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前回、関東管領の初期の混乱について質問し、回答をいただきました。
今回、関東管領の行方について教えていただきたく再度質問させていただきます。

1・関東管領上杉氏を譲渡された謙信は死後、景勝には管領職を譲っていなかったのでしょうか?(つまり最後の関東管領は謙信?)
2・景勝が名乗っていないとして、織田家家臣、滝川一益が関東管領を名乗っていたというのは事実でしょうか?何かの本で読んだ記憶がありますが・・・
3・信長が足利義昭を追放し、足利幕府終焉状態では公方の補佐である関東管領そのものが意味を成さないと思うのですが、その時点(義昭追放時)で関東管領を名乗っている家(氏)はありましたか?
以上よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

1. 上杉景勝が関東管領を称した形跡はありません。


上杉景勝が「御館の乱」を戦う過程で、上野の上杉領(沼田城など)を武田家に割譲し、武田家と和議を結びました。武田家は既に箕輪城などの西上野を領していましたので、上野の全域が武田家に帰したことになります。上杉家の関東における拠点は全くなくなりました。
No1さんが指摘されるように、上杉景勝は「御館の乱」で敵対した上杉憲政を殺害しています。上杉憲政は、長尾家に上杉家の名跡を譲った、上杉謙信が関東管領職にあったことの正当性を象徴する人物でした。私には、何故景勝が「長尾上杉家の象徴」と言える、軍事力も特に持たない憲政を敢えて殺害したのか理解できないのですが、「関東管領職」に景勝が何の関心も持っていなかった、と言う傍証にはなるように思います。
激しい「御館の乱」を勝ち抜いて上杉家を継いだ景勝は、越後一国の把握・北陸を攻め上ってくる織田氏への対抗で精一杯であり、「謙信に倣っての、三国峠を越えての関東への出兵」など全く非現実的なことでした。武田家にあっさり東上野の領地を割譲したのも「景虎を支持する北条氏に東上野を奪われる前に武田家との外交交渉の道具にしよう」という計算があったのでしょう。

2. 滝川一益が、信長が武田家を滅ぼした後に上野一国を所領として与えられ、「織田家・関東方面司令官」的な地位を得たのは確かなようです。これは、柴田勝家が「北陸方面司令官」、羽柴秀吉が「中国方面司令官」、明智光秀が「中央方面司令官」の地位にあったと考えるのと同じことです。
この状態を「滝川一益が関東管領に任じられた」と通俗的な歴史書で表現するようですが、一種の比喩と考えてください。

本能寺の変の時点で、織田氏は北条氏と織田家優位の同盟関係にありました。北条氏が支配する相模・伊豆・武蔵・上総・下総・下野などに、滝川軍が攻め込んで領地を切り取る状況ではなく、関東方面の織田家の勢力拡大は「武田を滅ぼして、甲斐・信濃・駿河・上野の武田領国を全て織田家の勢力圏に入れた」時点で止まっていたようです。

3. 足利義昭が信長によって京都から追放されたのは1573年ですが、この時点では、「関東管領 上杉謙信」が健在です。謙信は一度は結んだ北条氏との同盟を破棄しており、翌1574年には関東へ出兵して北条氏と戦っています。「関東管領として関東の平定を目指す」姿勢は不変だったといえます。
義昭自身、京を追われたとはいえ、征夷大将軍の官を朝廷から剥奪されたわけではなく、室町幕府は形式的には存続しています。本当の「形式」ですが。義昭は、京を追われて毛利氏の庇護下に入った後も、征夷大将軍として諸大名に文書を送っているはずです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9% …
によると、
「『公卿補任』では、関白豊臣秀吉に従って参内し、秀吉への忠誠を誓った天正16年1月13日(1588年2月9日)まで義昭を将軍として扱っている」
とのことです。

少なくとも上杉謙信が1577年に死去した時点では、謙信が関東管領職にあることに論理上の矛盾はなかったでしょう。ただし、謙信の関東への度重なる出兵(約20年以上に渡る)が実を結ばず、謙信の死去の時点で、謙信が関東で支配する地域が、越後に接する上野の東部程度に留まっていた現実から、「謙信の関東管領職は全く実質を失っていた」と考えるべきです。

この回答への補足

buchi-dog様、いつも私の乏しい知識を埋めてくださいまして感謝しております。

補足日時:2007/07/22 20:22
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この回答へのお礼

謙信の義理堅さは私の過去の質問でも皆様回答してくださいました。
彼の人の義理堅さから推測するにやはり自分の死後は景虎に家督と関東管領職を「返上」しようと考えていたのではないかと。
buchi-dog様の疑問からすると私の考えなど幼稚なものかもしれませんが、例えば本当に関東管領の地位が欲しければやはり憲政を殺さずに傀儡化し操る、または強要して地位を譲り受けるぐらいはしたのではないでしょうか。やはり何の興味も無かったのでしょうね。
また関東への足掛かりである上野を失ったことはやはり国自体の体力のこと、対武田への政治のことがあるとはいえ、関東管領なんて、と言う考えが景勝にあったのかもしれませんね。

2・一種の比喩と考えてください
やはり司令官ですか。関東までチカラを伸ばす余地はなかったのなら関東管領は無理がありますね。

3・京を追われたとしても将軍職は剥奪されていなかった。関東管領もまだ健在でも、これはおっしゃるように筋が通りますね。
征夷大将軍は義昭没後、家康が宣下を受けるまで空白でしたし、このことでも良くわかりました。矛盾はありませんね。ただ実質権威はやはりなかったのですね。

いつも詳しい回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/07/22 20:50

1.生前、はっきりと後継を決めておらず、また、遺言もなく急死した為、譲っていません。


最後の関東管領は謙信です。

2.「信長公記」という文献によると、滝川一益は関東管領ではなく、「関八州の御警護」と「東国儀御取次」という役に任じられていたそうです。
ただ関東管領を名乗っていたという説もあります。また、江戸時代の文献から滝川一益は関東管領と書かれるようになったという説もあります。

3.義昭が信長に追放された年は1573年です。この時は、まだ謙信が存命でしたので、当然、上杉家が名乗っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
1については決められてはいなかったということですね。どちらにしろ謙信は最後の関東管領だとの認識で間違いないのですね。
2東国儀御取次とは初めて知りました。つまり関東のことはわしを通せ!ということですね。関東管領を名乗っていたかも知れないのですね。自称で。
江戸時代の文献というところはイマイチ信憑性に欠けますが、説としてあるということですね。
3は1を裏付ける意味でやはり最後の関東管領と言ってよいのでしょうね。
私の考えでは長尾氏が上杉氏を名乗り、関東管領を受けたのは後世上杉家に箔がついたので良かったと思います。守護代の家から名門になれたわけですから。ヘンな考えですかね(笑)

詳しい記述ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/22 20:16

1.謙信が後継者に任じていたのは、後北条氏からの養子、景虎でした。

管領職も当然、景虎へ譲られるはずでしたが、謙信が遺言もなく急死するや、直後に別の養子、景勝がクーデターを起こします。(御館の乱)
なお御館とは、謙信の前の管領、上杉憲政の館で、乱における景虎の本拠となりました。景虎の敗北に伴い、憲政も景勝方に殺されましたので、景勝としては関東管領を自称しにくかったでしょうし、関東へ攻め込む余裕など、上杉家にはありませんでした。

2.織田信長が、各地の方面軍司令官を正式に、管領へ任命した証拠は、ないようです。関東管領(のようなもの)として、滝川一益が自称した可能性はあるでしょう。

3.すでに関東は、北条vs反北条の対決になっていましたので、関東管領を名乗る意味自体、なかったかも。正式に任命できる将軍(足利義昭)は、はるか西(備後)ですし。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
1について。謙信は景虎に家督を譲る時、一緒に管領職も譲るつもりだったのですね。景勝はその景虎を倒した手前関東管領を名乗りにくかった。
なるほどですね。ではやはり最後の関東管領は謙信と言うことになるのでしょうか。
2について。の、ようなものですか。正式にはなっていないのですね。加藤清正が朝鮮役で豊臣を名乗った時のようですね。
3やはり正式に任命する側がトホホな状態でしたから、ありえないということですね。関東は公方も管領も無い戦国状態なので権威よりも当然領地が欲しかった、と言ったところでしょうか。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/22 20:07

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