カントの発言にあるコペルニクス的転回とは、一体どういった事をいっているのでしょうか?詳しく教えていただけませんか?またそのことについて分かりやすく解説しているページ抔ありましたら教えていただけると有り難く思います。よろしくお願い致します。

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A 回答 (6件)

まず、コペルニクスという人がどういう事をしたのかをここで確認して下さい。

要するに、それまで世の中で定説となっていた事とは全く違う説、つまり地動説を唱えた人です。
http://ibuki.ha.shotoku.ac.jp/school/science/phy …

コペルニクスによる地動説の提唱は、従来の天動説で固められた、各人の心理レベルのシステムを、根本的に破壊し、大きく変動(転回)させる結果となります。カントは意識と対象との主従関係の180度の転回という意味で、「コペルニクス的転回」という言葉を使いました。詳しくは下記参考URLで。

参考URL:http://www.ncc.u-tokai.ac.jp/home1/infor/v-kouza …
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 カント以前は客観的実在の根拠は神です。

天動説も宇宙を神の摂理で説明します。コペルニクスは観察による様々な関係をそれ自体に説明させて、より分り易い枠組みを作りました。カントも純粋理性にそれを要求して範疇化しました。これが所謂コペ転です。神のシガラミからの脱却です。
 質問への回答はここまでですが、カントの「物自体」に対して回答者の方々が、素朴実在論と不可知論何れの立場に立って語っているのかが気になります。
 カントの「物自体」、やっかいな事態です。
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この回答へのお礼

とても分かりやすい回答ありがとうございました。
皆さんが勧めて下さったページや本でも勉強させて頂いてとりあえずは
十分満足いっています。どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/01/26 18:49

ozapanさま、お褒めいただいてありがとうございます。

恐縮です。

あの、私の投稿の前者と後者って微妙に逆ですよね。
一応訂正を・・・・・。
ほんとのものが「物自体」で
理性が頑張って作ったものが「現象」です。はずかしー。

これだけなのも何なんでおまけを・・・・。
カントが認識の問題で一番苦心したのは、
従来の一般的な認識論のように、対象が先立つ実在論的認識論と
バークレーのように、何もかもが自分で作ってんじゃあ! 本当に存在してるか確実なものなんてないぞ! 
でも神様がついててくれるから大丈夫♪ という観念論的認識論の
どちらの両極端にもよらず、いかに、自分と対象のバランスをとりながら、
両方の力で認識できるんだよ、ってのを説明するかでした。
どっちかに偏っちゃえば楽なのに~と思う私は凡人です。
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 対象のあるがままの姿を受け取るのが認識なのではなくて、理性が対象の認識を積極的に「構成」するのだ、という「転回」のことです。

「客観的な形で存在している対象があるおかげで、われわれは認識ができている」という考え方をひっくり返しているわけです。その意味では、客観的対象に対する理性の優位を宣言するものといえます。
 ただし、ここには、「対象をありのままに認識できると考えるのはまちがっている」という、「理性の有限性への自覚」も同時に含まれています。理性は、対象について、感覚を通して経験できる範囲に関してしか、正しく認識できません。「現象」として、感覚に与えられる限りしか認識できないということです。感覚を通じて得られた情報を、まとまった「経験」にまとめ上げる土台になるのが「先験的形式(注)」としての「時間」と「空間」です。時間・空間という枠組みがあるからこそ、そこをいわば整理棚のようにして感覚与件を整理できる。こうして経験が成立し、対象認識が主観的意識のなかに「構成」されるというわけです(Htumakuraさんが引用された『ソフィーの世界』でガラスのピッチャーに喩えられているものが先験的形式)。
 経験を越えた部分、例えば「本質」などは「構成的に認識できない」とされます。これが「物自体」。感覚与件を伴わない以上、先験的形式の中では「構成」できないのです。理性が無理にここまで踏み込もうとすると「二律背反(アンチノミー)」に陥ります。相矛盾する二つの命題が、同じ程度の正しさで並立してしまい、調停できなくなるという状態です。理性が、その限界を越えて振る舞うと、こうなる。分をわきまえろよ、理性ちゃん。…というわけです。

注:先験的…カントが好んで用いる語。ア・プリオリ(a priori)=「最初の、第一の」という意味で、最初であるからには「無前提・無条件・あたりまえに・論証も証明も要せずに」妥当するもの、とされます。(のちにヘーゲルが「カント先生、サボっちゃいけねえ」とツッコミを入れることになります。)

P.S.kayakoさま、「物自体」と「現象」に関しての、これほどまでに簡にして要を得た説明は見たことがありません。「すかっ」としました。風邪が治ったのもそのせいだと思います。
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ヨースタイン・ゴルデル著「ソフィーの世界(池田香代子訳、NHK出版)」の中に、面白い文章がありましたので、引用させていただきます。

主要登場人物である少女ソフィーと、哲学の先生アルベルトの間の会話です。

 (ソフィー)「でも、時間も空間もわたしたちの外にあるものなんじゃないの?」
 (アルベルト)「ちがうんだよ。カントは、時間と空間は人間の側にある、と言っている。時間と空間はぼくたちの意識の特性なんだよ。世界の特性ではないんだ・・・(中略)・・・人間の意識は、だから、外からやってくる感覚の印象を記憶するだけの、受け身の『なにも書かれていない板』なんかじゃないわけだ。外から受けとったデータに積極的に形式(フォーム)を与える、クリエイティブな装置なのだ。ぼくたちが世界をどう理解するかには、意識が深くかかわっている。ほら、水をガラスのピッチャーに入れるのと同じだよ。水はピッチャーの形(フォーム)になる。知覚されたものもぼくたちの『直観の形式』を受けいれるのだ」
 「アルベルトの言うこと、わかったような気がする」
 「カントは、意識がものにしたがうだけではない、ものも意識にしたがう、と言った。カントはこれを、人間の認識の問題の『コペルニクス的転回』と呼んだ・・・(以下略)」

 「コペルニクス的転回」という言葉の定義については、既に回答されたお二人のおっしゃる通りだと思います。上で引用させていただいた「ソフィーの世界」ですが、もしよろしければお読みになってみて下さい。ファンタジー小説でありながら、哲学史の概説書としても優れており、大変面白い作品です。参考になりましたでしょうか? 
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benjaminさんの説明で完璧だと思います。


HPじゃありませんが、カントの「純粋理性批判」について
分かりやすく説明している本があるのでご紹介を。
講談社選書メチエの「カント「純粋理性批判」入門」黒崎政男
です。分かりやすいという点では群を抜いています。かといって
内容が薄いわけじゃないし、おすすめですよ。立ち読みでもしてみてください。
私なりに分かりやすく説明すると、
今まで世界の人は、そこにものがある→だから見える、と思っていたけど
そうじゃなくて、自分がある→ってするから見えるんだー! というのに
したわけです。ただ、自分が頭の中で作った世界なので
本当に存在するものとは違っているわけです。
前者を「物自体」、後者を「現象」とか言ったりします。
だから、私たちが見たり、聞いたりしてるものは
本当のものじゃなくて、本当のものを手がかりに私たちが作りあげたものだということです。
かなり乱暴ですが、詳しいことは入門書などを読み、暇になったら「純理」に
触れてみてください。失礼しました。
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Qカントについて

現在レポートを書くためにカントについて調べています。
今混乱していてはっきり言って自分でもどこがわからないのかよくわからないのですが、倫理学を中心に書きたいと思っています。

そこでなにかカントの倫理学についてお勧めの本などあったら是非教えてください。

また、現代におけるカント哲学という点で、カント哲学がどのような影響を現代に与えているか教えてください。先日カリーニングラードで18カ国が参加した国際学会が行われたというのを目にし、現代におけるカント哲学について何か知っていることがあったら教えてください。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんばんは
回答は、「カント哲学と倫理―現代カント研究の視点から」
とまとめてみました。

まずカントの倫理学について書くという場合には、定言命法(der kategorische Imperativ)を知っておく必要があるでしょうから、『実践理性批判』についての解説などを、西洋哲学史や思想史と呼ばれるものや、カントについての著作によって読んでおく必要があるでしょう。
しかし、この点はもう大丈夫ということですね、きっと。

そこで
>お勧めの本など
ですが、雑誌「現代思想」の、1994年3月臨時増刊「カント」にある、「普遍化の論理と相互承認の倫理」(342~358頁)がお勧めです。

この論文においては、序の見出しが「カント理解の現代的状況」というように、まず、カント解釈の中でも主に倫理を巡る研究史を示し、それから「定言命法」と「倫理」の問題を現代のカント研究の立場から論じていきます(注も57個付されていて、役に立ちます)。
また、この「カント」特別号には、アドルノ研究者の細見氏による「アドルノのカント論」(286~294頁)も見られます。

さて、今年、2004年度は、世界の各地でカント・シンポジウムや国際会議やゼミナールなどが非常に多く開催されています。カントの生誕地カリーニングラードにおけるものは、その一例に過ぎません。
2月12日の記念祝典の後、4月22日から24日に開催されたカリーニングラート大学による国際会議では、だいたい以下のようなテーマに分けられたようです。
1)異文化におけるカント受容
2) カントの理論哲学における先験性と先天性の問題
3) カント哲学における形式および超越論的論理学
4) カントの実践哲学における普遍主義
5) カントにおける人間と文化
6) カントによる生の構想

先述の「普遍化の論理と相互承認の倫理」という問題は、まさに四番のテーマですね。

しかし、
>カント哲学がどのような影響を現代に与えているか
を本当に考えるならば、やはりニーチェの存在を忘れてはならないでしょう。

今月の26日~29日にナウムブルク(Naumburg)では、「理性、生、存在 ― 衝突するカントとニーチェ」というテーマのもと国際会議が開かれます。カント協会とニーチェ協会の相互協力のもと(ニーチェは怒るでしょうね、、、笑)。

ニーチェが『善悪の彼岸』などでカント批判をしているのは有名ですね。しかし、その批判の背後にはどのような倫理的問題があったのか、ニーチェ自身が使う手段を逆に使って、なぜそこまでカントを批判したのか?、など考えてみるのも面白いかも知れません。

それでは

こんばんは
回答は、「カント哲学と倫理―現代カント研究の視点から」
とまとめてみました。

まずカントの倫理学について書くという場合には、定言命法(der kategorische Imperativ)を知っておく必要があるでしょうから、『実践理性批判』についての解説などを、西洋哲学史や思想史と呼ばれるものや、カントについての著作によって読んでおく必要があるでしょう。
しかし、この点はもう大丈夫ということですね、きっと。

そこで
>お勧めの本など
ですが、雑誌「現代思想」の、1994年3月臨時増刊「カン...続きを読む

Qデカルト、カント、ヘーゲルの解説書について

デカルト、カント、ヘーゲルの解説書としては、
どの本が良いのでしょうか。

難しい用語や概念をサブテキストで補いつつ、なんとか通読して
理解したいと思っています。

ただ、それぞれ、解説書や専門書が多く、どれが初学者にとって
適切であるか判断しかねています。

もし、ご存じの方がいらしたら、教えて頂けたら、大変、ありがたいです。

Aベストアンサー

竹田教授の哲学講義21講―21世紀を読み解く [単行本] 竹田 青嗣 (著)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/443415432X

カント入門 (ちくま新書) [新書] 石川 文康 (著)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480056297

カントはこう考えた―人はなぜ「なぜ」と問うのか (ちくま学芸文庫) [文庫] 石川 文康 (著)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480092145

デカルト―「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス) [単行本] 斎藤 慶典
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4140093072

すいませんが、ヘーゲルは思いつきませんでしたが、普通は長谷川宏さんの本だと思います。

Qカントの入門書ってどれが良いのでしょうか……?

カントの入門書ってどれが良いのでしょうか……?

最近、エマニュエル・カントの三批判書を読み通そうと思い立ち、
まずは『純粋理性批判』を読んでいるのですが、
噂通りというかなんというか、難しくて苦戦しています。

そこで、サブテキスト的に使えそうな、三批判書を中心としたカントの思想全般についての解説書を探しています。

しかしカントの解説書って結構いっぱい出ていて、どれを読むべきか悩んでいます。
なので、この解説書が分かりやすかった、などご存知でしたら、教えていただけると助かります。

とりわけ、
黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』(講談社選書メチエ)
石川文康『カント入門』(ちくま新書)
中島義道『カントの読み方』(ちくま新書)
中島義道『『純粋理性批判』を噛み砕く』(講談社)
といったあたりの書籍について、
解説の正確さと分かりやすさという二つのポイントからみてどうか、ということを
ご教示いただければありがたいです。

ちなみに先般、手始めに池田雄一『カントの哲学』(河出書房新社)を読んでみたら、カントの思想云々以前にこの著者の語り口になじめなかったのか、まったく頭に入ってきませんでした……。
この本はカント哲学をシニシズム批判に引きつけて読む、ということに主眼が置かれていたようですが、私が求めているのはそういう本ではなく、カントの思想の要点を簡潔にパラフレーズすることを重視している本です。
また、カントの自伝的な要素には触れられていなくても構いません。

以上、いろいろと面倒な注文を書き並べてしまい恐縮ですが、
要するに分かりやすくて正確なカント解説書を教えていただきたいのです。

ご存じの方いらしたら、どうかよろしくお願いします。

カントの入門書ってどれが良いのでしょうか……?

最近、エマニュエル・カントの三批判書を読み通そうと思い立ち、
まずは『純粋理性批判』を読んでいるのですが、
噂通りというかなんというか、難しくて苦戦しています。

そこで、サブテキスト的に使えそうな、三批判書を中心としたカントの思想全般についての解説書を探しています。

しかしカントの解説書って結構いっぱい出ていて、どれを読むべきか悩んでいます。
なので、この解説書が分かりやすかった、などご存知でしたら、教えていただけると助かります。...続きを読む

Aベストアンサー

二次的な書籍類は、身にならないと思います。お勧めは、道徳形而上学原論を一文ずつ理解することです。参照の為には、アリストテレスの形而上学中「哲学用語大辞典」の章の訳出を参考にしながら、広辞苑等辞書を引き引き読み進んでください。そうしながらこちらで質問なさるとよろしいかと思われます。具体的な質問ならカントに詳しい人は、たくさんいますから。ご検討ください。

Qカントの認識論についてまとめなければならないのですが、頭がついていきません!汗 カントの認識論って

カントの認識論についてまとめなければならないのですが、頭がついていきません!汗

カントの認識論っていうものは、感性→悟性のこの過程のことを表すのですか?
それとも、対象が認識に従うという内容のことを表すのでしょうか?

また、「理性」から純粋理性、実践理性が生まれたと考えていいのでしょうか?

ごちゃごちゃですみません。
お力添え、お願い致します。

Aベストアンサー

認識論だけなら、「純粋理性批判」を元に展開すれば良いと思います。
純粋理性とは、純粋な理性自体を示し、実践理性とは、理性による実践を意味します。
つまり、「純粋理性批判」とは、純粋な理性の機能を批判的に分析する事を目的として書かれた本です。(理性による認識の構造を分析しています)
「実践理性批判」とは、理性を実践的に利用する事を批判的に分析する事を目的とします。(実際は、理性の倫理学もしくは、道徳的実践のありかたを分析しています)
カントは、形而上学を、理性の論理的構造が、感覚と悟性による実体の表象を認識する事と分析し、実体そのものが、認識されるのではなく、表象を実体と見なす過程が認識だと言う事を主張しています。
つまり、実体→認識では無く、認識→実体と言う発想の転換を行ったわけです。
理性の認識は、実体そのものを意味するのでは無く、理性によりカテゴライズされた表象でしかあり得ないと言う事です。
これを、対象(実体)が認識に従うと表現します。
細かい内容については、「純粋理性批判」もしくは、カントの解説書などを参照してください。

Qシラーとカント

シラーのカント批判として取り上げられるものとして、「優美と尊厳について」のほかに有名な二行詩「良心のとがめ」「決定」があるのですが、シラーの倫理学とカントの倫理学は、あまり違いがあると思いません。そこで、なぜシラーは二行詩でカントを批判したのでしょうか?みなさんの意見を教えて下さい。

Aベストアンサー

こんばんは、

シラーのカント批判というものが果たしてどれくらい「有名」
なのかはわかりませんが、
シュヴェーグラーも『西洋哲学史』のカントの章で取り上げていて、
この哲学カテゴリーでも一度はこの本が登場していますし、
カントに詳しい方もいらっしゃるようですので、
少なくともここでは有名なのでしょう。
で、私は以前、この本とは違う『西洋哲学史』を紹介したことがあったので、
「義務」感から何かお役に立てればと思い、回答させていただきます。(長い言い訳ですね・・・)


さて、シュヴェーグラーも言うように(下巻、145ページ)、
カントの道徳律では、
「行動の動機からあらゆる感性的な衝動を取り去ろうとする努力」
が重要となるが、「厳粛主義」(Rigorismus)と呼ばれるのも、
これが行き過ぎているからです。
つまりカントは、「道徳的」(moralisch)という属性を、
好きでする「傾向性」から行われる行為ではなく、
いやいやながらする「義務」から行われる行為
においてのみ妥当であると考えています。

事実カントの「純粋道徳哲学」では心理学的な問題ではなく、
道徳的なもののアプリオリな規定だけが重要であったので、
この結果は当然なのですが、シラーはこの厳粛主義を
「陰鬱で僧侶的禁欲主義」(『優美と品位について』)
の表現と見なしているのです。

シラーは、『優美と品位』において「彼(カント)は、彼の時代のドラコとなった」、
すなわち厳格な執政官となった、と言います。
カントの考える義務からの道徳は、
シラーがそこで問題としていた「美しい魂」とは違うようです。
シラーにとっては、たとえ本能や感情に従っても、
友人を助けるような行為は「道徳的」と呼ぶことができるし、
むしろ、心から真に行為することの方が
美しい精神による行為と呼べるのではないだろうか、と思われたのですね。

それで、シラーは、「哲学者たち」(Die Philosophen)という詩(1796)において、
西洋哲学史上の主な哲学者の思想を幾つかのディスティヒョン(風刺的な二行詩)
の形で批評していますが、そこで問題の「良心のためらい」と「決心」
という二つの二行詩でカントを批判しています。

  私は友達に尽くしたいのだが、残念ながら好きでするんだ。
   そこで私は思い悩む、自分は有徳じゃないだんと。

という悩みが生じ、「ためらう」ことになるが、

 しょうがない、おまえは友人を軽蔑するよう努めろ、
  そして義務の命じることをしぶしぶ行えばいいのだ。

という「決断」をする、というものです。

このように考えれば、カントとシラーとの差異は明らかのように思われます。
カントと違いシラーはアプリオリな「道徳的」性質を必要としていませんでした。

たとえば、シラーはその二年後の「人質」という物語詩において、
妹の結婚式に出るために三日の猶予をもらって代わりに友人を預けてきた
メロス(Moeros)が友人のもとに戻る行為を、
いやいやながらの義務からの行為であるとは描いていないと思われます。

すなわち、それは友情を大切に思う感性的な性向からの道徳的な行為でしょう。
もしメロスの行為が「義務」であるならば、
文学作品として何ら感動を呼び起こすものではなくなってしまい、
極東のハラキリの国においても知られるほど生き残ってはいなかったと思われます。(笑

こんばんは、

シラーのカント批判というものが果たしてどれくらい「有名」
なのかはわかりませんが、
シュヴェーグラーも『西洋哲学史』のカントの章で取り上げていて、
この哲学カテゴリーでも一度はこの本が登場していますし、
カントに詳しい方もいらっしゃるようですので、
少なくともここでは有名なのでしょう。
で、私は以前、この本とは違う『西洋哲学史』を紹介したことがあったので、
「義務」感から何かお役に立てればと思い、回答させていただきます。(長い言い訳ですね・・・)


さて...続きを読む

Q言語論的転回

大学の授業で、言語論的転回というものを習いましたが、意味がさっぱり分かりません。誰か噛み砕いて教えてくれませんか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

#2です。
お礼欄、拝見しました。うーん、これは簡単に書くのがむずかしいなぁ。

哲学のなかでつねに〈ことば〉は、たとえば〈意識〉のように、中心課題ではないにしても、洞察の対象ではあったんです。

たとえば〈わたしの意識〉を確実さのよりどころとしたデカルトは、窓の外を歩いている他者がどこまで確実な存在か、疑ってみます。
帽子の下、衣服の下には「自動機械」が隠れているのではないか、と。

いや、自動機械ならば
「目の前で話されるすべてのことの意味に応じて返答するために、ことばをいろいろに配列することは、人間ならどんなに愚かな者でもできるが、機械にできるとは考えられない」(『方法序説』)

つまり、〈ことば〉は人間を人間ならしめているものだ。そして、その〈ことば〉を媒介として、人間は他者と交流している。
近代の端緒から、このような認識はあった。

そして、ヘーゲル。
人間と社会の関係を考察するときに、ヘーゲルはことばが果たす重要な役割、つまり、〈わたし〉を私的なものから、公的なものにする契機としての〈ことば〉を考えます。

けれども哲学の中心的なテーマは、ずっと〈意識〉だった。

それを動かしていったのは、ウィトゲンシュタイン、そしてすこし時代がくだって、ウィトゲンシュタインとはまったく別の流れからですが、メルロ=ポンティでしょう(とくにウィトゲンシュタインは非常におもしろい「言語ゲーム」という考え方を導入するのですが、これを書き始めると回答が終わらなくなってしまうので、省略します。もし興味がおありでしたら中山元『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』ちくま新書をお読みください。これは哲学史の入門書としては、すごくわかりやすいし、おもしろいし、かなり深いです)。

一方、メルロ=ポンティ、わたしはこの人が大変好きで、もう名前を書いてるだけでうれしくなっちゃうくらい好きなんですが、メルロ=ポンティ(もう一回書いてみました)、この人は、〈意識〉の学問、現象学から登場します。

すべてを取り払った後に残る〈純粋な意識〉。
けれどもそれはどんな〈ことば〉で語るのだろうか?
〈意識〉が考えるとするなら、それはどんな〈ことば〉なのか?

「語り手は話す前に考えるのではないし、話すあいだに考えるのでもない。語り手のことばが思考そのものである」(『知覚の現象学』)

このように、メルロ=ポンティはソシュール言語学の理論を踏まえながら、現象学に新たな局面をもたらしていきます。

こうして20世紀も中盤になったごろから、哲学全般の流れは、大きく〈意識〉から〈言語〉へと転換し始めます。

ただ一般的には、いわゆる「言語論的転回」というとき、哲学全般が意識からことばに移っていった、というよりも、この用語はもうすこし限定的な用語として使われます。

「言語論的転回」という言葉で指示されるのは、言語が持つ力を分析することで、哲学の難問を解消しようとする試みのこと、ひとつはラッセルやフレーゲらの論理学、もうひとつは日常言語学派の流れ、このふたつであると思います。

ついでにここも書いておくと、ラッセルやフレーゲは、哲学の思考や概念は、日常の言語を使ったことで、誤ったものになってしまった、透明で、誤謬を含まず、論理操作できる言語を用いれば、哲学の問題は解消する、と考えます。

どんな言語か。

たとえばラッセルはこんな文章について考えます。
「現在のフランスの国王は禿頭である」

これは
(1)現在のフランス王は少なくともひとり以上存在している。
かつ(2)ひとりの人間が存在している。
かつ(3)その人は禿頭である。
という三つの連元項から成り立っている。

そうしてこれを
(∃x∧)(Fx∧(∀y)(Fy→=x)∧Bx)
と 論理記号で表記し、第一の連元項が偽であることから、全体として偽である、と証明してみせる。

こうやって記号論理学というものを切り開いていきます。

もうひとつの日常言語学派、これはオースティンの言語行為論とそれをひきついだサールの語用論をおもに指します。

オースティンは、日常で使われることばを、その内部にある意味だけではない、と考えるんです。

たとえば「コーヒーが入りました」ということばが、ある局面では、単に情報を伝えるだけであるのに対し、また別の局面では「ひとやすみしませんか」という誘いを意図している場合もある。

こうやって、日常の言語にみられることばの使い方に戻ることによって、哲学の問題も解決できる、とするのです。

詳しく言い出すとほんとうにキリがなくなるので、ここらへんでやめますが、まだわかりにくいところがあれば、どうぞ。

#2です。
お礼欄、拝見しました。うーん、これは簡単に書くのがむずかしいなぁ。

哲学のなかでつねに〈ことば〉は、たとえば〈意識〉のように、中心課題ではないにしても、洞察の対象ではあったんです。

たとえば〈わたしの意識〉を確実さのよりどころとしたデカルトは、窓の外を歩いている他者がどこまで確実な存在か、疑ってみます。
帽子の下、衣服の下には「自動機械」が隠れているのではないか、と。

いや、自動機械ならば
「目の前で話されるすべてのことの意味に応じて返答するために、ことば...続きを読む

Qカントの形式主義が分かりません

カントの形式主義は、

広辞苑には
「(3)カントのように、認識や道徳法則の普遍妥当性を、理性のアプリオリな形式にのみ根拠づけようとする立場。シェーラーはこれを批判して実質的価値論理学を主張。」

とありましたが、読んでもさっぱり分かりません。

カントの形式主義を分かりやすく教えて頂けないでしょうか。
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

私はカントの認識論はちっとも「形式主義」だとは思わないけど、道徳論は「形式主義」だと思っています。
カントの道徳律の基本の「定言命法」というのは、周囲の状況を一切顧慮することなく、ただ己の「良心」と義務感に基づいて、善いことは善い、文句なく無条件にという意味ですから、たいてい道徳と言ったら周囲の状況によって、こうしたら妥当するか妥当しないかを考慮して決めるべきもので、カントはそれを一切無視するわけですから、「形式主義」です。
例えば戦争をしているときに、殺すことは悪いといって敵兵を殺すのをためらっていたら、自分が殺されてしまいますから、道徳や倫理も状況次第です。
だけど、カントはドイツ・プロテスタントの中でももっとも純粋で、人間の内面性を称揚する宗派である「ドイツ敬虔派」の母親に育てられたから、そんな条件付きの道徳である「仮言命法」を嫌っていたんです。
人間の道徳的行為は人間の内面の「良心」に基づき、人間の純粋な自発性によらなければならない、何が正しく、何が正しくないかは内面の「良心」の声に耳を傾けて決定すべきものと考えていたんです。
カントは「道徳形而上学の基礎付け」で以下のように言っています。

「あなたの行為の原則が、普遍的な法則になることを、その原則を通じてあなたが同時に意志することができるような、そうした原則に基づいてのみ行為せよ」

つまり、自己の利益とか、自己の「快」のためとか、また他人をそうした利益のための手段として考えるのではなく、他人を目的として、つまり目的を共有する同胞・仲間として考え、行為せよ、という意味。
「あなたの行為の原則」というのは自己の個人的な行為の方針のことで「格率」といわれるもの、その個人の主観的な行為の原則である「格率」を、普遍的な行為の原則に一致するように調整して行為せよ、ということ。
カントは人間の内なる霊的な「叡智的世界」があることを信じていましたので、人間の道徳的行為はその「叡智的世界」に基づくものと固く信じていたのです。
かれは「実践理性批判」でいいます。

「私の頭上の広大な宇宙と私の内なる崇高な道徳律」と。

カントは広大な宇宙よりも、人間の道徳律の方が、はるかに崇高なものと考えていたのです。
いかにも、ドイツ敬虔派の熱心な信徒がいいそうなことです。
カントには何事も道徳的に考えずにはいられない「道徳的リゴリズム」がありました。
それがカントの道徳が「形式主義」といわれるゆえんです。

私はカントの認識論はちっとも「形式主義」だとは思わないけど、道徳論は「形式主義」だと思っています。
カントの道徳律の基本の「定言命法」というのは、周囲の状況を一切顧慮することなく、ただ己の「良心」と義務感に基づいて、善いことは善い、文句なく無条件にという意味ですから、たいてい道徳と言ったら周囲の状況によって、こうしたら妥当するか妥当しないかを考慮して決めるべきもので、カントはそれを一切無視するわけですから、「形式主義」です。
例えば戦争をしているときに、殺すことは悪いといっ...続きを読む

Q仏教用語の「無作三昧」をわかりやすく解説していただけませんか

母に「無作三昧」という言葉を調べてくれと頼まれました。wikipediaなどで調べてみたのですが、奥が深くて、根源となる仏教用語(「空」など)が分からないので母にどう説明したらいいのか分かりません…
仏教にお詳しい方、「無作三昧」の意味を私のように無知な人間にわかりやすく解説していただけませんか。

Aベストアンサー

仏教は、もともとが、個人の悟りの宗教。
悟りとは何か?というと、面倒ですが、簡単に言うと、何者にもこだわらなく、自由になれること。

三昧は元は サマディ。
修行法のこと。

無作三昧とは、無作によって悟りを開く修行法。

菩薩さんは、生命あるものすべてを救うという、とんでもない願いを自分の責任としました。
けど、まてよ、その責任を感じることも、物事にこだわっていて、自由になれていない。自由になれていないのに何で、衆生を救えるのか?
という疑問から、その願いを持って行くことさえ、乗り越えよう(=無作だ!)とした。
それが 無作三昧。

Q胎児、新生児の生存権についてパーソン論の立場、カントの立場から説明しろ

胎児、新生児の生存権についてパーソン論の立場、カントの立場から説明しろということなのですが。
パーソン論はある時期までの胎児や脳死状態の患者は人格とみなされない、といったようなことですよね。
カントの立場からというのがいまいち調べてもわかりません。
カントはどのような考え方をしめすのでしょうか?

Aベストアンサー

結論はこうです。
生命に付随する恩恵として人の法があるのではなく、人格に付随する権利のみが人の法であるとする考え方でしょう。
そこにカントの考え方を交えてご自分で考察してください。

生命に付随する恩恵の考察は、イコールで神とは何ぞやに属し哲学を逸脱します。
現代の哲学でも逸脱してはならない限界とされています。
頑張ってください。

Qカント 独断のまどろみ

カントの言う「まどろみ」とはどういう状態のことを述べているのでしょうか?

Aベストアンサー

『プロレゴーメナ』の序言のなかで、カントは「デヴィッド・ヒュームのうながしこそが……独断のまどろみを破り」と言っていますが、ここで言われている「独断のまどろみ」とは、当時のドイツで主流であり、カントも学んだライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学のことです。ヒュームの因果律批判を受け、従来の形而上学を捨てた上で、あらたに哲学思考の基礎を打ち立てることにした、それが『純粋理性批判』であり、その入門書としての『プロレゴーメナ』である、と言っているのです。

もう少し具体的に説明します。
形而上学、言い換えれば日常的経験を超えた、神や人間の自由、霊魂の不死やイデアについて考察する学問は、ギリシャ時代から連綿と続いていました。

近世に入り、数学や自然科学が発展していくと、デカルトやライプニッツらは、自分たちが専門とする自然学や数学が、こうした形而上学と矛盾しないことを証明しようとします。たとえばニュートンは絶対空間に「神の感覚器官」という位置づけを与えています。

このような流れを受けて、ドイツではライプニッツ=ヴォルフ学派が成立します。おおざっぱに言ってしまうと、一切のものごとは根本原理から論理的必然性によって演繹をおこなっていく合理的認識によって認識しうる、という考え方です。つまり、数学的観念と同様に、神であるとか、世界(存在するものの全体)であるとか、イデアといった観念も、理性的観念であるから、普遍性と客観的妥当性を持つことができる、と考えたのです。

カントも大学時代、このライプニッツ=ヴォルフ学派を学び、そののち大学で数学や自然学、やがて論理学と形而上学を教えるようになります。

それに対して、ヒュームに代表されるイギリスの経験主義は、経験に寄らない「理性的観念」を否定します。そうしてカントは「ヒュームのうながし」によって、「独断のまどろみ」から目覚めた。目覚めて何をしたかというと、ヴォルフ学派を批判したのです。従来の形而上学が合理的に論証し得たと思い込んでいるのは、理性の自己欺瞞にすぎない、と。

ただ、ヒュームは因果律そのものを否定しますから、そこでは自然科学も成立しません。2+3=5という数学的認識さえも、蓋然的真理にすぎないことになる。けれどもカントは自然科学は確実性を持つと考えたし、一方で敬虔なキリスト教徒でもあったために、形而上学的な要求も強くありました。その上で書かれたのが『純粋理性批判』だったのです。

『プロレゴーメナ』の序言のなかで、カントは「デヴィッド・ヒュームのうながしこそが……独断のまどろみを破り」と言っていますが、ここで言われている「独断のまどろみ」とは、当時のドイツで主流であり、カントも学んだライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学のことです。ヒュームの因果律批判を受け、従来の形而上学を捨てた上で、あらたに哲学思考の基礎を打ち立てることにした、それが『純粋理性批判』であり、その入門書としての『プロレゴーメナ』である、と言っているのです。

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