ソシュールの入門書などを読むと、以下のように言っているように思えます。

<< この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>>

もし、それが正しいとすると、「リンゴ」という言葉がないと、「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、それは、おかしいと思うのですが。もちろん、「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。

ソシュールはどういう意味で、上記のようなことを言ったのでしょうか?

 

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A 回答 (77件中41~50件)

No.36を承けて ふたたび出帆です。

(もっとも もうひと方の議論も 同じ問題に収斂してきましたね)。

《論理空間の話ですよで本当に片付くのでしょうか。結局、今の時点で残る疑問は、「身分け」「言分け」という発想があるのに、何故、肝心の「心分け」という発想がないのか・・・》
――この点にかんしましては 仮説が提出されている限りで ソシュール側に味方しなければならないように思われます。

心分けも けっきょく含まれていて どうも 言分けのときに 同時に 心分けをも おこなっているという見解らしいです。

ちょうどよい例示が見つかりました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
走っていた電車の中でした。がらがらの座席に母親とともに坐っていた三歳ぐらいの女の子が 《デンシャ デンシャ》と習い立ての単語を一生懸命口の中でつぶやいては 周囲の窓枠や席の布地を手でさすったあげく 思いあぐねた様子で母親にこうたずねたのです。
――ママ デンシャって人間なの? それともお人形なの?
コトバを覚えはじめたばかりの幼児にとっては 毎日の瞬間 瞬間が新しい分節 意味づけ意味づけられる行為の連続なのです。コトバ以前に もちろん感覚=運動的な知能による分節行為はあります。しかし 言語習得によって身につけるものは そういう自然の分節行為ではなくて まことに非自然な分節行為です。ですから なかなか本能的納得というものは得られません。《デンシャって人形なのか人間なのか》という妙な質問も出てくるわけです。つまり感覚=運動的な知能から思考的な知能へと移行していく象徴化過程にあって この女の子の世界の中では 《電車》という語を知る以前は こういうふうに分かれていたのでしょう。
   《動くもの そして柔らかく温かい感触をもつもの》と
   《動かないもの そして固く冷たい感触をもつもの》
という対立によって生じたカテゴリーにおいては 《人間》と《人形》という概念が無理なく処理されていました。《人間》というのは 《動いて柔らかくて温かいカテゴリー》にすっぽり入っていましたし 《人形》はいくら人間と似ていても 《動かないし さわれば固いカテゴリー》に属しています。ところが《デンシャ》というコトバを習い 同時にその対象を認識したとき 《動きはするが さわってみると冷たく固い感触をもつ》新しい指向対象(レフェラン)が登場しました。
この子が混乱した理由はよくわかります。彼女は次第に象徴の森という名の文化のフェティシズムに入っていく。繰り返し繰り返し命名を通して 知覚と感覚は刻一刻と密になる認識の網目によって再編成を強いられる。事物(世界)と意識(人間)というものが相互に差異化されていくのです。そんなことを考えて母娘の会話を聞いていたのですが 女の子の興味深い問いかけは 母親の《バカねぇ 電車は電車よ》という非説得的な答えによって無視されてしまいました。・・・
(丸山圭三郎:ソシュールの読む p.46)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
敵(?――理論対決上の)もさるものひっかくもの なかなかやりますようですね。

いましばらく この航海を進んでまいりましょうか。
わたくしの焦点は 言語記号の恣意性説のほうにあります。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

女の子とデンシャの例ですが、この話から何を読み取れば良いのか、ちょっと判断できないでいます。と言うのは、この話は「もの」の名前の話ではなく、カテゴリーの話だということと、お母さんは、結局、デンシャがどのカテゴリーに属するかを教えていません。ということは、女の子に対して、「言分け」も「心分け」も行われているわけではないからです。

ということで、挙げていただいた例とは意味的に繋がらないかも知れませんが、カテゴリと「心分け」の関連を以下で考えてみました。

カテゴリーには2種類にあると思います。自然的根拠を持つカテゴリーと自然的根拠を持たないカテゴリーです。

自然的根拠を持つカテゴリーは、例えば、植物、動物のようなカテゴリーです。
自然的根拠を持たないカテゴリーは、「恵子と健一はA組で、正子と太郎はB組みだ」と言った例です。

「心分け」との関連で考えると、自然的根拠を持つカテゴリーは、人間が自然の中で様々な経験をする中で、心の中に自然と生み出される「ゲシュタルト(心分け)」によって構成されるのではないかと思います。この「ゲシュタルト(心分け)」された概念(カテゴリー)に名前を与えることで、植物、動物というシーニュが誕生するのではないかと思います。これは、ソシュールの言うシーニュとは全く異なった考えですが、シーニュが神によって与えられたものでないかぎり、シーニュの誕生のプロセスはこのように進められるように思うのですが。

また、自然的根拠を持たないカテゴリーはどうなるのかと言うと、まさに、論理空間上(あるいは社会活動上)の規則に関するものですから、言語の習得後に始めて関与できる世界です。また、論理空間上のカテゴリーは、自然的根拠を持たずに、主体の頭の中で創られるわけですから、基本的には、最初に創った人間がいるはずです。すなわち、そのカテゴリーは、その最初に創った人が心分けたものだと思います。

女の子とデンシャの話から言えることは、女の子は、誰から教わることもなく、《動くもの そして柔らかく温かい感触をもつもの》と《動かないもの そして固く冷たい感触をもつもの》という2つのカテゴリーを自ら生み出したということです。これは、まさに、「心分け」を女の子がやっている証拠ではないかと思います。

以上のことから、次のように考えました。

「もの」であれ、「カテゴリー」であれ、それに関するシーニュが存在する以上、そのシーニュはいつか「誕生」したはずです。その「誕生」の時点で、その対象が、誰かの「心の中」に、「ゲシュタルト」として現れる以外に、一体どうやってそのシーニュは「誕生」することが出来るのでしょうか。この最初に現れた「ゲシュタルト」が「心分け」の結果であり、新しいシーニュのシニフィエになるのではないでしょうか。

補足日時:2007/07/27 22:16
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#1->#26->#32です。


どんどん理解を深めておられるようでよいことです。
わたしも勉強になります。
今回はウィトゲンシュタイン風の疑問が出て来ましたね。
多少荷が重いきがしますが、乗りかかった船で考えてみます。

>それは、例えば、大人が赤ん坊に言葉を教えるとき、赤ん坊の頭の中にシニフィアンとシニフィエをセットにして注入することが、本当にできるのかということです。

ソシュールがどう考えていたか私にはわかりません。(誰かわかる方がいらっしゃったらご教示ください。)

私自身は「セットにして注入」はとてもできそうもない感じがします。
しかしながら、日常言語の意味する概念は、かなりいい加減なもので、
さしあたり困ることがなければ、それはそれでなんとなく通用してしまうようなものだと思います。

赤くて丸い果物を指して「リンゴ」と教える。
しかし、子どもは「ナシ」を見て「リンゴ」と言ったりする。
「それはナシですよ。リンゴは赤いの。」と教える。
すると、子どもは「青リンゴ」を見て「ナシ」と言う。
「いや、それは青いけどリンゴ。青リンゴ。」と教える。

そういうわけですから、

>現実には出来ている(ように見える)わけですから、当然できるのだと思うのですが、その場合は条件が必要ではないかということです。どういう条件が必要かというと、赤ん坊自身の「心の中」に該当するシニフィエが既に存在するということです。

現実にはなかなかできないし、先験的に(という言葉は通じるでしょうか?)子どもの心の中に「リンゴ」の概念が存在するとは、私にはとても思えません。

「リンゴ」に限らず、われわれは言葉の意味する概念を経験によって更新し、発見しながら言葉を学び続けている途上にあるのではないでしょうか?

逆の見方をすれば、我々の「言語能力(ランガージュ)」は、
それが正しかろうが、間違っていようが、「感覚的映像(シニフィエ)」を「言語的映像(シニフィアン)」ととりあえず結びつけようとする性質を持っていると言う方がいいような気がします。

クジラが「魚」であったり(シニフィエの取り違え)、
「月極」が「ゲッキョク」であったり(シニフィアンの取り違え)、
さまざまな間違いを我々は起こしますが、
それはそれで実際上困らなければ(訂正されなければ)通用してしまうのです。

わたしはそんなふうに感じるものですから、

>何が言いたいかといいますと、心の中に概念(ものについての概念)が先ずあって、その上で、その概念に対応するシンフィアンを社会的に教え込むのではないかということです。従って、「もの」が先か「言語」が先かの話との関連で言うと、「もの」とは、既に、「実体としてのもの」ではなく、「心で捉えられたもの」、すなわち、「概念」と考えると、「概念」が先か「言語」が先かという問いに変わります。そして、私は、「概念」が先だと思うのですが、そう考えて良いのでしょうか?

この考え方にはちょっと同意しにくいものがあると思います。
「(先験的)概念」など存在しないからこそ、「教える」ことの難しさがあるのです。
「理解」とは、あらゆる「誤解」のひとつのバリエーションに過ぎないという見方もできるのではないでしょうか。
それがたとえ「誤解」でも、現実に困った事態がひきおこされない限りは「誤解」が「理解」としてまかり通るのです。

おそらく、今回私が述べた内容は、ソシュールの立場の説明とはかけはなれていたかもしれません。

>「予定観念などというものはなく、言語が現れないうちは、なに一つ分明なものはない」(小林英雄/P155)

「予定観念などというものはなく、」という点は同意できますが、
「言語が現れればすべてが分明になる」などとはとても言えないのではないか、それが正直なわたしの感想です。

ちなみに小林訳の『一般言語学講義』については、批判もあるようです。
わたしは見ていませんが、
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/ws …
このような書物も出ているようですし、
20年ほど前は、他の回答者が援用しておられる
丸山圭三郎「ソシュールを読む」が優れたテキストとして推薦されていたと記憶しています。
ただし、質問者の引用部分について問題があるかどうかはわかりません。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

「リンゴ」、「ナシ」という言葉を教えるプロセスは全くその通りだと思います。しかし、このプロセスが成り立つというそのことが、まさに、子どもが「リンゴ」や「ナシ」の概念(シニフィアンなきシニフィエ)を持っている証拠ではないでしょうか。

何故なら、”赤くて丸い果物を指して「リンゴ」と教える”とき、指さした先に何か丸いものがゲシュタルトとして子どもの心の中に浮かび上がっていることが前提になっている。また、”子どもは「ナシ」を見て「リンゴ」と言ったりする”とき、子どもの心の中には、「リンゴ」に似た丸いものがゲシュタルトとして浮かび上がっていることを示している。また、”「それはナシですよ。リンゴは赤いの。」と教える”とき、子どもの心の中に「色の差異」を感じ取る働きが既にあることを前提にしている。

このように見ていくと、子どもの心に欠けているのは、「リンゴ」や「ナシ」の概念ではなく、何を「リンゴ」と呼び、何を「ナシ」と呼ぶかということ、すなわち、シニフィアンだと思います。

>先験的に(という言葉は通じるでしょうか?)子どもの心の中に「リンゴ」の概念が存在するとは、私にはとても思えません。

それは、おそらく、「リンゴ」の知識の話ではないでしょうか。 例えば、リンゴはリンゴの木から生るとか、リンゴは寒い地方で育つとか、赤いリンゴだけではなく、青いリンゴもあるのだとか、そういう関連知識のことを言っておられるように思います。確かに、それもリンゴの概念の一部と言うことはできると思いますが。

>「リンゴ」に限らず、われわれは言葉の意味する概念を経験によって更新し、発見しながら言葉を学び続けている途上にあるのではないでしょうか?

おっしゃるとおりだと思います。まさに、概念は経験によって発展するのだと思います。しかし、経験とは何でしょう? 自己経験と他己経験に分けられると思いますが、自己経験は自分が「直接体験」するものであり、他己経験は他人が「直接体験」したものを言葉を通して学ぶのではないかと思います。いずれの場合も、概念に何か新しい知識を付け加えるのは誰かの「直接体験」です。この誰かの「直接体験」は、結局のところ、心が感じ取るゲシュタルトではないでしょうか? すなわち、「心が直接差異を感じ取る」ことが概念形成の出発点であるように思います。

(とりあえず、感じた疑問をストレートに表現させていただきましたが、せっかく、色々貴重な示唆をいただいているのに、何かぶしつけな感じで申し訳ありません)

補足日時:2007/07/26 21:01
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No.31を承けます。



お互い 水な門に――ひとつの寄港地としてのみなとに――たどり着いたようですね。

おっしゃるとおりだと存じます。
丸山は 概略として次のようにも言っています。

・・・・・・・・・・・
《冷たい風・寒い風》と言うが また《冷たい水》とも言うが 《寒い水》とは ふつうは 言わない。これは 語(つまり 冷たい・寒い・風・水)が 個別的なモノなのではなく 《可能態》としてあって 他の語との有意味な結びつきの力(《結合価 valence 》)を潜在的に持っている証拠だと。
(そこを あたかも革命を起こすかのごとく 新奇な遣い方をする詩人などがいるとも)。
・・・・・・・・・・・・・

ゆえに 言語は 《記号の体系 systeme de signes 》ではなく 《規則の体系 systeme de regles 》でもあると。(《ソシュールを読む》p.172)

さらにあるいは A・B・C・Dの論理空間として例示された場合に対応するかのように

・・・・・・・・・・・・
シニフィアン(聴覚記号)も他との差異によって成り立ち シニフィエ(観念・概念)も同じく他との差異関係の中に位置している。差異関係として位置づけられていることは 実定的(ポジティヴ)ではなく -(マイナス)なのだ。しかも シニフィアンとシニフィエともども マイナスどうしが結合しているので プラスとなって モノが存在するように意識される。
(あらまし 同上p.236)
・・・・・・・・・・・・

そこで 《ただ、これが、正しいとすると、ソシュールが言う「言語」を使う人類は、現実世界では、生きていけないなんてことになりそうですが。》
――まさに 言分けなる革命を境にして その革命のもたらす言語と文化の構造において 人間は 自然を去って 非自然の上に存在していると言う説だと思われます。

わたしとしましては 自然も残っていると思っています。

丸山としては 例の《欲動》の問題を持ち出すと思います。それを扱うランガージュなる言語能力が 非自然のもたらす拘束(不自由)にも光を当て それなりに秩序を回復しようとする。そしてさらに 新たな非自然・拘束と続き 同じくそれをのり越えようとする欲動の働きがあるだろうと。〔《意味化の円環的運動》と。(《言葉と無意識》p.189)〕

この問題の行方はいかが あいなりますでしょうか。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>《冷たい風・寒い風》と言うが また《冷たい水》とも言うが 《寒い水》とは ふつうは 言わない。

この話を読むと、渺茫たる大海に、名づけられることもなく見捨てられている無限の差異のうめき声が聞こえて来るようです。有限個のシーニュで、この世界の無限の多様性が表現できるものでしょうか。ブリコラージュ(有り合せのもので間に合わせる)しなければならない詩人の苦労は如何なるものか。

>わたしとしましては 自然も残っていると思っています。

私もそう思います。だから、未だによくわからないのですが、論理空間の話ですよで本当に片付くのでしょうか。結局、今の時点で残る疑問は、「見分け」「言分け」という発想があるのに、何故、肝心の「心分け」という発想がないのかということです。ずっと考えていたのですが、ふと思いつくと、何のことはない、「心分け」というのは、実は、シニフィエのことではないのかと思い至りました。そうすると、引き続く疑問は、であるとすれば、「先ずシニフィエありき、然る後にシニフィアンあり」となるはずです。ところが、さにあらず、ソシュールは「シニフィエとシニフィアンは紙の表裏のごとく一体なるもの」と考えています。しかし、しかし、シニフィエが人の頭の中に無いときに、一体どうやって、「シニフィアンとシニフィエ」を同時に注入することができるのか? これが、今の最大の疑問です。

海を見て、人の心は、そこに無限に変化する表情を読み取っているのではないでしょうか。それを社会的に注入された「シニフィアンとシニフィエ」のセットで切り取ろうなんて、そんな無茶な....と思うのですが。それが可能なのは、唯一ロボットだけでしょう。それとも、世の中にはロボット人間が多いから、ソシュールは皮肉を込めてシーニュ・モデルを考えたのでしょうか。

>丸山としては 例の《欲動》の問題を持ち出すと思います。それを扱うランガージュなる言語能力が 非自然のもたらす拘束(不自由)にも光を当て それなりに秩序を回復しようとする。

これは、私には理解が難しいので、もう少し勉強してみます。

補足日時:2007/07/26 20:22
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kaitara1です。

(私の言う)主体というのは覚醒時の自我意識と置き換えても良いのではないでしょうか。赤ん坊は眠っていても母親の乳房から乳を摂取できます。おそらくこれらの言葉が示すものを区別あるいは分離して認識はしていないと思います。大人は覚醒しているとき自分というイメージを言葉を介して確認した上でことばによる認識が可能になるのだろうと思います。大人は赤ん坊と違って眠ったままでちゃんと食事が取れないのは言うまでもありませんが、意識がないときには混沌とすれば大人が何もできないことも分かるようにも思うのですが・・・(消化とか呼吸は可能ですが!)
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この回答へのお礼

たびたびのご回答ありがとうございました。私にとっては、やや難しいご回答でしたが、これから、また、少しずつ考えて行きたいと思います。

お礼日時:2007/07/25 21:22

どうも、補足読ませていただきました。



>一番最初に「これはカエデだ」と言い出したのは、「神」か、それとも、「人」かということです。さて、そのときは、「もの」が先か「言語」が先か?

一番最初にこの物体が”カエデ”だと言ったのは間違いなく人間だと思いますが、ここで重要なのは、属が種を決めるということです(深くは書きません)。※ちなみにカエデはカエルの手に似ているからこの名前が付けられたそうですよ。さらに属の差異により”もの”はカテゴライズされて行くわけですが、このぶんだと話しが堂々巡りになるので、これは止めましょう。

何かモノには最初が絶対あるという考え方は間違ってはいないと思いますし、否定する必要もないと思います。ただし証明するのが非常に難しいとも思います。人間社会ができる前、言語能力も有さないと仮定してみます。そこにはいったい何があるんでしょうね。僕には想像できません。 質問者さんの言う通り、最初に心でものを区別すことができ、それが何であるか判断する。それはできるかもしれませんし、できないかもしれません。でもそれを使いどうやって、質問者さんの心での切り分けと言語と”もの”の関係を証明するか、またソシュールのセオリー(ソシュールにとどまらず、構造主義者、ポスト構造主義者なども含めて)を崩せるかが大事ですよね。しかしこれはもう僕の知識を超えています。

ただ僕が質問者さんに言えることは、長い歴史、時間を言語は含意していると思います。言葉は言葉によって受け継がれてきています。それは書物であったり、スピーチであったりです。これは当然と言えば当然ですけどね。言語が先か、”もの”が先か...難しいですね。僕ならやはり言語が先と言いますが、白黒はっきりさせず、灰色の部分で楽しむのもいいかもしれませんね。今回、質問者さんのような考え方もあるんだなぁ、と思いました。

もし興味があったらデリダのアーカイブ(Archive Fever: A Freudian Impression, trans. Eric Prenowitz (Chicago & London: University of Chicago Press, 1995).)を読んでみては(この本が翻訳されていると思うんですが...)...※一年前に一度目を通したんですけど、当時の僕には難しすぎて断念しました。それ以来まだ挑戦していません。

またはフーコーの言葉と物、知の考古学の中のアーカイブを読んでみるといいかもしれません。これも難しいですけど、読む価値はありますよ。

参考まででした
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この回答へのお礼

色々な視点から、たびたび、ご回答いただきありがとうございました。大変参考になりました。デリダとかフーコーも読んでみたいですね。でも、難しいそうだから、当分は無理かも知れませんが。

お礼日時:2007/07/25 21:18

#1->#26です。


質問者がねばり強く考えておられることに敬意を表します。

>ソシュールの入門書などを読むと、「言語はものの名前ではない」とか「言語は名辞目録ではない」と書かれています。これは、例えば、ある「もの」の名前は、その「もの」が先にあって、それに名前を付けるという関係ではなく、言語の方で対象の「切り取り範囲」が決まっていて、その範囲によって「もの」が初めて確定すると言っているように思えるのですが、違うのでしょうか?

その通りと言ってもいいのですが、質問者はすでに「言葉」とか「もの」というあいまいな概念を使って考える域を超えておられるようです。以下、ソシュールの考え方をふまえて私なりに説明します。

人間の脳内で「記号(シーニュ)」がどのように成立するかを考えてみましょう。

視覚的な対象を音声言語でとらえる場合、
「もの自体(質問者の言う個別具体的なもの)」を感覚器官(眼)でとらえたのが脳内の「視覚映像(シニフィエ)」です。これは「もの自体」とは異なる、いわばすでに「身分け」された写像ですね。「もの自体」とは別のもので、脳細胞のある種の興奮状態として存在しています。
この聴覚映像が、感覚器官(耳)でとらえた脳内の「聴覚映像(シニフィアン)」と結びつくとき「記号(シーニュ)」が成立します。(質問の趣旨とはあまり関係しませんが、「聴覚映像」も「音声自体」ではありません。「音声自体」の写像であって、脳細胞のある種の興奮状態です。)

言語記号の場合、どの「聴覚映像」がどの「視覚映像」と結びつくかは社会的に学習されます。すなわち、ひとりの人間にとって、ある言葉の意味する「もの」は、質問者の表現で言えば「言葉の方で切り取り範囲が決まっている」ということです。

そこで、次のような疑問が出てくる余地があります。
>言語を知った人間が目の前の個別具体的なものを個別具体的なものとして認識できなくなるとは思えないのですが。

われわれは日常、
「電車」とか「切符」とかいう言語による一般化された認識でものごとをとらえており、言葉で表現する以前の「なにものか(もの自体)」として認識することは非常に難しいことです。われわれの脳内で「視覚映像」と「聴覚映像」は、学習によりほとんど自動的に結びついてしまうからです。

そういう日常の経験から考えると質問者の見解(個別具体的なものを認識しうる)には同意できない感じがしてきますが、
しかし、人間の経験はそういう日常的な範囲にとどまるものではもちろんありません。質問者が考えておられるのに近い事態も存在し得ると考えられます。

ふだんならAという「聴覚映像」と自動的に結びつくはずのA’という「視覚映像」が、なぜかAという範囲に収まりきれない「経験したことのないなにか異様なもの」に感じられる。そういう経験は誰にでもあり得るものでしょう。

芸術家はときに見慣れているはずの「日常的なもの」を「なにか異様なもの」としてわれわれに感じさせるような作品を生み出します(異化作用)。そのような場合、芸術家の脳内では、その「日常的なもの」の「視覚映像」は、ふだんなら自動的に結びつくはずの「聴覚映像」の守備範囲からははみ出した、「なにか過剰なもの」と感じられているかもしれません(美的体験)。

そのような場合の「視覚映像」は、「聴覚映像」との結びつきが壊れてしまっており、もはや「言語記号」を構成し得なくなっています。
それはむしろ、一般化されない「個別具体的な」「もの自体」といいたくなるものでしょう。

ただし、やはりそれは「もの自体」ではありません。すでに眼という感覚器官によって「身分け」された脳内の写像にすぎないのです。

その一点だけの留保をつければ、

>言語を知った人間が目の前の個別具体的なものを個別具体的なものとして認識できなくなるとは思えないのですが。

という質問者の見解に賛成することもできます。

わかりにくい表現になってしまいすみません。
#26の回答とあわせてまとめれば、
1「個別具体的なもの(もの自体)」は、言語に先立って存在する。
2人間は日常的には「もの自体」ではなく、言語により一般化された形でしか認識していない(言分け)。
3ただし、「もの自体」を「身分け」た段階にとどまる言語化されない認識(たとえば「視覚映像そのもの」)もあり得る。それは、「言葉にならない」認識であり、なんと表現したらいいかわからない「なにものか(混沌)」として存在する。

以上ですが、最初の質問にあった表現
<< この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>>
の、「個々の『もの』は存在しない。」という言い方は、
入門書としてはそれなりに意味のある表現ではあるものの、
ここまで論じてきてみれば、「もの」の概念があいまいすぎて役に立たない表現に過ぎません。
つまり、正確に解釈し直せば、
「言語以前には言語によって一般化されて認識された『もの』は存在しない。」
と言っているのと同じことで、論理的には無意味です。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

大変わかりやすい説明で、色々と考えるヒントをいただきました。

シニフィアン/シニフィエについて、ひとつだけ、新しい疑問が出てきました。その疑問についてお話する前に、まず、「視覚映像(シニフィエ)」ですが、これは、あくまで、説明をわかりやすくするために、一例として挙げていただいたのであり、一般には「概念(シニフィエ)」と言われているものだと理解させていただきました。

そして、私の疑問は、シニフィアン(聴覚映像)とシニフィエ(概念)の結びつきは社会的に学習されるということに関してです。

確かにその通りだと思うのですが、そのプロセスを具体的に考えてみると、ひとつ疑問が沸いてきます。

それは、例えば、大人が赤ん坊に言葉を教えるとき、赤ん坊の頭の中にシニフィアンとシニフィエをセットにして注入することが、本当にできるのかということです。現実には出来ている(ように見える)わけですから、当然できるのだと思うのですが、その場合は条件が必要ではないかということです。どういう条件が必要かというと、赤ん坊自身の「心の中」に該当するシニフィエが既に存在するということです。シニフィアンについては、「リンゴ、リンゴ」と言って音声で伝えれば、赤ん坊の「心の中」に段々「リンゴ」のシニフィアンが育って来ると思いますが、シニフィエの方は、それを体験するなどして事前に「心の中」に「リンゴの概念」が用意さていないと、一体、何がリンゴなのかさっぱりわからないということになるのではないかと思うのです。

何が言いたいかといいますと、心の中に概念(ものについての概念)が先ずあって、その上で、その概念に対応するシンフィアンを社会的に教え込むのではないかということです。従って、「もの」が先か「言語」が先かの話との関連で言うと、「もの」とは、既に、「実体としてのもの」ではなく、「心で捉えられたもの」、すなわち、「概念」と考えると、「概念」が先か「言語」が先かという問いに変わります。そして、私は、「概念」が先だと思うのですが、そう考えて良いのでしょうか?

これに関連して、ソシュールは「一般言語学講義」(とうとう、読むはめになりました)では、以下のように言っています。どうも答えはNOのようなのですが、では、どうやって、予定観念を赤ん坊の頭の中に注入するのでしょう。

「予定観念などというものはなく、言語が現れないうちは、なに一つ分明なものはない」(小林英雄/P155)

補足日時:2007/07/25 21:08
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No.29からの続きです。



並行して――しかも ソシュール側の代理人になったかのように―― 学びつつ進んでいるのが 現状です。

引用によるほうがよいと考えました。
結論的に《〈言語〉が先》なる説と捉えられる言説:――
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ソシュールが手稿9で述べているように 

《人が事物間に樹立する絆が(つまりあるいは 差異の関係・体系なる状態としての言語が――引用者)事物に先立って存在し これらの事物を決定する働きをなす》

のであって

《いかなる事物も いかなる対象も 一瞬たりとも即時的(アン・ソワ)には与えられていない》(手稿9・断章番号3295a)

からです。
(丸山圭三郎:ソシュールを読む 1983 p.238)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

たとえば 先回 《もの》の存在のあり方でのご質問で主張されていたように
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
普通一般には実体である水のH2Oも 関係でしかない言語の水(そのシニフィアン/シニフィエ)も 全く区別がつかない客体の如く受け取られているのです。(同上p.236)

つまり〔差異の〕関係が実体として 非自然が自然として 恣意的価値が即自的価値として 一言でいえばコトが物として 私たちには意識されるのです。(p.238)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
つまり――言分け構造・文化が はっきりと《非自然》だと見ており―― 言語は 客体としてのモノではなく 純粋経験とも言うべきコトないし《規則》であると丸山は言っているようです。そして これが 先であるのだと。

個々のことば相互の差異の関係として また体系としてはその言語総体においてまとまって 恣意的に成り立っているということから帰結されるのだと言っているようです。

さらに関連する文章を。(箇条書きに抜き出すかたちで)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ラングがはじめから即自的に定義され限定される単位(ユニテ)をもっていないこと
その単位というものが実は辞項(個々のことば)と辞項との間の差異の対立化という現象であること
そしてその対立現象を樹立するのは語る主体の意識であること
(同上箇所)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この最後の一文は 最初の引用にあった《人が事物間に樹立する絆》というごとく 心(心分け)のことにも触れているかのようでもあります。(昔の本を引っぱり出してきて おおわらわです)。
いかが受け取られるでしょう。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

ご回答を読ませていただいて、ふと、気が付いたことがあります。それは、「ソシュールは、現実空間の話をしているのではなく、論理空間の話しをしているのではないか」と言うことです。あたかも、数学の議論をするようにです。

例えば、事物A、B、C、Dを論理空間上の「実体」だと考えます。そして、これら4つの「実体」の間には、以下の関係があるとします。

(1)AはBの左側にある。
(2)CはDの左側にある。
(3)AはCの上側にある。
(4)BはDの上側にある。

このような実体A、B、C、Dを考えると、ソシュールの言うことは、大変もっともなように思います。

すなわち、Aは即自的には存在せず、常に、他の実体との関係性の中でのみ存在する。そして、実は、Aが「実体」なのではなく、「左側にある」や「上側にある」という「こと」こそが実体であり、Aは単にその「こと」を象徴した存在として「もの化」されて意識されているだけだということです。

このように考えれば、A、B、C、Dを含む論理空間は、まさに、我々の頭の中(すなわち、主体)で考え出された「非在」の「非自然」ということになります。また、「実体である水(H2O)」の話が出てきますが、これも、引用にあるように、「言語の水」と同等の客体として扱っているわけですから、実は、初めから概念化された「水」のことであり、現実界とは切断された論理空間上の存在ということになります。

これで一応説明が付くように思うのですが、どうでしょうか?

ただ、これが、正しいとすると、ソシュールが言う「言語」を使う人類は、現実世界では、生きていけないなんてことになりそうですが。

補足日時:2007/07/25 19:30
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kaitara1です。

主体が確立しているというのは主体を主体の存在を知っているということと考えていますが、ここに大きな謎があります。主体は認識の対象にならないからこそ主体であり得ます。認識の対象になったとたん、それは主体としての自己ではなくなります。普通自分と思っているのは実は主体としての自分の代用物である名前あるいは名前の背後に存在すると想像されるイメージです。ここに言葉の効用が示されています。つまり主体としての自己は認識の対象にならないのですが名前によって代用できます。又名前によって代行される為に主体(自己)は主体としての資格を失わないで済みます。精神病者の中には自己(主体)を認識可能と考え探し回った結果絶望し、周囲の人が自分を動かしているというような表現をする場合があります。このようなひとは主体が十分育たなかったことから言葉による認識に整合性が欠けていることが多いと思われます。このことからも言葉による認識には主体が不可欠ということになると思います。俗には見る自分と見られる自分というような表現が行なわれますが、見る自分の正体は誰にも原理的に不可知なので、このことが人間の平等性の根拠ではないかと思います。対象にできるものに対する認識力には大きな差があることはいうまでもありませんが、どんなにいわゆる認識力が優れている人(たとえばアインシュタイン)でも自分の正体は知ることはなかったと思います。
 話が前後しますが赤ん坊の認識は大人から見れば混沌であっても赤ん坊自身は混沌そのものとして整合性をもって存在していると考えたらどうでしょう。いわば赤ん坊肉体として存在しているほかの動物と同じく
栄養学を知らなくてもちゃんと適正な栄養をとっています。木村敏さんの本は私は勉強になりましたが、私が今考えていることの原点だと想像しますが直接のつながりについてはあまりはっきりしません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

主体と言葉の関係について、大変興味深く読ませていただきました。

>普通自分と思っているのは実は主体としての自分の代用物である名前あるいは名前の背後に存在すると想像されるイメージです。ここに言葉の効用が示されています。

おっしゃる通りだと思います。ただ、言葉の効用という意味では、特に「主体」に限ったことではなく、あらゆる「もの」に対して、そもそも言語とはそのような効用を持ったものだと思うのですが。例えば、「リンゴは赤い」と言うときの「リンゴ」は実体としてのリンゴではなく、「リンゴ」の代用物ではないかと思います。また、もし、リンゴには代用物「リンゴ」以外に実体「リンゴ」があるではないかということであれば、「神」とか「幽霊」とかは、やはり、代用物はあっても、実体は無いように思います。

ということで、「言葉による認識には主体が不可欠です」という部分が、今ひとつ、よくわかりませんでした。


>赤ん坊の認識は大人から見れば混沌であっても赤ん坊自身は混沌そのものとして整合性をもって存在していると考えたらどうでしょう。

「混沌そのものとして整合性をもって存在している」の意味は、あまりよくわかりませんが、例えば、赤ん坊の眼から見ると、お母さんのおっぱいの輪郭が大人が見るように明瞭な形で見えなかったとしても、赤ん坊がそのおっぱいを自分から吸うのであれば、おっぱいを見分けていることは間違いないと思います。

お礼日時:2007/07/25 18:41

No.27の補足です。



* わたくしの言説は 相手の主張内容があいまいな場合(どちらとも採れる場合) 批判すべき説に対しては 相手に有利に解釈して進めるのがよいかと思って 判断しています。

* 言分け構造の優位であるという仮説――身分けをも その文化に取り込んで 進みゆくすがたを捉えたこと―― ここには たしかに そもそも言語の成り立ちをどう捉えるか それについての見方が作用していると思われます。

すべて言葉が 互いとの差異によってのみ 総体として一挙に成り立ったという見解です。(単語の習得は 個体において 時間過程としておこなう)。

この一挙なる言分けを境にして 本能(自然)は壊れ 文化(錯乱せるヒト)が君臨するというのだと思いますが 一言でいって わたくしは 自然本性が基礎であり 文化に対しても 先行していると考えます。先行というのは 時間的にというよりは 考え方の上で・もしくは つねに潜在能力としてだと見ます。

提示されている《心》につきましては わたしの見方では 文化に対しても自然に対しても 自己〔なる心〕として対処していくものだと捉えます。自然本性というときは この心を当てます。

客観的な概念(ことば)あるいは客観的でなくとも社会心理的に象徴となる概念(ことば) そしてこれにもとづく広く文化一般 このような行為関係および社会現象に対して 心が 先行する位置にあり 有力でなくとも 有効であるという見方です。

欲求としての自然に対しても文化に対すると同じように 心はほとんど無力ですが 無力だと自覚し自認する存在だと見ます。無力だが有効である。つまりは この心を無視した考え方やおこないは すでに無効であると考えます。

もしソシュール=丸山理論が この心の問題をないがしろにしているとすれば 認めることは出来ません。これまでの回答の中に ソシュールは言語学者であったが現象学の徒ではなかったとあったと思います。要するに《主観》の問題を不問に付していると思われます。ですから 扱っていないけれど 含んでいると言えるかも知れない場合には 相手に有利に話しを進めていくのが肝要かと思います。 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>すべて言葉が 互いとの差異によってのみ 総体として一挙に成り立ったという見解です。(単語の習得は 個体において 時間過程としておこなう)。

確かに、おっしゃられているようなことは、ソシュールの入門書にも出てくるように思いますが、この文を以下のように3つに分解すると、さて、何がポイントなのか、ちょっとわからなくなってしまいます。そして、(3)を敢えて言う理由は何でしょうか? 実際には、日々、新しい単語が生み出されていると思うのですが。何か私には見えていない重要なメッセージが含まれているはずなんですが....。もし、おわかりでしたら、ご教授ください。

(1)全ての単語は互いに意味が違う(すなわち、異音同義語は存在しない)。
(2)総体とは、そのような単語の集合体のことである。
(3)この集合体に所属する単語は一挙に集合したものであり、順次、追加されるようなものではない。

お礼日時:2007/07/24 19:51

どうもです



もうずい1年半ぐらい前になりますか、大学のセミナーでビデオ『The Gods must be crazy/ミラクル・ワールド ブッシュマン 1982』を見させられました。これはtechnological determinism/(日本語はわかりません:おそらくテクノロジー/機械決定論)の勉強の一環でした。ある日、空から得体の知れない物体がブッシュマンの部落に落ちてきました。この物体はセスナから落とされた、コカコーラの空き瓶だったのですが、ブッシュマン達はそれがなんであるか分らず、おのおの違う使い道を模索します。子供達は遊び道具に、男達はかりの道具として、女達は料理用具など、その道具の使い道は人によって三種算用でした。しかし、やがて部族はこの道の物体をめぐってあらそいを起こします。-- うる覚えですがこんなような内容だったと思います。ここで僕は二つの解釈をしました。突然の新しテクノロジー(コカコーラのビンはブッシュマンにとってはハイ テクノロージー)は社会の因習/慣習を壊してしまう可能性がある。そしてもう一つは、物体/テクノロージーが人間の考え方を決めてしいまうということです(これが機械決定論の特徴の一つです)。この考え方は現象学に応用できるんではないのかと僕は思います。

ちょっと前に友達とフッサールについて話したことがあったんですけど、その時のことをここに書きますね。まずidealistsの考え方として、僕たちは、イデア界と呼ばれる場所?もの?をどこかに持っていて、物質界と分けて考えます。今そこに見えるてる物体は完璧なものではなく、完璧な物体のひな形がイデア界には存在しているということでした。僕らは正確な円を描くことはできませんが、その完璧な円のイメージは頭の中で描くことができるというのがその例の一つらしですね。そしてmaterealistsは逆に物質ありきで考えます。物質が物質界にあるから僕たちは認識できるんだと。どうやらフッサールはこの二つの考えの中間をとって考えたみたいです。それがブッシュマンの行動にででると思います。つまり人によって物質の考え方、見方が違うということです。テーブルの上に二つの物体があったとし、フッサールはその二つの物体があるとは言いません。その物体に見ている人数分だけそこの物体は存在しているのだと。おそらこの考え方は非常に質問者さんの考えに近いのではないのでしょうか。

僕の言う、言語の差異と理解とは人間社会に通じています。言語の世界に介入するということは、僕の視点から見て人間社会/資本社会、差異による言葉の表象世界に介入することだと思います。人間の子供は最初の制度(institution)家族の中で言葉(discourse)を通して社会を学んで行きます--つまり言語で切り分けられた世界に介入--- さらに言語の世界に介入することは、権力関係を強いられることでもあります。また言語の世界に介入することにより、言語による表象された世界の裏側が見えなくなり、僕らは自由を奪われているのかもしれませが、僕にそれはわかりません。

僕は書き込みで記号/言語の差異と理解について書いてきました。たしかに、物体と記号は直接くっついてはいません。そう考えると、質問者さんの考えに近くなるのかなと思います。差異による言語/記号で理解するということは、知識と物体の関係だと思うんです。つまり、僕らが物体を見る行為とは知識を見ている行為に他ならないんだと僕は思います。signified によるイメージは現実的な真実ではなく、単なる概念だと本で読んだことがあります。つまり机という音、文字を見た時、机と呼ばれイメージが頭に投影されますが、でもそれはとてもシンプルなイメージですし、人によってそのイメージも異なると思います。しかし僕たちはその記号を使い、コミュニケーションをはかり、社会そして知識を構築しています。物体と記号はくっついていないと言いましたが、それは例えばダイニングで使っているテーブルを自分の部屋に持っていって、その上に参考書、コンピュータを乗せれば、かつてテーブルと呼ばれていた物体はデスクと呼ばれる物体にその記号signifier をスライドさせます(僕の部屋の机はダイニングに置けばりっぱなテーブルになります)。つまり、机という記号を使って、呼んでいる物体は実は記号/テーブルと状況(他の記号の差異)により変換可能なのです。でもここで重要なのは、記号と物体の関係が知識にあるということです。僕たちが知識で物を見ている、つまり言語/記号の差異でを通して物を見ているということだと思います。この知識を(discursive knowledge/日本語でディスクール的な知識...ですかね)と言います。言語による知識は言語/記号の物体の関係を支えています。そして、この僕らが知っている言語社会は自由に慣習/習慣に従った知識を通してかってに差異を無視して物体に名前を与えたり、変えたりすることはできないと思います。例えばこの机をイチゴとか、猫と呼んだり。冗談で物に名前を与えることは可能でしょうけどね。

そこでまず質問者さんの”知らない言葉を聞いたとき、それが、何を意味するかが、はじめ、はっきりわからないのは、大人も子ども同じではないかと思います。だから、「もの」が先か「言葉」が先かを考えるとき、子どもを例に挙げるのではなく、大人を例に挙げても良いはずだと思うのですが。そして、大人の場合を考えれば、ある「もの」の名前を知らないからと言って、その「もの」の存在を他のものから明確に区別できないということはない。それは、明らかだと思います。”なんですが、例えばそこに未知の物体があって、記号を使って説明できないからといって、たしかにその物体の存在を否定することはできません。しかし僕たちの言語世界での知識はやはりそれがなんだか理解はできないと思います。そして理解するために、形容詞/記号を付加し理解しようとします”未知とかunknownとか”。質問者さんの使われた”区別”というのはカテゴライズだと僕は思うんですよ。どの程度まで、言語の差異、知識なくして物を区別できるか、不可能だとはここでは書きません、でも可能であればどうやって、という疑問を残します。

それから子供と母親の会話につてかきましたが(申し訳ありません、日本語で書くべきでした-- 猫を指差して、ママ!子犬だよ!子犬!)幼い子供では物体の差異がはっきりしてるわけでなく、おそらくぼんやりと漠然的に、今、彼らがしっている記号と知識の中で理解しようとしてるのかもしれませんが、これは決めつけるのは危険ですね。なにしろ僕は子供と言語に関して僕は全くの素人です、はっきりいって分らないと言ってしまったほうがいいでしょう。これは忘れて下さい。それと赤ん坊と母親の母乳については、僕には説明できません。勘弁くださいね。

参考まででした

この回答への補足

ていねいなご回答ありがとうございました。

>その物体に見ている人数分だけそこの物体は存在しているのだと。おそらこの考え方は非常に質問者さんの考えに近いのではないのでしょうか。

「もの」が先か「言語」が先かの視点から考えてみます。コカコーラの空き瓶を子供達は遊び道具に、男達ははかりの道具として、女達は料理用具として使うといった場合、確かに「用途」は三者三様です。しかし、もとになっている「コカコーラの空き瓶」そのものは、三者とも、同じものだと感じているのではないでしょうか? そして、そのまだ名前の付いていない「コカコーラの空き瓶」に対して、彼らは、必要であれば、名前を付けることができると思います(「もの」が先で「言語」が後)。何故なら、それは、3つの別物ではなく、同じ一つのものだと感じているからです。私が言いたいことは、ものの同一性は、「言語」がなくても、「心」が認知するのではないかということです。

>人間の子供は最初の制度(institution)家族の中で言葉(discourse)を通して社会を学んで行きます--つまり言語で切り分けられた世界に介入--- さらに言語の世界に介入することは、権力関係を強いられることでもあります。

おっしゃるとおりですね。これについても、「もの」が先か「言語」が先かの視点から考えてみました。社会や制度は「関係」で出来ています。親と自分の関係、先生と生徒の関係、警察官とスピード違反者の関係、政府と年金生活者の関係等等。ここで、「関係」などの五感で認知できない「もの」は、「もの」かどうかが問題になりますが、とりあえず、「もの」だということにして、以下のように考えました。

(1)五感で認知できる「もの」は、「もの」が先で「言語」が後。
(2)五感で認知できない「もの(?)」は、「言語」が先で「もの」が後。

(2)は一見正しそうですが、でも、やはり、その「もの(抽象概念)」についての何らかの認識が「心」の中に”事前”に全くなかったら、その言葉の意味は理解できないのではないかと思います。ということで、この場合も、やはり、「もの」が先で「言語」が後になりそうです。

>そして、この僕らが知っている言語社会は自由に慣習/習慣に従った知識を通してかってに差異を無視して物体に名前を与えたり、変えたりすることはできないと思います。

そうですね。だから、個人に対して外在する制度ということになりますね。でも、パロールで崩す人もいますけどね。

>どの程度まで、言語の差異、知識なくして物を区別できるか、不可能だとはここでは書きません、でも可能であればどうやって、という疑問を残します。

結局、言語の働きは、「注意」を促すことにあるのかも知れません。漠然と見ていた「木」一般も、これは、カエデだ、これは、松だ、これは、梅だと教わることによって、それ以後、それらの木を区別して見ることができるようになるということですね。こう書くと、「じゃ、結局、言語が先でものが後」ではないかと思うかも知れませんが、ここで、私が最も関心を持っている「出来事」があります。それは、一番最初に「これはカエデだ」と言い出したのは、「神」か、それとも、「人」かということです。さて、そのときは、「もの」が先か「言語」が先か?

補足日時:2007/07/24 19:14
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QToronto PC no kanji henkan no koto!

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tomodati ni mail wo okurunoni kanji henkan sitainodesuga
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yahari kanji henkan ha dekinainode shouka.

mosi kanji henkan suru houhou wo donataka sitteiamsitara
osietekudasai.

Aベストアンサー

参考
http://internet.watch.impress.co.jp/www/article/980327/ieime.htm

尚、図書館のパソコンとの事ですが、勝手にアプリケーションをインストールしたり出来ないと思うので、基本的には無理ですね。
自分のパソコンなら手段はありますが。

Qソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

 ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
 すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。

 (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ

  すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。
  《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。
  《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。
  そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。


  ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。

  / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。


 (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。

  nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)
  naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)
  naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く) 
  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)


 さらに語例を伸ばします。
 (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。

  nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)
  nago-mu   和む     (障害が消滅していく)
  nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)
  negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)
  nega-u   願う      (障害の消滅を希求)

   *

 どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。
 
 ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。

 オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。

 郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。
 
 日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。

 あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。

 つまり

  nagi 和ぎ
  nago-ya-ka 和やか   
  nago-mu   和む

 これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。
 (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。






 例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。

 あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。

 そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。


 さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。


 * おぎなうべき議論の一端として:

   音素・・・・=・・・・意義素
   _______________
  / n /  = 同定相・否定相
  / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相

 といった仮説を前提としています。
 いま

  / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)

 といった複合によって

  / nVgV /なる音韻(シニフィアン)
    =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)

 といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。



 ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。

 つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。



 

 * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。
 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

 ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
 すなわり この / nVgV...続きを読む

Aベストアンサー

「お礼」への書き込みをありがとうございます。

> ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。
⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈です。もしそうでしたら、部分的ですが納得できます。

> 第一の恣意性は 記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見い出されるものである。つまりシーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間にはいささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって具体的にはchien なる概念が/(シアンという発音記号)/という音のイメージで表現されねばならないという自然な内在的絆は存在しないということである。
⇒フランス語圏では[ʃj~?]という音を聞きいて脳内にその聴覚映像を結んだら人は「犬」を了解するが、それは[ʃj~?]という音と「犬」とが直結しているからではありませんよね。それは単に、フランス語での語義に関する社会的慣習に過ぎません。その証拠に、例えばアメリカでは人の名前だと思うかも知れないし、日本では赤塚不二夫の漫画に出てくるズッコケ表現だと思うかも知れません!
 ということで、[ʃj~?]というシニフィアンと、「犬」というシニフィエとの対応関係は、一重に、フランス語における「恣意的な約束」である…と、こういうことになりますよね。

> これに対して第二の恣意性は 一言語体系内の記号(シーニュ)同士の横の関係(←→)に見い出されるもので 個々の辞項のもつ価値がその体系内に共存する他の辞項との対立関係からのみ決定されるという恣意性のことである。
> 具体的に言えば 英語の mutton の価値がフランス語の mouton の価値とは異なる その異なり方の問題で その言語の形相次第で現実の連続体がいかに非連続化されていくかという その区切り方自体に見られる恣意性にほかならない。
⇒意味価値の相関関係は常に蠢いていますね。これは任意のどの言語でも当てはまります。もし、変動も何もなく安定しているような言語があるとすれば、それはすでに話し手のいなくなった「死語」でしかあり得ません。このような意味価値の相関関係の変動ぶりは、その言語における2つの異なった時期の共時態を比べてみれば一目瞭然です。そして、その間の通時態を時系列に沿って追ってみれば、その経過のほども分かります。
 ところで、その意味価値内の相関関係の変動は、何によって引き起こされるでしょうか。一方には「言語構造のひずみ」という誘因があり、他方には「そのひずみを何らかの方法で是正したい」という使用者側の動因があります。そして、その運動の遂行を決定づけるのは後者すなわち人間の側(の動因)であり、まさにそこに件の恣意性が関わってくる…と、こういう仕儀ですよね。

> ☆ 《結果的産物》としての第一の恣意性が成り立っていないということが明らかになれば どうなるでしょうか? つまりここでの反論は《第一の恣意性》が事実ではないと示して反駁するものです。これだけで反証は成し得たと考えています。
⇒さあ、それだけで反証を成し得たとするには無理があると思いますよ。前にも言及したとおり、どの言語内にもシニフィアンとシニフィエとの間に何らかの有縁性があることはソシュール自身も認めています:「(発話の際)能記の選択は必ずしも常に恣意的ということでなく、時に有縁的である」、「特に、擬音語と間投詞においてそのことが言える」、と。ただし、それに続いて「擬音語と間投詞は決して言語体系の組織的要素ではない」し、「我々の説を脅かすものではない」とも断言しています。つまり、「第一の恣意性」と矛盾する現象は僅かにあるけれども、それは「言語構造論にとっては周辺的なこと」であるとして、深入りしなかっただけなのです。ということは、有縁性の例をいくら集めてみせても、それだけで「言語記号の恣意性」を否定することはできないでしょう。

> ☆ 趣旨説明欄において ちらっと丸山に触れているだけですが 実際問題としては 丸山理論に対する批判である。こうはっきり申し述べておくべきだったことでもあります。丸山理論が 孫ではなく 本人だという意味です。
⇒「丸山理論が孫ではなく、本人だ」というのはある種詭弁のようにも聞こえますが、まあそれはそれとして、それならなお、「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」というタイトルとの間に少なからぬ齟齬があると思いますよ。
 なお、時々僭越にも辛辣なことを申しますが、決してbragelonne様を非難するためではありません。むしろ逆に、bragelonne様の学究心にはいつもながら敬服申しあげています。これは一重に、共同して真理への肉迫をしたいとの願望からに他なりません。どうかこの件、ご了解賜わりますように。

> ☆ すなわち この反証によって 《第一の恣意性》は 中身が事実に反すると明らかになったと考えています。
⇒いやいや、「音素(子音)がそのままで意義素をおびており、そのことが語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している」場合があることを示したところで、「第一の恣意性は、中身が事実に反すると明らかになった」などとは言えないと思いますよ。
 例えば、フランス語圏以外の地域で、[ʃj~?]と同じ聴覚映像か、少なくともそれとの有縁性を持つ聴覚映像で「犬」を想起せしめる状況(人間に共通する普遍性)がなければ、この語に関するシニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性を示したことにはならないでしょう。例えば、『鶏の泣き声のシニフィアンが多くの言語で[k]音を含む」というように、「地球上の人間の大多数が」[ʃj~?]と聞いて「犬」を想起するという事例に類する有縁性を突きつけない限り恣意性説は崩せないと思います。

> おそらくきちんとした語例を三つほど示して《音素=意義素》なる理論が例証できれば――つまりは ひとつの言語内だけでそう証明できれば――言語記号の恣意性なる理論は全滅である。こう見ざるを得ないと考えます。
⇒bragelonne様がよく研究されていることは敬服するところですが、今回の提示材料は通時語彙論・意味論であって、それはいわば文献学の範疇であるのに対し、ソシュールのそれは言語体系の構造論でしょう。つまり、philologyでlinguistics 批判をしようという、お門違いを犯していることになります。ですから、今回のbragelonne様の議論は、実態的には「通時語彙論に見る恣意性の原理の破れ」くらいの論題に過ぎないと思います。もし、この内容を「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」という論題で、例えば「日本言語学会」で発表するようなことがあれば、失礼ながら、一笑に付されることでしょう。

> ・ / nVk(g)V / なる語例
> ・ / h /=順出相;順定相と/ k /=反出相;反定相との対照
> ・ 完了相の助動詞で ツ(/ t(d) /)とヌ(/ n /)との対照
> の三つについて説明し得たと考えるものです。どうでしょう。
⇒シニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性は、多かれ少なかれどの言語にも見られますが、その有縁性の強さには差があり、フランス語などの屈折語ではそれが比較的弱く、日本語のような膠着語系はそれより強い傾向にあります。アフリカのスワヒリ語はそれが最も強い言語の1つで、例えば「のっしのっし」や「しゃなりしゃなり」等に当る「歩き方を形容する表現」が数十通りもあって、それを聞くだけで何歳くらいの人がどんな風に歩いているのか、もちろん男女の区別も含めて、分かるのだそうです。
 ソシュールは、このような言語を(シニフィアンとシニフィエとの有縁性に関して)「文法的な言語」と呼んでいます。「シニフィアンとシニフィエとの相関関係が、文法の範疇に入り込んでいる」という意味でしょう。ことほどさように、単独の言語に見る限りこのような有縁性は必ず見出されますが、他方非同系言語間では、("kennel"と「犬[ケン]寝る」のような!)ダジャレ的な偶然の一致を除いて、まず見出されません。
 bragelonne様の最初の質問文や補足の中の例は、相対的に「文法的な言語」からの例であって、したがってその研究のタイトルを再考するとすれば、「ソシュール『言語学原論』が手を抜いていたシニフィアンとシニフィエとの有縁性に関する考察」と題するにいいものであると思います。しつこくてすみませんが、決して「言語記号の恣意性」の原理を覆せるようなものではないでしょう。この筋からアプローチする限り、それはアリが象の足に噛みつくのにも似て、「原理」は微動だにしないでしょう。

 以上、碩学のbragelonne様に失礼とは思いましたが、偽らざる感想を述べさせて頂きました。ただし、本件に関してのみの感想でして、他のテーマについては常々敬服申しあげておりますこと、前述のとおりです。

「お礼」への書き込みをありがとうございます。

> ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。
⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈で...続きを読む

QAs examples, he cites the KANJI cha

As examples, he cites the KANJI characters for the " League of Nation " and " United Nation " and such catchy creations an gorin (KANJI meaning " five circles ") to convey the concept of the Olympics.


例えば、「連盟」や「連合」といったものや「五輪」(これは「5つの輪」を意味する漢字である)といった覚えやすい造語の例をあげた。

これってどういう意味ですか?
訳あっていますか?

Aベストアンサー

”League of Nations" の正式な日本語訳は下記のように「国際連盟」ですから、それを使います。
 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E7%9B%9F/

 「彼は、例として「国際連盟」や「国際連合」の漢字、またよく知られているオリンピックの概念を伝える五輪(五つの輪を意味する漢字)を、挙げている。」

Qウイゲントシュタインの「言語の限界」は「世界の限界」とは?

ウイゲントシュタインの「言語の限界」は「世界の限界」とはいったいどのような意味なのか、説明できる方がいらっしゃいましたらぜひお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは。。

 西洋哲学に関しては門外漢なのですけど、言語学・言語哲学関連の本を読んでいると、ウィトゲンシュタインはよく取り上げられますね。
 ウィトゲンシュタイン関連著作を数冊執筆されている黒崎宏氏はご存知でしょうか。
 著作の中で、著者は自説を大まかにまとめる形で記している箇所なのですが、(ご存知でしたらごめんなさい。)
 「ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム論』の核心は、すべてのもの一切を、心的なものも物的なものもおしなべて、言語的存在とみなす、ということである。すなわち言語を離れたもの-言語以前に実体としてあるもの-なるものは一切存在しない、というのである。言い換えれば、一切は言語的存在なのであり、意味的存在なのである。」
 黒崎宏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ』哲学書房より

 この一文は、「言語ゲーム」=世界と考えていた(←と投稿者が思っている)ウィトゲンシュタインの考え方を端的にまとめてあると思いますし、こういう固定し不変な物事の「実体」を想定しない考え方を打ち出したがために、彼が「哲学を殺した」といわれるのだと思っています。
 「言語ゲーム」=世界であれば、「言語の限界」は、おのずと「世界の限界」になると思います。
 個人的には、ウィトゲンシュタインのこういう考え方は形而上学否定であり、哲学の否定なんだと思っているのですが、こういう解釈が正しいのかどうかはわかりません。
 だいいち、自分は概説書などに引用されている部分を除いてはウィトゲンシュタインの原典を知らないので、これ以上はもうものが言えません・・・(ボロが出た)ごめんください。では。

こんばんは。。

 西洋哲学に関しては門外漢なのですけど、言語学・言語哲学関連の本を読んでいると、ウィトゲンシュタインはよく取り上げられますね。
 ウィトゲンシュタイン関連著作を数冊執筆されている黒崎宏氏はご存知でしょうか。
 著作の中で、著者は自説を大まかにまとめる形で記している箇所なのですが、(ご存知でしたらごめんなさい。)
 「ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム論』の核心は、すべてのもの一切を、心的なものも物的なものもおしなべて、言語的存在とみなす、ということである...続きを読む

QHow do I spell my name Chris in kanji?追加質問

「How do I spell my name Chris in kanji?
は第何文型ですか」という質問に対する回答への追加質問ですが、これがHowが副詞だからChrisは名詞が副詞化したものと考えていいのでしょうか。tomorrowが副詞としても使われるようにこの場合もそうででしょうか。そうすると第3文型というのが納得できます。

Aベストアンサー

こんにちは。
>How do I spell my name Chris in kanji?
この答えは、You spell [your name Chris] 駆栗鼠 in Kanji.となりますよね。この文だとSVOCとなりCに当たるのが駆栗鼠です。

従って、your name Chris は目的語の同格と捉えるのが自然だと思われます。
My friend, Chris is a clever girl.ですとMy friend と Chrisが主語で同格ですよね。これと同じように目的語となった場合にも考えればスッキリするのではないでしょうか。結論はSVOで in Kanjiのみが副詞です。

蛇足ですが、spellは本来アルファベットを綴る意味合いが強いので間違いではありませんが、How do I write my name in Kanji? の方がしっくりくるような気がします。
説明になっていれば幸いです。

Q「聞く」「考える」「カンガエル」「考える」「発話」

言葉を通して考える事について。

「聞く」
誰かの発話を空気の振動を経由し聴覚神経を経て
(あるいは何かの本を読んで)
「考える」
発話された意味を言葉に翻訳して理解する、
「カンガエル」
発話による刺激と、脳の中の記憶により、信号に変換
01.01.01.・・・又は、同じ、違う、同じ、違う・・・
この繰り返しの結果
「考える」
脳の中の信号の結果を、言葉に再度翻訳して、
「発話」
『言語のない世界に生きた男』の話は本当ですか?

大変大雑把な図式ですが、
質問は、「カンガエル」と言う部分が、
カントの言葉を借りれば「物自体」にあたり、
感性的な理解は不可能であり、結果として、
思考に言語が必要かどうかを問う事は、断念せざるを得ない。

皆さん、どう思われますか。

Aベストアンサー

関係ない話ですみません。
だって意味がよくわからないものですから。(;;)

でも犬を飼っていると、このあたりの事情がなんとなくわかります。
ノンバーバルコミュニケーションというか、動物との意思疎通というのは
なんとなくありそうな気がします。

犬は考えていないかというと、結構考えているのです。
行動を選択しその結果を喜んだり、落胆したりします。

主人の行動を観察して、「散歩かな?散歩に連れていってくれるかな?」
と目をきょろきょろ、おちつかないそぶりを見せます。
台所でカンッという、皿のふれあう音がすれば「条件反射」で駆け寄って
餌を催促するように吠え続けます。

この条件反射なるものが、実は「カンガエル」の原型であるかのように
思うのです。
記号論的に言えば、意味作用とでもいうのでしょうか、
事象やモノに意味を付与する(意味を選択する)行為が、
「思考」の実体であると思えます。

次に記憶ということがあげられます。
学習といいかえてもいいです。
条件反射は記憶による学習ですが、そこに言語は介在しません。
嗅覚と音などがおりなす気配が、次のおこりうる事象を予感させる
から、犬は吠えたり、そわそわしたりします。

ただ、そこに、いわゆる人間の言語は介在しないのは間違いない
けど、犬は犬なりに一連の気配を、グーとがガルルとか◎$)(’&%$
とか名前はないにしろ感性的に識別してる可能性はあるかもしれない

しかし、一方でそういう行動を観察する人間が「ゴン太。ごはんよ」
とか「ポチ。散歩だよ」と「発話」することで、音を聞き取って、この
僥倖は「ごはん」という発話でもって確定するという学習をしている
という可能性があります。
おそらく、感性的な思考はあると思います。
記憶と密接にむすびついていて瞬間的に一定の結論を導きだします。
それが未来の記憶(デジャヴュや潜在意識)であったりするから
不思議で楽しいのでしょうね。

なんか的外れで恥ずかしいなぁ(^^;

関係ない話ですみません。
だって意味がよくわからないものですから。(;;)

でも犬を飼っていると、このあたりの事情がなんとなくわかります。
ノンバーバルコミュニケーションというか、動物との意思疎通というのは
なんとなくありそうな気がします。

犬は考えていないかというと、結構考えているのです。
行動を選択しその結果を喜んだり、落胆したりします。

主人の行動を観察して、「散歩かな?散歩に連れていってくれるかな?」
と目をきょろきょろ、おちつかないそぶりを見せます。
台所...続きを読む

QCould you help me in recognising kanjis?

こんばんは。I'm a graphic designer from Hungary and I'm working on a logo for a karate club. I can't speak japanese. I have to keep the text on the logo, but I only have a picture in bad resolution. Could you help me in recognising kanjis and paste it for me in the answer? I attached the image below.

Aベストアンサー

Won't you let me explain 國際空手道(KOKUSAI KARATE-DOU) to you a little bit.

國際(KOKUSAI) means "international".
空手(KARATE) means "Karate". It is one of Japanese traditional martial arts.
道(DOU) means some "moral principles".

In short, KARATE-DOU is not mere sports. People training in Karate learn also "moral principles".

By the way, please make Mr. No.1's answer a reference about 國際武道アカデミー(KOKUSAI BUDOU AKADEMII).

Q「ツァラトゥストラかく語りき」の中の「ラクダ」「獅子」「幼子」とは?

ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」の中に、「三段の変化」という項目があります。「ラクダ」「獅子」「幼子」と、精神が三段に変化を遂げるようすを詳述してあるものですが、いくら読んでも、具体的にどう言う心境の変化を述べたものなのか理解できません。ニーチェは、やはりラクダと幼子を肯定的にとらえ、獅子を否定的に扱っているのでしょうか。
私は哲学はからっきし無学ですので、可能であれば具体的な事例を挙げてお教え下さい。

Aベストアンサー

幸い(?)私も哲学オンチなので、哲学色はヌキにしてお話させてくださいな。

■精神の三段の変化とは

1)ラクダ段階:神にひざまずき、重い荷を背負いたいと願う、服従と勤勉の精神
 俺は傲慢だ、知ったかぶりだ、俺はバカだ。
 そうであることの重荷に耐えられるほど、俺は嬉しい。
 どうか俺の背中に一番重い荷物を乗せてくれ神様。
 俺はどんな辛さにも耐えるから。

2)獅子段階:新しい創造を目指す権利を得る、自由意志発揮の破壊精神
 神とやらが俺に押し付けていた「義務」はもうどうだっていい。
 だって俺はこんなに強いもん。
 俺はきゅうくつな修行から逃れて、そして何者にも縛られない自由を手に入れるぞ。
 俺はもっとすごいことがしたいんだ。邪魔するやつは容赦しない。

3)幼子段階:新しい創造ができる力を得る
 (敬虔であったラクダ時代を忘れ、暴虐だった獅子時代も忘れ、
 すべてを真っ白な新しい気持ちで受け入れ、遊びながら、
 どんどん新しい価値を生み出していく存在。)

途中で「神様」という語が出てくるけれど、
ニーチェの名台詞はご存知「神は死んだ」。
つまりこの書は、キリスト教の価値観でガチガチに固められた世界観をブッ壊して、
それに代わる新しい価値観や新しい人間像を、
ゾロアスター教の神様(ツァラトゥストラ=ゾロアスター)にかこつけて語らせてみているわけです。

神様の教えに従順に従っている段階がラクダ。
それにおかしいと気づき、ぶっ壊そうとあがき暴れまくっているのが獅子。
(獅子でなければ古い価値観をブッ壊すことはできない)
そして新しい価値観を生み出すには、幼子のように無垢でなければいけない。

…とはいえ、「ツァラトゥストラ~」は「福音書」のパロディらしくて、
「幼子」とはイエスその人を指してるみたい。(「幼な子のようになりなさい」っていう聖書の言葉から)
つまり元に戻るだけで、新しい価値は誰も生み出せないという…
恐ろしいオチです。

>具体的な事例を挙げて
夏目漱石の「坊ちゃん」から「三段の変化」を説明しているサイトを見つけました。ご参考になさってください。おもしろかったです。(^^)
ラクダ…うらなり
獅子…山嵐
幼子…坊ちゃん

参考URL:http://www.geocities.co.jp/Bookend/4208/unpublished/enfant.html

幸い(?)私も哲学オンチなので、哲学色はヌキにしてお話させてくださいな。

■精神の三段の変化とは

1)ラクダ段階:神にひざまずき、重い荷を背負いたいと願う、服従と勤勉の精神
 俺は傲慢だ、知ったかぶりだ、俺はバカだ。
 そうであることの重荷に耐えられるほど、俺は嬉しい。
 どうか俺の背中に一番重い荷物を乗せてくれ神様。
 俺はどんな辛さにも耐えるから。

2)獅子段階:新しい創造を目指す権利を得る、自由意志発揮の破壊精神
 神とやらが俺に押し付けていた「義務」はもうどう...続きを読む

QMost of Japanese kanjis can be pronounced in some

Most of Japanese kanjis can be pronounced in some ways. For example, we pronounce "本" hon and moto. Similarly, "東" which is a character contained by our city's name is pronounced higashi, azuma, and to.
は『多くの日本の漢字には複数の読み方があり、例えば「本」はホン、モトと読みます。同様に、この市の名にある「東」はヒガシ、アズマ、トウとも読まれます。』という意味で通じますか?

Aベストアンサー

some →several もしくはmultiple などのほうが良いと思います。
細かいことを言うと、which is a character contained by our city's name は前後にカンマを入れたいところです。

Q「草陰」、「草葉」、「葉隠れ」、或いは「物陰」

 「草陰」、「草葉」、「葉隠れ」、或いは「物陰」ということばや表現に私たちはせっしてきましたし、時には自分でもつかうこともあります。
 質問者は、「草あるいは草葉」、「陰」、「隠れる」、或いは「物陰」という表現が何か共通の感覚や意識、思い方、或いは心性みたいなものががあるのではないかと、ずぅっと気にしているのです。
 このことについて、何でもお教えや参考事項や思われることがありましたら、どうかご投稿くださいますよう、お願い申しあげます。
 美人でえらい皇后陛下が、美しい物だって、時とともに醜く朽ちていくことを知ってもらうために、死体を野ざらしになさったというお話も仄聞した経験がりますし、何か昔は野辺送りは、本当に草の野辺においてきたのだというお話しも伺ったことがあります。
 どんなことでもどうか、お教えください。関係が遠いという判断はどうか為さらないで、衝動でご投稿ください。
 どんな文章でも、漢字変換ミスも読解しますので。

Aベストアンサー

海ゆかば 水漬く屍
山ゆかば 草むす屍

「海ゆかば」を思い出しました。元は古いものなんですね。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E3%82%86%E3%81%8B%E3%81%B0

>美人でえらい皇后陛下が、美しい物だって、時とともに醜く朽ちていくことを知ってもらうために、死体を野ざらしになさった・・・。

それが、本来の死に方だと思います。
焼き場(火葬場)で、祖母が焼かれようとしているのを見た小さな孫が、「おばあちゃんを焼いちゃダメ、よけい死ぬう!」と泣き叫んでいました。
われわれ、大人は火葬は普通のことと思ってしまっていますが、子供にしてみれば残酷だと思ったのでしょう。

難しいことはわかりませんので、こんなところでご勘弁ください。


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