ソシュールの入門書などを読むと、以下のように言っているように思えます。

<< この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>>

もし、それが正しいとすると、「リンゴ」という言葉がないと、「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、それは、おかしいと思うのですが。もちろん、「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。

ソシュールはどういう意味で、上記のようなことを言ったのでしょうか?

 

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A 回答 (77件中51~60件)

No.22です。



一つには 言語を 民族ないし国家としての社会的な言語(ラング)と発話としての言語(パロル)のほかに シンボル化能力などを含めた普遍的な言語能力(ランガージュ)としても捉えていることが関係してくるのだと思われます。単純に見れば 《心分け》もランガージュに含まれると言われるかも知れません。(推測です)。

(わたくしは 実は ソシュール学説が嫌いです。このように弁明する側にまわるとは思ってもいませんでした)。

あとは 丸山圭三郎の言説を引用してみます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
人間だけが・・・本能図式(身分け構造)に加えて もう一つのゲシュタルトを過剰物として持ってしまったところに 人間の栄光と悲惨の原因があるのではないだろうか。これが第二の分節の結果生ずる《言分け構造》であり このおかげで人間特有の文化が登場した。この文化は 記号・用具・制度によって身を一定の環境から解放する一方 身の方もこれに組みこまれて支配される拘束という両義性を持っている。
それでは その《シンボルか能力》としての言葉によって生み出されたものが何故過剰なのか。

第一にそれは身の延長だからである。私たちは言葉によって《過去》と《未来》 《背後のあそこ》と《前方のあそこ》 つまりは来し方と行く末を差異化・差延化する。・・・

第二に シンボル化能力の産物は そもそも生物体としての人間にとっては存在しなかった《意味》を文字通り身の延長である人工的道具によって拡大生産するからこそ 過剰である。望遠鏡や顕微鏡がなければ人間にとっての《意味》たり得ないほど遠方にある事物や微小なるものが 人間の生体的な閾を超えて現出する。ましてやレントゲンによってはじめて見ることが可能な透視像などは 動物としてのヒトにとっての第一次的な《意味》をもつものではあり得まい。

・・・言分け構造の基底にあるもの〔は〕 《欲求》ではなく《欲望》・・・なのだ。
欲望は永久に充足することがない。・・・すべての欲望の根源には 言葉の産物である《自我》がある。パスカルもつとに指摘しているように 《三つの邪欲》すなわち官能欲 知識欲 支配欲は 《自我(エゴ)》の欲望なのであり 《自己(セルフ)》の生命維持活動とはまったく質の異なるものであろう。
・・・
(丸山圭三郎:言葉と無意識 1987 p.168f.)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
このようにして 議論はつづいています。(そう言えば 《もの》の認識のことも触れていますね)。そのあと 《欲動(トリープないしリビドー)》の概念をも提示しています。

《欲動とは 文化の基底にある欲望でも 生物学的欲求でもない。欲動は 文化的欲望によって生理的欲求の図式が壊れた時にはじめて登場するのではあるまいか。》(p.184)

《本能残基としての〈身分け構造〉がベースとなって〈言分け構造〉が再編成されるのではなく 〈言分けられた身〉の網の目によっては掬いきれない生のエネルギーとしての〈欲動〉の力が身をさらに言分ける原動力となるのである。》(p.189)

ここに《人間存在喚起機能》(p.185)であるランガージュが かかわっていると言われれば 相当広いもしくは深い領域を 言語は担っていると言っていると推し測られます。

《無意識》の問題も それを認識論などとして扱うことも わたくしは嫌いですし苦手です。

というわけで いまは紹介までとさせていただいてよろしいでしょうか。

ソシュール理論がきちんと批判される日を待ち望んでいます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

《身分け》の段階に踏みとどまっていれば、「実在の現前」に対処するだけで、心安らかに生きていられたのに、何故か《言分け》の段階まで進化してしまったが故に、過剰なる「非在の現前」に日夜振り回され、将来の不安、過去の後悔、そして、妄想的欲望に捕らわれるようになってしまった。哀れよなぁ人間は。と言ったところでしょうか。

お礼日時:2007/07/24 18:13

#1 です。


入門書を読んで素朴な疑問を提出された質問者に対し
かなり高度な回答が多数寄せられたことに
ソシュールの偉大さというか、人気をかいま見たようで驚いています。

さて、私の回答ですが、

質問者がおっしゃるように、言語に先立って「もの」は存在します。
ソシュールもそう考えていたはずと思います。
言語能力の誕生(=人類の誕生)以前にも世界(物質界)が存在したことは確実でしょう。

ただ、いったん言語能力(ランガージュ)を手にしてしまった人間にとって言語以前の物質界を想像することは至難の業です。
なぜなら、それが「100年前のリンゴ」であれ、「いま目の前にあるリンゴ」であれ、「青いリンゴ」でも「赤いリンゴ」でも、甘かろうが酸っぱかろうがすべて「リンゴ」と認識するのが言語による認識です。

言語により認識される個々の「もの」というのは、じつはそういう一般性において認識された「もの」にすぎません。1回的で他と置き換えの効かない具体性としての「そのもの自体」とは違うのです。

人間に認識できるのはそういう一般性(言語)を通して見た「もの」でしかありません。
だから、ソシュールは「言語によって切り取られるまでは個々の『もの』は存在しない」と言ったのではないでしょうか。

言い換えれば、人間が認識する「もの」というは、言語によって一般化されてとらえられた存在にすぎないということだと私は思います。

もしも言語がないとしたらどうでしょう?
我々がふだん言語により一般化してとらえている「もの」は、すべて1回的で
同じものなどあり得ない、他との共通性もなければ、差異など論じる必要がないほど完全に異なった「もの」、すなわち「混沌」に還るほかはないでしょう。

「身分け」と「言分け」に言及した回答者がいらっしゃいましたが、
この区別も意味のあることです。
言語能力を持たない生物もさまざまな「もの」を感覚器というセンサーで「身分け」て認識しています。それもある種の一般化だと思われます。たとえば「食べられる/食べられない」という区別ですね。

言語による一般化はそれよりさらに強力なのだとおもいます。100年経とうが甘かろうが酸っぱかろうが青かろうが赤かろうがリンゴはリンゴ。それが言語の機能なのです。

いずれにせよ、言語(あるいはなんらかの感覚器官)による一般化がなければ、この世界はすべて1回的な事物の継起として経験される他ありません。同一性など存在せず、したがって、差異さえ存在する余地のない混沌でしかありません。

そういう意味で、「この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の『もの』は存在しない」のだと私は理解しています。

「もの自体」が存在しないのではなく、

普段人間が(言語を通して)認識しているようなものは存在しない。

それだけのことです。

結論としては、「」のつかないモノが先、言語によってとらえられた「もの」が後ということです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>質問者がおっしゃるように、言語に先立って「もの」は存在します。ソシュールもそう考えていたはずと思います。

ソシュールの入門書などを読むと、「言語はものの名前ではない」とか「言語は名辞目録ではない」と書かれています。これは、例えば、ある「もの」の名前は、その「もの」が先にあって、それに名前を付けるという関係ではなく、言語の方で対象の「切り取り範囲」が決まっていて、その範囲によって「もの」が初めて確定すると言っているように思えるのですが、違うのでしょうか? 

>人間に認識できるのはそういう一般性(言語)を通して見た「もの」でしかありません。

言語が「一般性」しか認識しないことはよくわかります。でも、だからと言って、言語を知った人間が目の前の個別具体的なものを個別具体的なものとして認識できなくなるとは思えないのですが。

お礼日時:2007/07/24 17:50

kaitara1です。

私のいいたかったことを的確に表現していただいたと思いました。そして正にあなたのご指摘が始めの問題への関連を示唆してくれたと思います。主体がなくても認識ができてしまうのが言葉によらない認識で、人間でも体はそれを行なっています。赤ん坊が行なっている認識です。赤ん坊は自分が認識していることを知りません。というよりまだ自分(主体)が出てこないわけです。周囲の大人がいわば代理人として赤ん坊のやっていることが合理的かどうか判断しながらあたかも赤ん坊に主体があるかのように見做して安心して(整合性のある理解)をしています。赤ん坊のほうも世話してくれる大人の判断を受け入れているうちに言葉によって自分(主体)を獲得していくわけです。そして物心がついた頃にはそれがことばによって支えられていることを意識できないほどことばに依存してしまうのではないでしょうか。面白いことにこのように赤ん坊が大人になると今度は主体がないと認識ができなくなってしまいます。これが正にあなたの当初の質問への回答になっているとわたしは思います。主に周囲の大人による誤った自己注入(赤ん坊の主体を育てないような過大な干渉により)ことばによる自分(主体あるいは自己とも言います)の獲得に失敗するとこの赤ん坊はおとなになりそこなって重大な障害が生じます。このような人間だけが悩まされる障害というのは本質的に人間独特のことばによるに「主体あっての認識」と深くかかわっているのではないでしょうか。木村敏さんの「時間と自己」中公新書を読むとこのようなことが連想されるように思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

赤ん坊は、言葉を覚える前でも、身の回りのものを見分けて認識はしているけれど、主体が確立していないから、自分が認識しているという認識はないということですね。

このような赤ん坊の心理状態を「赤ん坊にとって、世界は混沌だ」と呼ぶのが適切かどうかは別として、少なくとも、主体を確立した大人が見る世界とは違った状態だと言うことはできるのかも知れませんね。

ところで、主体が確立した状態というのは、どういう状態なんでしょうね。「世界を認識していることを認識している状態」でしょうか? このような状態に移行するために「言語」が必要ということになるのでしょうか。難しいですね。どこから手を付けていいのかさっぱりわかりません。木村敏さんの本を読めばわかるのでしょうか。

お礼日時:2007/07/24 15:55

前の方の記号学というのは言語学(ソシュールはNo14様が書かれてるように言語学者なんですよね。

‥?)と同じか似ている類似学問なのですか?

ほんとに何も本は読む暇もな生きてきましたが、 考えることはできますし(中学生程度の言葉でですが)、たぶん子供の頃何度も何度も死線をさまようようなことがあって「存在」に関わることは子供の頃から考えていました。(もちろん、何がこの「「知らない間にいつしか生きていた私たちにとって何がほんとうにひつようなのか」」ということについても、やがて必死なまでに考えるようになってました。)

質問者様は、まず心で切り取った世界があり、その心で切り取った世界を指し示す映像として(すみません、記憶力の浅い、また正確な言葉遣いのなれていない肉体労働者ですので、言い方が正確でないでしょうが、意味はだいたい会ってると思います。)言語が生まれたという意味のことを書いておられますが、  その映像の部分が記号学の記号なのでしょうから
類似学問ではあるに違いないと推理はしていますが。

で、私の考えなんですが、
ソシュールがいつの時代のどこの国の人かも当然知らないのですが、やっぱりキリスト教の神の概念を守ろうとしたクリスチャンの一人だったのではないかと思うのです。

クリスチャンは ときどき人間の神聖さをを語るべく進化論まで簡単に否定したりしています。 神の創った世界がこの世界ならば、すべての進化の過程も神聖なのにです。 その理由(その心の因)については、ここではさぐったり推理したりしませんが、 ともかくkobarero様の書かれているような私よりも不正確な荒削りな言い方を言語学者である方が書いているとすれば、そのソシュールという言語学者もたぶんやっきとなってなんらかのキリスト教神学を語りたかったのではと思えるのです。

人間が生物(動物)であることを否定したい人(現在はこの世で生物でもあるのは定めだけれど、それは本来の人間の姿ではないといったふうに思い込みたい人)が そうしたクリスチャンであるとすれば、
まさにkobarero様も言われているように、心でまず切り取らなければ生物でもあるそういう存在として地球にはりついているような我々の頭脳は言葉を切り取ることもできないのに、そんなあたりまえのことをソシュールという人はたぶん昔の人で生物学的なことはすっぽかしてしまったんだろうと思うんです。 

動物と魂を神から与えられた言語を持つ人間とはまったく違う存在なんだ!! 事実、言語によって切り取られる(人間の能力によって言葉がうまれるまでは)すべての宇宙すべての物体すべての生命体に意味なないんだから 荒涼混沌としてひとつの物質と同じ無意味な存在だったじゃないか。   というふうにです。

ほんとうは、生物学的な五感というものが、どういう進化でかどういう突然変異でか、サルとは極端に深いとしか言いようのない可能性を宿すように神は とにもかにもそう仕組まれたということは神がいるなら考えられることですから、その事実による違いを科学的に追いかけようと努力するのがキリストのような人の弟子たちのあり方だったのではないかと私は思います。

 私のサルと人間の頭脳の違いについての考えは簡単で、 「見つめる」能力の違い。これだけだとも言えると思ってます。

 だから反省し進歩もできたということなんですが、これを言語の進歩ということで言うなら、 まず心で切り取るというここでの論議の部分は、
個々の「もの」がより強くはっきり見つめることができ、かつそれと他との差異も同時によえいはっきり見え、それによって言語化という映像化(記号化)も可能となり、五感の体験と言語の認識循環のようなものも人間の歴史の中にうまれ、そうして、
人間認識で言えば、これが、自己同一性の自覚につながり、だから他人と同じようにこうして人間として生き語らう人間認識もこれで深まる可能性が出来たということになります。

「もの」が先か「言語」が先か?という質問が、語らいを生み それがやがて自己同一性(あっ 今気がつきましたが、自己同一性という言葉が本とかの中でどのような意味あいで使われてるか知らない者ですから、あくまで言葉から考えての解釈をしています。 みなさんともしかしたら解釈がずれてるかもしれないですね。)の論議にまでなってる というのもおもろいですよね。  

それにしても  たった今これを私が 書いている事実。 たった今(それは時間はこれを書いている今からは先の事でしょうが)これを読んでるかたがいて、 こうしてネットでですが、語らいがつづいている。
 知らない間に 気がついたら「自己」がいて、同じ(だろう)人間の群れの中でこうして  たった今語らってる。  言語を通して、そういう記号でもある映像をとおして、なんとその言語について語らってる

なんか これって   この広大荒涼とした様、砂漠なんてもんじゃない宇宙の中で        やっぱ すごい 何かだ!!!とおもいませんか。

でも 同じたった今、 くるしんでいる人、孤独な人、これからどうしたらいいか途方にくれてかんがえる力もうせた人、 だんだん痴呆症になってく自分に気がついてもどうしようもないでいる老人たち、 

たった今も この人間の歴史から消えてはいないこの現実を、不自然に神の信仰こだわりすぎたのかもしれないところの言語学者なのに私よりも頭のこんがらがった人には無理でも、 やっぱり すこしでも助けるためには、言語は最大の力なんじゃないですか?

 言語と体験と思索の積み重ねの循環の力です。

「見つめる」力 たしかに、言葉として切り取れば、偉大のはずのものです。

 あ、今思ったんですが、ソシュールのような人たちって 人間は神のようになれると思ったのかな。
だったら そんなの無理です。 神が絶対でなくても同じことです。
たとえば、私にしても、これを読んでるあなたの事も、この質疑応答に直接参加されてる方々のことにしても たったほんの文面をほんのひとつづづしか知ってく能力なんて無いんですから、   これ以上考えるまでもなく人間なんてちっぽけなもんです。

 神の存在をわたしは否定などしていません。 でも、宗教信仰者って「いつかは神のようになれる」とか逆に「神は愛だから人をいつか助けてくれる」と思ってませんか? だったら私はそういう信仰には否定的です。  人間よりちっぽけな愛だったらだれかを助けたりするかもしれなくても 体験あるいは観察でもいいですが、そこから世の中を広く深く考えてみてください。  神は人間を助ける存在じゃないはずです。

 いっしょうけんめい考え、いっしょうけんめい論議し、 楽しみをそこにときにはもとめたりするのも人間。 すこしでも進歩し強くなっていき、すこしでも苦しんでる人を助けられるような歴史を作っていけるのも人間。   
また よけいなこと書いてしまったかもしれないですが、 
ほんとうは ソシュールも その希望は   まったく同じだったんじゃないでしょうか。

前回の回答と同じ意味合いのものですが、くわしく書いてみました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

「初めに言葉があった。....万物は言葉によって成った。...」は、天地創造のイメージがあるので、旧約聖書の創世記に載っているものとばかり思っていたのですが、あらためて調べてみると、新約聖書の「ヨハネによる福音書」に載っていました。そうなると、これは、むしろ、古代ギリシャ哲学の影響を受けているのかも知れないと思い始めました。よくわかりませんが、ひょっとすると、プラトンのイデア思想の影響も入っているのではないでしょうか。今日、ソシュールの解説本を読んでいたら、ソシュールは言語学に数学の考えを導入することにかなり執着していたようです。そうだとすると、現実世界とのどろくさい関連性を捨象して、論理的に整合性のある綺麗な理論を作りたかったのかも知れません。

お礼日時:2007/07/24 15:15

kaitara1ですが私の勉強をさせていただいております。

認識主体の自己同一性というものは記号論でもあまり問題にしないことではないでしょうか。あなたのおっしゃっている同一性はあくまで客体(認識の対象)についてのものです。人間とほかの生物を分けないといけないと持っています。認識主体の自己同一性が問題になるのは人間だけです。認識主体の同一性の認識というものは言葉を用いなければ不可能だと思います。これに反し、対象の同一性は必ずしも言葉とは無関係に認識されるものです(これが主体なき認識です) 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

済みません。私の当初の質問との関連性がわからなくなってしまったのですが、主体なき認識の場合は、言語がなくても、この世界を分節できるということでしょうか? また、主体なき認識とは、例えば、動物とか、赤ん坊のことでしょうか?

お礼日時:2007/07/23 23:16

ソシュールについては 言っていること(額面の内容)は部分的にわかりますが 全体として何を言おうとしているのかは ついぞいまも 分かりません。

みなさんの回答を読みついで それでも自分の疑問であるごとく思われて来ましたので 考えるところを投稿させていただきます。

と言っても――ということは―― 例の丸山圭三郎の解説・主張をたたき台として考えたものです。

まづ初めに鍵となる用語を取り上げますが 《身分け / 言(こと)分け》です。後者が 言葉で世界を全体として一挙に切り取るという場合です。

一般に動物について かれらが自らの環境世界の中で 何が有害か無害か 無益か有益かなどが分かるのは 身分けだと言います。自己保存のため 自己の身を他から分けるというわけです。

人間については たとえば赤ん坊が 母親の乳房を拒まないのは 身分けによって知覚しているのでないかということだそうです。

そしておそらく しかしながら 人間については この身分けの力が 本能を保つ動物のそれよりは劣ったものだと考えられます。しかも 逆に言えば 《言分け》の力を 人間は身につけたというわけです。

このとき 身分けの次元では――すなわち 言分けの以前では―― 自我も発達していないと見ているのだと思います。ということは 目の前のりんごに対して おそらく言分けが出来ていないのは言うまでもなく 身分けすらも覚束ないという意味で 《心で》も捉えていない・切り取っていないと言っているのではないかと推測します。

推測の限りで 人間にとって世界が現前するのは 《言分け》とともに 全体として・一挙にのことだと言っているようです。さらにしかも りんごをりんごとして みかんをみかんとして 個別にそれぞれ個物を認識するのではなく ringo とmikan と budou と何やかやとの互いの差異によってのみ 言語としては分かるということだそうです。(ローマ字で書いたのは シニフィアンのみだという意味でないですが)。

《ソシュールは、言語が生まれる前に、「心」がこの世界を切り取っていることを否定しているのではないでしょうか?》
――そうだとも言えるようですし 心を言語に含めているとも考えられます。同時一体だという意味ですね。

このような日和見のこたえになってしまいました。

・・・・・・・
なお余計なことかも分かりませんが 丸山によれば 言分けは その力と影響が大きく 身に対して・そしてつまりは身の人情にからむといった意味での心に対して よほど優位に立ったと言います。それは いわゆるヴァーチャルな世界が例に挙げられます。身がそこにいなくとも おおよそでは言葉だけによって そのまま世界が現実としてのごとく現前するようにまでなったのだと。言葉が 身や心をも動かすのだと。

だとすれば――だとしますと―― わたしも 言分けの前に 心で知覚し何がしかを認識する段階があるのではないかという見方に傾きます。別の言い方をするならば 言葉が一つひとつ互いとの差異によってのみ成り立ったという仮説――つまりは いまの言分け理論において 文字どおり全体として一挙に 成り立ったという仮説―― この仮説の内容に 疑問を感じております。などなどです。

りんごについて 安全・滋養豊富・美味よりは ブランドが大いにものを言うとすれば それは この言語理論によれば 人間世界にあっては あたりまえだと言っているのだと見られます。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

《身分け》が正確に何を意味するのか、あまり良くわからないのですが、非常に有効な視点だと感じましたので、以下のように自分なりに解釈し、考えてみました。もし、お考えと異なるようでしたら、ご指摘ください。

《身分け》とは、生存・生活に必要な対象を、言語の力を借りずに、五感(身)を通して分節する働きと考えてみました。

このように考えると、この世界は、《言分け》する前に、既に、一定のレベルまで、分節されているということになります。例えば、赤ん坊がお母さんのおっぱいを吸ったり、お父さんやお母さんの顔を見分けたり、色々なものを握ったりできるのは、《言分け》されていなくても、《身分け》されているから可能なのだということになると思います。

そうだとすると、ここで、問題になるのは、《身分け》と《言分け》の関係です。

もっとも安易に考えると、《身分け》たものに名前を付けて《言分け》するという例です。例えば、お母さんの顔を指差しながら「ママよ」と言って、「ママ」を《言分け》するということは十分ありそうなことです。しかし、これだけだと、《身分け》たものしか《言分け》られないことになります。

例えば、赤ん坊がママを求めて「ママ、ママ」と言ったとき、もし、ママは買い物に行って今は家にいないという場合、そのことを赤ん坊に伝えたいからと言って、「ママ、今、いない。買い物、行った」と言っても通じないでしょう。多分初めは、「いないいないバー」とかをやって、「いる」「いない」という言葉を覚えさせたり、あるいは、「今ここにある物」、「今ここにないもの」、「今ここにないけど、向こうに取りに行けばあるもの」などを「経験」させた上で初めて、「今」とか「行った」とかの言葉が覚えられるのではないかと思います。

何を言いたいのかというと、《言分け》する場合、言葉を一方的に教えようとしても無理だということです。言葉を覚えて理解できるためには、言葉が指し示す対象を事前に何らかの形で”分節されたもの”として経験していないと、覚えようがないということです。すなわち、《言分け》する前に《心分け》されていないと無理だということです。例えば、「さっき」という言葉を覚えることが可能であるためには、「お母さんがいない」という感覚と「お母さんがいる」という感覚の両方を「心」で感じとり、さらに、その違いの背景として、”時間の経過”というものを「心」(五感ではない)で感じ取っていない限り、「さっき」という言葉を理解することはできないと思います。

ということで、結論としては、この世界は《言分け》によって文節される前に、《身分け》と《心分け》によって既に文節されているのではないかと言うことになるのですが、いかがでしょうか?


>つまりは いまの言分け理論において 文字どおり全体として一挙に 成り立ったという仮説

何故、一挙に成り立たないといけないのかが、よくわかりませんでした。言葉は、社会の複雑に伴って少しずつ増えていくのではないでしょうか?

補足日時:2007/07/23 23:05
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はじめのご質問からずれてきたようで心苦しいのですが関係があると思うのでもう少し書かせて頂きます。

切り離す、離せないのことですが、われわれ人間でもリンゴがどうして栄養になるのかは知らないでも体はちゃんと消化して栄養になってしまいます。これは主体無き認識とでもいうことです。つまり認識に不可欠な主体の存在がはっきりしないのです。体がリンゴを認識するためには体が不変でなければなりません。体が不変であるはずがないのですが、普遍であるとする事ができるのは実は体から遊離している人間の脳のはたらきによってつくられることばのはたらきです。リンゴを食べる前と食べた後で体は必ず変化しています。食べる前の体と食べた後の体の変化を知るのは変化しない尺度で比較するほかありません。この変化しない尺度というのが言葉です。そして変化したにもかかわらず同一の体であると考えられるのは言葉のはたらきです。リンゴを食べる前と後でたとえばあなたの名前が違ってしまったらリンゴを食べたのはどちらのあなたか分からなくなると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

おっしゃっていることが充分理解できたかどうか、未だに、自信ないです。ただ、恐らく、関連した問題だろうと思うことを以下に書いてみます。

「同一性」には、2つの次元があるように思います。ひとつは、空間的同一性、ひとつは、時間的同一性です。

空間的同一性は、例えば、ここに有るリンゴとあそこに有るリンゴは、別々のものだけれど、同じ「リンゴ」であるという意味です。時間的同一性は、例えば、昨日の自分と今日の自分は、厳密な意味では別な自分だけれど、それでも、そこに同じ「自分」を見出すという意味です。

kaitara1さんがおっしゃっているのは、この時間的同一性のことではないでしょうか?

そこで、このことから、「もの」が先か「言語」が先かについて考えてみます。

ひとつの疑問は、空間的同一性や時間的同一性は「言語」がなければ、得られないのかということです。

そんなことはないというのが私の結論です。理由は以下の通りです。

言語を知らない犬でも、空間的同一性に基づいて行動しています。例えば、ウサギを追いかけるように訓練された犬は、ウサギを見ると追いかけます。ウサギ一匹一匹はそれぞれ微妙に異なりますが、だからと言って、特定の一匹しかウサギと認めないということはないです。

言語を知らない犬でも、時間的同一性に基づいて行動してます。例えば、昨日見た「主人」は、厳密な意味では今日見る「主人」とは違います。しかし、犬は、今日見た「主人」に噛み付いたりはしません。

従って、空間的同一性や時間的同一性を獲得するのに「言語」が必要ということはないと思います。

お礼日時:2007/07/23 16:08

>人は言語でこの世界を切り取る前に、既に、「心」でこの世界を切り取っている。

言語はその「心」で切り取った部分を指し示す音声映像として生み出されたものである。
:これが自然な考え方でしょうし私もそう思うのですが、ソシュールという人が何らかの意図で他の視点を提供している、という前提で考えてみます。
この場合、考えられるのは、心で切り取った時点ですでに言語は必然的に付随してくる(「もの」と認識した時点で名前は必然的に冠せられる)。
それは、その「もの」に対する認識を経験として以後に生かすために、人間(の脳)が要請する必然的な仕組みである、というように解釈できないでしょうか。
厳密な手順から行けば、「もの」を認識→「言語化」ということになると思いますが、心で切り取られた「もの」が「個々のもの」として人の認識に定着するためには言語が必要になる。
つまり、心で切り取られただけでは混沌と一体化した状態を脱していない、という解釈。
以前kobareroさんがおっしゃっていたような気もしますが、ある程度以上の思考には言語を介す必要がある、ということになるかもしれません。
「この世界は~混沌とした一体」という前提自体が彼の視点の問題でしょうし、「個々のもの」は認識できない以上存在しないも同然で、その認識には言語が必須であるということになるでしょうか。
この世界に個々のものがあるかないかは別にして、言語を持たないミミズにとって「この世界」という概念は無意味だと思われます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>それは、その「もの」に対する認識を経験として以後に生かすために、人間(の脳)が要請する必然的な仕組みである、というように解釈できないでしょうか。

その通りだと思います。

お礼日時:2007/07/23 15:43

>ソシュールは、シニフィアンとシニフィエは紙の表裏の関係であって、切り離せない結合体(シーニュ)であると言っていると思います。

だから、シニフィエが先にあって、それに、名前を付けるがごとくにシニフィアンを結ぶ付けるというようなことを否定していると思います。

シーニュというのはシニフィエがシニフィアンされた後の話です

{シニフィエ→シニフィアン}→{シニフィエ⇔シニフィアン}

{シニフィエ→シニフィアン}が混純から「物」へ
{シニフィエ⇔シニフィアン}がシーニュだと思います
たぶんね・・・w
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/23 15:40

ソシュールのいいたかったことは、視覚として一体をなしていた「風景」という認識と、知覚として、物質と物体を識別できることとは異なり、言語を持たない動物でも「リンゴ」を食べることは出来ますし、見分けることも出来ます。



つまり、区別は可能なわけですが、言語的に分化された共通認識がなく、山・森・木・りんごという、名称と個々に対応する思考の存在が無いという状態がいいたかったのではないでしょうか。
地理的思考回路というか、自分との遠近関係によって認識していたのではないでしょうか。(「角のお店」とか… (-。-)y-~~)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>山・森・木・りんごという、名称と個々に対応する思考の存在が無いという状態がいいたかったのではないでしょうか。

そいいう意味なら、よく理解できます。だから、子どもは言葉を覚える必要があるわけですからね。

お礼日時:2007/07/23 15:39

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Aベストアンサー

こんにちは。

これは難しい質問ですね。

概念は実在するという概念実在論やイデア論的な考え方に立てば、
概念や意味が言葉に先行する、
となります。
そして、
言葉は概念や意味などを音声や文字などによって表わしたもの、指し示すもの、となるのでしょう。
非常の素朴な考え方ですけれど、説得力があります。

人が何か新しい言葉を作るとき、その言葉で指し示されるもの、そのものの性質、意味などは、すでに心や頭の中にあります。そして、新しい言葉が生まれます。
何かを他人(ひと)に伝えたい、しかし、それを表現する言葉が生まれない、ということも、よく経験するところです。

ところで、「猫」という漢字があります。この漢字・言葉の持つおおよその意味は決まっています。そこにわたしが誰も考えたことのない新しい、これまで存在したことのない意味を加えたとします。この時、「猫」という言葉・漢字、記号にこの新しい意味は先行していたと言えるのか?
概念実在論やイデア論的な立場に立てば、
その新しい意味は最初からあったのだ、その意味を発見しただけにすぎない、となるのでしょう。
ただ、これは大いに疑わしいですよね。
他の人がその新しい意味を認めるかどうかとは関係なく、
わたしは、「猫」という漢字にあたらしい意味を創造し、そして、意味を付加したのかもしれません。そして、この場合には「猫」という漢字・言葉が先行しています。この時、言葉の方が意味に先行していると言えるのではないでしょうか。

また、言葉にすることによって、それまで漠然としていた心の中のイメージがはじめて明確なものになるという機能・役割も言葉は持っています。そして、その言葉によって、言葉にすることによって、意味がハッキリと定まる。哲学的に言うと、外延や内包が定まる。こうした機能を、言葉は持っているようにも思います。言葉がその意味をかたどる、そうした機能を同時に、言葉は、単に意味を指し示す、表わすだけではなく、持っているのではないでしょうか。

ところで、
わたしがこの世に存在しないもの、「猫ミミズ」なる新しい単語を作ったとします。「猫ミミズ」なんて生き物をわたしは知りませんし、このような生き物がいるとは考えられません。心の中に浮かんだ「猫」と「ミミズ」という言葉を組み合わせただけなので、この「猫ミミズ」がどんな姿をしているのか、その具体的な姿もありません。しかし、わたしが「猫ミミズ」という言葉を作り、ここで書いた以上、「猫ミミズ」という言葉は存在しています。この時、「猫ミミズ」という意味や概念が、「猫ミミズ」という言葉に先行していたのか、これはかなり疑わしいですよ。

こんにちは。

これは難しい質問ですね。

概念は実在するという概念実在論やイデア論的な考え方に立てば、
概念や意味が言葉に先行する、
となります。
そして、
言葉は概念や意味などを音声や文字などによって表わしたもの、指し示すもの、となるのでしょう。
非常の素朴な考え方ですけれど、説得力があります。

人が何か新しい言葉を作るとき、その言葉で指し示されるもの、そのものの性質、意味などは、すでに心や頭の中にあります。そして、新しい言葉が生まれます。
何かを他人(ひと)に伝えたい、しかし...続きを読む

Q「言葉は物の名前である」は何故間違いか?

「言葉は物の名前である」は何故間違いなのでしょうか?

現実世界における物は、言語以前の段階で、既に(非言語の)意識によって区別されていると思います。その区別され切り取られた意識対象に対して、名前を付けたのが言葉ではないかと思います。従って、「言葉は物の名前である」は、正しいのではないかと私には思えます。しいて厳密に言えば、「言葉は、現実世界から、非言語の意識によって切り取られたイメージ(もの)に対して付けられた名前である」ということになると思います。

ところが、ソシュールの解説書などを読むと、それは、間違いだと書かれています。言語記号(シーニュ)は、現実世界に基づく区切りではなく、シーニュ同士の相互関係によって恣意的決まると言っているように思えます。

そんなことが本当にあるのでしょうか?
何故、「言葉は物の名前である」は間違いなのでしょうか?

Aベストアンサー

う~ん、難しいですね。

確かに、前回の回答は不出来ですね、最初の回答で、問題点は一点と指摘しながら、三点に広げ、結果、説明不足と、音と文字の混乱まで呈しています。
前回、私はソシュールの弁護人では無い、と書きましたが、決して否定しているわけではなく、了解できる部分と、どうなのだろうか、と疑問を持つ部分とがある、と言うことです。それと、ソシュールの解説書の類は、フランス語やラテン語といった言葉で、具体例の説明をしますから、実は私もチンプンカンプンのよく解らない部分が多いのです。

今回は、「記号は、聴覚像と概念を結びつける」「言葉は物の名ではない」この二つの言明から私の解釈に基づいて、再検討いたします。以下は私見で、正否は、ご質問者様がご判断ください。

一点、テレビに関する事だけです。
A「明日テレビを買いに行く」B「昨日はテレビを見ましたか」
Aのテレビは物の名と言ってよい表現ですが、Bのテレビは、電源の入っていない、黒い画面の四角い箱を見たのか、と聞いている訳ではなく、ニュース・野球と言った番組を見たかどうかを聞いています。つまり、テレビは四角い箱型・薄型四角形と言った形状ではなく、その意味と言いますか、使い方、楽しみ方の内容をテレビと言う記号で結びつけていると言う事です。前回の回答で、テレビをアルカイックな社会に紹介する件を例に取りましたが、テレビを持っていくだけでは説明不足でした、可能かどうかは解りませんが、ともかく、そのアルカイックな社会で、通用する内容のテレビ番組を放送しなければなりません、四角い箱がテレビと呼ばれる事を伝えても、それが何であるのか、その四角い箱の意味は、テレビを楽しむ経験によって、これがテレビと言うものかと、理解するのではないでしょうか。

そのような経験なしで、いきなりテレビを見せれば、原住民は逃げ出すか、槍を取って構えるのが関の山、彼らにとって、この四角い箱が、楽しんだり、情報を得たりするための便利な道具だと言う、意味や概念を把握して、テレビ(勿論、此処でテレビと名付けずに、持って来た人の名前を付けても自由です)と言う言葉を理解する事が出来ると思います。
無論、この様な事が、個人的ではなく、一つの言語領域での意味や共通認識又は習慣として波及していく必要があります。

つまり、テレビと言う音が、テレビの持っている意味内容に結びついている、そして、テレビと言う音は、偶然の産物で「レビテ」と最初に決めれば、それで言葉は通用することになる。この様な考え方を進めてみると、「言葉の前に概念がある」と言う言い方も、出来るのかもしれません、有効なものは模倣されますが、この点に関して、私にはよく解りません。

以前、ラジオで、中国ではテレビと言えば天気予報と言う反応が高いと聞いた事が有ります、想像ですがテレビで共産党の宣伝ばかりで、役に立つのが天気予報だとすると、テレビと言う言葉の意味は、天気予報を見る道具と言うことになるのでしょうか。
テポドンの件も、某国での意味と日本語の中で語られる意味は違うのではないでしょうか、日本で「テポドン」と発話されれば、日本と非友好的な某国が、日本に向けて発射される危険性の高い、ミサイルで、アメリカのミサイルとは違う。マズ有り得ませんが、アメリカのミサイルを何処かの組織が闇ルートで、某国へ売り渡した場合、そのミサイルに何と言う名を付けるでしょうか?。

川と河の件は、音と表意文字を混同しています、この件は撤回いたします、失礼しました。

最後にソシュールの弁護を。
『ある人々にとっては、言語(ラング)は、その本質的原理をつきつめれば、ひとつの名称目録にほかならない。いいかえれば、同数の事物に対応する用語のリストである。たとえば

樹の図柄/ARBOR  馬の図柄/EQUOS 等々

この考え方には、多くの点で批判の余地がある。それは、語よりも前に存在するすでに出来上がった観念を想定している。・・・それは、名称を事物に結びつける絆がじつに単純な操作であるかのように思わせるが、それは真相とははなはだしく遠いものである。それにもかかわらず、この速断的な見方も、われわれを真理へ一歩近づけることはできる。』
一般言語学講義『ソシュール言語学入門』フランソワーズ・ガデより孫引き
それ程、決め付けてはいないようなのですが。

ついでに、日本語の例をとって解説した本が見つかりました、自分で読んでいない本をお奨めするのは如何なものかとも思いますし、私の解釈と全く違うかもしれませんが、一つ参考までに。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4327376914/503-1065858-7896719?v=glance&n=465392&tagActionCode=charmatwebryi-22

補足
アフリカ社会の文化に関する研究報書の中に
ヨーロッパ文化に接触していない人々は、絵画を鑑賞する習慣がない、或いは、一部の文化では、花を美しいと感じたりする習慣がない、と言った記述を、複数の本の中で、読んだ事があります。

う~ん、難しいですね。

確かに、前回の回答は不出来ですね、最初の回答で、問題点は一点と指摘しながら、三点に広げ、結果、説明不足と、音と文字の混乱まで呈しています。
前回、私はソシュールの弁護人では無い、と書きましたが、決して否定しているわけではなく、了解できる部分と、どうなのだろうか、と疑問を持つ部分とがある、と言うことです。それと、ソシュールの解説書の類は、フランス語やラテン語といった言葉で、具体例の説明をしますから、実は私もチンプンカンプンのよく解らない部分が多いの...続きを読む

Q唯名論

唯名論というのはどういうものなのでしょうか。かみ砕いて教えていただければと思います。

Aベストアンサー

 普遍論争で「実在論」と対立した「唯名論」ですね。「噛み砕いて」とのことですが、そのためには「実在論」と対比して示したほうがわかりやすくなると思いますので、そうさせていただきます。

 まず「普遍論争」というのは11世紀後半から14世紀にかけて続いた中世スコラ哲学最大の論争です。一方は「実在論 realism」陣営、一言で言えば「普遍は個物に内在する」と考える立場。他方は「唯名論 nominalism」陣営で、これも一言で言えば「普遍は名辞・呼び名にすぎない」と考える立場です。(なお、realismの訳語としては従来「実念論」というのが一般的でしたが、誤解を招く部分があるので最近は「実在論」と訳されます。)

 では実在論から。
 「普遍は個物に内在する」とはどういうことか。「人間」を例にとります。現実に存在する人間には、もちろんそれぞれの個性があります。容貌もちがいます。そういう個別にちがう部分をどんどん削り取っていけば「人間」の共通部分が残るのではないか、「人間」というものの普遍的な形が得られるのではないか、というのが実在論の発想です。さらに、こうして得られた普遍的な形が実在しているのだと、この立場は主張するのです。
 と言っても、その「普遍的な形」が単一のモノとしてどこかに存在しているわけではありません。複数の人間それぞれの中に、その数だけ置かれており、しかし一切のちがいは除去されていますから、まったく同一のもの、区別できないものとして存在している、というわけです。

 対するに唯名論。
 「普遍は名辞にすぎない」。言い換えれば、「普遍」はモノとして事物に内在しているのではなく、外から付けられた呼び名でしかないということです。三角形は3本の直線から成りますが、実際にはいくらでも多様な形が作れます。「それらに共通する普遍的な三角形」と言われても、困りますでしょう? どんな三角形でも、三角形なら、立派に三角形なんですから。となれば、「三角形の普遍」とは「3本の直線から成る図形」すべてを一括して呼称する「三角形」という呼び名なのだ、と言った方がよい。
 「昆虫」でもいってみましょうか。「人間」ならば、いくらか「普遍的な形」がイメージしやすいのですが、昆虫となるとたいへんです。トンボとちょうちょ…とか…共通する「形」が実在するものとして考えられるか…うーん…ちょっとムリそうでしょ? 昆虫の場合、言えるのは「頭・胸・腹の身体と6本の足を有する節足動物」ということであって、この定義によって共通する性格をもったものを「昆虫」と呼んでいるだけです。
 という感じに、「普遍は唯の名前だ」と考えるのが「唯名論」です。

 ちなみに、実在論と唯名論を統合する第三の立場として「概念論」という立場もあるのですが、誰をこの立場に立った人と分類するかという点に問題があり(分類しきれないのです)、そうなるとこの「概念論」なる立場の内実も非常に規定しにくくなりますので、これに関してはプロの研究者でも言及には慎重になります。つーわけで、私ごときにはこれの解説はできません。

 …と、書きに来たらAliasさんの回答が…。
 えっと…実はその…Aliasさんが紹介されている「観念(イデア)として実在」という部分がですね、「実念論」という訳語がもたらす誤解なのです。実在論はプラトン哲学との直接の関係はありません。実在論の主張は、あくまでも「モノとして実在する」ということだったのです。

 普遍論争で「実在論」と対立した「唯名論」ですね。「噛み砕いて」とのことですが、そのためには「実在論」と対比して示したほうがわかりやすくなると思いますので、そうさせていただきます。

 まず「普遍論争」というのは11世紀後半から14世紀にかけて続いた中世スコラ哲学最大の論争です。一方は「実在論 realism」陣営、一言で言えば「普遍は個物に内在する」と考える立場。他方は「唯名論 nominalism」陣営で、これも一言で言えば「普遍は名辞・呼び名にすぎない」と考える立場です。(なお、realismの...続きを読む

Q恣意性について教えてください★

学校でレポートが出たのですが
いまいちよくわかりません

どなたか、わかりやすく
ソシュールやメルロ・ポンティの言う
恣意性について教えてください!!

Aベストアンサー

 言語は通常<意味>をもって流通しているとみなされています。私が<赤>と発語することによって、聞いている相手は「あざやかであれ、にぶくあれ、赤い色を想定」します。ですから、言語にはもともと<意味>が付与されているから、私たちは混乱なく言語を使用している、と思っています。言語とは、おおまかな意味をしか伝えていませんね。
 しかし、「このつらい気持ちをわかって欲しい」という<意味>を伝えようとすると、私たちは10人の人に、その意味を語ってもらえば、何がなんだかわからなくなってしまうのではないでしょうか。どんな風につらいのか、喘息のような息苦しさなのか、ボーッとした不安が続いてつらいのか、次に、気持ちとは何なのか、こころなのか、意識なのか、心臓のあたりなのか、大脳新新皮質のあたりなのか。
 つまり、私たちは、言語は意味されることがしっかり定着しているから言語を使っている、と考えていますが、<意味>することを語るために使用している風に見えながら、その<意味>自体もあいまいで、<意味>されることまでは当然考えて使用していない、ということなのです。

 これらを象徴する例として、私は「鳥の鳴き声」をあげたい、と思います。鳥は何故鳴くのでしょうか?

 それは、恣意なのです。つまり、意味もなくただ鳴きたいから鳴いているのです。自由勝手気ままに、意味もなく、聞かれることも予想せず、ただ鳴いているのです。これが言語は恣意である、という意味なのではないでしょうか。

 私たちは、言語といえば<意味>の上に成り立っている、と考えがちですが、アとカが重なって<アカ>と言い、これで<赤>という意味が成り立っているわけではないのです。たまたま、アオと発語されていないからアカ、と差別化出来るだけのことで、言語は、こうした音の差違に基づいた分別作用でしかないのです。この分別作用が<意味の根拠>になっていくわけですが、これすらも、鳥の鳴き声と同じで、その根幹では、<意味>なく、自分にとって発語することが楽しいから、遊んで鳴いているだけなのかも知れません。ただ、それが、チュンチュンとキーキーで<意味>が違っているな、と想像するだけのことです。

 こうしたことを、言語の恣意性、と言うのではないか、と記憶します。

 言語は通常<意味>をもって流通しているとみなされています。私が<赤>と発語することによって、聞いている相手は「あざやかであれ、にぶくあれ、赤い色を想定」します。ですから、言語にはもともと<意味>が付与されているから、私たちは混乱なく言語を使用している、と思っています。言語とは、おおまかな意味をしか伝えていませんね。
 しかし、「このつらい気持ちをわかって欲しい」という<意味>を伝えようとすると、私たちは10人の人に、その意味を語ってもらえば、何がなんだかわからなくなって...続きを読む

Qソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

 ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
 すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。

 (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ

  すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。
  《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。
  《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。
  そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。


  ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。

  / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。


 (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。

  nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)
  naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)
  naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く) 
  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)


 さらに語例を伸ばします。
 (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。

  nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)
  nago-mu   和む     (障害が消滅していく)
  nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)
  negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)
  nega-u   願う      (障害の消滅を希求)

   *

 どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。
 
 ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。

 オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。

 郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。
 
 日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。

 あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。

 つまり

  nagi 和ぎ
  nago-ya-ka 和やか   
  nago-mu   和む

 これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。
 (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。






 例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。

 あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。

 そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。


 さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。


 * おぎなうべき議論の一端として:

   音素・・・・=・・・・意義素
   _______________
  / n /  = 同定相・否定相
  / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相

 といった仮説を前提としています。
 いま

  / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)

 といった複合によって

  / nVgV /なる音韻(シニフィアン)
    =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)

 といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。



 ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。

 つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。



 

 * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。
 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

 ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
 すなわり この / nVgV...続きを読む

Aベストアンサー

「お礼」への書き込みをありがとうございます。

> ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。
⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈です。もしそうでしたら、部分的ですが納得できます。

> 第一の恣意性は 記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見い出されるものである。つまりシーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間にはいささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって具体的にはchien なる概念が/(シアンという発音記号)/という音のイメージで表現されねばならないという自然な内在的絆は存在しないということである。
⇒フランス語圏では[ʃj~?]という音を聞きいて脳内にその聴覚映像を結んだら人は「犬」を了解するが、それは[ʃj~?]という音と「犬」とが直結しているからではありませんよね。それは単に、フランス語での語義に関する社会的慣習に過ぎません。その証拠に、例えばアメリカでは人の名前だと思うかも知れないし、日本では赤塚不二夫の漫画に出てくるズッコケ表現だと思うかも知れません!
 ということで、[ʃj~?]というシニフィアンと、「犬」というシニフィエとの対応関係は、一重に、フランス語における「恣意的な約束」である…と、こういうことになりますよね。

> これに対して第二の恣意性は 一言語体系内の記号(シーニュ)同士の横の関係(←→)に見い出されるもので 個々の辞項のもつ価値がその体系内に共存する他の辞項との対立関係からのみ決定されるという恣意性のことである。
> 具体的に言えば 英語の mutton の価値がフランス語の mouton の価値とは異なる その異なり方の問題で その言語の形相次第で現実の連続体がいかに非連続化されていくかという その区切り方自体に見られる恣意性にほかならない。
⇒意味価値の相関関係は常に蠢いていますね。これは任意のどの言語でも当てはまります。もし、変動も何もなく安定しているような言語があるとすれば、それはすでに話し手のいなくなった「死語」でしかあり得ません。このような意味価値の相関関係の変動ぶりは、その言語における2つの異なった時期の共時態を比べてみれば一目瞭然です。そして、その間の通時態を時系列に沿って追ってみれば、その経過のほども分かります。
 ところで、その意味価値内の相関関係の変動は、何によって引き起こされるでしょうか。一方には「言語構造のひずみ」という誘因があり、他方には「そのひずみを何らかの方法で是正したい」という使用者側の動因があります。そして、その運動の遂行を決定づけるのは後者すなわち人間の側(の動因)であり、まさにそこに件の恣意性が関わってくる…と、こういう仕儀ですよね。

> ☆ 《結果的産物》としての第一の恣意性が成り立っていないということが明らかになれば どうなるでしょうか? つまりここでの反論は《第一の恣意性》が事実ではないと示して反駁するものです。これだけで反証は成し得たと考えています。
⇒さあ、それだけで反証を成し得たとするには無理があると思いますよ。前にも言及したとおり、どの言語内にもシニフィアンとシニフィエとの間に何らかの有縁性があることはソシュール自身も認めています:「(発話の際)能記の選択は必ずしも常に恣意的ということでなく、時に有縁的である」、「特に、擬音語と間投詞においてそのことが言える」、と。ただし、それに続いて「擬音語と間投詞は決して言語体系の組織的要素ではない」し、「我々の説を脅かすものではない」とも断言しています。つまり、「第一の恣意性」と矛盾する現象は僅かにあるけれども、それは「言語構造論にとっては周辺的なこと」であるとして、深入りしなかっただけなのです。ということは、有縁性の例をいくら集めてみせても、それだけで「言語記号の恣意性」を否定することはできないでしょう。

> ☆ 趣旨説明欄において ちらっと丸山に触れているだけですが 実際問題としては 丸山理論に対する批判である。こうはっきり申し述べておくべきだったことでもあります。丸山理論が 孫ではなく 本人だという意味です。
⇒「丸山理論が孫ではなく、本人だ」というのはある種詭弁のようにも聞こえますが、まあそれはそれとして、それならなお、「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」というタイトルとの間に少なからぬ齟齬があると思いますよ。
 なお、時々僭越にも辛辣なことを申しますが、決してbragelonne様を非難するためではありません。むしろ逆に、bragelonne様の学究心にはいつもながら敬服申しあげています。これは一重に、共同して真理への肉迫をしたいとの願望からに他なりません。どうかこの件、ご了解賜わりますように。

> ☆ すなわち この反証によって 《第一の恣意性》は 中身が事実に反すると明らかになったと考えています。
⇒いやいや、「音素(子音)がそのままで意義素をおびており、そのことが語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している」場合があることを示したところで、「第一の恣意性は、中身が事実に反すると明らかになった」などとは言えないと思いますよ。
 例えば、フランス語圏以外の地域で、[ʃj~?]と同じ聴覚映像か、少なくともそれとの有縁性を持つ聴覚映像で「犬」を想起せしめる状況(人間に共通する普遍性)がなければ、この語に関するシニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性を示したことにはならないでしょう。例えば、『鶏の泣き声のシニフィアンが多くの言語で[k]音を含む」というように、「地球上の人間の大多数が」[ʃj~?]と聞いて「犬」を想起するという事例に類する有縁性を突きつけない限り恣意性説は崩せないと思います。

> おそらくきちんとした語例を三つほど示して《音素=意義素》なる理論が例証できれば――つまりは ひとつの言語内だけでそう証明できれば――言語記号の恣意性なる理論は全滅である。こう見ざるを得ないと考えます。
⇒bragelonne様がよく研究されていることは敬服するところですが、今回の提示材料は通時語彙論・意味論であって、それはいわば文献学の範疇であるのに対し、ソシュールのそれは言語体系の構造論でしょう。つまり、philologyでlinguistics 批判をしようという、お門違いを犯していることになります。ですから、今回のbragelonne様の議論は、実態的には「通時語彙論に見る恣意性の原理の破れ」くらいの論題に過ぎないと思います。もし、この内容を「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」という論題で、例えば「日本言語学会」で発表するようなことがあれば、失礼ながら、一笑に付されることでしょう。

> ・ / nVk(g)V / なる語例
> ・ / h /=順出相;順定相と/ k /=反出相;反定相との対照
> ・ 完了相の助動詞で ツ(/ t(d) /)とヌ(/ n /)との対照
> の三つについて説明し得たと考えるものです。どうでしょう。
⇒シニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性は、多かれ少なかれどの言語にも見られますが、その有縁性の強さには差があり、フランス語などの屈折語ではそれが比較的弱く、日本語のような膠着語系はそれより強い傾向にあります。アフリカのスワヒリ語はそれが最も強い言語の1つで、例えば「のっしのっし」や「しゃなりしゃなり」等に当る「歩き方を形容する表現」が数十通りもあって、それを聞くだけで何歳くらいの人がどんな風に歩いているのか、もちろん男女の区別も含めて、分かるのだそうです。
 ソシュールは、このような言語を(シニフィアンとシニフィエとの有縁性に関して)「文法的な言語」と呼んでいます。「シニフィアンとシニフィエとの相関関係が、文法の範疇に入り込んでいる」という意味でしょう。ことほどさように、単独の言語に見る限りこのような有縁性は必ず見出されますが、他方非同系言語間では、("kennel"と「犬[ケン]寝る」のような!)ダジャレ的な偶然の一致を除いて、まず見出されません。
 bragelonne様の最初の質問文や補足の中の例は、相対的に「文法的な言語」からの例であって、したがってその研究のタイトルを再考するとすれば、「ソシュール『言語学原論』が手を抜いていたシニフィアンとシニフィエとの有縁性に関する考察」と題するにいいものであると思います。しつこくてすみませんが、決して「言語記号の恣意性」の原理を覆せるようなものではないでしょう。この筋からアプローチする限り、それはアリが象の足に噛みつくのにも似て、「原理」は微動だにしないでしょう。

 以上、碩学のbragelonne様に失礼とは思いましたが、偽らざる感想を述べさせて頂きました。ただし、本件に関してのみの感想でして、他のテーマについては常々敬服申しあげておりますこと、前述のとおりです。

「お礼」への書き込みをありがとうございます。

> ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。
⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈で...続きを読む

Q人間にとって言葉とは

人間にとって言葉とは、どのようなものなのでしょう。物が先か、言葉が先か・・・・・。なぜ、言葉というものがあるのか・・・・。
レポートなのです。全く分かりません。自分なりの答えも見つかりません。どうか少しヒントをください。お願いします。

Aベストアンサー

「サピア=ウォーフの仮説」というヒントになりそうなキーワードを差し上げておきます。これは、物が先か言葉が先かという問題に対する一つの論の試みです。「仮説」なのでなんとも言えません。それを批判する(正しいものは受け入れ、違うと思うところは違うと主張する)ことで、何か言えるんではないでしょうか。

なぜ、言葉というものがあるのか、ですが、1として「言葉がもしもなかったら、どんな世界になっていたか」ということ、2として「言葉はどのようにして生まれたか」ということを考える必要がありそうです。

あと、言語を記号とみなす考え方もあり、これもちょっと厄介ですが、「記号論」というキーワードを差し上げます。深入りすると大変かもしれません。せいぜい「シニフィアン」と「シニフィエ」あたりの理解にとどめるのが、大学のレポートのレベルだと思います。

人間にとって言葉とは何か、ということですが、それはいろんな方法で知ることができます。たとえばここで回答者の意見を伺うというアンケートから総括するでもよし、また自分も人間の1人であるから、個人的な意見としてはこうだということを主張してもよし、だろうと思います。視点はいろいろですね。

あと、いくつかこんな論題も考慮すると面白いかもしれません。
「言葉を使うのは人間だけか」
参考キーワード:チンパンジーの言語学習、アマラとカマラ
「言葉は本当に正しく物を表せるか」
参考キーワード:範疇、「りんご」と「そのりんご」の違いなど

もう1点、「人間とヒト」は区別しなくてはならないかもしれないと今思いました。学習能力という面で言えば生物学的にヒトと捉えた方がいいでしょう。人間というのは多少なりとも社会的な側面があるので、やはりそういうことになるのかもしれません。

道具であるとか、コミュニケーションの手段であるとかいうのは、今までによく言われていることで、斬新さには欠けますが、tsukajiさんが何かもっと奇抜な発想で思い付けたらいいなぁとは思います。

「サピア=ウォーフの仮説」というヒントになりそうなキーワードを差し上げておきます。これは、物が先か言葉が先かという問題に対する一つの論の試みです。「仮説」なのでなんとも言えません。それを批判する(正しいものは受け入れ、違うと思うところは違うと主張する)ことで、何か言えるんではないでしょうか。

なぜ、言葉というものがあるのか、ですが、1として「言葉がもしもなかったら、どんな世界になっていたか」ということ、2として「言葉はどのようにして生まれたか」ということを考える必要があ...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q言語の思考(世界観)に対する影響力 (サピア・ウォーフの仮説)

言語相対性理論で有名であるサピア・ウォーフの仮説は、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思います。心理学、哲学や言語学でよく持ち出される理論です。
(Edward Sapir & Benjamin Lee Whorf が唱えた仮説)

引用文がなくて申し訳無いのですが、私なりにこの仮説を次のように理解しております。

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係しており、言語のない思想など存在しない。言語は人間の思想を支配している。」

つまり、自分の話す言葉に存在しない考え方はありえないということです。
よく例に出されるのが、「色」についての捉え方で、言語によって世界観が支配されているので、その言語に無い色は認識ができないという考え方です。

他に例にあげられるのは、「数の数え方」で、ある言語では、4以上の数字は、「たくさん」という言い方しかないと聞いたことがあります。つまりこの言語を話す人は、自分の話す言語によって、「4以上はたくさん」であるという世界観に捕らわれている、ということになります。

最後に、質問の内容ですが、私は個人的にこの仮説を3、4年前に始めて聞いた時は、疑問に思いましたが、最近はなんとなく理解できるようになりました。全く信じているわけではありませんが、まあ一理はあるかな、といったところです。

もし皆様の中で、この仮説に関して賛成、又は反対の意見があるならば、お聞かせ願いたいと思い、質問してみました。どうして賛成又は反対なのかの理由も聞かせていただければと思います。

(参照URL)
http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k020527.htm

言語相対性理論で有名であるサピア・ウォーフの仮説は、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思います。心理学、哲学や言語学でよく持ち出される理論です。
(Edward Sapir & Benjamin Lee Whorf が唱えた仮説)

引用文がなくて申し訳無いのですが、私なりにこの仮説を次のように理解しております。

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係しており、言語のない思想など存在しない。言語は人間の思想を支配している。」

つまり、自分の話す言葉に存在...続きを読む

Aベストアンサー

「サピア・ウォーフの仮説」というものは、私は詳しくないのですが、

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係している。」ことについては、私は賛成します。
私は、言語の語彙のかたよりや、文法構造によって、人の思考のしかたが影響を受けるのではないかと思います(思考のしかたに「遺伝的なもの」が影響するかどうかは、ここでは考えないことにします)。

たとえば、英文を読んでいると、日本語ではとらえることが難しい表現が出てくることがあります。
また、日本語には擬声語・擬音語が非常に多くありますが、これが日本人の思考のしかたに影響していることは大いにありえるでしょう。

例にあげられている、「色」や「数」の話は、こう考えます。
日本語で、「赤」にあたる色は、実際には無限にあるわけですが、そのような「赤」の中で、色の濃淡を識別する事はできるわけです。
でも、その濃淡のある「赤」それぞれについて、日本語では単語が与えられていません。このことが、どう影響するかというと、その濃淡のある「赤」それぞれについて、議論する(考える)ことが難しくなります。
「数」でいうと、4以上の数は数えることができないので、4以上の数はわかるが、議論はしづらい(=考えることが難しい)ということになると思います。

「言語のない思想など存在しない」ことについては、まだ、色々と考えている最中ですが、こう考えます。
「人間は言葉によって考える」のは、確かに事実です。
けれど、物事をオブジェクトとして扱う方法は、言語化だけではないと思います。
もちろん、最終的には、言語化することによって、思考や議論を助けることになるでしょうが。

「サピア・ウォーフの仮説」というものは、私は詳しくないのですが、

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係している。」ことについては、私は賛成します。
私は、言語の語彙のかたよりや、文法構造によって、人の思考のしかたが影響を受けるのではないかと思います(思考のしかたに「遺伝的なもの」が影響するかどうかは、ここでは考えないことにします)。

たとえば、英文を読んでいると、日本語ではとらえることが難しい表現が出てくることがあり...続きを読む

QTo be or not to be の意味を教えてください

To be or not to be の意味を教えてください。
お願いしますm(__)m

Aベストアンサー

アメリカに35年半住んでいる者です。

私なりに書かせてくださいね。

シェイクスピアを知っている人はそれなりに訳を知っていることになりますね. しかし、今の時代にこれをいうことはシェイクスピアとは関係なく、~になるか(なり下がるか)ならないか、と言う意味にとります.

つまり、この中途半端な文章を使い、護身術では、To be or not to be,,,,,, a rape victim!!と言う言い方をして、レイプの犠牲者になりたいのかなりたくないのか、答えは出ているよね.と言う具合に使えるわけです.

また、シェイクスピアの事を知っている人なら、この後の、that is the question.を強調する為に使う言い方としても使います.

つまり、大学へ行くべきがそれとも好きな職につくべきか、と言う迷いがあるときに、相談された人は、To be or not to be.,,,,,,と考え込む、と言う使い方ですね.

最近ボーリングの質問がありましたが、10フレーム目で、この三つをストライクで決めればパーフェクトゲーム. この時点では誰もが感じるchokeの場面です. ボールを投げる前に、余裕のあるところを見せるために、Hamlet, you are not the only one to suffer. Me, too. To be or not to be!! This ball is the answer!! とみんなが聞こえるように言って、そして、みんなが見ている前で、胸に十字を切ってボールを投げる状況ですね. なかなかの役者だともいえますね。

と言う事で、どのように使われているかという視点で書かせてもらいました.

これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。

アメリカに35年半住んでいる者です。

私なりに書かせてくださいね。

シェイクスピアを知っている人はそれなりに訳を知っていることになりますね. しかし、今の時代にこれをいうことはシェイクスピアとは関係なく、~になるか(なり下がるか)ならないか、と言う意味にとります.

つまり、この中途半端な文章を使い、護身術では、To be or not to be,,,,,, a rape victim!!と言う言い方をして、レイプの犠牲者になりたいのかなりたくないのか、答えは出ているよね.と言う具合に使えるわけです.

また、シ...続きを読む

Qソクラテスの無知の知は矛盾していませんか?

ソクラテスの無知の知についてです。
高校の倫理でソクラテスのことを学び、
その中でソクラテスの思想に「無知の知」というものがありました。

ソクラテスは、
「あなたは自分の無知を知らないが、私は自分の無知を知っている(=無知の知)」
と習いました。

しかしここで思うのが、
ソクラテスは自分が無知であると言うことを知っていると言いましたが、
これを同じく返されたらどうなるのでしょうか?

ソクラテスは無知について知っているとは言えないのではないでしょうか?
ソクラテスに対して、
「あなたは実は無知であることを知らない」
と返した場合無知の知は無くなってしまうのでないでしょうか?

Aベストアンサー

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテスは考えます。
俺が一番賢いわけがない。


ソクラテスは、この神の言葉は間違いであることを証明しようと試み、自分より知者であると思われる、評判高い人々を訪れるわけです。その人達の職業は詩人であったり大工であったり様々です。


ソクラテスは彼らが自分よりも知者であることを期待して訪ねたのですが、話をしてみるとどうも勝手がちがいました。


といのも、彼らは確かに専門的な知識はソクラテスよりも優れていました。しかしそれに奢って
「徳であったり、本当に善いものに関する知識」
を持っていないにも関わらず知ったかぶりをして話をしていたのです。


その一方で自分は、徳とか善きものについて知らないということを自覚している。
その点で彼らよりも自分は賢い。
ソクラテスはそう考えました。


ここでソクラテスに初めて「無知の知」が自覚されます。


「無知の知」は「不知の知」とも表記されていて、私は後者の方がしっくりきます。

といのも、
「知っているものが何も無い」
という状態ではなく
「知らない(不知)ということを知っている」


と解釈しているからです。

ですから、質問者さんが問うように
「ソクラテス、あなたは無知(不知)を知らない」
と言われれば、きっとソクラテスは
「いや知っている、自分は善とか徳については何も知らないことを知って(自覚して)いるよ」
と答えると思います。


付け加えるなら
「ぜひ教えてくれないか、君も知らないならば一緒に探求しようではないか」
とも言いそうです(笑)



気になるようでしたらぜひ『ソクラテスの弁明』を実際に読んでみてください。文量は多くないので気軽に読むことができると思いますよ。


長文失礼しましたm(__)m

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテ...続きを読む


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