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我々が歴史を勉強するとき「○○藩」と呼ぶ「藩」ですけれど、これは後世の学者がそう名づけたとのことで、江戸時代には「藩」と呼ばれていなかったと聞きました。

それでは江戸時代には藩のことを何と呼んでいたのでしょうか?ご存知のかたおりましたらお教えください。

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A 回答 (3件)

藩の字は中国から伝わり、室町時代には使われましたが、現在の盛岡藩のような使われ方はしませんでした。


徳川幕府は大名は将軍から領地、住民を貸与されている形をとりましたので、土地につながる藩の字を避けたのでしょう。
徳島藩内といわず、松平阿波守領内といいます。
徳島藩士でなく松平阿波守家臣(家来、家中)です。    徳島藩邸でなく松平阿波守(様、御)屋敷です。    松平阿波守邸ともいわれました。
ただ非公式には一般名として、藩主、藩士、主藩、支藩は使われることも少しはあったようです。   

これが崩れたのは江戸末期になり、藩士が大名の家来の意識が薄れ、土地の侍の意識が高まったからです。
幕末になり長州藩士桂小五郎などと名乗る人がふえ、藩、藩士の言葉が普及し、明治維新で大名領を藩名、のちに県名に変えることになりました。

以上は武士の話で庶民の間では、公式名でない、水戸様、加賀様というようなことも普通でした。
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はい、おっしゃる通り、日本史で言う「藩」は、江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域と、その支配機構を指す「歴史用語」です。

これは江戸時代の儒学者が中国の制度を真似て呼んだ漢語に由来するものです。
そのため、当時、藩という呼称の使用例はごく一部に限られ、新井白石の『藩翰譜』、『徳川実紀』など、元禄以降に散見される程度です。しかし、これが明治維新後に公式の名称となり、一般的に使用されるようになったものです。

つまり、江戸時代には「藩」という言葉は儒学文献上の名称であって、公式の制度上「藩」と称されたことは無く、例えば「伊達家」、「前田家」、「津軽家」などのように呼ばれていました。
江戸時代には、たとえば「仙台藩士」とは言わず、公的には伊達陸奥守家来または伊達家中と称されました。
また「藩主」も、封地に侯をつけて呼びあらわされることが多く、例えば仙台侯、尾張侯、姫路侯というような呼称のようです。

この回答への補足

ありがとうございます。よく理解できました。

補足日時:2007/07/30 13:17
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何とか何とかの守(藩主の名前)家来あるいは家中です。

この回答への補足

すみません。いみわかりません。

補足日時:2007/07/30 13:15
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%9B%BD_(%E5%A2%A8%E7%94%B0%E5%8C%BA)

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徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

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直轄領は、江戸時代には御料、御領、御料所などと呼ばれ、明治以降は天領と呼ばれますが、天領と呼ぶのが一般的です。全国に散在し、直轄地がなかったのは蝦夷地くらいのものでした。ただ、蝦夷地も、寛政11年1799に東蝦夷地を直轄領とし、文化4年1807には西蝦夷地も直轄領にします。この処置は、文政4年1821に東西共に松前氏に返却しています。
大きな直轄領としては、九州の日田地方、石見東部、愛媛東部、備中西部、播磨西部、但馬西部、大坂・堺・京都周辺、近江南部、大和南部、飛騨一国、中期以降の甲斐一国、三河・遠江・駿河・伊豆の過半、武蔵・安房・下総・上総の過半、常陸南部、会津西部、山形北部、秋田南部など全国に及んでいます。
一般に10万石以上の地域を支配する場合は郡代を、それ以下は代官を派遣して支配をしています。また、一部では譜代大名などに預けている場合もあります。
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佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。

以上、参考までに。

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

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