カントの発言にあるコペルニクス的転回とは、一体どういった事をいっているのでしょうか?詳しく教えていただけませんか?またそのことについて分かりやすく解説しているページ抔ありましたら教えていただけると有り難く思います。よろしくお願い致します。

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A 回答 (6件)

まず、コペルニクスという人がどういう事をしたのかをここで確認して下さい。

要するに、それまで世の中で定説となっていた事とは全く違う説、つまり地動説を唱えた人です。
http://ibuki.ha.shotoku.ac.jp/school/science/phy …

コペルニクスによる地動説の提唱は、従来の天動説で固められた、各人の心理レベルのシステムを、根本的に破壊し、大きく変動(転回)させる結果となります。カントは意識と対象との主従関係の180度の転回という意味で、「コペルニクス的転回」という言葉を使いました。詳しくは下記参考URLで。

参考URL:http://www.ncc.u-tokai.ac.jp/home1/infor/v-kouza …
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 カント以前は客観的実在の根拠は神です。

天動説も宇宙を神の摂理で説明します。コペルニクスは観察による様々な関係をそれ自体に説明させて、より分り易い枠組みを作りました。カントも純粋理性にそれを要求して範疇化しました。これが所謂コペ転です。神のシガラミからの脱却です。
 質問への回答はここまでですが、カントの「物自体」に対して回答者の方々が、素朴実在論と不可知論何れの立場に立って語っているのかが気になります。
 カントの「物自体」、やっかいな事態です。
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この回答へのお礼

とても分かりやすい回答ありがとうございました。
皆さんが勧めて下さったページや本でも勉強させて頂いてとりあえずは
十分満足いっています。どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/01/26 18:49

ozapanさま、お褒めいただいてありがとうございます。

恐縮です。

あの、私の投稿の前者と後者って微妙に逆ですよね。
一応訂正を・・・・・。
ほんとのものが「物自体」で
理性が頑張って作ったものが「現象」です。はずかしー。

これだけなのも何なんでおまけを・・・・。
カントが認識の問題で一番苦心したのは、
従来の一般的な認識論のように、対象が先立つ実在論的認識論と
バークレーのように、何もかもが自分で作ってんじゃあ! 本当に存在してるか確実なものなんてないぞ! 
でも神様がついててくれるから大丈夫♪ という観念論的認識論の
どちらの両極端にもよらず、いかに、自分と対象のバランスをとりながら、
両方の力で認識できるんだよ、ってのを説明するかでした。
どっちかに偏っちゃえば楽なのに~と思う私は凡人です。
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 対象のあるがままの姿を受け取るのが認識なのではなくて、理性が対象の認識を積極的に「構成」するのだ、という「転回」のことです。

「客観的な形で存在している対象があるおかげで、われわれは認識ができている」という考え方をひっくり返しているわけです。その意味では、客観的対象に対する理性の優位を宣言するものといえます。
 ただし、ここには、「対象をありのままに認識できると考えるのはまちがっている」という、「理性の有限性への自覚」も同時に含まれています。理性は、対象について、感覚を通して経験できる範囲に関してしか、正しく認識できません。「現象」として、感覚に与えられる限りしか認識できないということです。感覚を通じて得られた情報を、まとまった「経験」にまとめ上げる土台になるのが「先験的形式(注)」としての「時間」と「空間」です。時間・空間という枠組みがあるからこそ、そこをいわば整理棚のようにして感覚与件を整理できる。こうして経験が成立し、対象認識が主観的意識のなかに「構成」されるというわけです(Htumakuraさんが引用された『ソフィーの世界』でガラスのピッチャーに喩えられているものが先験的形式)。
 経験を越えた部分、例えば「本質」などは「構成的に認識できない」とされます。これが「物自体」。感覚与件を伴わない以上、先験的形式の中では「構成」できないのです。理性が無理にここまで踏み込もうとすると「二律背反(アンチノミー)」に陥ります。相矛盾する二つの命題が、同じ程度の正しさで並立してしまい、調停できなくなるという状態です。理性が、その限界を越えて振る舞うと、こうなる。分をわきまえろよ、理性ちゃん。…というわけです。

注:先験的…カントが好んで用いる語。ア・プリオリ(a priori)=「最初の、第一の」という意味で、最初であるからには「無前提・無条件・あたりまえに・論証も証明も要せずに」妥当するもの、とされます。(のちにヘーゲルが「カント先生、サボっちゃいけねえ」とツッコミを入れることになります。)

P.S.kayakoさま、「物自体」と「現象」に関しての、これほどまでに簡にして要を得た説明は見たことがありません。「すかっ」としました。風邪が治ったのもそのせいだと思います。
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ヨースタイン・ゴルデル著「ソフィーの世界(池田香代子訳、NHK出版)」の中に、面白い文章がありましたので、引用させていただきます。

主要登場人物である少女ソフィーと、哲学の先生アルベルトの間の会話です。

 (ソフィー)「でも、時間も空間もわたしたちの外にあるものなんじゃないの?」
 (アルベルト)「ちがうんだよ。カントは、時間と空間は人間の側にある、と言っている。時間と空間はぼくたちの意識の特性なんだよ。世界の特性ではないんだ・・・(中略)・・・人間の意識は、だから、外からやってくる感覚の印象を記憶するだけの、受け身の『なにも書かれていない板』なんかじゃないわけだ。外から受けとったデータに積極的に形式(フォーム)を与える、クリエイティブな装置なのだ。ぼくたちが世界をどう理解するかには、意識が深くかかわっている。ほら、水をガラスのピッチャーに入れるのと同じだよ。水はピッチャーの形(フォーム)になる。知覚されたものもぼくたちの『直観の形式』を受けいれるのだ」
 「アルベルトの言うこと、わかったような気がする」
 「カントは、意識がものにしたがうだけではない、ものも意識にしたがう、と言った。カントはこれを、人間の認識の問題の『コペルニクス的転回』と呼んだ・・・(以下略)」

 「コペルニクス的転回」という言葉の定義については、既に回答されたお二人のおっしゃる通りだと思います。上で引用させていただいた「ソフィーの世界」ですが、もしよろしければお読みになってみて下さい。ファンタジー小説でありながら、哲学史の概説書としても優れており、大変面白い作品です。参考になりましたでしょうか? 
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benjaminさんの説明で完璧だと思います。


HPじゃありませんが、カントの「純粋理性批判」について
分かりやすく説明している本があるのでご紹介を。
講談社選書メチエの「カント「純粋理性批判」入門」黒崎政男
です。分かりやすいという点では群を抜いています。かといって
内容が薄いわけじゃないし、おすすめですよ。立ち読みでもしてみてください。
私なりに分かりやすく説明すると、
今まで世界の人は、そこにものがある→だから見える、と思っていたけど
そうじゃなくて、自分がある→ってするから見えるんだー! というのに
したわけです。ただ、自分が頭の中で作った世界なので
本当に存在するものとは違っているわけです。
前者を「物自体」、後者を「現象」とか言ったりします。
だから、私たちが見たり、聞いたりしてるものは
本当のものじゃなくて、本当のものを手がかりに私たちが作りあげたものだということです。
かなり乱暴ですが、詳しいことは入門書などを読み、暇になったら「純理」に
触れてみてください。失礼しました。
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Qデカルト、カント、ヘーゲルの解説書について

デカルト、カント、ヘーゲルの解説書としては、
どの本が良いのでしょうか。

難しい用語や概念をサブテキストで補いつつ、なんとか通読して
理解したいと思っています。

ただ、それぞれ、解説書や専門書が多く、どれが初学者にとって
適切であるか判断しかねています。

もし、ご存じの方がいらしたら、教えて頂けたら、大変、ありがたいです。

Aベストアンサー

竹田教授の哲学講義21講―21世紀を読み解く [単行本] 竹田 青嗣 (著)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/443415432X

カント入門 (ちくま新書) [新書] 石川 文康 (著)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480056297

カントはこう考えた―人はなぜ「なぜ」と問うのか (ちくま学芸文庫) [文庫] 石川 文康 (著)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480092145

デカルト―「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス) [単行本] 斎藤 慶典
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4140093072

すいませんが、ヘーゲルは思いつきませんでしたが、普通は長谷川宏さんの本だと思います。

Qカントの認識論についてまとめなければならないのですが、頭がついていきません!汗 カントの認識論って

カントの認識論についてまとめなければならないのですが、頭がついていきません!汗

カントの認識論っていうものは、感性→悟性のこの過程のことを表すのですか?
それとも、対象が認識に従うという内容のことを表すのでしょうか?

また、「理性」から純粋理性、実践理性が生まれたと考えていいのでしょうか?

ごちゃごちゃですみません。
お力添え、お願い致します。

Aベストアンサー

認識論だけなら、「純粋理性批判」を元に展開すれば良いと思います。
純粋理性とは、純粋な理性自体を示し、実践理性とは、理性による実践を意味します。
つまり、「純粋理性批判」とは、純粋な理性の機能を批判的に分析する事を目的として書かれた本です。(理性による認識の構造を分析しています)
「実践理性批判」とは、理性を実践的に利用する事を批判的に分析する事を目的とします。(実際は、理性の倫理学もしくは、道徳的実践のありかたを分析しています)
カントは、形而上学を、理性の論理的構造が、感覚と悟性による実体の表象を認識する事と分析し、実体そのものが、認識されるのではなく、表象を実体と見なす過程が認識だと言う事を主張しています。
つまり、実体→認識では無く、認識→実体と言う発想の転換を行ったわけです。
理性の認識は、実体そのものを意味するのでは無く、理性によりカテゴライズされた表象でしかあり得ないと言う事です。
これを、対象(実体)が認識に従うと表現します。
細かい内容については、「純粋理性批判」もしくは、カントの解説書などを参照してください。

Q言語論的転回

大学の授業で、言語論的転回というものを習いましたが、意味がさっぱり分かりません。誰か噛み砕いて教えてくれませんか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

#2です。
お礼欄、拝見しました。うーん、これは簡単に書くのがむずかしいなぁ。

哲学のなかでつねに〈ことば〉は、たとえば〈意識〉のように、中心課題ではないにしても、洞察の対象ではあったんです。

たとえば〈わたしの意識〉を確実さのよりどころとしたデカルトは、窓の外を歩いている他者がどこまで確実な存在か、疑ってみます。
帽子の下、衣服の下には「自動機械」が隠れているのではないか、と。

いや、自動機械ならば
「目の前で話されるすべてのことの意味に応じて返答するために、ことばをいろいろに配列することは、人間ならどんなに愚かな者でもできるが、機械にできるとは考えられない」(『方法序説』)

つまり、〈ことば〉は人間を人間ならしめているものだ。そして、その〈ことば〉を媒介として、人間は他者と交流している。
近代の端緒から、このような認識はあった。

そして、ヘーゲル。
人間と社会の関係を考察するときに、ヘーゲルはことばが果たす重要な役割、つまり、〈わたし〉を私的なものから、公的なものにする契機としての〈ことば〉を考えます。

けれども哲学の中心的なテーマは、ずっと〈意識〉だった。

それを動かしていったのは、ウィトゲンシュタイン、そしてすこし時代がくだって、ウィトゲンシュタインとはまったく別の流れからですが、メルロ=ポンティでしょう(とくにウィトゲンシュタインは非常におもしろい「言語ゲーム」という考え方を導入するのですが、これを書き始めると回答が終わらなくなってしまうので、省略します。もし興味がおありでしたら中山元『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』ちくま新書をお読みください。これは哲学史の入門書としては、すごくわかりやすいし、おもしろいし、かなり深いです)。

一方、メルロ=ポンティ、わたしはこの人が大変好きで、もう名前を書いてるだけでうれしくなっちゃうくらい好きなんですが、メルロ=ポンティ(もう一回書いてみました)、この人は、〈意識〉の学問、現象学から登場します。

すべてを取り払った後に残る〈純粋な意識〉。
けれどもそれはどんな〈ことば〉で語るのだろうか?
〈意識〉が考えるとするなら、それはどんな〈ことば〉なのか?

「語り手は話す前に考えるのではないし、話すあいだに考えるのでもない。語り手のことばが思考そのものである」(『知覚の現象学』)

このように、メルロ=ポンティはソシュール言語学の理論を踏まえながら、現象学に新たな局面をもたらしていきます。

こうして20世紀も中盤になったごろから、哲学全般の流れは、大きく〈意識〉から〈言語〉へと転換し始めます。

ただ一般的には、いわゆる「言語論的転回」というとき、哲学全般が意識からことばに移っていった、というよりも、この用語はもうすこし限定的な用語として使われます。

「言語論的転回」という言葉で指示されるのは、言語が持つ力を分析することで、哲学の難問を解消しようとする試みのこと、ひとつはラッセルやフレーゲらの論理学、もうひとつは日常言語学派の流れ、このふたつであると思います。

ついでにここも書いておくと、ラッセルやフレーゲは、哲学の思考や概念は、日常の言語を使ったことで、誤ったものになってしまった、透明で、誤謬を含まず、論理操作できる言語を用いれば、哲学の問題は解消する、と考えます。

どんな言語か。

たとえばラッセルはこんな文章について考えます。
「現在のフランスの国王は禿頭である」

これは
(1)現在のフランス王は少なくともひとり以上存在している。
かつ(2)ひとりの人間が存在している。
かつ(3)その人は禿頭である。
という三つの連元項から成り立っている。

そうしてこれを
(∃x∧)(Fx∧(∀y)(Fy→=x)∧Bx)
と 論理記号で表記し、第一の連元項が偽であることから、全体として偽である、と証明してみせる。

こうやって記号論理学というものを切り開いていきます。

もうひとつの日常言語学派、これはオースティンの言語行為論とそれをひきついだサールの語用論をおもに指します。

オースティンは、日常で使われることばを、その内部にある意味だけではない、と考えるんです。

たとえば「コーヒーが入りました」ということばが、ある局面では、単に情報を伝えるだけであるのに対し、また別の局面では「ひとやすみしませんか」という誘いを意図している場合もある。

こうやって、日常の言語にみられることばの使い方に戻ることによって、哲学の問題も解決できる、とするのです。

詳しく言い出すとほんとうにキリがなくなるので、ここらへんでやめますが、まだわかりにくいところがあれば、どうぞ。

#2です。
お礼欄、拝見しました。うーん、これは簡単に書くのがむずかしいなぁ。

哲学のなかでつねに〈ことば〉は、たとえば〈意識〉のように、中心課題ではないにしても、洞察の対象ではあったんです。

たとえば〈わたしの意識〉を確実さのよりどころとしたデカルトは、窓の外を歩いている他者がどこまで確実な存在か、疑ってみます。
帽子の下、衣服の下には「自動機械」が隠れているのではないか、と。

いや、自動機械ならば
「目の前で話されるすべてのことの意味に応じて返答するために、ことば...続きを読む

Q仏教用語の「無作三昧」をわかりやすく解説していただけませんか

母に「無作三昧」という言葉を調べてくれと頼まれました。wikipediaなどで調べてみたのですが、奥が深くて、根源となる仏教用語(「空」など)が分からないので母にどう説明したらいいのか分かりません…
仏教にお詳しい方、「無作三昧」の意味を私のように無知な人間にわかりやすく解説していただけませんか。

Aベストアンサー

仏教は、もともとが、個人の悟りの宗教。
悟りとは何か?というと、面倒ですが、簡単に言うと、何者にもこだわらなく、自由になれること。

三昧は元は サマディ。
修行法のこと。

無作三昧とは、無作によって悟りを開く修行法。

菩薩さんは、生命あるものすべてを救うという、とんでもない願いを自分の責任としました。
けど、まてよ、その責任を感じることも、物事にこだわっていて、自由になれていない。自由になれていないのに何で、衆生を救えるのか?
という疑問から、その願いを持って行くことさえ、乗り越えよう(=無作だ!)とした。
それが 無作三昧。

Qカント 独断のまどろみ

カントの言う「まどろみ」とはどういう状態のことを述べているのでしょうか?

Aベストアンサー

『プロレゴーメナ』の序言のなかで、カントは「デヴィッド・ヒュームのうながしこそが……独断のまどろみを破り」と言っていますが、ここで言われている「独断のまどろみ」とは、当時のドイツで主流であり、カントも学んだライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学のことです。ヒュームの因果律批判を受け、従来の形而上学を捨てた上で、あらたに哲学思考の基礎を打ち立てることにした、それが『純粋理性批判』であり、その入門書としての『プロレゴーメナ』である、と言っているのです。

もう少し具体的に説明します。
形而上学、言い換えれば日常的経験を超えた、神や人間の自由、霊魂の不死やイデアについて考察する学問は、ギリシャ時代から連綿と続いていました。

近世に入り、数学や自然科学が発展していくと、デカルトやライプニッツらは、自分たちが専門とする自然学や数学が、こうした形而上学と矛盾しないことを証明しようとします。たとえばニュートンは絶対空間に「神の感覚器官」という位置づけを与えています。

このような流れを受けて、ドイツではライプニッツ=ヴォルフ学派が成立します。おおざっぱに言ってしまうと、一切のものごとは根本原理から論理的必然性によって演繹をおこなっていく合理的認識によって認識しうる、という考え方です。つまり、数学的観念と同様に、神であるとか、世界(存在するものの全体)であるとか、イデアといった観念も、理性的観念であるから、普遍性と客観的妥当性を持つことができる、と考えたのです。

カントも大学時代、このライプニッツ=ヴォルフ学派を学び、そののち大学で数学や自然学、やがて論理学と形而上学を教えるようになります。

それに対して、ヒュームに代表されるイギリスの経験主義は、経験に寄らない「理性的観念」を否定します。そうしてカントは「ヒュームのうながし」によって、「独断のまどろみ」から目覚めた。目覚めて何をしたかというと、ヴォルフ学派を批判したのです。従来の形而上学が合理的に論証し得たと思い込んでいるのは、理性の自己欺瞞にすぎない、と。

ただ、ヒュームは因果律そのものを否定しますから、そこでは自然科学も成立しません。2+3=5という数学的認識さえも、蓋然的真理にすぎないことになる。けれどもカントは自然科学は確実性を持つと考えたし、一方で敬虔なキリスト教徒でもあったために、形而上学的な要求も強くありました。その上で書かれたのが『純粋理性批判』だったのです。

『プロレゴーメナ』の序言のなかで、カントは「デヴィッド・ヒュームのうながしこそが……独断のまどろみを破り」と言っていますが、ここで言われている「独断のまどろみ」とは、当時のドイツで主流であり、カントも学んだライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学のことです。ヒュームの因果律批判を受け、従来の形而上学を捨てた上で、あらたに哲学思考の基礎を打ち立てることにした、それが『純粋理性批判』であり、その入門書としての『プロレゴーメナ』である、と言っているのです。

もう少し具体的に説明します...続きを読む


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