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鎌倉時代の新仏教と旧仏教の違いについてききたいです。
新仏教は、たとえば浄土宗で、専修念仏を唱えていれば、人は救われる。また臨済宗では公案解決により悟りに達して救われる。というように易行で民衆を救うというものだと思います。それに対し旧仏教の華厳宗や法相宗では、易行では民衆を救うことはできず、きちんと戒律を守って、厳しい修行を積んだ結果、悟りに達して救われるというもの。おおまかに分ければ、こんなかんじでいいでしょうか?また、救われるというのは、悟りに達することを指しているのですか?

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A 回答 (2件)

大まかに別ければそのとおりです。



しかし、
法相宗では「行基」「徳一」がおります。
律宗の叡尊(真言律宗の祖師)がいます。
南都六宗の僧侶は社会的救済事業、インフラ整備に力を入れた方が多く見受けられます。

一方、鎌倉新仏教ではそのようなことは、財政面等で不十分でした。
日蓮は、良観の社会慈善事業のことを、税金を使って更に民を苦しめると主張した。と伝えられています。

これは、仏性と菩薩行の考え方の違いです。

簡単に書きますと、
仏性は、誰にも宿る=悉有仏説(先天的に誰でも仏性がある。)
仏性は、誰にでもある訳ではない=五性格別説

があります。
五性格別説は法相宗で徳一が主張しました。鎌倉時代以降は廃れましたが、南都六宗(いわゆる旧仏教派)が社会的救済活動したのはその影響があったからだといわれています。
五性格別説は、運命で仏性があるか決まる。しかし、それは菩薩行という他人への慈悲の行い。という修行をしなければ仏性があるかどうかわからないそうです。
ですから、悉有仏性説よりも菩薩行を行わなければなりません。

悟りについて、
易行によって
浄土宗、浄土真宗では、「信心決定」という言われ方がされています。
これは、死後浄土に行けることが約束された大安心の境地です。

日蓮系では、過去世での法華誹謗の罪が滅罪し、仏の境地に生きながらなれる。(しかし、実際は現世で過去世の罪を滅罪して、来世での成仏の種を下種することができる。)
この法華経の行者を諸天喜神(神道の神)が守る。これが現世利益と強く結びつきました。

新仏教と旧仏教について、
この区分は正確ではない。という説があります。
鎌倉時代に発生した宗派は、戦国時代に隆盛したものです。
鎌倉時代では異端の宗派で、親鸞にいたっては、その名が第三者の文書に見つからなく、親鸞架空人物説があったくらいです。やっと比叡山で見つかったそうです。
日蓮は膨大な文書が残っていますが、日蓮教団作成のものがほとんどです。
いわゆる旧仏教は、祈祷などの密教系が主で顕密仏教と区分し、鎌倉新仏教はその異端に過ぎない。鎌倉新仏教を戦国仏教と呼称した方がより正確である。と記述されている本もありました。
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専門家ではないので軽く聞き流して頂きたいのですが。



臨済宗って易行ですかね・・?
禅宗の修行ってかなり大変だと思うのですが。
まして臨済宗は非常に難解な公案がありますし。
個人的には易行=念仏系諸宗というイメージがあります。
また、これも個人的なイメージなのですが、
禅宗は民衆を救うというよりも自らが悟りに至る上座部的な側面が強いように思います。

また、華厳宗・法相宗などの南都六宗は、
実践修行というよりも学問としての仏教と言った方が実態に近いのではないでしょうか。

宗派によって多少の差異はあるかも知れませんが、
この世に生き煩悩に囚われる事を“苦”であるとし、
無限に続く輪廻転生の輪から抜け出す=解脱する事を持って救いとするのが仏教の基本姿勢であると私は解釈しています。
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Q鎌倉時代に新仏教が興った理由

鎌倉時代に新仏教が次々と興っています。
その原因はなにでしょうか?

また新仏教が興る前の民衆にとっての仏教とはどういうものだったのでしょうか?
お寺でお葬式をして、お寺に墓を作るというようなことは行われていたのですか?
それとも庶民には縁の薄いものだったのでしょうか?

Aベストアンサー

簡単にいうと、既成仏教が堕落し、平安時代は貴族のものであった仏教が、武士や民衆のニーズに応えて盛んになったといえるのではないでしょうか。

既成仏教とは南都六宗(三論・法相・華厳・律・成実・倶舎の各宗)、天台・真言の二宗です。南都七大寺や、延暦寺・園城寺などの大寺院は、各地に広大な荘園を持ち、多くの僧兵を養うなど、財力・武力を蓄え権力にも介入し、ことあるごとに朝廷に強訴したり、他の寺院に武力闘争をいどむなど、仏教集団というよりも、武力集団となっていたのです。

それは当時の人々の目には、釈迦の教えが力を失う「末法(まっぽう)」の時代の到来と写っていたようです。
末法思想がひろまるにつれて弘まったのが、法然を祖とする専修念仏(浄土宗)です。
平安時代の末期から絶えない戦乱、あいつぐ天災、生活苦などで、どこにも救いを求めるすべがなかった民衆や、旧仏教に絶望していた僧たちが、浄土信仰に引かれていったようです。

鎌倉武士に流行したのは禅宗です。
当時の最高権力者の北条時頼は本格的な禅宗寺院の建長寺を建てています。
なぜ禅宗が武士の間に弘まったかというと、禅宗が中国の風習を取り入れて、葬式や法要を厳粛に行ったため、家門を尊び祖先を大切にする武士に用いられたとする説が有力です。(一般的なイメージだと、座禅による心身鍛錬がありますが)
また中国(宋)の文物や学芸が、渡来した禅僧によって日本に持ち込まれ、禅宗寺院が最新の外来文化の窓口になっていたせいもあるようです。

その他の宗派については長くなるので割愛します。

死から埋葬までに関わったのは、当時は僧侶ではなく陰陽師です。
年忌法要については、武家などの上流階級の場合は、僧侶が関わっていましたが、やはり陰陽師が要所に関わっており、僧侶の独壇場ではなかったようです。

庶民は自分たちの葬儀のために僧侶を呼んだり塔婆供養をするという習慣はありませんでした。庶民を対象とする新仏教の本来の目的は葬送儀礼ではなかったのですから、武士や貴族階級の葬法とは大きな違いをみせています。
死体は道のほとりなどに、山積みにして捨てられていたのです。(集団埋葬地のようなもの、寺の中などではない)葬って墓標が立てられ、誰の墓か分るような物は庶民の墓としては上等でした。また葬儀や埋葬をできる庶民は、僧侶より陰陽師に依頼するのが普通でした。死と死後の諸儀礼は、庶民の中にはほとんど成立してなかったといえます。

簡単にいうと、既成仏教が堕落し、平安時代は貴族のものであった仏教が、武士や民衆のニーズに応えて盛んになったといえるのではないでしょうか。

既成仏教とは南都六宗(三論・法相・華厳・律・成実・倶舎の各宗)、天台・真言の二宗です。南都七大寺や、延暦寺・園城寺などの大寺院は、各地に広大な荘園を持ち、多くの僧兵を養うなど、財力・武力を蓄え権力にも介入し、ことあるごとに朝廷に強訴したり、他の寺院に武力闘争をいどむなど、仏教集団というよりも、武力集団となっていたのです。

それは当時...続きを読む

Q兌換紙幣と不換紙幣って??

高3です。
日本史の授業で今日先生が言っていた「兌換紙幣」と「不換紙幣」の意味がよくわかりません・・。
金や銀に換えることのできる紙幣、というようなことを言っていたと思うのですが、どういうことなのかいまいちイメージがわかないのです。。
こんな私にもわかるようにかみ砕いて説明して頂けませんか?
よろしくお願いします(>_<)

Aベストアンサー

 再び失礼します、No.7です。

 不換紙幣の発行理由ですが、自信がなかったので検索をかけてみたら、こんなページを見つけました。下の方に書かれています。

 このページは分かりやすいと思います。(わからない部分があれば、また補足をください。可能な限り回答します。)

 以上、参考にしてくださいね、これで失礼します。

参考URL:http://www.findai.com/yogo/0013.htm

Q日本史Aと日本史Bの違いについて教えてください。

こんにちは、疑問なのですがセンター試験の日本史Aと日本史Bとはどのような違いがあるのでしょうか?
ちょっと気になって調べてみたのですが、ほとんど日本史Bの事しか載っていませんでした。

二つの教科の違いや、選択時の有利不利などを教えてください。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

 日本史Aと日本史Bの違いは、高校での単位数の違いと、教科書で学習する内容の対象が若干違うことです。

 日本史Aは、単位数が2単位など。単位の少ない時間で取り扱う科目です。教科書の内容も近現代史~の内容をメインとした教科書の構成となっています。日本史Bの場合は、大体4単位で、教科書の構成が古代史~スタートし歴史全体の内容を取り扱うものです。

 日本史Aでは、大体どの時代も勉強すると思いますが、教科書の構成上「近現代史」に特化した取扱になっています。また、日本史Bでは、古代史からスタートするので日本史Aの教科書より内容的に若干難しい内容も取り扱います。

 したがって、単位数の違いにより、日本史Aと日本史Bの教科書を使い分けていることです。主に、日本史Aは、職業科の学校で使われています。

 農業高校・商業高校・工業高校など普通科以外の学校で日本史Aの教科書を採択しているケースが多いです。普通科の高校でも日本史Aで近現代をやって、日本史Bで古代から江戸まで勉強して、受験するときは日本史Bで受験するというケースも見られます。

 つまり、日本史Aでは、教科書の構成上、近現代史がメインになりますが、日本史Bでは、古代史からスタートして現代史まで扱うという幅広内容になるということになります。そういうことから、日本史Aで勉強したいようで、勉強していないところ古代史~江戸時代の内容に関しては自力で勉強することが求められます。

 【大学受験での日本史選択】
(1)センター+私大(日本史で受験)する場合
 →「日本史B」を選択
(2)センターのみの場合(日本史A・B両方選択可で2次試験で日本史を必要としない学部学科を受験の場合)
 →「日本史A」を選択(学習時間が少なくてすむ)

 ※私大受験を考えていて、日本史で受験を考えているのであれば「日本史B」を選択するのが無難です。リクルートの進学サイトのURLを載せておくので受験科目の選択に参考にして見てください。

 何らかの参考にならば幸いです♪

参考URL:http://www.shingakunet.com/cgi-bin/shingakunet.cgi

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 日本史Aは、単位数が2単位など。単位の少ない時間で取り扱う科目です。教科書の内容も近現代史~の内容をメインとした教科書の構成となっています。日本史Bの場合は、大体4単位で、教科書の構成が古代史~スタートし歴史全体の内容を取り扱うものです。

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Q鎌倉仏教の特徴について

鎌倉仏教の特徴は何か。あと、鎌倉仏教はどのようにして民間へ普及したか。そして、
鎌倉時代の文学作品、美術作品から代表作を選んでその特徴はどうなっているか。
いろんな問題が知りたいので、どうぞよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

鎌倉仏教の特長は武家政権と庶民のための仏教です。平氏は武家ですが一族は公家になったので、公家の仏教を踏襲したのです。平氏の弱点がここにあり、死ぬときには公家の仏教に帰依することになるのです。
そこで源氏や北条氏の武家政権はその反省として、中国の禅宗を新しい仏教として導入したのです。禅宗は特別な経典を持たず、公家のための平安仏教から距離を置くことができたのです。それが臨済宗の栄西と曹洞宗の道元です。

実は同じことが過去にも行なわれました。平安京の作った桓武天皇は天智天皇系で平城京は天武天皇が作った都なのです。この2系列は壬申の乱で戦い天武天皇が勝利したのです。桓武天皇はこの天武系を孤立させるために平安京に都を移し、奈良仏教とは異なる新しい仏教として最澄と空海を中国に遣唐使として行かせ、平安京に天台宗と真言宗を開かせたのです。

鎌倉仏教の特長である庶民のための仏教ですが、それ以前は公家しか成仏できなかったのです。しかし、武家の端くれである武士も成仏できるようになると庶民も成仏したくなるのです。武士や庶民の地位が向上したのです。また、大飢饉や末法思想により不安を抱く庶民の中に入りこみ、仏教を広めようとしたのが浄土宗の法然や日蓮宗の日蓮です。すこし遅れて法然の弟子である浄土真宗の親鸞です。かれらは武家から迫害を受けて地方に流されますが、そのことによってさらに仏教の庶民化が成されたのです。

鎌倉時代の仏像は写実的です。それは武士の合理性に由来するのです。禅宗とともに入ってきた水墨画も特長です。禅宗の寺は枯山水などの様式を生み出します。これらはいずれも武家好みだったのです。

鎌倉仏教の特長は武家政権と庶民のための仏教です。平氏は武家ですが一族は公家になったので、公家の仏教を踏襲したのです。平氏の弱点がここにあり、死ぬときには公家の仏教に帰依することになるのです。
そこで源氏や北条氏の武家政権はその反省として、中国の禅宗を新しい仏教として導入したのです。禅宗は特別な経典を持たず、公家のための平安仏教から距離を置くことができたのです。それが臨済宗の栄西と曹洞宗の道元です。

実は同じことが過去にも行なわれました。平安京の作った桓武天皇は天智天皇系で平...続きを読む

Q地方知行制から俸禄制へ(江戸初期)

江戸時代の前期、地方知行制から俸禄制へほとんどの藩が推移していきますが、その理由は何なのでしょうか。

Aベストアンサー

こんばんは お久しぶりです

 初期ということであれば、藩主権力の強化、および藩財政の確立でしょうね。これが、藩財政が傾いてくる中期以降になると、財政再建の色合いが強くなるでしょう。

 加賀藩では四代藩主前田綱紀(1645年3歳で藩主に)のもとで「改作法」という改革が行われます。(実際の主導者は祖父三代藩主利常)
その中身は
1)家臣による知行所直接支配の禁止=藩主による親裁(直接支配)
2)手上げ高(高くみつもった収穫量)による草高(基準石高)の決定
3)定免による一村平均免(同じ税率)
ですが、その狙いは「つよき百姓」=健全な高持百姓育成であり、ひいては藩財政の確立にありました。

 この改革には家臣の抵抗もあり長い時を要しますが、1648年には領内惣検地を開始し、1671年、最後の抵抗勢力である長連頼3万石(能登鹿島半郡)での支配権を確立し、村高および年貢率を記載した「村御印」という文書が、藩から村々に下付されます。

 前田綱紀は名君といわれますが、他の藩でもやはり旧時代(戦国時代)からの伝統的な地方勢力があったでしょう。そうした、「土地と結びついた勢力」を排除し、藩主のもとに「役人」として家臣を再編する、という狙いがあったといえます。

こんばんは お久しぶりです

 初期ということであれば、藩主権力の強化、および藩財政の確立でしょうね。これが、藩財政が傾いてくる中期以降になると、財政再建の色合いが強くなるでしょう。

 加賀藩では四代藩主前田綱紀(1645年3歳で藩主に)のもとで「改作法」という改革が行われます。(実際の主導者は祖父三代藩主利常)
その中身は
1)家臣による知行所直接支配の禁止=藩主による親裁(直接支配)
2)手上げ高(高くみつもった収穫量)による草高(基準石高)の決定
3)定免による一村平...続きを読む

Q条坊制と条里制の違い

上の通りです。
条里制は朱雀大路がなんちゃらって書いてますが
条坊制の説明がありません。(山川の教科書です)
よろしくお願いします。

あと、
「日明貿易が中止された理由を将軍名もあげて簡潔に答えよ」
っていう問題に
「足利義持が日本が明より下の立場に見られるのを嫌ったため」と書いたんですが10点満点としておおよそ何点もらえますか?

Aベストアンサー

条里制・条坊制は、皆さんが回答している通りです。
条里制ー>農地整備
条坊制ー>都市整備
省略しますね。

>「日明貿易が中止された理由を将軍名もあげて簡潔に答えよ」

先ず、一般的に伝わっている事ですが。
義満は、面子を捨て実利を優先させて、朝貢貿易である日明貿易を開始した。ところが穏健な伝統主義者である四代将軍足利義持は、面子を優先して朝貢貿易を中止した。経済的にも、明銭などの輸入が必要でなくるなど、国内での経済活動が進んだ。
となっていますが、単純に「独裁者義満に反抗した義持の逆襲」という説もあります。
もともと、この親子は「不仲」で有名でした。
義持は、義満の行った政策全てに反対しています。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ならぬ「義満憎けりゃ政策まで憎い」です。

>「足利義持が日本が明より下の立場に見られるのを嫌ったため」と書いたんですが10点満点としておおよそ何点もらえますか?

難しい問題ですねぇ。
僕が採点者なら、5点。可も無く負もない回答だと思います。


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