

もっとも これが分明ではないものであり 少なくとも独立させたくはないということなのでしょう。

《ゲシュタルト》というとき では それがどれほど《分明》なのか 言いかえると 《未分節》というのはどの程度なのか これに帰着するでしょうか。

《動くもの そして柔らかく温かい感触をもつもの》というゲシュタルトは どうでしょう? この場合 《動く・柔らか・温か》は 身分け(ここでは 視覚と触覚)のあとの意識つまり心分けであるわけですが そのように言っているなら すでにじゅうぶん分節しています。では どうなのでしょう?

第二の恣意性についても 同じようなことが言えると思います。
シーニュは シーニュどうしの恣意的な関係――なんら自然のものに基づくことのない互いの差異の関係――によってのみ成り立つ。というのであれば 言分けのためには・つまり人が言語が使用できるようになるには あたかも天からそのシーニュ群が降って来て頭の中に入り込むことでもなければ 無理だという物言いが出て当然だ。・・・

おそらく ソシュールくんたちは そこに欠如していると見える過程つまり 心分けとしてのゲシュタルト生成の問題 これを 不問に付しているのではないでしょうか。

不問に付すということには 二つの側面があるようです。一つには 恣意性として成り立っているというからには その母親からのラングを だれもその主観の違いによって 別様に受け継ぐ気遣いはない。ゆえに 心の問題はかかわっていないと言っているらしい側面。

もう一つには いや確かに シーニュ学習の過程では 実際 そのシーニュないし具体的なパロル(ディスクールと言うべきでしょうか)を受け取るからには 心のはたらきを除外することは出来ない。しかも それ(心の領域を除外していないこと)は 暗黙の前提であるというらしい側面。

・・・・・・
わたしなら むしろ言分け自体を 大きく心分けとして規定し 大いに主観のはたらきを全面に押し出したいところです。身分けしたことがらを意識したもの これも 含むわけですから その心分けは けっきょく言語行為のすべてを包むかも知れません。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>今回 No.45そしてほかの補足説明されたものを読んで 推測の限りでは 簡単なことで議論が長引くことになったかも知れないということでした。

何だか、実りない議論のお付き合いをさせてしまったようで、大変心苦しいです。私の方は、先にご紹介いただいた「身分け」という発想が、私の疑問を解剖する上で、この上ない有効なツールになっており、大変感謝しております。何とか、一定の理解の目途が立つところまで行きたいと、最後のもがきをしているところです。

おっしゃるとおり、「心分け」の位置づけが重要と思います。また、《分明》とか《未分節》とかが具体的にはどういうことなのかがはっきりしないというのも同感するところです。虹の例などから考えると、”共同体内で社会的に同意された”切れ目が入っていないことを《未分節》と言い、また、個人的に勝手にやっている分節があったとしても、それは、共同体で共有されたものではないのだから「言語の対象ではない」ということで不問いに付されるているとも感じられます。おっしゃるとおり、<その母親からのラングを だれもその主観の違いによって 別様に受け継ぐ気遣いはない>のですから、言語的視点からは、問題外の領域ということなのかも知れません。

この当たりになると、どうやら、入門書ではとてもラチが開かないようなので、私も、少し源泉に戻って参照してみました。

(A)もし、さまざまな概念(愛する、見る、家)それ自体を、それを表す記号の表現から切り離して取り上げるならば、これは一連の心理上の対象です。心理学の分野では、これは複雑な単位だと言うことができるでしょう。しかし、言語学上の領域の一部をなすためには、概念は聴覚イメージの価値でなくてはなりません。(「ソシュール一般言語学講義:コンスタンタンのノート」P101)

(B)言語記号は、それゆえ、二面性を有する心的実在体であって、図示すれば[シニフィアン/シニフィエの結合図]、この二つの要素はかたくあい結ばれ、あい呼応する。(「ソシュール一般言語学講義(小林英夫訳)」P96)

(C)少なくともソスュール、イェルムスレウ、フレーにとっては、所記が記号の一部である以上、意味論は構造言語学の一部であるべきなのに対し、アメリカの機械主義者たちにとっては、所記は言語学から心理学の領分に追いやられるべき資料なのである。(「零度のエクリチュール」ロラン・バルトP132)

(D)概念が、言語の価値となる前に人の心の中で決まっているとすると、必然的に、ある言語と別の言語の項が正確に対応していなくてはならないことになります。(「ソシュール一般言語学講義:コンスタンタンのノート」P173)

(E)予定観念などというものはなく、言語が現れないうちは、なに一つ分明なものはない。(「ソシュール一般言語学講義(小林英夫訳)」P157)


(A)を読むと、ソシュールは、シーニュの一部としての概念(シニフィエ)ではない概念を完全否定しているわけではなく、ただ、言語学の領域から、心理学の領域に追い払っているように見えます。しかし、やや矛盾するように感じるのは、(B)においては、シーニュは「心理的実体」であると言っているわけですから、そうである以上、同じ心の中に、シニフィエである概念とそうでない概念が共存することになり、それらの相互作用を無視するわけにもいかないと思うのですが、そこは、理論的モデルとしては、切り捨てたということでしょうか。

(C)からは、アメリカの機械主義者たちは、シニフィエもそれ以外の概念も共に、心理学分野の対象として考えようとしている様子。すなわち、シニフィアンは、ソシュールの言うシニフィアンではなく、「もの」や「概念」を指し示す独立の「記号」ということになるのかも知れません。私は、どちらかというと、こちらの方が直観的に理解しやすいですが。

ところで、(D)の論法は未だに不可思議です。ソシュールは(D)の記述の後に、フランス語とドイツ語で似たような意味を持つ単語を提示し、それらの意味の守備範囲がぴたっと重なっていない例を挙げて、言語が決定する以前に客観的に分節される「概念」は存在しないことを論証しようとしています。しかし、もともと、フランス人とドイツ人の「心」が世界を同じように分節する必然性はないわけですから、この論理はどうも理解しかねるところです。

補足日時:2007/07/30 16:36
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この回答へのお礼

最後に(E)ですが、(A)で言っていたのとは異なり、再び、ソシュールの信ずるところに戻った感じです。

以上ですが、結局のところ、この種の問題は、言語学と心理学のハザマンに落ち込んで、詳細な検討が未だ進んでいないと言ったところでしょうか。

お礼日時:2007/07/30 23:12

 ソシュールのノートにkobareroさんが質問欄に述べられた通りの文章があったかどうか、良く覚えていませんが、ソシュール説の解釈として、良く見る解釈だと思いますし、概ね的を射た言い方であると思います。


 がしかし、それは、この言い方が誤解を生まないかぎりにおいてのものであると思います。というのも、ここに述べられる

>個々の「もの」は存在しない

というフレーズの「存在する」とか「存在しない」とかいった言葉は、非常に誤解を招きやすいからです。kobareroさんがソシュール説に疑問を持つのは、ご自身も、

>「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。

と述べられている通り、言語学者ソシュールの言明が、言語論的にではなく、存在論的に捉えられてしまっているからだと思います。ソシュールは飽くまで言語学者ですから、言語と言語活動とについて語っているのであり存在論を語っているわけではありません。
 それゆえ、結論から言うと、個々のリンゴはやはり厳然として存在します。言葉を知らない赤ん坊にリンゴを投げつければ、リンゴは赤ん坊にぶつかり赤ん坊は泣き出すでしょう。赤ん坊は、何がぶつかったのかを語ることもできませんし明晰判明な認識も持たないでしょうが、赤ん坊にリンゴがぶつかるということは赤ん坊にとってリンゴが存在することに変わりはありません。認識しているかいないかということと、存在しているかいないかということとは、そのテーマは基本的に別のものなのです(例えば、落とし穴に落ちる大人についても考えてみて下さい。大人は、「落とし穴」という言葉を知ってはいますが、穴にはまるまでは落とし穴を認識せずにいます。しかしその人にとって落とし穴は存在しないものでしょうか?)。
 しかし、哲学史上、この区別がかなり危険な仕方で接近していたので、多くの哲学入門者に誤解を与える傾向を持っています。カントが、「認識が対象に依存するのではなく、対象が認識に依存する」(『純粋理性批判』XVI、原文のままではありません)として、超越論的な認識論を提起して以来、あるいは、ライプニッツのモナドロジー以来、20世紀初頭の現象学の運動に至るまで、認識論は同時に存在論でもありました。しかしそれは「超越論的」認識を扱うかぎりのものであり、個々の「経験的」認識を扱ってはいません。言い換えると、普遍的に妥当する認識についての認識論は、普遍的に妥当する認識を扱うわけですから、それは、世界の在り方そのものを述べる存在論としての役割も担うことができますが、当たり外れのある個々の認識は、別に世界の在り方ではなくて、認識する側について述べているので、存在論としての役割を担うはずがないのです(この区別をわきまえずにカントやフッサール、ハイデガーを読むと大きなミスリードをします。またショーペンハウアーはこの区別を立てていなかったので、ショーペンハウアーやそれの現代版であるウィトゲンシュタインの『論考』などは、独我論を形成することとなっています)。
 ソシュール説に類似した言語学説に、サピア-ウォーフ説があります。これは、人間の思考が言語に強く拘束される、とするものです。思考が言語に拘束される、というのは、どういうことか。サピアは、「科学における言語学の地位」という論文において、「人間は現実の世界に生きているのではなく、言語の世界に生きている」(原文のままではありません)といったラディカルな言い方をしてしまっており、この説も色々と誤解を生みがちです。しかし、この説も決して世界の在り方や世界に存在する物の存在論を述べているものではありません。
 言語が人間の思考を強く拘束する、ということは何か。思考ということが問題となると、分野は言語学のみならず、心理学へと学際的に拡張してしまいます。そうすると心理学の基礎論から説明する必要が生じますが、それでは話が大きくなりすぎるので、僕個人が最近見た洋画を例にこのことを説明してみたいと思います。
 ある一人の女性が殺害されるという事件が起きるのですがその女性の最期の「言葉」が音声として残されます。その女性が「殺さないで、ベイビー…」と言い残しており、「ベイビー」と言うからには犯人は被害者と親しい間の者だったのだろうということで、警察は被害者と仲の良かった人間を捜査し始めます。しかし、一向に犯人は見つかりません。やがて被害者の女性の司法解剖が進むと、女性が妊娠していたことが分かります。女性は、犯人に呼びかけていたのではなく「殺さないで、赤ちゃん(baby)がお腹の中にいるの」と言いかけて殺されたということが分かるのです。もし、事件の当事者達が日本語を話す人々だったら、このような捜査の混乱はなかったのです。なぜなら、日本語においては、「赤ん坊」を意味するもの(signifiant)と親しい仲の人への呼びかけを意味するものとは別のものだからです。「ベイビー」という「言葉」が捜査官の推理を狂わせ間違ったところに何度も足を運ばせたということ、これこそ言語が人間の思考を強く拘束するということなのであり、それは、すなわち、人間の行動を大きく左右するということなのです。
 ソシュールのノートのどの部分についての説明なのか分かりませんので断定しかねるところですが、

>この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。

という説明は、以上のようなサピア-ウォーフ説に近いものをかなり大げさに表明したものだと言えます。しかし、ここには、ソシュール説のもう一つの重要な主張が含まれています。それは、いかなるラングも相互に優劣を持たないということです。
 先の洋画の例において、捜査官は英語のbabyというシーニュに強い影響を受け捜査ミスをしてしまいました。そのシーニュは英語というラングの中で独自の位置付けを持っています。それゆえ、この捜査ミスは英語というラングの体系から来るものであり日本語というラングの体系においては起こりえなかったはずなのです。とすると、親しいものへの呼びかけと赤ん坊との間の差異をしっかりと表現する日本語のラングの体系の方が英語のラングの体系よりも正確に世界を写し取っていると言えるのでしょうか。そうではありません。ソシュールに言わせれば、言語は世界をなるべく正確に再現しようする役割を要求されたものではなく、それぞれのラングにおいて自己完結した完全体であるのです。それゆえ、言語は、よそからの規準よって、例えば、人間の意識とか、物質の質や量から、その善し悪しを判断されるべきものではないのです。ですから、

>この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。

という説明は、ラングに優劣、善し悪しの評価を付けるために機能するような、言語の外の規準はない、ということを、かなり誤解を与える仕方で、大げさに言い表しているものなのです。
 これはよく、ラングは恣意的な体系である、といった言い方で説明されます。そして、これは言語学史上かなり衝撃的な主張なのです。というのも、言葉がものを言い表したり人間が相互に意思疎通したりできるためには、言葉が正しく使われねばならず、それゆえにまた、言葉の本当の在り方があるはずであり、それは何なのか、という疑問は、19世紀の言語学においては、大きな関心事だったからなのです(現代でもチョムスキーの「深層文法」の探求などはこれに属する研究であると言えましょう)。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

まず、存在論的という概念は、私には難しすぎるので、ソシュールが言っている「世界」との関係で考えると、ソシュールの言っている「世界」は、まずは、「心に映った世界」のことであって、「心の外に存在するかも知れない世界」のことではないと思います。存在論的厳密さには欠けるのと思いますが、ソシュールの話の場合は、取り合えず、このレベルでも、特に矛盾は生じないように思いました。

そして、例として挙げていただいた「ベイビー」の話ですが、西洋人にとって、と言うよりも、たまたま、そこにいた警察官にとっては、「ベイビー」は「赤ちゃん」のシニフィアンではなかったわけで、それが、現実の行動に悪影響を与える原因になったのだと思います。

この例を基準にして、ソシュールが挙げた例(あるいは、ソシュール解説者かも知れません)を考えてみると、以下のようになります。

(1)日本には、「犬」と「狸」という言葉があるが、フランスには、「犬」と「狸」と合わせて一つの単語しかない。従って、フランス人にとっては、「犬」と「狸」という2種類の動物がいるわけではなく、例えば「イヌタン」というような、ただ、一種類の動物しかいないと言う事になります。

(2)日本には、「肩がこる」という表現があるが、西洋には「肩がこる」という言葉がない。だから、西洋人は肩がこらないと言うことになります。

このような例を見て、それをどう解釈するかですが、先ず、第一に、確かに、フランスのように「犬」と「狸」という言葉がなければ、言語上は一つの概念しかないと言えますが、2種類の動物の違いをもう少しよく観察すれば、「犬」と「狸」を見分けることはできるだろうとは、言えるように思います。また、西洋人は肩はこらなくても、背中の上部の方が重く張ったような感じになることはあるだろうとも、言える様に思います。

しかし、もう一段ひねって考えると、例えば、我々が「スイカ」と呼ぶとき、実は「スイカ」の中にも様々な種類があって、○○スイカ、△△スイカ、□□スイカとか呼ぶべきものがあったとしても、日常生活的には、そのような差異を捨象して、ただ「スイカ」という一つの概念で済ませてしまうとも言えるわけです。すると、「スイカ」という言葉しかなければ、○○スイカ、△△スイカ、□□スイカは、この世界には、存在せず、さらに、「スイカ」と言う言葉もなければ、「スイカ」さえも存在しないと言えない事はなさそうです。しかし、ソシュールは、そんなことを言いたかったのか、そこが、どうもよくわかりません。

補足日時:2007/07/29 23:34
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シーニュ(単語)はシニフィアンとシニフィエで構成されるものであり「いずれかだけを対象とするなら、それはすでに言語を対象としていることにならない」


シニフィアンとシニフィエの繋がりによってしか存在不可であり片方だけを考えるなら実体は消え、残るは純粋な抽象のみ―『非言語的領域対象を分析するにしても言語の媒介なくして行えない』(バルト)
そして
『記号が存在するとき思想も存在する』

本御質問の対象であるソシュールは飽くまで言語学者ですよね?

生理的知覚或いは御質問者様が仰るところの「心に映った」ものや、こと、はたまた、どなたかの御紹介による「身分け」「心分け」と申すのでしょうか、いずれにせよ、それら「感じ取ったもの」をシニフィアンの助けなしに、どうやって表出できるんでしょうか。

言語の目的と役割を、どのように考えていらっしゃいますか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>シーニュ(単語)はシニフィアンとシニフィエで構成されるものであり「いずれかだけを対象とするなら、それはすでに言語を対象としていることにならない」

何故、ソシュールがそのように考えるに至ったかという質問です。

お礼日時:2007/07/29 14:43

No.42からです。



《デンシャ》と聞いて その指し示された対象をも知覚しようとして 女の子は 《 densha / 電車》というシーニュを 母親や一般の日本語使用者がそうしているのと同じように 言分けるに到る。――その過程で 五感以外の意識としても・つまり心で 《デンシャ》なる聴覚視像をも《電車》なる概念をも 捉えようとしたし 何らかのかたちで捉えたと思われます。

ただし このように想定される心分けは (1)まづ五感による身分けとは違います。(2)かつ 言分けの出来上がる以前の出来事です。(3)ところが 残念なことに その心分けのかたちは なかなか具体的には どうであるか 捉え難いとは思われます。

(4)すなわちちなみに 仮りに母親が その車内で 電車を指して 《シンカンセンですよ》だとか《これは ノゾミよ》とおしえたとすれば どのように心分けと言分けが行なわれるでしょうか。電車という言葉をまだ知らないときにです。

母親のうっかりさによって 《動く大きな固いもの》のことを シンカンセンなりノゾミなりとして 覚えたでしょうか。そのどこか途中の段階まで行ったかも分かりません。

一つの例ですが そう考えると 心分けは それだけとしては覚束ないところがあり いわば言分けに従属するようだと感じられるのですが。言いかえると シニフィアンとシニフィエとは 一般に確かに結合して それを一つのシーニュとして扱うかたちになるのではないかと思われます。

そして もっとも 逆に言って 言語の使用規則の中にきちんと覚えた場合には その言分けは むしろ大きく心で行なっている(もしくは確認している)というふうに考えられるのです。 言ってみると あたりまえのようですが。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>一つの例ですが そう考えると 心分けは それだけとしては覚束ないところがあり いわば言分けに従属するようだと感じられるのですが。

「心分け」が正確に何を意味するのかを、もう少し詰めておいた方が良いと感じましたので、私の考えを述べさせていただきます。その前に、「心分け」の大変良い具体例があります。それは、まさに、ご提示いただいた女の子の以下の例です。

   《動くもの そして柔らかく温かい感触をもつもの》と
   《動かないもの そして固く冷たい感触をもつもの》

女の子がこのように分節できたのは、「身分け」の働きでしょうか? もし、これも「身分け」とお考えでしたら、無秩序な無数の星の並びの中から神話のオリオンのイメージを、人類最初に浮かび上がらせた人は、何に基づいてその分節を行ったと思いますか? これも、「身分け」でしょうか?

以下は私の考えです。

(1)人の心は白紙ではない。
(2)人の心は地から図を浮かび上がらせる「ゲシュタルト生成能力」を生まれつき持っている。
(3)その結果、人の心には、あらかじめ、様々な分節がなされており、また、それは、日々、新しく分節され、改変されている。

以上の(1)、(2)、(3)は、”言葉の習得/未習得によらず”、常に存在し続ける人間の「心の働き」だと思います。ここで、「心分け」とは、上記(2)の「心のゲシュタルト生成能力」のことだと私は解釈しています。

このような認識に基づいて、以下(A)、(B)、(C)について、考えてみました。

(A)シーニュ「電車」を覚えるプロセス
  子どもには、何らかの「電車経験(見る、乗るなど)」が既にあり、その経験が子どもの心の中に「電車”様”ゲシュタルト」を事前に生み出している。これが、「心分け」です。しかし、もしかすると、この「電車”様”ゲシュタルト」は「バス”様ゲシュタルト”」と未分化な状態かも知れません。そこで、親から、これは「電車」ではなく「バス」よ。これは「バス」ではなく「電車」よ。と教わることで、最終的に「電車”様”ゲシュタルト」ではなく、「電車ゲシュタルト」が定着することになる。ということだと思います。以上、「ゲシュタルト」と言う言葉を使いましたが、これは、「概念」という言葉に置き換えても同じことだと思います。あるいは、「電車」ではなく、「リンゴ」の場合は、「リンゴ”様”ゲシュタルト」の段階を踏まずに、一気に、「リンゴ・ゲシュタルト」に到達する事は十分あり得ると思います。

ここで、強調いたいことは、以下の点です。

「身分け」と「言分け」だけで言語習得プロセスを考えると、「言分け」の分節が、あたかも、白紙に絵を描くがごとくに、子どもの心の中に”任意に”刻み込まれるかの印象を与えますが、実際は、そうではなく、「言分け」が描く分節(ゲシュタルト)を、子ども自身が自らのゲシュタルト生成能力(「心分け」)を使って生成させ”得る”ことが条件だということです。”得る”という点が重要です。すなわち、自らのゲシュタルト生成能力(「心分け」)を使って生成させ”得ない”ものは、その言葉を習得することは出来ないということです。


(B)「身分け」と「心分け」の違い
  「身分け」が正確に何を意味するかは、きちんと理解できていないかも知れませんが、少なくとも、以下のことが言えるのではないかと思います。

  「見分け」は本能を基盤とするものであり、それによって生成されるゲシュタルトは、”人類共通”であるということ。目の前にある個物を見分ける働きとか、上下左右前後の感覚とか、自己保存、種族保存に最低限必要なレベルのゲシュタルト生成能力など。

   一方、「心分け」は、所謂「本能」の基盤を持つものだけではなく、人間として生きる全てに関するゲシュタルト生成能力です。この能力の特徴は、”環境適応的”ということです。すなわち、アリやハチのように予めプログラムされたゲシュタルトを生成(アリやハチが意識としてゲシュタルトを持っているかどうかは知りませんが)するだけではなく、環境に応じて柔軟に変化するゲシュタルトを生成する能力です。その結果、異なった環境に生きる人間の「心分け」は、当然、異なって来るわけです。”人類共通”ではないというのが特徴です。このことが、各種言語間の分節のズレを生んでいるのだと思います。

<<以下、お礼に続きます>>

補足日時:2007/07/29 14:09
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この回答へのお礼

(C)第2の恣意性との関係
  ソシュールによると、シーニュは即自的存在ではなく、言語システム全体の中のシーニュとシーニュの関係によってのみ成り立つ存在だと言っているように思います。そして、これが、第2の恣意性ということになると思います。しかし、もし、この第2の恣意性が成り立つと考えると、子どもの心の中は白紙で、全く自由に、言語が分節できるのだということになるのですが、そんなことはないだろうと思うのです。

でも、実際、子どもは言語を習得しているではないかという疑問に対して答えるには、シーニュ自身の発生過程に戻って考えるしかないと思います。すなわち、シーニュは天から降って来たわけではなく、人間の心の中から生まれたということです。言い換えると、人間の心のゲシュタルト生成能力から生まれたものです。従って、恣意的に分節できるものではないと思うのですが。


以上、かなりごちゃごちゃしてしまいましたが、私の疑問点を改めて整理すると、以下の2点です。

1.言葉(シーニュ)は、「心分け」された概念(シニフィエ)に(シニフィアン)を付けたものではないか?
2.シーニュに関する第2の恣意性は、基本的には成り立たないのではないか?

以上、2点は、いずれも、ソシュールが「最も陥りやすい錯誤」として厳しく戒めているものだと思います。にも関わらず、私は、未だに理解できずにおります。ご教授お願いします。

お礼日時:2007/07/29 14:14

#1->#26->#32->#37->#43ですが



>ちょっと、文脈についていけてないのですが、

#43はなんだか失敗解答だったらしく申し訳ありません。
一生懸命書いたのですが、かなり難しい事柄で手に余ったようです。うまく説明し直せるようならいつか説明し直してみたいと思います。

>「ラング」を修正するために、「パロール」があるように思いました。

「ラング」を実体的にとらえておられるような感じで、ちょっと心配なのですが、質問の本筋ではないと思いますのでコメントは控えます。

別の形で再質問されていますので、#43はいったん忘れて、新しい質問について考えてみたいと思います。しかし難問ですね。あまり期待しないでください。
新しい質問はかなり複雑なので正しく理解しているかどうかすら怪しいのです。

>オリオン座というシーニュがあります。私は、このシーニュは神様が創ったのではなく、人間の誰かが作ったのだと信じています。何の意味も見出せない夜空の星のランダムな配列の中に、ある人がオリオンのベルトのゲシュタルトを見出した。そして、「おい、あの星の集団をオリオン座」と名づけようと言った。それが、きっかけで、世の中にオリオン座というシーニュが流通するようになった。と考えてもそんなにおかしくないと思うのですが、ここで質問です。この「オリオン座」というシーニュが誕生する前に、ある男が心に中に見出した「オリオンのベルトのゲシュタルト」は何でしょうか? 概念(概念A)ではないのでしょうか? もし、概念だとすると、それは、オリオン座というシーニュが出来た後のオリオン座のシニフィエ(概念B)とどこが違うのでしょうか? どう呼ぶかは別として、概念Aと概念Bは内容としては同じものではないのでしょうか?

以下シニフィアンの面に注目するとき「 」を、シニフィエの面に注目するとき””を使うことにしたいと思います。

概念Aと概念Bはわたしが整理すると次のようになります。
言語的映像というのは、聴覚言語・文字手話などの視覚言語・点字などの触覚言語を包含する用語と考えてください。ちょっと他の言い方を考えつきません。

図式1
「オリオン座」(言語的映像B)
  ->概念B:"オリオン座"
  =特定の星の集合(視覚映像)
「オリオンのベルト」(言語的映像A)
  ->概念A:"オリオンのベルト"
  =神話の猟師が着用しているベルト(視覚映像・想像上の)
  
図式1はおそらく質問者が考えている図式とは違っているでしょうね。

図式2
「オリオンのベルト」(言語的映像A)
  ->概念A:"オリオンのベルト"
  =神話の猟師が着用しているベルト(視覚映像・想像上の)
「オリオン座(のベルト部分)」=星の集団(視覚映像B)
  ->概念B:"オリオンのベルト"
  =神話の猟師が着用しているベルト(視覚映像・想像上の)

図式2のほうが近いですか?

「オリオン座」という呼び名が成立した後は、その「ベルト部分の星」は、
「オリオンのベルト」という言葉と同様に”オリオンのベルト”を意味する記号になったはずです。
おそらく概念Aと概念Bは同じものと言ってよいでしょう。
たぶん同一人の中ではほとんど同じもの。
他人同士ではどのような映像であるかはまったく異なっている可能性がありますが、
同じシニフィアンに対応しているシニフィエであり、
現実的な場面で混乱を引き起こさない限りにおいて同じ価値を持った概念と考えてよいと思います。

こんな整理でよいでしょうか?


では、次の話題に移ります。
括弧の使い方は通常に戻します。

>>すべてのシニフィエをあらかじめ子どもが持って生まれてくる、そういうことは、ちょっと想像できません。

>全く、おっしゃるとおりです。私の疑問は、では、どうやってシニフィエは生まれるのかということです。

>>シニフィエはあくまでシーニュの成立以後に「事後的に」認知されるものと考えた方がよいのではないでしょうか。

>上の疑問と同じですが。シーニュが成立するとき、同時に成立するはずのシニフィエは、どうやって生み出されるのかということです。外から神様によって与えられるのではなく、誰かの「心の中」から生み出されるのではないでしょうか?

シニフィアンと結合したときにシニフィエとなるものは、
それが高度に概念化されたものであれ、
もともとはなんらかの「感覚映像」なのではないでしょうか。
つまり、それは外界からの刺激に応じて脳内に生み出されたものです。

あいかわらず質問者が考える「心」というものがどういうものかよくわからないでいるのですが、
上記の意味で「心の中」で生じるものだという点は異論ありません。

前回(#43)に引き続きかみ合わない議論になっているとしたらすみません。
そして新しい論点も示すことができていないかもしれません。その点もおわびします。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

オリオン座については、私の例の中で、「オリオン座」と「オリオンのベルト」を意識的に使い分けたために、かえって混乱を与えてしまったように思います。初めて「オリオンのベルト」をゲシュタルトとして心の中に描いた人は、決して「ベルト」だけを見出したのではなく、通常言われている「オリオン座」の全体像を見出した場合を想定したのですが、もし、ここで、「オリオン座」という言葉を持ち出すと、既成のシーニュが持つシニフィエと混同する可能性があるので、敢えて、「オリオンのベルト」という表現を用いました。

従って、提示していただいた図式1、図式2は、結果的には同じことになるかと思います。いずれにしても、初めてオリオン座のイメージを心の中にゲシュタルトとして浮かび上がらせた人の(まだ、シーニュが生まれる前)のオリオン座の概念Aと、シーニュ「オリオン座」のシニフィエとしての概念Bは、同じ価値を持っているということで、同意していただけたのかと解釈しました。

もし、そういう解釈でOKだとすると、結局、振り出し(当初の質問)に戻ってしまうのですが、以下のソシュールの考えと矛盾してしまうのではないかと思うのです。ここが、未だに疑問点として残ってしまいます。

<< 言語は、「もの」や「概念」に付けられた名前ではない。>>

まず、「もの」については、それが、もし、「心の外にある客観物」と考えるのであれば(当初質問したときは、そんなものがあるとは想定していませんでしたが)、それは即自的に存在しないことは自明なことですから、納得できます。しかし、「概念」については、心の中に即自的に存在するわけですから、それに名前(正確にはシニフィアン)を付けたのが「シーニュ」だと考えては何故いけないのか、これが、私の疑問です。

>シニフィアンと結合したときにシニフィエとなるものは、それが高度に概念化されたものであれ、もともとはなんらかの「感覚映像」なのではないでしょうか。つまり、それは外界からの刺激に応じて脳内に生み出されたものです。あいかわらず質問者が考える「心」というものがどういうものかよくわからないでいるのですが、上記の意味で「心の中」で生じるものだという点は異論ありません。

この件についても、シニフィエの”元”になる概念は「心の中」に生じるということであれば、その概念にシニフィアンを与えたものがシーニュだということになると思うのですが、ソシュールは、上述のように、そうではないと言っているように思うのです。これが、私の疑問です。

また、「心」というものがどういうものかについては、この世界は、常に「心に映ったこの世界」でしかあり得ないという意味での「心」です。例えば、目の前のリンゴが持つ、”色”、”味”、”固さ”、”臭い”、”重さ”、どれを取っても、「心」なくして存在しえないものです。「心」がなければ、リンゴは空っぽの空間、それも、3次元空間ですらない”何か”、としか言い得ないものと思います。

補足日時:2007/07/29 10:04
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#1->#26->#32->#37です。



>何かぶしつけな感じで申し訳ありません

別に気になりませんでしたよ。どうぞ遠慮なく議論してください。
質問者はわたし以上に深く理解しようとする姿勢を持っておられるので、
逆にわたしのほうが勉強させてもらっている感じがしています。

さて、「シニフィアンなきシニフィエ」の件です。
以前に http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2281820 での
議論もあるようですが、今回は参照しません。
現時点で参照する必要があれば指摘してください。

>しかし、このプロセスが成り立つというそのことが、まさに、子どもが「リンゴ」や「ナシ」の概念(シニフィアンなきシニフィエ)を持っている証拠ではないでしょうか。

自覚していらっしゃるはずですが、
まず、「シニフィアンなきシニフィエ」は、形容矛盾です。
形容矛盾がだだちに「誤り」というというわけではないのですが、
トリッキーな表現を使いたくなる場合は「要注意」という気がします。
わたしなりに「シニフィアンなきシニフィエ」について検証してみたいと思います。

時間的順序がどうなるかよくわかりませんが、
論理的な手順からすれば、
事物についての「感覚映像」があり、それが「言語的映像」と結びついて「記号」が成立している。

これを時間的順序と考えると、「先だって」シニフィアンなきシニフィエが存在していて、それが「後から」シニフィアンと結びつくことになるわけでしょうが、そこにはある種の倒錯がふくまれているのではないかという気がします。

むしろ、このような考え方は、すでに成立している「記号」の論理的構造(「シーニュ=シニフィエ+シニフィアン」)を前提としているのです。
その上で、シニフィアンと結びつく「以前」の「予定」概念としてのシニフィエを「遡及的に発見」しているのではないでしょうか。しかし、実際には「結果的に」結びついているにすぎないのだとわたしは思います。

>何故なら、”赤くて丸い果物を指して「リンゴ」と教える”とき、指さした先に何か丸いものがゲシュタルトとして子どもの心の中に浮かび上がっていることが前提になっている。また、”子どもは「ナシ」を見て「リンゴ」と言ったりする”とき、子どもの心の中には、「リンゴ」に似た丸いものがゲシュタルトとして浮かび上がっていることを示している。

ゲシュタルトということばを使われたのは、「図」としてのなんらかの映像が、「地」としての映像と区別されて感得されているという意味でしょうか。そのことに異論はありませんが、ゲシュタルトという言葉を使われた意図はわたしにはよく理解できないようです。

>また、”「それはナシですよ。リンゴは赤いの。」と教える”とき、子どもの心の中に「色の差異」を感じ取る働きが既にあることを前提にしている。

これはもちろん当然のことと思います。
「心の中」というときの「心」がどのようなものかは別として、
子どもの感覚(この場合「視覚」)が色を識別することに異論はありません
(かなり多くの人間の視覚は色を識別できるようですから)。
多分、この「リンゴ」の例の場合、質問者が言っておられる「心」とは、ほとんど「感覚器官の機能」と同義なのではありませんか? とすれば「身分け」で説明できてしまいます。

それとは別に、もし、質問者が「子どもはどれが『赤』と呼ばれるべき色であるかを先験的に知っている」と主張されるなら反対します。
色彩については、「虹は何色か」という例がよく使われますが、
虹のスペクトルの中にはあらゆる波長の可視光線が含まれています。
それを何色でとらえるかは、言語によって異なります。
虹のスペクトルをいくつの色数で切り分けるかは、言語により後天的に学習されるのであり、
先にそれぞれの色の「概念」が子どもの心の中にあって、
それに後から予定調和的な「名前」がつけられるのではないのです。

次のように言うことは可能です。

こどもの視覚は光のさまざまな波長の差異を感じ取る働きを持っている。
こどもはどの範囲の波長がなんという色の名前に該当するかを社会的に学習する。

リンゴの話に戻ります。

>このように見ていくと、子どもの心に欠けているのは、「リンゴ」や「ナシ」の概念ではなく、何を「リンゴ」と呼び、何を「ナシ」と呼ぶかということ、すなわち、シニフィアンだと思います。

その通りです。シニフィアンは社会的に与えられます。

>>先験的に(という言葉は通じるでしょうか?)子どもの心の中に「リンゴ」の概念が存在するとは、私にはとても思えません。

>それは、おそらく、「リンゴ」の知識の話ではないでしょうか。 例えば、リンゴはリンゴの木から生るとか、リンゴは寒い地方で育つとか、赤いリンゴだけではなく、青いリンゴもあるのだとか、そういう関連知識のことを言っておられるように思います。確かに、それもリンゴの概念の一部と言うことはできると思いますが。

「知識」と「概念」との関係をどのように捉えておられるのかはっきりしませんが、
わたしはこの議論では特に区別すべきという感じは持っていません。
問題は、特定の社会で「リンゴ」と呼ばれるものはなんなのか、
その答えをこどもがあらかじめ持っているといえるかどうかにあります。

さて、今回の回答の中心部分です。

世界は無限のものです。そして、無限に変化し続けるものです。
その世界の反映としての言語も無限に変化し続けています。
そのような言語(この場合はシニフィアンとしての)に対応する
すべてのシニフィエをあらかじめ子どもが持って生まれてくる、
そういうことは、ちょっと想像できません。

シニフィエはあくまでシーニュの成立以後に「事後的に」認知されるものと考えた方がよいのではないでしょうか。
ある「感覚映像」がある社会において、そしてある言語体系(ラング)において
たまたま(恣意的に)あるシニフィアンに対応するシニフィエとなってシーニュを構成する。
そう考える方がはるかに自然だと思います。

言語学では、無限に変化し続ける言語の姿をとらえるために、
ある特定の時点の言語の体系(ラング=語彙+統語規則の総体)の存在を仮定します。
カメラのシャッターを切るように、ある地域と年代とを特定しなければ、
学問的に厳密な記述をすることができないのです。
しかし、そういう形で、ある「ラング」の存在が仮定されてしまうと、
あるシニフィエに対応する特定のシニフィアンがあらかじめ存在しているかのように見えてしまう。
そこからは、数多くの「誤った」シニフィエとシニフィアンの結びつきが排除され、
無視されているはずにもかかわらず……。
「心」はあらかじめ知っている、という言い方は、「心」の犯すそういう無数の誤りを無視するところから生じるものではないかとわたしには思えます。

さて、最後の部分に答える必要があるでしょうか?

>>「リンゴ」に限らず、われわれは言葉の意味する概念を経験によって更新し、発見しながら言葉を学び続けている途上にあるのではないでしょうか?

>おっしゃるとおりだと思います。まさに、概念は経験によって発展するのだと思います。しかし、経験とは何でしょう? 自己経験と他己経験に分けられると思いますが、自己経験は自分が「直接体験」するものであり、他己経験は他人が「直接体験」したものを言葉を通して学ぶのではないかと思います。いずれの場合も、概念に何か新しい知識を付け加えるのは誰かの「直接体験」です。この誰かの「直接体験」は、結局のところ、心が感じ取るゲシュタルトではないでしょうか? すなわち、「心が直接差異を感じ取る」ことが概念形成の出発点であるように思います。

言えることは、「心」の「差異」を感じ取る仕方が、ある「ラング」にとってつねに正しいと言えるかどうか、
それは極めて不確かだということでしょう。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>まず、「シニフィアンなきシニフィエ」は、形容矛盾です。

ターミノロジーの問題なので、ターミノロジーの問題が絡まないように、質問を変更してみます。

オリオン座というシーニュがあります。私は、このシーニュは神様が創ったのではなく、人間の誰かが作ったのだと信じています。何の意味も見出せない夜空の星のランダムな配列の中に、ある人がオリオンのベルトのゲシュタルトを見出した。そして、「おい、あの星の集団をオリオン座」と名づけようと言った。それが、きっかけで、世の中にオリオン座というシーニュが流通するようになった。と考えてもそんなにおかしくないと思うのですが、ここで質問です。この「オリオン座」というシーニュが誕生する前に、ある男が心に中に見出した「オリオンのベルトのゲシュタルト」は何でしょうか? 概念(概念A)ではないのでしょうか? もし、概念だとすると、それは、オリオン座というシーニュが出来た後のオリオン座のシニフィエ(概念B)とどこが違うのでしょうか? どう呼ぶかは別として、概念Aと概念Bは内容としては同じものではないのでしょうか?

>ゲシュタルトということばを使われたのは、「図」としてのなんらかの映像が、「地」としての映像と区別されて感得されているという意味でしょうか。そのことに異論はありませんが、ゲシュタルトという言葉を使われた意図はわたしにはよく理解できないようです。

ゲシュタルトによって、「身分け」が可能になるというのが、丸山圭三の考えだと思います。

>多分、この「リンゴ」の例の場合、質問者が言っておられる「心」とは、ほとんど「感覚器官の機能」と同義なのではありませんか? とすれば「身分け」で説明できてしまいます。

おっしゃるとおりですね。

>こどもの視覚は光のさまざまな波長の差異を感じ取る働きを持っている。こどもはどの範囲の波長がなんという色の名前に該当するかを社会的に学習する。

おっしゃるとおりですね。

>すべてのシニフィエをあらかじめ子どもが持って生まれてくる、そういうことは、ちょっと想像できません。

全く、おっしゃるとおりです。私の疑問は、では、どうやってシニフィエは生まれるのかということです。

>シニフィエはあくまでシーニュの成立以後に「事後的に」認知されるものと考えた方がよいのではないでしょうか。

上の疑問と同じですが。シーニュが成立するとき、同時に成立するはずのシニフィエは、どうやって生み出されるのかということです。外から神様によって与えられるのではなく、誰かの「心の中」から生み出されるのではないでしょうか?

>言えることは、「心」の「差異」を感じ取る仕方が、ある「ラング」にとってつねに正しいと言えるかどうか、それは極めて不確かだということでしょう。

ちょっと、文脈に着いていけてないのですが、「ラング」を修正するために、「パロール」があるように思いました。

補足日時:2007/07/28 20:41
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No.38&41です。



《デンシャ》と言って指し示されたモノを見たり触ったりして 女の子は その像を心に取り込み 心分けしつつ それまで培った自分の言分け構造の中に この《電車》なる言葉をやはりきちんと言分けしようとしているのだと思います。

論理空間に住んでいるということは 自然のモノ・コトをも 抽象的な概念・規則をも 心分けもしつつ 言分け構造をこしらえているという意味だと解釈しうるし それは それで 現実的でありうると考えました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>論理空間に住んでいるということは 自然のモノ・コトをも 抽象的な概念・規則をも 心分けもしつつ 言分け構造をこしらえているという意味だと解釈しうるし それは それで 現実的でありうると考えました。

そうであれば問題ないですね。ただ、一つ気になるのは、もし、そうであるなら、第2の恣意性であるシーニュ同士の恣意性は、決して恣意的とは言えないはずですね。実際、各国語間の翻訳が可能だということは、第2の恣意性がないことを実証していると思います。もちろん、微妙な恣意性はありますが、非常に奇妙に感じるのは、この微妙な恣意性を取り上げて、第2の恣意性の根拠にしている点です。圧倒的な非恣意性(翻訳ができるということ)の中の微小な例外を主要な側面であるかのように見せているように思えます。

お礼日時:2007/07/28 18:40

No.38の回答に 次の一点についての捉え方を補足しておくとよかったと気づきました。



No.31で述べられた内容 すなわち次の内容こそが 人間にとっての現実のことだと言うのが ソシュール説であると。
~~~~~~~~~~~~~~~~
A、B、C、Dを含む論理空間は、まさに、我々の頭の中(すなわち、主体)で考え出された「非在」の「非自然」ということになります。また、「実体である水(H2O)」の話が出てきますが、これも、引用にあるように、「言語の水」と同等の客体として扱っているわけですから、実は、初めから概念化された「水」のことであり、現実界とは切断された論理空間上の存在ということになります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
言分け革命が成り立ったあとは 人間にとっては 《現実界(この場合は 自然・身分け構造)とは切断された論理空間上の存在(非自然・言分け構造・文化状態)》こそが 《現実》となったのだと。あたかも蛹が蝶に変態したようにであって 部分的になどではなく 全部あたかも生まれ変わったかのごとく・・・と。

「ソシュールは、現実空間の話をしているのではなく、論理空間の話しをしているのではないか」というその《論理空間の話し》が 今やそのまま 《話をするヒト》なる生物にとっては 新たな全面現実なのであり もはやそれ以外に世界はないと言うのだと思います。

〔それは 部分現実として 事実だと思われます。ということは 身分け構造の自然と言分け構造の非自然=文化との両方で 現実であると単純には思います。両者が逆立ちしただけであって その倒立を直せばよいのだと。
身分け構造は 本能残基というように たとえすでに壊れているとしても その残基だけでも 自然の状態として十分に力を持ち有効ではないかと思います〕。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>言分け革命が成り立ったあとは 人間にとっては 《現実界(この場合は 自然・身分け構造)とは切断された論理空間上の存在(非自然・言分け構造・文化状態)》こそが 《現実》となったのだと。あたかも蛹が蝶に変態したようにであって 部分的になどではなく 全部あたかも生まれ変わったかのごとく・・・と。

人間が論理空間に住んでいるという考えは、どう考えても、現実からの干渉によって破綻するのは目に見えているので、ソシュールが本当にそう考えたのは思えないのです。というのは、社会制度などは、自然的根拠とは無関係に分節することは原理的には(現実的には不可能だと思いますが)可能ですが、自然的根拠のあるものについては、自然自身が持つ分節(と言っても、正確には、心に写った自然の分節ですが)に従わなければ、明日の飯にも有りつけなくなると思います。チェスの世界で勝てたから、現実世界で勝てるわけではないのと同じように思えます。

ソシュールは、何かもっと違う次元の話をしているのではないかと思います。

お礼日時:2007/07/27 23:10

 このような多くの価値を内包した議論は、言葉の定義や解説ももうすこし詳しく書いていただけるとありがたいところです。


‘たくさんの本を読まれている方のみが、この論議に価値を見出しているネット読者のすべてである’などということは無いはずですからね。

体験と言語の循環は 人間という生物の脳の中には誰にでも在ることですからね。 

シニフィエとは「視覚映像」とも書かれていますが、「感覚的映像」というふうにも書いている方がいます。 議論の中に出てくる文から類推すれば、視覚による感覚的映像 あるいは視覚による視覚という感覚器官で捕らえた映像ということになりますでしょか?
もしそうならば、視覚は感覚の一つですから、『シニフィエとは「視覚による映像」』というふうに訳した方がはるかに解りやすいのに、そこをわざわざ「視覚映像」というひとまとまりにくくった言葉にしているのには、何か特別な意味あいが他にあるのかとも思えてしまいますが、議論の中身から類推するとあまりそのようには思えないのですが?
もう一つの大切な議論の要となってきていると思われる対となって論議されている「シニフィアン」についても聴覚映像という書き方と、これはいきなり「言語的映像」という訳(やく) あるいは定義になっていますね。 

もし、これの「言語的映像」という訳(やく)の意味合いが、 
議論の中で‘シニフィエ(視覚映像の方)という脳内興奮状態(感覚という脳内作用すべてが脳内の興奮状態だと思えてしまう者ですので、なんでわざわざここでもまた説明を複雑にしてしまうのかが解らず困惑してしまいますが、正確な言葉の使い方のひとつではあるのでしょうからそのままの言葉を引用してみています。)のままではまだ言語というものは脳内に形成されず、そこに「シニファン(聴覚映像の方)」がからんで始めて脳内に言語という記号化作用が起こるという点はみなさんがすんなりそのとおりと理解されてるようなので、
がゆえに「(聴覚映像)」の方こそ、「言語的映像」の意味合いを含んでいる、あるいはそこで言語的映像(言語的映像イコール記号というふうに私の脳内には連結作用を起こしているとことなんですが)が始めて可能となるんだから、まさに「言語的映像」でもある 
ということならば、
ちょっとそこには 疑問が起こります。

サルから人間に進化した時に神の特別な介入(儀式、あるいは魂の吹き込みのようなもの)があったかどうかはともかく、そこにはたしかに「見つめる能力」という点、あるいは差異に気がつき、その差異を差異を比較し組み合わせたりして検討する能力に気がつく能力においてサルをはるかに越えた変異をとげたと私は思えてしまうのですが、 それでいくとサルと人間の赤ん坊の脳の差は、サルの脳がそのまま発達しないのに、人間の脳はものすごい勢いと表現できる姿でどんどん発達している発達過程でもある点だと思います。
 この能力から考えると、赤ん坊が「りんご」を「大人人間」(ひとつにくくって表現してみました。)のように理解する過程には、感覚器官(五感)の赤ん坊なりの体験の累積があり、比較と組み合わせの作用が脳内にはそんなチッチャなチッチャな(笑)体験からであってもものすごいスピードで起こっていてそこで記号化(記号化って概念化とは違う意味合いとなるんですか?「りんご」という言葉が解ったということは、それが概念化されたのだというふうには概念という言葉は使われていないのですか? 「深い概念」とかいう使い方の場合の論議はここでは抜きにすればですが、どうなのでしょう。そこも疑問です。)が起こるというふうに単純に考えてはどこかおかしく(矛盾とかがでてきたりするように)なるのでしょうか?

((私には、概念化(記号化)の前に記号化が起こっているかどうか??というような議論がここに起こってしまっているようにも思えるところなんですが、私の脳は単純過ぎるんでしょうか? それはそれとして))
ここに疑問が起こるのですが、
 そうそうその前にシニフィアン(聴覚映像)は、赤ん坊の場合確かに文字という映像でもある記号以前に脳内の聴覚にて大人の発する「りんご」とかの音声言語からそれをシニフィアンと結びつけて理解が始まるのですから、たしかにその意味でも「シニフィアンとは『言語的映像(言語的脳内写像)』ですよね。 そのようにも受け取ってはいますが、
 では、ヘレンケラーの場合は特殊なのでしょうかというふうな疑問なのです。

 ((質問者様は、シニフィエ(視覚映像の方)でも、記号化は脳内で行われるということが言いたくて、記号化つまり概念化がシニフィエを通しての「もの」の記号化に先立って存在するか否かという意味合いでそのような質問をつけ加えられてはいないでしょうか? それはそれとして))
ヘレンケラーの場合、明らかにシニフィアン(聴覚映像の方)抜きにも概念化つまり言語の獲得は可能だったという証拠です。 ヘレンケラーは明らかに「聴覚映像」を通さずして「りんご」を「りんご」と理解したわでです。

そのあたりを質問者様は、どのように考えられていますか?

ソシュールについても新たな疑問がでてきましたが、それは別の機会があればという形にします。 私の中にも神の存在を理論的にも証明できるならば、そしてその神の概念がただしい理解のもとにあるというのならば、これは人間にとって大きな力になるだろうなという思いがあります。 今は「神の存在」を自然なこととして思えるような感覚が自分の中にはあります。そうであるほどに、神とは、あるいは神というメッセージとはという哲学と、神の知的存在証明には深い興味を抱かざるとえないんです。

 そんな大事な点を照明しようとしているのだから、ごまかしみたいな理論ではだめなはずで、 そのあたりのソシュールの論調が こうして気になってしまうわけなんです。

 すみません 急ぎますんで、これで一応は今回の回答はまとまってるとおもいますので、これで終わります。

 思い違いだらけで構成されてしまってる文なのかもしれませんが、精一杯の思索の努力は 間違いを含んでいてもここでは大きな度量で
先へのこ対話の歩へと 皆様がつなげてくれると信頼でき  あまえでもあるでしょうが、 書いてみました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>シニフィエとは「視覚映像」とも書かれていますが、「感覚的映像」というふうにも書いている方がいます。

<シニフィエ>、<シニフィアン>は、ソシュールが、それぞれ、<概念>、<聴覚映像>と考えたわけですから、いや、ソシュールはそんなことを考えたはずはないといってもしょうがないと思います。

>もし、これの「言語的映像」という訳(やく)の意味合いが、 

「言語的映像」という言葉は私はよく知りません。済みません。

>それでいくとサルと人間の赤ん坊の脳の差は、サルの脳がそのまま発達しないのに、人間の脳はものすごい勢いと表現できる姿でどんどん発達している発達過程でもある点だと思います。

おっしゃるとおりだと思います。

>「深い概念」とかいう使い方の場合の論議はここでは抜きにすればですが、どうなのでしょう。そこも疑問です。)が起こるというふうに単純に考えてはどこかおかしく(矛盾とかがでてきたりするように)なるのでしょうか?

この辺から後の議論は、私には理解するのがなかなか難しいので、ゆっくり考えさせていただきたいと思います。

お礼日時:2007/07/27 22:49

こんばんは、kobareroさん。





ANo.3の暦ちゃんの補足を置いておきます。

http://www.d-tsuji.com/closet/note/000107.htm





すごいなと思いながら続づくやり取りを読んでます。ふと、思ったのですが20の扉か?と、思えるような場面次から次へと扉が開いていくように他の回答者の方々とのやり取りの中でまだ聞いたこともないようなお話がたぁーんとでてきて読んでてわくわくしちゃう。この次の展開はどうなる?と、あーでもない、こーでもないと推理働かせてます。連日にわたるお礼文の書き込みも日に日に熱帯びてますね。熱いです。



なんの気休めにもならないかもしれませんが、
http://quiz-tairiku.com/
気分転換にひと息いかが?
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Q言葉と意味はどちらが先にできるのですか?

時と場合によるのでしょうか?それとも同時ですか?

Aベストアンサー

こんにちは。

これは難しい質問ですね。

概念は実在するという概念実在論やイデア論的な考え方に立てば、
概念や意味が言葉に先行する、
となります。
そして、
言葉は概念や意味などを音声や文字などによって表わしたもの、指し示すもの、となるのでしょう。
非常の素朴な考え方ですけれど、説得力があります。

人が何か新しい言葉を作るとき、その言葉で指し示されるもの、そのものの性質、意味などは、すでに心や頭の中にあります。そして、新しい言葉が生まれます。
何かを他人(ひと)に伝えたい、しかし、それを表現する言葉が生まれない、ということも、よく経験するところです。

ところで、「猫」という漢字があります。この漢字・言葉の持つおおよその意味は決まっています。そこにわたしが誰も考えたことのない新しい、これまで存在したことのない意味を加えたとします。この時、「猫」という言葉・漢字、記号にこの新しい意味は先行していたと言えるのか?
概念実在論やイデア論的な立場に立てば、
その新しい意味は最初からあったのだ、その意味を発見しただけにすぎない、となるのでしょう。
ただ、これは大いに疑わしいですよね。
他の人がその新しい意味を認めるかどうかとは関係なく、
わたしは、「猫」という漢字にあたらしい意味を創造し、そして、意味を付加したのかもしれません。そして、この場合には「猫」という漢字・言葉が先行しています。この時、言葉の方が意味に先行していると言えるのではないでしょうか。

また、言葉にすることによって、それまで漠然としていた心の中のイメージがはじめて明確なものになるという機能・役割も言葉は持っています。そして、その言葉によって、言葉にすることによって、意味がハッキリと定まる。哲学的に言うと、外延や内包が定まる。こうした機能を、言葉は持っているようにも思います。言葉がその意味をかたどる、そうした機能を同時に、言葉は、単に意味を指し示す、表わすだけではなく、持っているのではないでしょうか。

ところで、
わたしがこの世に存在しないもの、「猫ミミズ」なる新しい単語を作ったとします。「猫ミミズ」なんて生き物をわたしは知りませんし、このような生き物がいるとは考えられません。心の中に浮かんだ「猫」と「ミミズ」という言葉を組み合わせただけなので、この「猫ミミズ」がどんな姿をしているのか、その具体的な姿もありません。しかし、わたしが「猫ミミズ」という言葉を作り、ここで書いた以上、「猫ミミズ」という言葉は存在しています。この時、「猫ミミズ」という意味や概念が、「猫ミミズ」という言葉に先行していたのか、これはかなり疑わしいですよ。

こんにちは。

これは難しい質問ですね。

概念は実在するという概念実在論やイデア論的な考え方に立てば、
概念や意味が言葉に先行する、
となります。
そして、
言葉は概念や意味などを音声や文字などによって表わしたもの、指し示すもの、となるのでしょう。
非常の素朴な考え方ですけれど、説得力があります。

人が何か新しい言葉を作るとき、その言葉で指し示されるもの、そのものの性質、意味などは、すでに心や頭の中にあります。そして、新しい言葉が生まれます。
何かを他人(ひと)に伝えたい、しかし...続きを読む

Q「言葉は物の名前である」は何故間違いか?

「言葉は物の名前である」は何故間違いなのでしょうか?

現実世界における物は、言語以前の段階で、既に(非言語の)意識によって区別されていると思います。その区別され切り取られた意識対象に対して、名前を付けたのが言葉ではないかと思います。従って、「言葉は物の名前である」は、正しいのではないかと私には思えます。しいて厳密に言えば、「言葉は、現実世界から、非言語の意識によって切り取られたイメージ(もの)に対して付けられた名前である」ということになると思います。

ところが、ソシュールの解説書などを読むと、それは、間違いだと書かれています。言語記号(シーニュ)は、現実世界に基づく区切りではなく、シーニュ同士の相互関係によって恣意的決まると言っているように思えます。

そんなことが本当にあるのでしょうか?
何故、「言葉は物の名前である」は間違いなのでしょうか?

Aベストアンサー

う~ん、難しいですね。

確かに、前回の回答は不出来ですね、最初の回答で、問題点は一点と指摘しながら、三点に広げ、結果、説明不足と、音と文字の混乱まで呈しています。
前回、私はソシュールの弁護人では無い、と書きましたが、決して否定しているわけではなく、了解できる部分と、どうなのだろうか、と疑問を持つ部分とがある、と言うことです。それと、ソシュールの解説書の類は、フランス語やラテン語といった言葉で、具体例の説明をしますから、実は私もチンプンカンプンのよく解らない部分が多いのです。

今回は、「記号は、聴覚像と概念を結びつける」「言葉は物の名ではない」この二つの言明から私の解釈に基づいて、再検討いたします。以下は私見で、正否は、ご質問者様がご判断ください。

一点、テレビに関する事だけです。
A「明日テレビを買いに行く」B「昨日はテレビを見ましたか」
Aのテレビは物の名と言ってよい表現ですが、Bのテレビは、電源の入っていない、黒い画面の四角い箱を見たのか、と聞いている訳ではなく、ニュース・野球と言った番組を見たかどうかを聞いています。つまり、テレビは四角い箱型・薄型四角形と言った形状ではなく、その意味と言いますか、使い方、楽しみ方の内容をテレビと言う記号で結びつけていると言う事です。前回の回答で、テレビをアルカイックな社会に紹介する件を例に取りましたが、テレビを持っていくだけでは説明不足でした、可能かどうかは解りませんが、ともかく、そのアルカイックな社会で、通用する内容のテレビ番組を放送しなければなりません、四角い箱がテレビと呼ばれる事を伝えても、それが何であるのか、その四角い箱の意味は、テレビを楽しむ経験によって、これがテレビと言うものかと、理解するのではないでしょうか。

そのような経験なしで、いきなりテレビを見せれば、原住民は逃げ出すか、槍を取って構えるのが関の山、彼らにとって、この四角い箱が、楽しんだり、情報を得たりするための便利な道具だと言う、意味や概念を把握して、テレビ(勿論、此処でテレビと名付けずに、持って来た人の名前を付けても自由です)と言う言葉を理解する事が出来ると思います。
無論、この様な事が、個人的ではなく、一つの言語領域での意味や共通認識又は習慣として波及していく必要があります。

つまり、テレビと言う音が、テレビの持っている意味内容に結びついている、そして、テレビと言う音は、偶然の産物で「レビテ」と最初に決めれば、それで言葉は通用することになる。この様な考え方を進めてみると、「言葉の前に概念がある」と言う言い方も、出来るのかもしれません、有効なものは模倣されますが、この点に関して、私にはよく解りません。

以前、ラジオで、中国ではテレビと言えば天気予報と言う反応が高いと聞いた事が有ります、想像ですがテレビで共産党の宣伝ばかりで、役に立つのが天気予報だとすると、テレビと言う言葉の意味は、天気予報を見る道具と言うことになるのでしょうか。
テポドンの件も、某国での意味と日本語の中で語られる意味は違うのではないでしょうか、日本で「テポドン」と発話されれば、日本と非友好的な某国が、日本に向けて発射される危険性の高い、ミサイルで、アメリカのミサイルとは違う。マズ有り得ませんが、アメリカのミサイルを何処かの組織が闇ルートで、某国へ売り渡した場合、そのミサイルに何と言う名を付けるでしょうか?。

川と河の件は、音と表意文字を混同しています、この件は撤回いたします、失礼しました。

最後にソシュールの弁護を。
『ある人々にとっては、言語(ラング)は、その本質的原理をつきつめれば、ひとつの名称目録にほかならない。いいかえれば、同数の事物に対応する用語のリストである。たとえば

樹の図柄/ARBOR  馬の図柄/EQUOS 等々

この考え方には、多くの点で批判の余地がある。それは、語よりも前に存在するすでに出来上がった観念を想定している。・・・それは、名称を事物に結びつける絆がじつに単純な操作であるかのように思わせるが、それは真相とははなはだしく遠いものである。それにもかかわらず、この速断的な見方も、われわれを真理へ一歩近づけることはできる。』
一般言語学講義『ソシュール言語学入門』フランソワーズ・ガデより孫引き
それ程、決め付けてはいないようなのですが。

ついでに、日本語の例をとって解説した本が見つかりました、自分で読んでいない本をお奨めするのは如何なものかとも思いますし、私の解釈と全く違うかもしれませんが、一つ参考までに。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4327376914/503-1065858-7896719?v=glance&n=465392&tagActionCode=charmatwebryi-22

補足
アフリカ社会の文化に関する研究報書の中に
ヨーロッパ文化に接触していない人々は、絵画を鑑賞する習慣がない、或いは、一部の文化では、花を美しいと感じたりする習慣がない、と言った記述を、複数の本の中で、読んだ事があります。

う~ん、難しいですね。

確かに、前回の回答は不出来ですね、最初の回答で、問題点は一点と指摘しながら、三点に広げ、結果、説明不足と、音と文字の混乱まで呈しています。
前回、私はソシュールの弁護人では無い、と書きましたが、決して否定しているわけではなく、了解できる部分と、どうなのだろうか、と疑問を持つ部分とがある、と言うことです。それと、ソシュールの解説書の類は、フランス語やラテン語といった言葉で、具体例の説明をしますから、実は私もチンプンカンプンのよく解らない部分が多いの...続きを読む

Q唯名論

唯名論というのはどういうものなのでしょうか。かみ砕いて教えていただければと思います。

Aベストアンサー

 普遍論争で「実在論」と対立した「唯名論」ですね。「噛み砕いて」とのことですが、そのためには「実在論」と対比して示したほうがわかりやすくなると思いますので、そうさせていただきます。

 まず「普遍論争」というのは11世紀後半から14世紀にかけて続いた中世スコラ哲学最大の論争です。一方は「実在論 realism」陣営、一言で言えば「普遍は個物に内在する」と考える立場。他方は「唯名論 nominalism」陣営で、これも一言で言えば「普遍は名辞・呼び名にすぎない」と考える立場です。(なお、realismの訳語としては従来「実念論」というのが一般的でしたが、誤解を招く部分があるので最近は「実在論」と訳されます。)

 では実在論から。
 「普遍は個物に内在する」とはどういうことか。「人間」を例にとります。現実に存在する人間には、もちろんそれぞれの個性があります。容貌もちがいます。そういう個別にちがう部分をどんどん削り取っていけば「人間」の共通部分が残るのではないか、「人間」というものの普遍的な形が得られるのではないか、というのが実在論の発想です。さらに、こうして得られた普遍的な形が実在しているのだと、この立場は主張するのです。
 と言っても、その「普遍的な形」が単一のモノとしてどこかに存在しているわけではありません。複数の人間それぞれの中に、その数だけ置かれており、しかし一切のちがいは除去されていますから、まったく同一のもの、区別できないものとして存在している、というわけです。

 対するに唯名論。
 「普遍は名辞にすぎない」。言い換えれば、「普遍」はモノとして事物に内在しているのではなく、外から付けられた呼び名でしかないということです。三角形は3本の直線から成りますが、実際にはいくらでも多様な形が作れます。「それらに共通する普遍的な三角形」と言われても、困りますでしょう? どんな三角形でも、三角形なら、立派に三角形なんですから。となれば、「三角形の普遍」とは「3本の直線から成る図形」すべてを一括して呼称する「三角形」という呼び名なのだ、と言った方がよい。
 「昆虫」でもいってみましょうか。「人間」ならば、いくらか「普遍的な形」がイメージしやすいのですが、昆虫となるとたいへんです。トンボとちょうちょ…とか…共通する「形」が実在するものとして考えられるか…うーん…ちょっとムリそうでしょ? 昆虫の場合、言えるのは「頭・胸・腹の身体と6本の足を有する節足動物」ということであって、この定義によって共通する性格をもったものを「昆虫」と呼んでいるだけです。
 という感じに、「普遍は唯の名前だ」と考えるのが「唯名論」です。

 ちなみに、実在論と唯名論を統合する第三の立場として「概念論」という立場もあるのですが、誰をこの立場に立った人と分類するかという点に問題があり(分類しきれないのです)、そうなるとこの「概念論」なる立場の内実も非常に規定しにくくなりますので、これに関してはプロの研究者でも言及には慎重になります。つーわけで、私ごときにはこれの解説はできません。

 …と、書きに来たらAliasさんの回答が…。
 えっと…実はその…Aliasさんが紹介されている「観念(イデア)として実在」という部分がですね、「実念論」という訳語がもたらす誤解なのです。実在論はプラトン哲学との直接の関係はありません。実在論の主張は、あくまでも「モノとして実在する」ということだったのです。

 普遍論争で「実在論」と対立した「唯名論」ですね。「噛み砕いて」とのことですが、そのためには「実在論」と対比して示したほうがわかりやすくなると思いますので、そうさせていただきます。

 まず「普遍論争」というのは11世紀後半から14世紀にかけて続いた中世スコラ哲学最大の論争です。一方は「実在論 realism」陣営、一言で言えば「普遍は個物に内在する」と考える立場。他方は「唯名論 nominalism」陣営で、これも一言で言えば「普遍は名辞・呼び名にすぎない」と考える立場です。(なお、realismの...続きを読む

Q恣意性について教えてください★

学校でレポートが出たのですが
いまいちよくわかりません

どなたか、わかりやすく
ソシュールやメルロ・ポンティの言う
恣意性について教えてください!!

Aベストアンサー

 言語は通常<意味>をもって流通しているとみなされています。私が<赤>と発語することによって、聞いている相手は「あざやかであれ、にぶくあれ、赤い色を想定」します。ですから、言語にはもともと<意味>が付与されているから、私たちは混乱なく言語を使用している、と思っています。言語とは、おおまかな意味をしか伝えていませんね。
 しかし、「このつらい気持ちをわかって欲しい」という<意味>を伝えようとすると、私たちは10人の人に、その意味を語ってもらえば、何がなんだかわからなくなってしまうのではないでしょうか。どんな風につらいのか、喘息のような息苦しさなのか、ボーッとした不安が続いてつらいのか、次に、気持ちとは何なのか、こころなのか、意識なのか、心臓のあたりなのか、大脳新新皮質のあたりなのか。
 つまり、私たちは、言語は意味されることがしっかり定着しているから言語を使っている、と考えていますが、<意味>することを語るために使用している風に見えながら、その<意味>自体もあいまいで、<意味>されることまでは当然考えて使用していない、ということなのです。

 これらを象徴する例として、私は「鳥の鳴き声」をあげたい、と思います。鳥は何故鳴くのでしょうか?

 それは、恣意なのです。つまり、意味もなくただ鳴きたいから鳴いているのです。自由勝手気ままに、意味もなく、聞かれることも予想せず、ただ鳴いているのです。これが言語は恣意である、という意味なのではないでしょうか。

 私たちは、言語といえば<意味>の上に成り立っている、と考えがちですが、アとカが重なって<アカ>と言い、これで<赤>という意味が成り立っているわけではないのです。たまたま、アオと発語されていないからアカ、と差別化出来るだけのことで、言語は、こうした音の差違に基づいた分別作用でしかないのです。この分別作用が<意味の根拠>になっていくわけですが、これすらも、鳥の鳴き声と同じで、その根幹では、<意味>なく、自分にとって発語することが楽しいから、遊んで鳴いているだけなのかも知れません。ただ、それが、チュンチュンとキーキーで<意味>が違っているな、と想像するだけのことです。

 こうしたことを、言語の恣意性、と言うのではないか、と記憶します。

 言語は通常<意味>をもって流通しているとみなされています。私が<赤>と発語することによって、聞いている相手は「あざやかであれ、にぶくあれ、赤い色を想定」します。ですから、言語にはもともと<意味>が付与されているから、私たちは混乱なく言語を使用している、と思っています。言語とは、おおまかな意味をしか伝えていませんね。
 しかし、「このつらい気持ちをわかって欲しい」という<意味>を伝えようとすると、私たちは10人の人に、その意味を語ってもらえば、何がなんだかわからなくなって...続きを読む

Qソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

 ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
 すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。

 (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ

  すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。
  《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。
  《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。
  そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。


  ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。

  / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。


 (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。

  nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)
  naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)
  naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く) 
  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)


 さらに語例を伸ばします。
 (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。

  nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)
  nago-mu   和む     (障害が消滅していく)
  nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)
  negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)
  nega-u   願う      (障害の消滅を希求)

   *

 どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。
 
 ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。

 オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。

 郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。
 
 日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。

 あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。

 つまり

  nagi 和ぎ
  nago-ya-ka 和やか   
  nago-mu   和む

 これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。
 (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。






 例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。

 あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。

 そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。


 さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。


 * おぎなうべき議論の一端として:

   音素・・・・=・・・・意義素
   _______________
  / n /  = 同定相・否定相
  / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相

 といった仮説を前提としています。
 いま

  / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)

 といった複合によって

  / nVgV /なる音韻(シニフィアン)
    =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)

 といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。



 ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。

 つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。



 

 * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。
 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

 ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
 すなわり この / nVgV...続きを読む

Aベストアンサー

「お礼」への書き込みをありがとうございます。

> ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。
⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈です。もしそうでしたら、部分的ですが納得できます。

> 第一の恣意性は 記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見い出されるものである。つまりシーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間にはいささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって具体的にはchien なる概念が/(シアンという発音記号)/という音のイメージで表現されねばならないという自然な内在的絆は存在しないということである。
⇒フランス語圏では[ʃj~?]という音を聞きいて脳内にその聴覚映像を結んだら人は「犬」を了解するが、それは[ʃj~?]という音と「犬」とが直結しているからではありませんよね。それは単に、フランス語での語義に関する社会的慣習に過ぎません。その証拠に、例えばアメリカでは人の名前だと思うかも知れないし、日本では赤塚不二夫の漫画に出てくるズッコケ表現だと思うかも知れません!
 ということで、[ʃj~?]というシニフィアンと、「犬」というシニフィエとの対応関係は、一重に、フランス語における「恣意的な約束」である…と、こういうことになりますよね。

> これに対して第二の恣意性は 一言語体系内の記号(シーニュ)同士の横の関係(←→)に見い出されるもので 個々の辞項のもつ価値がその体系内に共存する他の辞項との対立関係からのみ決定されるという恣意性のことである。
> 具体的に言えば 英語の mutton の価値がフランス語の mouton の価値とは異なる その異なり方の問題で その言語の形相次第で現実の連続体がいかに非連続化されていくかという その区切り方自体に見られる恣意性にほかならない。
⇒意味価値の相関関係は常に蠢いていますね。これは任意のどの言語でも当てはまります。もし、変動も何もなく安定しているような言語があるとすれば、それはすでに話し手のいなくなった「死語」でしかあり得ません。このような意味価値の相関関係の変動ぶりは、その言語における2つの異なった時期の共時態を比べてみれば一目瞭然です。そして、その間の通時態を時系列に沿って追ってみれば、その経過のほども分かります。
 ところで、その意味価値内の相関関係の変動は、何によって引き起こされるでしょうか。一方には「言語構造のひずみ」という誘因があり、他方には「そのひずみを何らかの方法で是正したい」という使用者側の動因があります。そして、その運動の遂行を決定づけるのは後者すなわち人間の側(の動因)であり、まさにそこに件の恣意性が関わってくる…と、こういう仕儀ですよね。

> ☆ 《結果的産物》としての第一の恣意性が成り立っていないということが明らかになれば どうなるでしょうか? つまりここでの反論は《第一の恣意性》が事実ではないと示して反駁するものです。これだけで反証は成し得たと考えています。
⇒さあ、それだけで反証を成し得たとするには無理があると思いますよ。前にも言及したとおり、どの言語内にもシニフィアンとシニフィエとの間に何らかの有縁性があることはソシュール自身も認めています:「(発話の際)能記の選択は必ずしも常に恣意的ということでなく、時に有縁的である」、「特に、擬音語と間投詞においてそのことが言える」、と。ただし、それに続いて「擬音語と間投詞は決して言語体系の組織的要素ではない」し、「我々の説を脅かすものではない」とも断言しています。つまり、「第一の恣意性」と矛盾する現象は僅かにあるけれども、それは「言語構造論にとっては周辺的なこと」であるとして、深入りしなかっただけなのです。ということは、有縁性の例をいくら集めてみせても、それだけで「言語記号の恣意性」を否定することはできないでしょう。

> ☆ 趣旨説明欄において ちらっと丸山に触れているだけですが 実際問題としては 丸山理論に対する批判である。こうはっきり申し述べておくべきだったことでもあります。丸山理論が 孫ではなく 本人だという意味です。
⇒「丸山理論が孫ではなく、本人だ」というのはある種詭弁のようにも聞こえますが、まあそれはそれとして、それならなお、「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」というタイトルとの間に少なからぬ齟齬があると思いますよ。
 なお、時々僭越にも辛辣なことを申しますが、決してbragelonne様を非難するためではありません。むしろ逆に、bragelonne様の学究心にはいつもながら敬服申しあげています。これは一重に、共同して真理への肉迫をしたいとの願望からに他なりません。どうかこの件、ご了解賜わりますように。

> ☆ すなわち この反証によって 《第一の恣意性》は 中身が事実に反すると明らかになったと考えています。
⇒いやいや、「音素(子音)がそのままで意義素をおびており、そのことが語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している」場合があることを示したところで、「第一の恣意性は、中身が事実に反すると明らかになった」などとは言えないと思いますよ。
 例えば、フランス語圏以外の地域で、[ʃj~?]と同じ聴覚映像か、少なくともそれとの有縁性を持つ聴覚映像で「犬」を想起せしめる状況(人間に共通する普遍性)がなければ、この語に関するシニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性を示したことにはならないでしょう。例えば、『鶏の泣き声のシニフィアンが多くの言語で[k]音を含む」というように、「地球上の人間の大多数が」[ʃj~?]と聞いて「犬」を想起するという事例に類する有縁性を突きつけない限り恣意性説は崩せないと思います。

> おそらくきちんとした語例を三つほど示して《音素=意義素》なる理論が例証できれば――つまりは ひとつの言語内だけでそう証明できれば――言語記号の恣意性なる理論は全滅である。こう見ざるを得ないと考えます。
⇒bragelonne様がよく研究されていることは敬服するところですが、今回の提示材料は通時語彙論・意味論であって、それはいわば文献学の範疇であるのに対し、ソシュールのそれは言語体系の構造論でしょう。つまり、philologyでlinguistics 批判をしようという、お門違いを犯していることになります。ですから、今回のbragelonne様の議論は、実態的には「通時語彙論に見る恣意性の原理の破れ」くらいの論題に過ぎないと思います。もし、この内容を「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」という論題で、例えば「日本言語学会」で発表するようなことがあれば、失礼ながら、一笑に付されることでしょう。

> ・ / nVk(g)V / なる語例
> ・ / h /=順出相;順定相と/ k /=反出相;反定相との対照
> ・ 完了相の助動詞で ツ(/ t(d) /)とヌ(/ n /)との対照
> の三つについて説明し得たと考えるものです。どうでしょう。
⇒シニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性は、多かれ少なかれどの言語にも見られますが、その有縁性の強さには差があり、フランス語などの屈折語ではそれが比較的弱く、日本語のような膠着語系はそれより強い傾向にあります。アフリカのスワヒリ語はそれが最も強い言語の1つで、例えば「のっしのっし」や「しゃなりしゃなり」等に当る「歩き方を形容する表現」が数十通りもあって、それを聞くだけで何歳くらいの人がどんな風に歩いているのか、もちろん男女の区別も含めて、分かるのだそうです。
 ソシュールは、このような言語を(シニフィアンとシニフィエとの有縁性に関して)「文法的な言語」と呼んでいます。「シニフィアンとシニフィエとの相関関係が、文法の範疇に入り込んでいる」という意味でしょう。ことほどさように、単独の言語に見る限りこのような有縁性は必ず見出されますが、他方非同系言語間では、("kennel"と「犬[ケン]寝る」のような!)ダジャレ的な偶然の一致を除いて、まず見出されません。
 bragelonne様の最初の質問文や補足の中の例は、相対的に「文法的な言語」からの例であって、したがってその研究のタイトルを再考するとすれば、「ソシュール『言語学原論』が手を抜いていたシニフィアンとシニフィエとの有縁性に関する考察」と題するにいいものであると思います。しつこくてすみませんが、決して「言語記号の恣意性」の原理を覆せるようなものではないでしょう。この筋からアプローチする限り、それはアリが象の足に噛みつくのにも似て、「原理」は微動だにしないでしょう。

 以上、碩学のbragelonne様に失礼とは思いましたが、偽らざる感想を述べさせて頂きました。ただし、本件に関してのみの感想でして、他のテーマについては常々敬服申しあげておりますこと、前述のとおりです。

「お礼」への書き込みをありがとうございます。

> ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。
⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈で...続きを読む

Q人間にとって言葉とは

人間にとって言葉とは、どのようなものなのでしょう。物が先か、言葉が先か・・・・・。なぜ、言葉というものがあるのか・・・・。
レポートなのです。全く分かりません。自分なりの答えも見つかりません。どうか少しヒントをください。お願いします。

Aベストアンサー

「サピア=ウォーフの仮説」というヒントになりそうなキーワードを差し上げておきます。これは、物が先か言葉が先かという問題に対する一つの論の試みです。「仮説」なのでなんとも言えません。それを批判する(正しいものは受け入れ、違うと思うところは違うと主張する)ことで、何か言えるんではないでしょうか。

なぜ、言葉というものがあるのか、ですが、1として「言葉がもしもなかったら、どんな世界になっていたか」ということ、2として「言葉はどのようにして生まれたか」ということを考える必要がありそうです。

あと、言語を記号とみなす考え方もあり、これもちょっと厄介ですが、「記号論」というキーワードを差し上げます。深入りすると大変かもしれません。せいぜい「シニフィアン」と「シニフィエ」あたりの理解にとどめるのが、大学のレポートのレベルだと思います。

人間にとって言葉とは何か、ということですが、それはいろんな方法で知ることができます。たとえばここで回答者の意見を伺うというアンケートから総括するでもよし、また自分も人間の1人であるから、個人的な意見としてはこうだということを主張してもよし、だろうと思います。視点はいろいろですね。

あと、いくつかこんな論題も考慮すると面白いかもしれません。
「言葉を使うのは人間だけか」
参考キーワード:チンパンジーの言語学習、アマラとカマラ
「言葉は本当に正しく物を表せるか」
参考キーワード:範疇、「りんご」と「そのりんご」の違いなど

もう1点、「人間とヒト」は区別しなくてはならないかもしれないと今思いました。学習能力という面で言えば生物学的にヒトと捉えた方がいいでしょう。人間というのは多少なりとも社会的な側面があるので、やはりそういうことになるのかもしれません。

道具であるとか、コミュニケーションの手段であるとかいうのは、今までによく言われていることで、斬新さには欠けますが、tsukajiさんが何かもっと奇抜な発想で思い付けたらいいなぁとは思います。

「サピア=ウォーフの仮説」というヒントになりそうなキーワードを差し上げておきます。これは、物が先か言葉が先かという問題に対する一つの論の試みです。「仮説」なのでなんとも言えません。それを批判する(正しいものは受け入れ、違うと思うところは違うと主張する)ことで、何か言えるんではないでしょうか。

なぜ、言葉というものがあるのか、ですが、1として「言葉がもしもなかったら、どんな世界になっていたか」ということ、2として「言葉はどのようにして生まれたか」ということを考える必要があ...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q言語の思考(世界観)に対する影響力 (サピア・ウォーフの仮説)

言語相対性理論で有名であるサピア・ウォーフの仮説は、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思います。心理学、哲学や言語学でよく持ち出される理論です。
(Edward Sapir & Benjamin Lee Whorf が唱えた仮説)

引用文がなくて申し訳無いのですが、私なりにこの仮説を次のように理解しております。

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係しており、言語のない思想など存在しない。言語は人間の思想を支配している。」

つまり、自分の話す言葉に存在しない考え方はありえないということです。
よく例に出されるのが、「色」についての捉え方で、言語によって世界観が支配されているので、その言語に無い色は認識ができないという考え方です。

他に例にあげられるのは、「数の数え方」で、ある言語では、4以上の数字は、「たくさん」という言い方しかないと聞いたことがあります。つまりこの言語を話す人は、自分の話す言語によって、「4以上はたくさん」であるという世界観に捕らわれている、ということになります。

最後に、質問の内容ですが、私は個人的にこの仮説を3、4年前に始めて聞いた時は、疑問に思いましたが、最近はなんとなく理解できるようになりました。全く信じているわけではありませんが、まあ一理はあるかな、といったところです。

もし皆様の中で、この仮説に関して賛成、又は反対の意見があるならば、お聞かせ願いたいと思い、質問してみました。どうして賛成又は反対なのかの理由も聞かせていただければと思います。

(参照URL)
http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k020527.htm

言語相対性理論で有名であるサピア・ウォーフの仮説は、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思います。心理学、哲学や言語学でよく持ち出される理論です。
(Edward Sapir & Benjamin Lee Whorf が唱えた仮説)

引用文がなくて申し訳無いのですが、私なりにこの仮説を次のように理解しております。

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係しており、言語のない思想など存在しない。言語は人間の思想を支配している。」

つまり、自分の話す言葉に存在...続きを読む

Aベストアンサー

「サピア・ウォーフの仮説」というものは、私は詳しくないのですが、

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係している。」ことについては、私は賛成します。
私は、言語の語彙のかたよりや、文法構造によって、人の思考のしかたが影響を受けるのではないかと思います(思考のしかたに「遺伝的なもの」が影響するかどうかは、ここでは考えないことにします)。

たとえば、英文を読んでいると、日本語ではとらえることが難しい表現が出てくることがあります。
また、日本語には擬声語・擬音語が非常に多くありますが、これが日本人の思考のしかたに影響していることは大いにありえるでしょう。

例にあげられている、「色」や「数」の話は、こう考えます。
日本語で、「赤」にあたる色は、実際には無限にあるわけですが、そのような「赤」の中で、色の濃淡を識別する事はできるわけです。
でも、その濃淡のある「赤」それぞれについて、日本語では単語が与えられていません。このことが、どう影響するかというと、その濃淡のある「赤」それぞれについて、議論する(考える)ことが難しくなります。
「数」でいうと、4以上の数は数えることができないので、4以上の数はわかるが、議論はしづらい(=考えることが難しい)ということになると思います。

「言語のない思想など存在しない」ことについては、まだ、色々と考えている最中ですが、こう考えます。
「人間は言葉によって考える」のは、確かに事実です。
けれど、物事をオブジェクトとして扱う方法は、言語化だけではないと思います。
もちろん、最終的には、言語化することによって、思考や議論を助けることになるでしょうが。

「サピア・ウォーフの仮説」というものは、私は詳しくないのですが、

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係している。」ことについては、私は賛成します。
私は、言語の語彙のかたよりや、文法構造によって、人の思考のしかたが影響を受けるのではないかと思います(思考のしかたに「遺伝的なもの」が影響するかどうかは、ここでは考えないことにします)。

たとえば、英文を読んでいると、日本語ではとらえることが難しい表現が出てくることがあり...続きを読む

QTo be or not to be の意味を教えてください

To be or not to be の意味を教えてください。
お願いしますm(__)m

Aベストアンサー

アメリカに35年半住んでいる者です。

私なりに書かせてくださいね。

シェイクスピアを知っている人はそれなりに訳を知っていることになりますね. しかし、今の時代にこれをいうことはシェイクスピアとは関係なく、~になるか(なり下がるか)ならないか、と言う意味にとります.

つまり、この中途半端な文章を使い、護身術では、To be or not to be,,,,,, a rape victim!!と言う言い方をして、レイプの犠牲者になりたいのかなりたくないのか、答えは出ているよね.と言う具合に使えるわけです.

また、シェイクスピアの事を知っている人なら、この後の、that is the question.を強調する為に使う言い方としても使います.

つまり、大学へ行くべきがそれとも好きな職につくべきか、と言う迷いがあるときに、相談された人は、To be or not to be.,,,,,,と考え込む、と言う使い方ですね.

最近ボーリングの質問がありましたが、10フレーム目で、この三つをストライクで決めればパーフェクトゲーム. この時点では誰もが感じるchokeの場面です. ボールを投げる前に、余裕のあるところを見せるために、Hamlet, you are not the only one to suffer. Me, too. To be or not to be!! This ball is the answer!! とみんなが聞こえるように言って、そして、みんなが見ている前で、胸に十字を切ってボールを投げる状況ですね. なかなかの役者だともいえますね。

と言う事で、どのように使われているかという視点で書かせてもらいました.

これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。

アメリカに35年半住んでいる者です。

私なりに書かせてくださいね。

シェイクスピアを知っている人はそれなりに訳を知っていることになりますね. しかし、今の時代にこれをいうことはシェイクスピアとは関係なく、~になるか(なり下がるか)ならないか、と言う意味にとります.

つまり、この中途半端な文章を使い、護身術では、To be or not to be,,,,,, a rape victim!!と言う言い方をして、レイプの犠牲者になりたいのかなりたくないのか、答えは出ているよね.と言う具合に使えるわけです.

また、シ...続きを読む

Qソクラテスの無知の知は矛盾していませんか?

ソクラテスの無知の知についてです。
高校の倫理でソクラテスのことを学び、
その中でソクラテスの思想に「無知の知」というものがありました。

ソクラテスは、
「あなたは自分の無知を知らないが、私は自分の無知を知っている(=無知の知)」
と習いました。

しかしここで思うのが、
ソクラテスは自分が無知であると言うことを知っていると言いましたが、
これを同じく返されたらどうなるのでしょうか?

ソクラテスは無知について知っているとは言えないのではないでしょうか?
ソクラテスに対して、
「あなたは実は無知であることを知らない」
と返した場合無知の知は無くなってしまうのでないでしょうか?

Aベストアンサー

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテスは考えます。
俺が一番賢いわけがない。


ソクラテスは、この神の言葉は間違いであることを証明しようと試み、自分より知者であると思われる、評判高い人々を訪れるわけです。その人達の職業は詩人であったり大工であったり様々です。


ソクラテスは彼らが自分よりも知者であることを期待して訪ねたのですが、話をしてみるとどうも勝手がちがいました。


といのも、彼らは確かに専門的な知識はソクラテスよりも優れていました。しかしそれに奢って
「徳であったり、本当に善いものに関する知識」
を持っていないにも関わらず知ったかぶりをして話をしていたのです。


その一方で自分は、徳とか善きものについて知らないということを自覚している。
その点で彼らよりも自分は賢い。
ソクラテスはそう考えました。


ここでソクラテスに初めて「無知の知」が自覚されます。


「無知の知」は「不知の知」とも表記されていて、私は後者の方がしっくりきます。

といのも、
「知っているものが何も無い」
という状態ではなく
「知らない(不知)ということを知っている」


と解釈しているからです。

ですから、質問者さんが問うように
「ソクラテス、あなたは無知(不知)を知らない」
と言われれば、きっとソクラテスは
「いや知っている、自分は善とか徳については何も知らないことを知って(自覚して)いるよ」
と答えると思います。


付け加えるなら
「ぜひ教えてくれないか、君も知らないならば一緒に探求しようではないか」
とも言いそうです(笑)



気になるようでしたらぜひ『ソクラテスの弁明』を実際に読んでみてください。文量は多くないので気軽に読むことができると思いますよ。


長文失礼しましたm(__)m

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテ...続きを読む


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