嘉永5年でしたでしょうか、条約のまずい金融システムで、国内の金が大量に海外に流失したことがありました。これは、幕府役人の失態なのでしょうか?それとも、予想された事なのでしょうか?

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A 回答 (3件)

 ●世界中で日本だけが管理通貨制度をやっていた●


 金本位制、銀本位制、あるいは金銀本位制は貴金属の価値を基準にしているので、世界中で金と銀との交換比率はあまり違いません。でも日本では当時違っていたのです。銀が世界の標準よりもずっと高く評価されていたのです。何故かというと、日本では銀は、本来の価値ではなく、金の補助通貨として評価されていたのです。現在日本の1万円札は製造原価はいくらでしょうか?1万円はしませんね。でも、1万円として通用します。これは管理通貨制度の考え方です。日本では、元禄時代に荻原重秀はこのように言っています、「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし。今、鋳するところの銅銭、悪薄といえどもなお、、紙鈔に勝る。これ遂行すべし」と。つまり瓦礫でさえ国家が「貨幣だ」と言えば、貨幣として通用する、ということです。銀も、「貴金属銀としての価値は金の10分の1だけども、幕府は、金の5分の1の貨幣として認める」と言えば、金の5分の1として通用します。
 この場合、日本総領事のタウンゼント・ハリスが香港で銀5単位を仕入れて日本に持ってくると、日本では金1単位と交換できる。その金を香港に持っていくと、銀10単位と交換できる。今度は、その銀10単位を日本に持ってくると金2単位と交換できる。これを香港に持っていくと銀20単位と交換できる。
 ハリスをはじめ、外国人はこのようにして日本から金を持ち出し、銀を持ち込んだのでした。
 この、「国家が保証すれば瓦礫でさえ貨幣になる」との荻原重秀の言ったことは管理通貨制度の基本的な考えです。世界で管理通貨制度が優れているとハッキリ認められたのは、1971年8月15日ニクソン・ショック以後のことです。
 では幕府の役人はどのように考えたのでしょうか?私はこう考えます。「銀は、金の補助貨幣なのだから、貴金属貨幣の価値と違っても当たり前だ。元禄の時代からそうだった。今さら、何故だと言われても困ってしまう。でも、ハリスと喧嘩するのはいやだから、言われる通りにしよう」との弱腰だったのだと思います。日本の金融制度は進んだものだったけれど、西洋ほど理論武装できていなかったのだと思います。
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この回答へのお礼

経済は難しいですね。ご丁寧に解説していただき、ありがとうございます。
勉強になりますね。幕府役人は致しかたなかったという感じですか。

お礼日時:2007/08/20 22:14

 金と銀の交換レートが、国内と国外では違っていたことに原因があるようです。

幕府の役人は、薄々気がついていたようです。以上は、佐藤雅美氏の「大君の通貨」(講談社文庫のハズ)からの受け売りです。

 江戸幕府は、米が中心の経済です。鎖国をしていたわけですから、長崎の出島を通じての交易だけでは、変動相場の為替の仕組みについて明るかったとは思えません。ですから、為替のような金融システムの原理を明確に理解しろというのは酷でしょう。

>これは、幕府役人の失態なのでしょうか?それとも、予想された事なのでしょうか?
 自由貿易のシステムの経験が皆無なので、誰も予想できなかったでしょうから、誰の失態ともいえないでしょう。
 これを防ぐには、現在の中国のように、外国人の入場料を高くするのように、二重価格にするしかないと想います。それでも、外国人は、貿易の支払い時に金ではなく銀で支払うでしょうから、防げない。まして、外国から武力を背景に脅されているので、日本に不利だからと分かっても、外国人が自分に有利な銀の持込を止めるはずも無く、そう簡単には変更できないでしょう。
 結局、小判の金の重量を減らすしかなかったようで、実際には1/3にしたようです。そうすると、今度は、小判の枚数を単純には3倍にできるので、インフレになり・・・。
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この回答へのお礼

経験不足が響きましたか。納得ですね。勉強になりました。江戸の経済って言うのは奥が深いものですね。

お礼日時:2007/08/20 22:10

 これは経済の中での当然の成り行きでした。

銀と金の交換比率が日本では世界のレートよりも遙かに銀にとって有利だったからです。だから外国の商人は銀を持ち込んで、これを金と交換したのです。
 これがある程度続くと日本国内から金が流出し、金相場が上がりますから流失は自然に止まります。
 これで日本が損失を蒙ったのかというとそうではありません。その代わりに大量の銀が日本へ入って来たので不満はなかった筈です。商取引というのは不正がない限り、このように両者が潤うのです。そこで変な介入をするとそれが不正の素になったり、金相場が不安定になって投機筋が不当な利益を上げたりするのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
日本での、特殊なレートというのは何か理由があったのでしょうか?介入しないでもよかったことだったのでしょうか?

お礼日時:2007/08/20 22:09

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Q江戸幕府の下級役人の制服。

何かの職種、身分で官給品の制服はありましたか。
御家人に支給(官給)した黒っぽい羽織は色あせていても古着屋で高く売れた、と聞いたことがあります。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

御質問内容と近似の事例としましては、下記などが浮かびます。

(1)・GoogleBooks『徳川将軍家のブランド戦略:第1巻/安藤優一郎』
「将軍の影武者は六百人いた!?」
http://books.google.co.jp/books?id=mOh7AwAAQBAJ&pg=PT16&dq=%E5%BD%B9%E7%BE%BD%E7%B9%94&hl=ja&sa=X&ei=MnCzU8X9A4Xg8AWT24K4Bg&ved=0CC4QuwUwAA#v=onepage&q=%E5%BD%B9%E7%BE%BD%E7%B9%94&f=false

上記「御徒(士)」につき他の記録・資料へのアプローチを試みてみましたが、
あまり芳しくなく辛うじて下記などに辿り着きました。

(2)〇『江戸叢書:12巻.卷の貳/江戸叢書刊行会編/江戸叢書刊行会/1916-1917』
「青標紙 前編」(※大野広城<1788~1841>編)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912969/110
<110/305>(39頁)
一 羽織袴 羽織は足利家の時道服と云物有、其丈短くして胴ばかりに着之、
 此一名を羽織と云、帶をしめずしてはをり懸て着す故の名也、
 昔は常に着せず旅行抔(※など)に風を凌ぐ爲也、今は羽織と云もの禮服の様になれり、
 又役羽織とて役服となれり、遠 御成の節御徒組頭茶縮緬單羽織萌黃紐也、
 御徒には平生共黑縮緬の單に茶紐也、御小人目付御玄關番中の口番、黑絹無紋の袷羽織、
 御小道具組頭には萌黃縮緬の單也、御中間御小人の類黑絹の單也、
 扨(※さて)平生着用の品身分によりて遠慮の品あるべし、尤四季の相當あるなり、
 又綿入に紐丸打單には平打を用ゆ、…(中略)…
 扨(※さて)風割羽織は騎馬以上着用すべきもの也、
 袴の地相何と云ふ定なし、…(以下略)…

(3)〇『古事類苑.官位部21/神宮司庁古事類苑出版事務所編/神宮司庁/明29-大3』
「官位部六十九 徒頭」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897658/102
<102/120>(1139頁)
〔吏徴別錄 上 布衣以上〕御徒頭○中略 万治三(※1660)年庚子十二月廿八日、
御徒廿組、 合六百人 如(L)例三年に一度宛、羽織可(L)被下旨被(L)仰(=)出之(-)、

(1)では「…、毎年一着ずつ新品が支給されたが、…」と記述されている一方、
(3)では「…如(L)例三年に一度宛、…」とあって、
残念ながら万治三(※1660)年頃の「三年に一度」と「毎年一着」との経緯は不明です。

続きまして、アプローチの過程で下記(4)(5)の記述に出会しました。
断片情報に過ぎず又曖昧ではありますが、「日光山御社参に際し、
諸組の役羽織は新規には渡さず在来の物を用いること、
損じた物は見分の上で渡す」との趣旨から想像しますと、
下記の「諸組」がどの範囲までを指すか定かではありませんが、徒士に限らず、
複数の職分の役人に対し、元々役羽織が支給されていたとも読み取れます。

(4)〇『古事類苑.服飾部4/神宮司庁古事類苑出版事務所編/神宮司庁/明29-大3』
「服飾部十三 羽織」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897858/31
<31/102>
〔享保集成絲綸錄 十四〕享保十二未(※1727)年八月
日光山御社參被(L)遊付而左之書付渡之
一諸組役羽織等新規ニ相渡不(L)申候間、在來相用ひ可(L)申候、
 損じ候分は、見分之上相渡し可(L)申候、
  但御徒以下行列之分は、合羽脚半相渡可(L)申事、

(5)〇『国史大系.第13巻/経済雑誌社編/経済雑誌社/明治37.1』
「有德院殿御實紀 卷廿五 享保十二年八月」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991120/453
<453・454/641>(894頁下段~896頁上段)
○十八日日光山供奉の輩を命ぜらる。…をはじめ。布衣以下の諸士…
…來年御參の時。諸組の羽織有來りしを。そのまゝ用ひそこなひしばかりは下さるべし。
徒士より下行列のもの合羽脚半を下さるべし。…(「日記」※江戸幕府日記)

最後に「御徒(士)」以外の役人に関しましては、
下記(6)など如何でしょうか?

(6)〇『東京市史外編.第四 天下祭/東京市役所/昭14.3』
「第四章 山王祭及び神田祭」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1239856/93
<93/146>(158・159頁)
參考
大正初年まで生存した町奉行與力の古老佐久間長敬の手錄した雜稿に、
年寄同心出役之覺の内に、神田祭禮見廻町内固メ出役及び祭禮見分天王祭禮出役の二項があつて、
解説は附してないが、祭時年寄同心が檢分を行つたことは明かである。
他に山王祭神警出役といふ項があり、これには與力同心順番に奉行から命ぜられて、
祭禮行列の前後を固める、與力は拾貳人の供を具して、禮服著用騎馬にて出で、
同心は官より支給の禮服(羽織帷子袴)著用で出役する、
通行中妨害するものを防ぐのが任務であると記してある。
外に三天王祭出役もあつてこれは同心の任務であり、矢張途中の妨害を防ぐを目的とする。
佐久間氏手錄は幕末まで實行したことを心覺えに記したものである。

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

御質問内容と近似の事例としましては、下記などが浮かびます。

(1)・GoogleBooks『徳川将軍家のブランド戦略:第1巻/安藤優一郎』
「将軍の影武者は六百人いた!?」
http://books.google.co.jp/books?id=mOh7AwAAQBAJ&pg=PT16&dq=%E5%BD%B9%E7%BE%BD%E7%B9%94&hl=ja&sa=X&ei=MnCzU8X9A4Xg8AWT24K4Bg&ved=0CC4QuwUwAA#v=onepage&q=%E5%BD%B9%E7%BE%BD%E7%B9%94&f=false

上記「御徒(士)」につき他の記録・資料へのアプローチを試みてみましたが、
あまり芳しくなく辛うじて下記などに辿り着きました。

(2)〇『江...続きを読む

Q赤穂浪士の討ち入りの時、もし幕府役人が駆けつけたら

赤穂浪士が吉良の屋敷に討ち入って、2時間余りも死闘を繰り広げていたそうです。
現在なら当然警察がやってくるのですが。

1.近所の人は、誰も幕府に通報しなかったのですか?吉良邸から逃げた人はいなかったのでしょうか。
2.通報するとしたらどこへ通報しますか。火付盗賊改でしょうか。
3.もし幕府役人が到着していたとしたら、どのような展開になりますか?浪士たちは大人しくお縄につきますか。それとも争いますか。
4.ドラマでは、隣の屋敷の武士が争いを止めるどころか、応援して提灯を掲げますが、これはお咎めなしだったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

1.近所の人は、誰も幕府に通報しなかったのですか?吉良邸から逃げた人はいなかったのでしょうか。

まず、討ち入りをしたのは、元禄15年(1793)12月14日夜、となっていますが、正確には15日午前4時頃と言われています。まさに深夜の決行でしたし、それこそ、音もたてないように粛々(しゅくしゅく)と、本所松坂町の吉良邸へ向かっています。
また、当日は雪が降った後でしたので、物音(歩く音)なども消してくれました。
そして、深夜ですので、武家も町民も深い眠りの最中でしたので、直前まで誰も気付かなかった、と、言われています。
さらには、誰かが事件を知ったとしても、その頃の庶民、庶民ばかりではなく武士でさえ、赤穂浪士の討ち入りを歓迎する傾向がありましたので、訴え出る者は誰一人としていませんでした。
赤穂47士は、表門には大石内蔵助以下23人、裏門には大石主税(ちから)以下24人が固めていましたので、吉良邸から外へは一歩も出れない状況をつくりました。

>>2.通報するとしたらどこへ通報しますか。火付盗賊改でしょうか。

まず、答を先に書きますと、訴え出る(通報する)とすれば「大目付」でした。
町奉行所や火盗改などには「大名家」を取り締まる権限はなく、たとえ、事件を知ったとしても出張ることはできませんでした。
確かに、赤穂の47人は浪人ですので街中で騒動を起こした時は、町奉行などが取り締まることはできましたが、吉良邸という大名家での事件では一歩も動くことはできませんし、もし、出張ったりすれば「越権行為」で逆に町奉行が罪になりました。
なお、旗本や御家人を取り締まるのは「目付」でした。

>>3.もし幕府役人が到着していたとしたら、どのような展開になりますか?浪士たちは大人しくお縄につきますか。それとも争いますか。

幕府の役人・・・とは、どのような職の人を指すのか分かりませんが、とにかく、「大目付」の仕事ですので、たとえ、老中や若年寄などが事件を知ったとしても、駆けつける筋合いではありませんでした。
では、大目付は「なぜ動かなかったのか」と、言うと、町民が「大目付」に訴えるようなことはできない組織体制でしたし、仮に、事件を知ったとしても、先にも書きましたが、当時の庶民や武士でさえも赤穂びいきでしたので、出張ることはしなかったのではないでしょうか。

>>4.ドラマでは、隣の屋敷の武士が争いを止めるどころか、応援して提灯を掲げますが、これはお咎めなしだったのでしょうか?

吉良邸の隣は「土屋平八郎邸」でしたが、もちろん、赤穂びいき。
高張り提灯を立ててくれましたが、もし、大目付などからお咎めを受けても、
「我が邸に逃げ込む者を防ぐためだ」
と、言い訳が立ちました。
当時は、町民はもちろんのこと、たとえ武士であれ、許可なく武家屋敷に入ることは「厳禁」でした。
ですから、大石内蔵助が、
「我ら、主君、浅野内匠頭の無念を晴らすため参上。御隣家様には、しばし騒動となりましょうが、平にご容赦、お願いたてまつります」
と、叫ぶと、土屋平八郎は急ぎ高張り提灯を何本も立てて、
「その方らの儀十分に承知。塀を越えた者があらば、どちらの家の者であろうとも討ち果たすゆえ、存分に働きあれ」
と、返答した、と、言われています。

(よもやま話)
(1)通常、罪を犯すと、当然、町奉行の管轄となり、伝馬町で入牢させられます。
この時、御目見(おめみえ=公方さま(将軍)に拝謁できる者)以上の直参およびこれに準ずる僧正、院家、紫衣を許された僧侶、神主などは、伝馬町の牢屋敷内にある揚屋敷(あげやしき)と呼ばれる座敷に留め置かれます。もちろん、監視をする役人も付きます。
(2)見事本懐を遂げた後、大石内蔵助は47名の中から寺坂吉右衛門に密命を託し(内匠頭の妻・瑤泉院や弟・大学(長広)、広島本家への報告のため、と、後の世に我らがどのようになるかを見とどけて欲しい、と言われたとも言われて、また、47名の中でただ一人赤穂藩士ではなく藩士の吉田忠左衛門の家来だった)離脱させ、残りの46名は泉岳寺へ詣でたのち「評定所」に自首しました。
(3)評定所の役割としては、原告と被告の管轄が異なる裁判、藩内部や藩と藩の争い、旗本と御家人への訴訟を扱うところでした。
(4)内蔵助の判断で、この「評定所」に自首したことで、町奉行所の手出しできないところとなったのです。つまりは、藩と藩の争いなのだ、と訴えたのです。
(5)評定所には、牢はありませんので、内蔵助一同は評定所内で待機していました。
直ちに、評定所からの上申で、時の将軍徳川綱吉が報告を受けた際、綱吉自身は、内蔵助らが作成した「討ち入り口上書」を読み、彼らの行動を「忠義」である、と、褒め讃えました。
このことは、老中会議でも阿部正武(あべまさたけ)や小笠原長重(おがさわらながしげ)らが、綱吉の裁定に賛意を述べました。
しかし、側用人であった柳沢吉保は、「忠義」だけで政(まさりごと)をしていたのでは、世情の統制がきかない、と反論しました。
そこで、綱吉は急遽、幕府学問所である湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)林信篤(はやしのぶあつ)と柳沢吉保のお抱え学者であった荻生徂徠(おぎゅうそらい)の2人を呼び議論させました。
この2人がそれぞれ賛成、反対意見を述べ、最終的には、綱吉が2人の意見の折衷案として、大名や旗本などと同等に扱い、細川、水野、松平、毛利の4家にお預けとなり、翌年2月3日、幕府より「切腹」の命。4日夕方より各家において全員が切腹した。
(6)お分かりとは思いますが、「切腹」は当時の武士の死に方としては「名誉」であったし、また、世論に配慮して、浪士たちを幕府は「武士」と認めたことに大きな意義があった。
(7)綱吉が死去すると、6代将軍家宣の就任に伴う恩赦で、浅野大学は500石+広島浅野本家より300石を受けることとなり、旗本寄合に復活。
(8)46名の子息の中で15歳未満は15歳になると、八丈島や三宅島への「島流し(=遠島)」のはずであったが、すべて「恩赦」。島流しにされていた者もすべて江戸へ帰っています。
(9)内蔵助に密命を受けて離脱した寺坂吉右衛門はすべての事後処理が終わった後、大目付仙石伯耆守に自首したが、身分軽きゆえお咎めがなく。かえって、金子10両を与えられ解放された。その後、他家に仕えたり、江戸に出てきて寺男などをして83歳の天寿をまっとうした。
(10)柳沢吉保の後ろ盾であった荻生徂徠自身も、後に「その志を推すに、また義というべきものなり」と浪士の「忠義心」を認めていたという。
(11)現在の住所は、東京都墨田区両国3-13-9
現在は本所松坂町公園として開放され、吉良首洗いの井戸や稲荷神社がある。両国橋を渡って「回向院」の隣に邸宅があった。
(12)地図:
http://www.tokyoguide.net/spot/17/map/

あなたのお役にたてたでしをうか。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

1.近所の人は、誰も幕府に通報しなかったのですか?吉良邸から逃げた人はいなかったのでしょうか。

まず、討ち入りをしたのは、元禄15年(1793)12月14日夜、となっていますが、正確には15日午前4時頃と言われています。まさに深夜の決行でしたし、それこそ、音もたてないように粛々(しゅくしゅく)と、本所松坂町の吉良邸へ向かっています。
また、当日は雪が降った後でしたので、物音(歩く音)なども消してくれました。
そして、深夜です...続きを読む

Q鎌倉幕府、室町幕府の直轄領

江戸幕府の直轄領(天領)は400万石くらいあって、いかなる雄藩もはるかに上回るものでした。
それでは鎌倉幕府や室町幕府の直轄領はどのくらいあって、それは有力な御家人や守護大名
と比べてどれだけの規模だったのでしょうか?
どの範囲までを直轄領とみなすかにもよりますし、江戸時代と鎌倉時代や室町時代では土地の制度も
政治制度も違うから、一概に比較は難しいかもしれませんが。

Aベストアンサー

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄領はなかったようです。
直轄領に裏付けられた直轄軍がありませんでしたから。

室町将軍家は、直轄軍としては奉公衆がおり、最大で一万程度と言われています。逆算すると江戸時代の換算では、35万石くらいになります。
室町期の人口が1000万≒1000万石(全国)だったはずなので、江戸期の3000万人≒3000万石 に換算すると江戸時代における100万石くらいではないでしょうか。

結構、鎌倉将軍も室町将軍も、直轄軍を持っていません。
結果として鎌倉将軍も、室町将軍も江戸期の将軍よりも専制的でなかった、鎌倉期も室町期も内乱だらけですが、江戸期は内乱がほぼありませんでした。
逆の見方をすると、鎌倉将軍は主敵である平家を滅ぼして、建前上は、武士の統領(=つまり、みんな部下)であり、室町将軍も主敵である南朝を滅ぼして、建前上はすべての守護大名の上司でありました。比較の仕様ありません。立ち位置が違うので。
ところが、江戸将軍は関ヶ原の後も江戸=大坂二重公儀制を保ち、豊臣家を滅ぼしても、完全には仮想敵を滅ぼしきっていません。全部が部下になりきらなかったから、徳川家直轄領が残ったのかもしれません。
最後の二重公儀制にかんしては、戦争の日本史 17 (17) 笠谷 和比古よりです。

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄...続きを読む

Q室町幕府と徳川幕府

共通点があるのですが
 
 初代(尊氏と家康)はどちらももちろん有名
 どちらも3代(義満と家光)が優秀でこの代で幕府体制が
 確立され、またどちらも名前に「みつ」が付く
 その後はどちらも良くも悪くも8代(義政と吉宗)が有名
 さらにその後はどちらも特出した将軍はいない
 そして何と言ってもどちらも15代で終わり

 ただの偶然でしょうか?

Aベストアンサー

この2つの幕府ですけど、良くも悪くも初代の性格が色濃く反映されています。
徳川家康は、ご承知の通り三河の大名から天下人になりましたが、猜疑心が強く、身内の情に薄く、冷徹な性格のため、初期に生まれた子供たちはほとんど殺したり、死ぬように追い込むようなことをした結果、個人の資質を信用しないため、幕府をシステムとして捕らえ、集団で意思を決定する組織を作り上げました。
3代将軍家光も、優秀とはいえない将軍ですが、完成されたシステムの中で生まれた初めての将軍ですから、各種の制度を整え、大過なく人生を全うしましたが、個人の資質としてはかなり落ちると思います。
また、8代将軍吉宗は、初めて直系以外から将軍になりましたから、しがらみが無く各種の改革を行いましたので、中興といってもよいのですけど、結果論としては功罪相半ばする業績ですね。
因みに、15代将軍の慶喜は極めて優秀な人物ですけど、秀才にありがちな泥臭さを嫌う点が残念な将軍と思いますし、幕府を再興しようという熱意は、室町15代義昭にも通じるものがあります。

一方の足利尊氏は、義侠心に富み、勇敢で物欲の薄い、将に男の中の男という人物ですが、家族や功のある部下を冷酷に切り捨てることが出来なくて、不安定な幕府になってしまいます。
パソコンでもそうですけど、安定したシステムを構築するためには、レガシーというか、古い規格との共通性を求めると不安定になり、これがWindowsMeが評判が悪い理由で、ある時点で思い切って古いものを切り捨て、新しい規格だけで組んでいく必要があります、WindowsNTのように。
尊氏はこれが出来ないために、終生弟や養子に出した実子の反乱に苦しめられ、増長した家臣を治めきれず、ひ弱な幕府になってしまいました。
その中で、3代義満は怪物といってもよい政治家で、権謀術策を弄して、幕府の権威を高めます。
資質としては、徳川家光とは比べ物にならない高い力量で、家光がシステムの上に乗った将軍なら、義満は自分の才知で政治を動かした将軍ということになります。
但し、室町幕府が最大領土になったのは、6代義教の治世で、この義教は織田信長に匹敵する改革者とも言われますが、信長同様、部下の裏切りにあって絶頂期に暗殺されます。
この義教にあたるのが、徳川では5代将軍綱吉で、綱吉の時代に戦国の殺伐とした習慣は無くなり、儀礼に支配される世の中になりますから、ある意味綱吉も時代の常識を変えた政治家です。
彼以前では、例えば水戸黄門ほどの人格者でも、刀を試すために乞食を切ってみたりしていますし、九州地方から江戸に来た武士達は、犬コロ飯といって、野良犬を捕らえて食べていましたから、まだまだ戦国の気風が残っています。
足利義教の死により、幕政の改革は頓挫し、信長の死後、秀吉や家康が織田家を空虚なものにしたように、畠山、細川といった有力大名が将軍を操るようになって、8代義政は諦めの境地だったのでしょう。
この点は、中興の祖というべき、徳川将軍の8代吉宗とは大いに違います。

こうしてみますと、大体3代目で幕府の骨格が完成する、5or6代目で一つの切があって、真ん中の8代目で転換期を迎える、足利氏はこの8代目で戦国に突入し、徳川氏は系統が宗家から枝に移った。
偶然ともいえるし、必然ともいえますね。

この2つの幕府ですけど、良くも悪くも初代の性格が色濃く反映されています。
徳川家康は、ご承知の通り三河の大名から天下人になりましたが、猜疑心が強く、身内の情に薄く、冷徹な性格のため、初期に生まれた子供たちはほとんど殺したり、死ぬように追い込むようなことをした結果、個人の資質を信用しないため、幕府をシステムとして捕らえ、集団で意思を決定する組織を作り上げました。
3代将軍家光も、優秀とはいえない将軍ですが、完成されたシステムの中で生まれた初めての将軍ですから、各種の制度を整え...続きを読む

Qサンフランシスコ平和条約と講和条約の違い

あの、教科書にはサンフランシスコ平和条約とかいてあるのですが、
プリントにはサンフランシスコ講和条約とかいてあって。

なにが違うのか教えてください。

Aベストアンサー

講和とは交戦国どうしが取り決めを結び、戦争をやめ平和を回復することで、講和条約とは戦争の終結を宣言し、領土・賠償金などの講和に伴う条件について規定する国際法上の合意のことをいいます。
つまり平和を回復するための条約ですので平和条約という言い方もあります。

なので講和条約と平和条約とは一緒です。

参考URL:http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/65935/m0u/%E8%AC%9B%E5%92%8C/


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