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高校の国語の時間、教科書で坂口安吾の『文学のふるさと』という文章が課題になりました。「モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。」という印象的な一文を覚えている方も多いのではないかと思います。
私はここに述べられている『文学のふるさと』に見られるという「何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ」に非常に興味を抱きました。
しかし坂口がこの文章中で「文学のふるさと」としてあげている三つの例(グリム童話『赤頭巾』、狂言『鬼瓦』、『伊勢物語』(白玉か~の部分))だけではどういったものが坂口の言う『文学のふるさと』にあたるのかが掴みきれませんでした。
なので『これには「文学のふるさと」があらわれている!』と思われる他の作品がありましたら、例として教えていただけないでしょうか。
独断で構いません。作品も文字媒体であれば形式は何でも構いません。お礼は挙げていただいた文章を読了後になってしまうかもしれないのですが、これはという作品をご存じの方がいらっしゃいましたら是非回答していただきたいです。どうぞよろしくお願いします。

↓『文学のふるさと』全文(青空文庫)
http://www.ftm.co.jp/bunko/sa/bungakuno_furusato …

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A 回答 (3件)

私も教科書で『文学のふるさと』読みました!懐かしいなぁ



ぱっと思いついたのはこれですね
『ひよこの眼』山田詠美

グロ表現に耐性があるなら、良かったら次の本も読んでみてください
・『夜長姫と耳男』坂口安吾
 http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42614 …
・重複ですが『桜の森の満開の下』坂口安吾
 http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42618 …
・『死後の恋』夢野久作
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/2380_ …
・漫画ですが『少女椿』丸尾末広
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安吾のいう所の<モラルがないという事が


モラル。救いがないという事が救い>
にあたる作品だなあと思ったのは以下の作品です。

柳田国男の『山の人生』

<子供を斧で殺した父の話>があります。
貧しくて生活が苦しく、そんな中子供たちが斧をとぎ、
父親に自分たちを殺すようにいって横たわります。
ちょうど夕暮れ時で、父親はぼんやりとしたまま
子供たちを殺してしまうという話です。

少女マンガの『風と木の詩』
大人になれない少年ジルベールが最後には死んでしまいます。
(ちなみにボーイズラブなんで受付ない人は受け付けないとおもいます。)

あと、坂口自身の作品『桜の森の満開の下』もこれにあたるかもしれ
ません。
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> どういったものが坂口の言う『文学のふるさと』にあたるのかが掴みきれませんでした。



もう少し安吾のいう特異な「ふるさと」を見てみましょう。そしたらどういったものを探したらいいかわかってきます。そうしたなかから質問者さんが読んだことのある本のなかから、そうしたものを探すといい。そうしたら、「なんで選んだか」の説明もできるでしょ?

まず安吾は「赤頭巾」を例としてあげる。
これは何のためか。以下の部分を引き出すためです。

「私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。」

まずここで「ふるさと」という言葉が出てきます。
「私達」はいったいどこから「突き放され」るのか。それは「モラル」の世界です。わたしたちが生きる意味の世界と言いかえてもいい。
その世界では「美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐な少女」は狼に喰い殺されたりしない。悪い報いが来るのは、悪いことをした人間だし、良い少女には良い報いが約束されているのがこの世界の決まりです。ところがこの「赤頭巾」はそうならない。だから、わたしたちが生きる意味の世界から「突き放され」たように感じる。

意味の世界から「突き放され」た先がどうして「ふるさと」なのか。問題はここです。

わたしたちがある場所を「ふるさと」と呼ぶことができるためには、そこから外へ出ていなくてはなりません。そうして、たとえそこに戻ったとしても、もはやその人が出てきたときとは決定的にちがっている。「ふるさと」の出口は一方通行で、そこに戻っていくことはできないのです。
わたしが馴染み、わたしを育んでくれたにもかかわらず、それ自身としてはそこに存在し続ける。けれども、わたしにとっては失われてしまった場所、それが「ふるさと」です。

ここで安吾は、わたしたちの生きる意味の世界の向こうにひろがる場所を「ふるさと」と呼んでいることがわかります。わたしたちが生まれたところ、そこから出てきたところ、いまもそこにあるにも関わらず、決定的に失われてしまったところ。
わたしたちはそういうところから生まれて、意味の世界に入っていった。

意味の世界、というのは、原因と結果の世界、ということでもあります。
「○○だから~なった。」
わたしたちのまわりでは、すべてのことがそういう意味の脈絡に置かれている。
だから、たまにそういう意味の脈絡を外れるものを見ると、はっとするのです。そういえば、こんな原因と結果がつながらない世界を自分は知っていたような気がする。言葉で言い表せない世界。言葉を持たない世界。わたしたちの身に残るかすかな記憶。
だから、「ふるさと」です。

では、つぎを見てみましょう。

つぎは狂言です。
「この狂言にもモラル――或いはモラルに相応する笑いの意味の設定がありません。」

この狂言も、わたしたちがいま生きている意味の世界で判断すると、どう考えたら良いかわからない。

「 そこで私はこう思わずにはいられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。」

モラル、という言葉にあまり引きずられないで。一貫して安吾は「モラル」という言葉に、独自の意味合いを与えています。むしろ「人間はこうすべきだ」というモラルではなく、「こうだからこうなる(だからこうすべきだ)」という、一般的なモラルを導くための原因-結果の脈絡として読んだ方がいい。

この狂言は「泣く」という結果が、「鬼瓦を見る」という原因とうまく結びつかないのです。観音様の仏像を見て、女房を思いだして泣く、なら、通常の因果関係です。鬼瓦を見て笑い出す、というのも、まだ、通常の範囲内でしょう。それが、泣く。その泣くという心理が、まったくわからない、理解を絶するものなら、それはだれの共感も生みません。そんなものは残っていくものではない。だれにもわかるのです。わかるけれど、うまくその気持ちを言い表す言葉がない。
そういうものとしてこの狂言も理解する必要があるでしょう。

さらに安吾は言います。「崖」と。つまり、通常の因果関係には、一定の枠があります。どんな荒唐無稽の話でも、それを成立させるための枠。たとえば女の人の首がのびてもいいんですが、それは怪談のなかにおいてだけで、純愛小説でのびちゃいけません。その枠のことを安吾は「崖」という言葉で呼んでいる。その崖を成立させるのが、ここを超えたら因果関係は成立しないよ、という厳しい境界です。つまり、その境界を境界として成り立たせているのは、「モラルがない」ということなのです。

だんだんわかってきた?
ではつぎ。
これは柳田國男の『遠野物語』の冒頭とよく似たエピソードですね。
この農民作家が芥川につきつけた物語も、「崖」の向こうから来た物語でした。

「つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります。」

安吾が評価するのは、芥川のこうした感受性です。
柳田の『遠野物語』の冒頭の、山の人々のあまりに貧しい生活をつきつけられて、柳田と仲の良かった田山花袋は、こういうのは小説にならない、と言った。けれども、柳田の側はそこから「人間の生活」のエッセンス、そうして、その向こうに流れる、なんとも言い表しようのない世界を知り、そうして、夕陽の美しさまでも見て取ることができた。

自分の知っている物語の外から来たものをつきつけられても、だれもがそれを受けとることができるとは限らないのです。その、自分の知っている因果関係の枠のなかでは理解しがたいもの、言い表せないものを、確かに重く受け止めたところに、安吾は芥川の作家としての誠実さを見て取ったのです。

ここでのポイントは、〈モラルを超えたところの話をつきつけられても、誰もが同じように受け止められるわけではない〉ということです。

さて、いよいよ最後です。

「つまり、ただモラルがない、ただ突き放す、ということだけで簡単にこの凄然たる静かな美しさが生れるものではないでしょう」

と安吾は言います。むごたらしい話というのは別に、通常の因果関係の枠組みのなかでいくらでも作ることができます。あるいは、「殺人鬼は斧を買った」という一文で終わって、読者を「突き放す」こともできます。そういう話と、この「伊勢物語」はまったくちがう。
どこがちがうか。
もうわかりますね。この物語は、因果関係の枠組みの外から来た話だからなのです。

「この三つの物語が私達に伝えてくれる宝石の冷めたさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか。」

わたしたちを構成する、はりめぐらされた言葉の意味の世界。
わたしたちは、言葉を学習することで、その世界に入っていきます。同時に、周りの文化や慣習、モラルを受け入れていき、そうやって人間になっていきます。

それでも、わたしたちは微かに覚えている。生物として生まれた頃の記憶。あらゆるものと渾然一体としていた頃の記憶。わたしたちの〈ふるさと〉。

これを、〈暖かな場所〉〈わたしたちを護ってくれる場所〉ととらえようとしても、それは言葉の世界に住むわたしたちがでっちあげた物語でしかありません。その、わたしたちがそこから出てきて、微かな記憶があるのに、見ることも聞くこともできない、もう決して帰ることのできない場所は、そんなありきたりの言葉を超えたところにあるもののはずです。

安吾はその〈ふるさと〉を、なんとか、近似値のようなかたちで、そのように表現しようとしているのだと思います。

さて、最後にまとめです。

「文学のふるさと」の例は

・わたしたちがよく知っている原因と結果の物語とは一致しないものであること。
・人間の生に深くふれているものであること。

これを探せばいいんです。
つまり、「えっ」と思って、「よくわかんないけどなんかおごそかな気持ちになった、背骨の奧のほうがしゃきっとした」という作品、いままで読んだことありません?
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Q「文学のふるさと」のふるさとについて。

坂口安吾さんの「文学のふるさと」のふるさとについてなんですが、いまいちよくわかりません。
これらについて詳しく説明しているサイト、また、ふるさとについて説明できる方いましたら回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 説明してみます。
 文学のふるさとというのは……無力さの体験かと思います。不条理な目に遭うとか、犯罪被害者になるとか、戦火に巻き込まれるとか、敗戦とか、肉親の死とか、殺されるとか、じぶんも死ぬ存在だとか、そういう仕方のない状況では無力さをひしひし感じます、自分の言葉が全く無力だなと痛く思い知らされます、そういう体験をふるさとと呼んでいるのかなと思います。
 出来事が出来事として生のまま降りかかって自分や人が飲み込まれ、無力さを心底味わいながら、自分は自分によってのみ抱きしめられる。そこをふるさとと呼び、そこに後から言葉をかぶせることが大人の仕事で、文学の仕事なのだ?

Qお願いします!

坂口安吾『桜の森の満開の下』についてお伺いします。
この作品で、問題点となるのはどんなことでしょうか?
やはり最後の場面の女が鬼に変わる箇所だと思いますが、他にはどんなことが挙げられますか?3つ4つ挙げていただけると幸いです。
そしてその問題点に対して各研究者はどんな論を展開しているのでしょうか。
また、あなたの意見も聞かせていただけると嬉しいです。結局女は何だったのでしょうか?男は何だったのでしょうか?孤独って?鬼って?...難しくて分からないことだらけです。作品を読むということは深いですね。でもだからこそまた面白いということにも最近気が付きました。
厄介な質問になってしまったかもしれませんが、何卒よろしくお願いします。
 

Aベストアンサー

 結局、演習発表の題材は「桜の森の満開の下」になさったんですか?

 すべての質問に答えられる力は、到底僕にはないので、参考文献をご紹介します。

 やや古い資料ですが、学燈社の雑誌『國文學』の昭和62年7月臨時増刊号「作品別・近代文学研究事典」の中で、荻久保泰幸氏が「桜の森の満開の下」の作品論を十数本紹介していますから、まずこの臨時増刊号を図書館か研究室で探し出し、そこに紹介されている論文を片っ端から探して読んでみてください。

 mayu1314さんは、国文学科の学生さんですよね。でしたら、資料の探し方も勉強してくださいね。ちょっとお節介な苦言でした。

 P.S.できたら、前の質問は閉めてくださいね。


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