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山本勘助という、武田家に軍師として使えていた人がいたという記録がハッキリと残っているわけではないはずなのに、NHKのHPには実在の人物のように書いてありますが、実際どうなのでしょうか?
あくまで、大河ドラマの風林火山は井上靖氏の原作を元にしたフィクションであり、山本勘助という人が実在したかどうかは別の話だと思うのですが・・・?

A 回答 (6件)

スーパー軍師としての山本勘助はいないそうです。


(それだけ信玄が偉大だったのかもしれませんが・・)

同名の人物なのか、武将はいたようですけど
城普請とかが専門だったようですね。

これは後世の作家が面白おかしくした部分だと思います。
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No5ですが、補足します。



山本勘助は、甲陽軍鑑の記述では「山本勘助晴幸 入道道鬼」という名前になっています。また、先述した市河文書では「山本菅助」と書かれています。

戦国時代、大名の有力家臣は、大名から「官途名」を許されているのが普通でした。信玄・勝頼の二代の重臣を絵図にした「武田二十四将の図」というのがありますが、これを見ますと、ほぼ全員が
「板垣駿河守」「甘利備前守」「飯富兵部少輔」
といったように「官途名」を名乗っています。
http://www.city.kofu.yamanashi.jp/kanko/shingenk …
を参照して下さい。これらの武将は、山本勘助以外は武田家関係の同時代の史料に名前が見え、実在が確実な「武田家の重臣」です。

さて、上記のURLで、「武田二十四将」を一覧すると、山本勘助だけが官途名を名乗っていないことがわかります。不自然ですよね。

ここから推察できるのは、
「No5で回答したように、山本勘助(菅助)は、武田信玄の家臣として実在し、ある程度の身分があり、能力を認められた武士であったと考えられる」※戦国時代、当て字はごく普通のことで、勘と菅の字の違いは無視して構いません。
「甲陽軍鑑の記述のように、信玄の軍師として様々な献策を行なっていた人物であったことはあり得る。ただし、その証拠は現時点では甲陽軍鑑しかない」
「官途名を許されていないことから、『重臣』と言えるレベではなかったと推定できる。本来、『武田二十四将』にランクされるべき地位ではなかった」
と言えるでしょう。

また、甲陽軍鑑で「山本勘助晴幸」と書かれ、大河ドラマでも、晴信(信玄)から「余の名から一字を与える。今後、山本勘助晴幸と名乗れ」と言い渡される描写がありました。当時、大名が有力な家臣に自分の名前の一文字を与える例は多くありました。武田信虎の重臣に、
甘利備前守虎泰、飯富兵部少輔虎昌、原美濃守虎胤
らがおり、先述した「武田二十四将」にも入っています。

しかし、武田晴信の名前の「晴」は、多額の献金の見返りとして征夷大将軍・足利義晴から拝領した字です。この字を晴信が家臣に与えることは考えられず、武田家重臣で「晴」の字を与えられた例は、この「山本勘助晴幸」しか伝わっていません。前述のURLの「武田二十四将」に「晴*」という名前の武将は全く見当たりません。

「晴信が山本勘助に『晴』の一字を与えた」という甲陽軍鑑の記事は「誤り」「創作」と断定できます。
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大河ドラマの「風林火山」は、井上靖の書いた小説を原作にしています。

井上靖の小説「風林火山」は、江戸時代に成立した軍記もの(歴史と小説の中間の存在。平家物語や太平記など)の「甲陽軍鑑」をベースにしています。例えば「山本勘助が武田家に禄高200貫、足軽大将という破格の厚遇で召抱えられた」というのは、「甲陽軍鑑」に書いてあるエピソードをそのまま採用しています。

甲陽軍鑑という軍記ものは、史実と違うと証明されている部分も多いですが、ある程度は信用できるものとされています。この本の中では、山本勘助はだいたいドラマのようなイメージで描写されております。それが本当なのかウソなのかは「平家物語に書いてある様々なエピソードが本当なのかウソなのか」と同レベルの話で、「良く分かりません」と答えるしかありません。

なお、戦前は「山本勘助は架空の人物、もしくは信玄の軍師とは程遠い身分の低い人物」と言う考え方が歴史家の間では主流でした。これは、山本勘助について、戦前に知られていた同時代の一次資料(武将の交わした手紙など)に名前が一切登場しないこと、『武功雑記』(肥前平戸藩主松浦鎮信著、元禄9年(1696年)成立)という本に「山本勘助はごく身分の低い武士で、山県昌景の家臣であった」と書いてあることが根拠でした。ただし「武功雑記」の記述が何を根拠にしているのかは不明であるはずです。

戦後の1960年代になり、「市河文書」が発見されて、「山本菅助」と言う人物が信玄の家臣に存在したことが証明されました。
http://www.city.kushiro.hokkaido.jp/icity/browse …

戦国時代の市河家は北信濃の豪族で、武田家に属する前に信玄からこの「市河文書」を受け取り、「詳細については使者の山本菅助が申し上げる」と書かれています。市河家は武田家滅亡後は上杉家に属して会津・米沢と移って明治に至り、屯田兵として北海道に移住して現在に至っています。

現在、この文書の山本菅助が、甲陽軍鑑に登場する山本勘助と同一人物と言うのが定説です。戦国時代の使者というのは、主君の代理人として自らの判断で行動できるだけの能力と地位の持ち主でなければ務まりませんでしたので、市河氏への使者を務めた山本勘助が、武田家でそれなりの地位にあったことは確実とされています。

大名家で高い地位の者が使者を務めた例としては、今川義元の片腕であった太原雪斎が、武田信玄への使者として何度か甲府に来ていることが記録されています。
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昭和44年に発見された「市川文書」は、晴信が家臣の市河藤若宛に書いた手紙なのですが、その中で、“使者として山本管助が口頭をもって伝える”という記述があったため、山本勘助の存在が、現実味を帯びてきたわけです。


架空の人物とは必ずしも言えません。
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山本勘助の墓があちこちにあるようです。


http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/kansuk …
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実際はいたらしいですが、昔のことなので文献とかでも間違いあるかもですね。


wikiで詳しく乗っていますので参考に。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC% …

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC% …
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