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私は成人洗礼のカトリック信者です。受洗して7年、カトリック教会とその歴史について自分なりに勉強を重ねているのですが、常に引っかかってくるのが、プロテスタント教会との関わりです。
毎年1月に「キリスト教一致週間」という期間を設けて、ミサにプロテスタントの牧師さんに来ていただいて講演をしていただいたり、ミサ典礼で使われる聖書も新共同訳を推奨され、伝統的な「主の祈り」も聖公会との共通口語訳に切り替えられました。
カトリック側としてはプロテスタントの教会への歩み寄りを一生懸命模索しているというのが、信者としての私の印象です。
けれども、プロテスタントの教会に通っている人を実際に知らないので、そういうカトリックの動きがどのように捉えられているのかが掴めません。

本当に今でもプロテスタント信者はカトリックを「悪の温床」「偶像礼拝者」だと思っているのでしょうか。
また、キリスト教徒でない方のカトリック観も教えていただけると嬉しく思います。

A 回答 (4件)

あ?私自身は思ってませんよ。

私はプロテスタントですが、息子はカソリック系の幼稚園に行ってますし。

でも私が不安に思うことは「自分の神が一番だ!だからそのやり方や考え方でやる!あなたのは間違いだから、一切認めない!」と言う考え方です。うちの教会でも「もし仲人を頼まれても、神式だったら引き受けないし、断りきれなかったら式の間は外で待つ」という人がいます。「仲人がいない神式の結婚式ってどんなの?せっかくの2人の門出なのに、お祝いなんだからいてあげようよ!」って思います。だからお葬式も私はお焼香もします。相手が信じている物に対して、礼は尽くすというのが私のスタンスです。

なんかテロがなくならないのもわかる気がします。自分が信じているものは自分だけが一番であり、他の人は違うのだから押し付けてはいけないと思います。宗教観による争いが一番イヤです。

私はもちろん息子にもキリスト教者になってほしいですが、別に強制はしません。だから初詣も行くし、地蔵盆も連れて行くし、神社でのお祭りも行くし。そのなかで彼が分別がつく歳になってから考えてもらえればいいです。無神論者でもかまいません。

私の姉は「どうせクリスチャンになるなら、カソリックだわ。だってかっこいいもん」と言っています。カソリックってイメージ良いですよ。荘厳な、美しいイメージですよ。
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この回答へのお礼

遅くなりましたがご回答どうもありがとうございました。

お礼日時:2002/08/20 22:20

私はキリスト教徒ではありませんが、熱心なプロテスタントの家庭で育ちました。


小学校から教団の学校に通い、当時の私の周囲の人々は9割がた信者とその家族でした。
今は親と離れ、宗教とは関係のない生活を送っていますが、幼い頃から受けてきた教育とは拭えない物で、
今でも私の考え方の根本にはその教育が影響を及ぼしている事は確かです。
現在の状況は分りませんし、両親が信仰している宗派の事しか分らないのですが。。。。

幼い頃から家庭や学校でその教えを叩き込まれて来たのですが、「カトリックは悪の温床」と教えられた記憶は一切ありません。
「偶像礼拝者」についてですが、確かに私達は、偶像崇拝をしてはいけないと強く学びました。(十戒を守ろうとする教団です)
それに関しては、私達にとってはカトリックでなくても仏教でも他の多くの宗教でも同じだと思ってました。
(ところで、偶像と表現する事に不快感を感じますか?適切な言葉がありましたら教えて下さい。まさか仏像ではないですよね)

カトリックに対しては、むしろ親近感があったかも知れません。
カトリックだプロテスタントだ何派だ何教団だと言っても、キリスト教なのですから。

しかし、ごく一部ですが、確かにカトリックを激しく批判する人達もいました。
(批判の対象はカトリックだけではありませんでしたが)
非常に極端な信者達で、他の多くの一般の信者に対しても「生ぬるい!」といった感じでした。
彼らから見たら、世の中全部が悪の温床でした。
カトリックに対しては、やはり免罪符から始まって、懺悔についても非難の対象でした。
乱れた修道院の暴露本みたいなのもありました。
私の両親は極端信者ではありませんでしたが、父の学友が極端信者になってしまい、
そこから危うく私の両親もその毒牙(?)にかかる所でした。今は両親は単なる熱心な信者です。
多くの一般の信者達はそんな極端信者がいる事自体も知らなかったんだと思います。
私は極端信者に対する激しい反発心からか、信仰自体を憎悪するようになりました。
まぁ、私が思春期にさしかかった時期というのもあったのですが、結局宗教その物に対する拒絶反応が植わってしまいました。

そんな極端なごく一部の人達を除けば、特にカトリックに対しての反感などはなさそうに思いますよ。
もちろん、数々の見解の違いがあるという事は事実ですが、見解の違いが反感に直接繋がる事はないという事です。
聖餐式に関しても、理解がまだ十分ではない求道者やたまたま来た人等は行いません。(私が行ってた教会では)
なので、相互見解が一致していない人が聖体拝領を受けられなかった、という事に対してはおかしいとは思いません。

ああ、なんだか私の「ぶちまけ」みたいになってしまって恥ずかしい。

ところで、カトリック信者から見た正教会についての認識というのはどういった物なんでしょうか?
また、ユダヤ教に対しては?(両親が信仰している教団はややユダヤ教よりではないかと思ってます)

全くの私見で、偏見も入ってるかも知れなくて、失礼な発言もあったかとは思いますが、
自分の中での認識を表現しようと努力した次第です。長々と失礼致しました。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました。
お話によると、特別極端な人でない限りは、あえてわざわざカトリックを引き合いに出して貶められるようなことはなさそうですね。
「偶像崇拝」という言葉に過敏にはなっていませんからご安心下さい。よくプロテスタントの方が言われますけれど、もしキリスト像そのものを崇めているのでしたら、それは神以外のものを神として崇めるという偶像崇拝に当たると思います。でもカトリック信者はその形を通して神を意識するわけですから、極端な話、ミケランジェロの彫刻でもラファエロの絵でもいいのです。神をより身近に認識するためのよすがになるのが、聖像なり聖画なのだというふうにとらえています。
(ただし、これ以上は専門家の範疇ですので、これ以上のコメントは差し控えさせていただきます。神学をきちんと学んだ方のほうが回答するには適任です)

逆にご質問いただいた正教会やユダヤ教に関してですが、これは私個人にとってはあまり身近に接する機会がないもので、何ともお答えしようがありません。ごめんなさいね。
ただ、正教会に対して尊敬の眼差しを向けているカトリック信者は大勢います。数々のイコンの美しさや典礼の重々しさは、カトリック教会が失いつつある人類の神への憧憬や心を見事に表現していると思っています。今では神のみ前に跪くことさえ省略している教会があまりにも多いことを考えると、正教会に学ばねばならないことは数多くあると思います。

それぞれの人にとって、神へのアプローチは異なってくるでしょう。同じカトリック信者であっても、ある人はまったくの無垢な心を捧げて神を愛し、人にも接することができますし(例として聖フランシスコや小テレジアなど)、別な人はまず学問の探求をはじめ、どこから攻めても難攻不落の神様に降参するパターン(例は『告白』の聖アウグスティヌスや英国のチェスタトン、長崎の永井博士などの転向組)もあるでしょう。
だから、祈りも考えも文化背景も異なって当然の世の中に、未だにキリストが歴然と存在することに驚嘆するのです。キリストの下に一つにある限り、人の心はまだ捨てたものじゃないんじゃないかな、と…

こちらこそ話が飛躍してしまいましたね。失礼しました。

お礼日時:2002/07/24 23:27

私は信者ではないのですが、プロテスタント(ルター派)の教会と多少関わりを持っておりますので、ごく個人的な身近な範囲での事しかわかりませんが、回答に参加させていただきます。



私の関わっている教会では聖書は新共同約が使われておりますし、特にカトリック批判のようなことを聞いたことはありません。(同じキリスト教会として、むしろ連帯感を持っているようにも思われます。)
協会員の中には教派を超えた活動に関わっている方もいらっしゃいますし、特にカトリックに対して違和感を抱くようなことは無いように見受けられます。

ただ、会員の方から、カトリックの礼拝に出席した際、聖餐(カトリックでは聖体拝領というのでしょうか?)が受けられず、「カトリックのこの辺がまだ硬いんだよな。」といった話を聞いたことがあります。
また、聖母マリアの位置付けについては、少なからず抵抗感があるかもしれません。

私の個人的な感覚ですが、新協同約聖書でキリストの名前を“イエス”に統一したことは、“ペテロ”が“ペトロ”になったことを差し引いても、比較にならないぐらい大きな(日本のカトリックの)譲歩があった(特に年配の信者の方には、相当な抵抗があったのではないでしょうか?)のではと思っています。

おそらく(聖公会やルター派のように)比較的組織の大きい教会では、教会本部において教派間に結構つながりがあると思いますので、少なくとも特別敵対するような感覚は無くなっているのではないでしょうか。

一方で、日本キリスト教団の教会は、教会によってかなり独立性が強いところがあり、(別に悪いこととは思いませんが、新改訳聖書を使っていたりしますし、)教会ごとで感覚にかなりの相違があるかもしれませんね。
(でも、いまどき「悪の温床」だなんて思っていたりはしないと思いますが?)
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました。
ルター派教会という具体名を出していただき、解りやすいお話でした。
聖餐(聖体拝領で正解です)については、教義としての相互見解が一致していない以上、難しいでしょうね。
カトリックはあのパンの形のウエハースを、キリストの現存として崇めます。それを食すことによって、聖霊をその身に受けると信じています。キリストの御血としての葡萄酒も同じです。ご聖体を前に、何時間でも祈るのがカトリックです。だからそれを「イメージの再現」として受け止めるプロテスタントとは、大いに理解が異なるのでしょうね。

新共同訳聖書に触れてくださってありがとうございます。カトリックでは外国人司祭や年輩の司祭の方はまだ「イエズス」と発音しますが、新共同訳を使っている以上、ミサ中も祈りの中でも「イエス」が公式な読み方(?)となったようでした。ただ別に「イエズス」が禁止となったわけじゃありませんので、「イエズス・キリスト」と使う人もたくさんいますね。(私自身を含めて)
抵抗がそれ以上に強かったのは、主の祈りが口語になったことでしょうね。

新共同訳といいながらプロテスタントの主要名称を使った聖書を用いるよう、一生懸命信徒を説得してきたカトリックなのに、プロテスタントは今でも新改訳などの独自の聖書を用いていると聞くと、ガッカリしてしまいますね(笑)。なんだったんだ、我々は…という虚脱感がヒシヒシと(笑)。

でも先日、フランシスコ会編旧新約聖書が46年かかって漸く完成というニュースがありました。カトリックの神学体系に基づいた聖書ができたということは、日本の信者にとって大きな励みです。

お礼日時:2002/07/22 22:52

プロテスタント系のキリスト教会に通っていた時期がありますが、確かに、教会員・牧師によるカトリック教徒に対する偏見は感じました。



「カトリックはマリア像を礼拝しているが、あれは偶像礼拝だ」とか「カトリックは異端だ」という批判を、牧師や教会員たちから聞かされたこともありました。また、マルチン・ルターの宗教改革を引き合いに出して当時のカトリック教会を批判し、なおかつ当時のカトリック教会と現在のカトリック教会を同一視して、現在のカトリック教会を批判しているような教会員もいました。勿論、これは理論的に無理があり、正当な意見とは思えませんが。

しかし、プロテスタント系の教会同士でも、それぞれ「派」に分かれて、それぞれの「派」を批判しているようで、一致団結してカトリック教会を批判している訳でもないように感じました。要するに、「私達の教会(教派)が一番だ」と言いたいのだと思います。

なお、上記の例はあくまでも一例ですから、「そのような考えを外部の者に教えているプロテスタント系教会もある」という程度にお考え下さい。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました。
本当にカトリックへの反感というのはあるのですね。少し驚いてしまいました。
プロテスタントというのはプロテスト(抵抗)する対象(カトリック)あってこそアイデンティティが確立するものである、という皮肉がありましたが。
でも、カトリック内部では一度もプロテスタントや諸宗教への批判って聞かれないのです。これは本当ですよ。

宗教改革についても、画一的な見方が大勢を占めているというのは残念な話ですね。世界史などで公立学校の生徒が教わるのは、カトリック教会の腐敗と浄化作用としての宗教改革→プロテスタントの誕生という図式のみですから、背景とか、その後のカトリックの歴史などについて、教わっていない人が大半だと思われます。
ルターは何も、分離独立して新しい教会を立ち上げようとはしていなかったということ、カトリック教会がプロテスタントの枝分かれを痛みとして、内部から正常化しようと試みた無名の神父、修道者が大勢いたことなどは、話題にさえならないのが残念なことです。
今のプロテスタント信者の方々が、現在のカトリック教会の在り方を知るチャンスがどんどんできればと思っております。相互誤解はいつまでも垣根となるばかりでしょう。

お礼日時:2002/07/22 22:26

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