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最近でこそ珍しくない背番号0ですが、日本のプロ野球選手で最初に背番号0をつけた選手はどの球団の誰でしょうか?また、2番目につけた人、3番目につけた人は誰でしょう?気になったので質問しました。よろしくお願いいたします。

A 回答 (2件)

再入場失礼します。


選手登録の定義などが私は明確にはわからないので、少し疑問に思ったことがあります。現在の楽天野村監督は1954年にテスト生と南海ホークスに入団しました。当時の監督からはカベ(ブルペンキャッチャー)として取っておけということでそれほど期待されず、背番号60を与えられ入団しました。しかし、1年目は1軍に9試合出場しています。2年目は1軍出場はなしで、3年目から本格的に1軍で活躍し、スター選手に上り詰めました。

で、No.1の回答のときはブルペンキャッチャーというのは選手登録していないものと思っていたのですが、野村監督の例を見ると、もしかするとブルペンキャッチャーも選手登録しているのか、あるいは最初はブルペンキャッチャーだったが、のちに活躍次第で選手登録されるケースがあるのかとも思い直しました。そのあたりの定義がよくわからないので、もしかするとNo.1の回答における長岡久夫と太田義次ともに選手登録はしているかもしれないと思っています。ですから、1軍登録では1983年の長島清幸が日本で最初ということですが、選手全体では選手登録の定義次第で以下のケースも考えられると思います。

長岡・太田共に選手登録していた場合(かっこ内は「0」を着用した年)
1.長岡久夫(1946~1947年)
2.太田義次(1948年)
3.長島清幸(1983~1990,1992,1994~1997年)
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下記wikipediaでは、広島の長島清幸選手が1983年に日本で最初の「0」をつけた1軍登録選手ということです。

しかし、戦後初期にブルペンキャッチャーなどで「0」をつけたことがあったようだが、調べてみると巨人の長岡久夫という人が1946年から2年間、そして日本ハムの前進の急映フライヤーズ時代の1948年に1年間だけ太田義次という人がつけているようです。この長岡あるいは太田のいずれかあるいは両方がブルペンキャッチャーだったということではないかと思われる。下記wikipediaでは1軍登録選手では長島清幸が1番ということですが、戦後初期の長岡あるいは太田のいずれかが選手登録している可能性も否定できないので、選手として1番は長岡・太田・長島のいずれかということになると思います。

まあ、一般的に「0」の第一人者は1軍登録ということで長島清幸ということになると思いますが、その次は南海ホークス(現福岡ソフトバンク)の立石充男が1984年から3年間つけています。さらにその次は日本ハムの大畑徹が1986年から2年間つけています。

戦後初期の長岡・太田のいずれかが選手登録されていれば、
1.長岡久夫or太田義次のうち選手登録した方
2.長島清幸
3.立石充男

長岡・太田のいずれも選手登録していなければ、
1.長島清幸
2.立石充男
3.大畑徹

ということになると思います。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%8C%E7%95%AA% …
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